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2023/10/18
出雲大社の動画を見て、自分が込み入れない話があるのだ、と、心配を話しても大国主大神は問題自体を、受け入れてくれる。
愛想の器、受け入れられるとは自分の闘魂に入るかどうかだ。
私は、自分の闘魂にしっかり入るかどうかだ。こういう言葉を言います。
器が違うのだから、妬きもちを焼かず、一番つまらない自分や、努力した自分、これら目の当たりにくい自分。それは、たった知らない自分の中、この奥に、未知があるんだ。世界中、一つだけ何かを知りたい、そう思った後に、目が、出会った。川で、空でも日でも、出会った。
霊自体が形じゃないから、光だから、入っていける。もう一つ、光だから通過する、この浸透性の高い良い言い方もあるが、私の感動が人々に伝わるのは、前者の言い方だ。
動きが最小限になるのは、その分周りの見渡しが利き、空いた時間に伝達のブレを抑える。身自身で踏み鳴らした嫌味が、砂利になって丸くなるには、まだ残心にも神経を尖らせ自身の心の動きから離れないのだ。続いた地の道が、わたしの足を歩きやすくする、ということだ、エッヘン。「後ろを、見ろ!」と、船使いは言っていたぞ。
大社のある島根県は、その霊の方は私たちに何も言われない、言われることが全てじゃない事のように、
わっと言わせて、落ち着かせる。
そんなことを、食べたうどん屋や、コンビニや、毎日行き来をする心の通りから思い出すことが出来ているので、私はもっと心のままに生きることが、神とのタイマンだと言う事を、アマテラス、私は思う。この思う、と言う言葉を使っているのです。
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