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2022/09/13
ゲームである私と、
名付けのある自分と、生活して暮らしている自分とを客観的に見比べる事が出来たら、大抵の言葉に耐える事が出来る。
このゲームは、3Dとなっています。一面、二面、三面、、ひたすら地上に続いてキャラクターに触る事は出来ます。地平線を望む限りクリア可能で、私もプレイヤーだと言うことをお忘れなく。
あなたが自ら進んで行く中での変わる視野こそに菩薩がありますが、信じてもらわないと、信じるってもっと心の内の話だから切実であり、自分以外の理解は自然と削がれて行きますから、何を思っていても信じてね。
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2022/09/13
悲しみの奥に人が見えた。それは自分だ、もう一人の自分と思い、コロナ禍で会えぬ今のここから、砕きようが始まる。
すかさずメモる。こんなごたごたの中で君と自分が何を残したいかを、心の中を整頓する。
そんでも、なるだけ忠実に意思や自分を世界で描こうとする抵抗力は自分を認める手になるからだ。何を残したいか考えると言った時に「意見」が、ハリモグラから生まれる。
メモ
「溺れてみたいな
好き、だということ。
ある日を慎ましくする為
生活と宇宙のはざまでそれがどちらもある心、だということ
やりきれない今は、ふと思い出す自分だということ
多面性を見る自分は、これを自我と言い、(あなたは、私は)哲学者である
この軽く言って解釈は、自分以上になりたい!とする中で抑制作用となる。ある筈のない客観性と戯れる迷妄から空気を吐く。気を逸らす。
消化しきれない自分が、この自分自身がこの世に生きているという印、あなたの不在という「存在」を表す言葉として、会う希望がある心を鎮静する」
私のスピードの仕組みとは、
メモる中で、嘘をスクラッチして誠を磨くのである。
知るを人が来るまで留まってても良い人と、めちゃくちゃ知りたい人とがいる。おなごは、気を逸らすことの構造などを客観視を考える。
大事なのは、ディスタンスを埋める為に、君に向かう為に整える時間を取り、夢見る君から逸し間逃れている。特にこの愛慾に欠けた泥の中で、足でを付けるのは孤独だと言うこと。
ムーの悲しみを忘れる人の態度は正しかった
解釈も上手くなったけど、生身である自分を思い出す
許せない苦しさにシフト(許すことがないから上に行く人もいる、許せないと思う気持ちは非常に苦しいが、この正気が大事である。)
ムーがいる、もう一人じゃないんだから「ちゃんと怒る」。その先で、この怒りが、ムーがかゆみとなるのを単に気持ち良いと理解出来る。
人は人に憤るべきだ。得体の知れない奴。普通に社会に見守られて生きている中で何か悪いことして、アリバイにたいして必死に
もとから仏の顔など盗んで生まれている。天に自由さがある、と見る人々。
模倣して学習しようとする人のそれをムー視点でパクリだと理解してしまった
悲しいと思うことは事実だった、もっと自分にとって響きある「カナシミ」は、他にあるし、今の人が輝いて見えるのは日常の中で勉学をし、融通を思い、その可笑しさ笑いを知り、日常の中で教養をはかり、確かに磨いて来た花であり、これらの痕跡が花として身になっている。ムーが関連しない。
ムーがいなくなっても、億年先の未来にムーってこんなんだとは伝わると思う。
何も手探りであるが、ただの良くない犯罪者が、「ムー(Mu)」という言葉として苦しみとして含める事が初めてなのだ、
そういうふうでないよ、世界は悪くないよ、と言う神もムーで霧になり、一般的に人が歪んで伝えにくくなった。鳳凰に切り替わる前の龍の時代である。
創造することに持つ「無」と関係があるのでは、と言われているが、全く非関連である。関係は、人が内容的にムーを観察する時、当然一緒くたにムーも人として扱われる。それ意外の理由はない。ただ人々が「これは、良い!」と思う所に勘だけでいるそうだ。何か悪いことをして頑張って隠そうとした事はないだろうか?ムーには啓蒙がない。向上心を持って吸い上げることとは動機がかなり違う。これが、見過ごすわけである。
何か必死とかでもなくなんの平気で人を押しどけるムーは、確かに生身の人だと確認してる。
ムーとは、「そういう人」という意味で個人個人とある。
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