揶白 (KF)

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  • 男対女のはなし(天地を理解する潔さ)

    彼氏を得るためにファッションを選ぶ、と云うざっくばらんとした態度も、男の自慢になるとは空っぽな事で、女らしい。
    計算はまた別で有り、彼女はその未来家を守るのだ。彼なら、良い家を建ててくれるだろう、付き従うべきなのだ。
    あらゆる夜や、心が黒くなってしまったので有り、実際に腹黒い人は少ない。
    嫉妬深いので有る、こう云って自分を知っていることが良く、誰にも明け渡さない事が、花についての希望である。
    出来るだけ自由に動く。自分が女だ、と云う額縁を、この不自由を持っている限り男に出逢う事が出来て、男が何だか知れる。くびれを、またくびれと治め、認証を静かにして、その中で人に低く思われる態度を臆せずにオロカな心を(カタカナで書くとかっこよくも思える響き)自己に見出し、大切にしまって置くのだ。 私は理知的に賢明になれない、と云う財産をそこで知るのです。きっと、レディではなく、「女」は、学が無いので、猿に近く、男のみが、類似する動物から私を見つける。学には、そばに男性が必ず必要で有り、それは、余りに女が一生懸命な為で有る。
    美しさや、物事の探求は昔から道具を持って出る男が長けている。女は、自分の裸体をついに知りませんし、恥づかしいまま、立ち止まらされるのです。かといって、何も、学ばない方が「女らしい」等。
    学門は、学自体が本質が労働で有り、それ自体か命でなければならない。自分の為の学である事しか私には出来ないのかも知れません。ただ学びが進むにつれ、人を良いものだと知り、私は。
    女らしいらしければ、らしい程、男のようになるのが、エロティックなのですが、まず自分の精神をわからなければ、上品もへったくれも無く、モテたりしないのです。故に、顔を捨て去って、色を見なさい。何がおいしくて、何が、まずいのかはっきりさせ、したら、何もせず佇んでごらんなさい。
    孤独は豊かで有るか?
    チェックをして、木の寂しさについて考えて思いなさい。人との出会いと別れを積んで、皺を多く刻んだ西洋人のように、見習い、負けじと高らかに上へ伸びる、寂しさや水、人の云う事、木を模すのです、美しさ。
    そして優しく微笑みかけてみなさい。
    しかし、君の根はどこか?
    「あなたはどんな人ですか?」あらゆる人に尋ねられた時に、言い返せるように、きりっとしなさい。
    私は、「歌舞伎は人間の笑いをよく知ってて、焦がれ死んだ者です。」
    文化、伝統とやかましく云いたくないが、形を持った日本人があまりいない。
    着物はまた、お着物ではなく着物で、絹であり綿であり本来人の動きや自然に則った最も過激な衣装で、おまけにこの乱れ切った全てを締める黒髪の、何と映えた、、本質は継承されていないようで有る。
    しかも、江戸人の若い娘はお姫様のように長く裾を垂らし、高い下駄を履き、ドレスのように前で手で持ってちょこちょこ歩くのです。あまり派手なので、何か工夫をして着直す事は出来るけど、あんまり欲深く無い為、敬遠して考え付く事などないので有る。

    袖などのたぶりは、風を受け止める為に、すなわち気を感じるために有って、それがまた刺繍とかされていて、手元に乗せて見つめている毎日だそうな。

    千利休の茶会に、何とかと云う男が、赤い傘一本で来たらしい。

     

     

    精神が、垢抜けていて格好良ろしいのは、誰もが目をつける。

    中国人に本当の意味で認められたら、世界人となる。せやから、茶道とか文壇とかが大事で、しかも、それを貼りにせず、習いの嬉しでは有るが、単に、常に心を磨き、外国人に対して奢るのでは無く、これにより私は中国人にもなれます。

     

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  • はしがき

    私は孤独で人間関係、すなわち狭い世間の中でことわりや、この内での優しさにおいて長ける人ではありませんが、時々世の中の方が間違っていて、何故ならば世の中はいつも優しさを援護しますし、そこで全てに於く物事を、投げ捨てて自分のおろかについてはついに気付けないのと思います。何よりメディアが往来し、それ自体は悪い事に有りませんが、人間が見えるようになって、優しくなって、優しくなったまでは素晴らしいのですが、果てに絶望を望んでしまう事の多からんや。
    では、一体どのように希望を見るの? 世界に対する幻滅について、それでも耐えて世間をやめない人は偉いのです。当初私は、世捨て人になり、なったのですが振り向くと、やはり己の劣りを忘れ、か細くなった自分がいました。
    これは大した失敗なのですが、私はしつこく考えるタイプで、何が原因かを考えていますと、
    自分の「黒歴史」という言葉が有りますが、人々はこういう和やかな、人に対しては和やかな、その自己の経験を本当に黒歴史と云って押さえてしまい、ついには若かった自分は非常に恥づかしく思えてこの自分には、二度と手を伸ばせないでまごついておりますでしょう? さらに優越しようとして、飢えておりますでしょう。
    私はそれを思い出せれば「反省」が出来ると思いますし、誰にもわからない自分で有りますから、その目に認知されることで荷を下ろすのです。
    反省が、前に進む態度だから悔いとなってあなた様の心に刻まれ、人にたいして余裕が出来、君主は新しくもなれば、歩き続けることも出来ます。人にしっかり相談して、支えてもらって下さい。
    ご先祖は、幽霊ではなく、確実に存在した人ですから、これはこうなのか、あれはああなのか、答えて頂けますので、霊性を高めたら良いのは道理です。孤独ではないことを受け入れるのは、非ぬ事でも有りますがしかし、親しみを持つのが、何事から助かる良い力になります。
    守護霊に関しては諸説ありますが、私もそれはわかりませんが、ご先祖は体に宿っていて、こっちがアプローチしたら喜んでくれます。私たちはそれに関して、甘えを引き起こす事とは、見えないものを見えると云ってしまえば、それに対して飢えて、考えることができなくなる、と思うのです。
    こういった精神では、ものも何にも見えないと思いますが、成長として、
    宗教の良し悪しは、あらゆる仏教でもわかりませんが、誰にでも通ずるという力強さを私は日蓮法華から学びました。決して守ってもらえる事に傾くのではありません、日本はもともとは神国で有ります為、仏壇は
    ただ歴史や、心的道場、人たる所以、等を「自ら然る」ものなのです。故に、だから、依って宗教が本当に素晴らしいから、人の感動の勢いの為人の「目」を濁らせる、曇らせる、といったからくりで有りました。お宗教はそこで、その中で必死にあがくことで一層研磨出来る、と云うダンベルのような仕組みを持っており、誠に良い宗教もあれば、普通の宗教も何となくあり、何となく平気である、と云うのが、日本らしい、例え自分の家が普通の宗教でも、「世の中、世のはてでさえ人と関わらなければいけない。」と思うて、思考をし得て、心を鎮静する、これが文壇ならんお仏壇の、自分が佛になるお修行なのです。自分が“ほとけごころ”にさせて頂くばかりでは無いのですよ、と云うことです。学説的には宗教ではなくとも、自分の事でも何でも人の客観性がそれを決めることをもし譲れるのなら、自分を取り逃がすようなことはありませんが、「ただ綺麗なものが見たい」と思う心は誰のものでもなく、宗教を押し付けられたとしても人を憎まない事なのです。誠に安穏の為なら、優しさでは無く、醜い事や、遅れている者に対してこそ、寛容に構えて自分が未来永劫焦らない事です。それを、昨今の平和の為に私たちは出来ますので欠伸をしていても良いから、素晴らしいものの事程、はしゃがず剣を持つようにたった一人、密やかに鞘(さや)へ治めて欲しいのです。喜んでいる姿はどんどん人へ見せても構いませんが、宗教は選ばなくても、良い宗教と普通の宗教があって、普通の宗教にあなた様がいて、何にも考えずこだわることの出来ない事自体に見逃せない妙味がありますが、お相手は佛の為に何でも許してくださいます。私は神が美しく思え、好きであるので祝詞(のりど)をうたいます。佛を神の次だと考えるのですね。そして人が一番応援したい者の化身で有り、しかし、私の前に佇んでいて、取り組まなければならない氷の山が私の事なのです。こういうふうな辛い事を感じ取って重い腰を上げる毎日に、その筋力と菩薩道が有ります。

    “他人”はそんなに気にするものじゃないから、夜、自分に対しては客観性をどうにか投げ打って、自分の名前を呼び「どうしたの?」から聞いてあげ、火縄をくぐるように触れない傷口を、調べてあげることをしますが、顔は、真っ赤っかで有るが、傷を傷のまま化膿させるより、知らないよりは良いのです。
    頭が悪ければ、紙とペンを使用します。まっさらなノートにたいして、自分が使い始めなければ、いつまでも自分の形にならず、三日坊主とよくいいますが3日などでは、慣れることはないので、親しめないから、飽きが来るのでしょうね。


    確かに、自分ほど怖いものはないが、自分なら怖くないと言いますのも真実なので、君主には取り組んで頂きたい。人を癒せる人になる…!

     

    外側から内側


    この世が何かわからないと考えるときがあり、その時は宙に浮いて、大抵空を見上げるのです。
    まず行き当たるものとして死、また対比して生が有り、この物事を考えはじめて、
    それがわかって、それを私は知るのでありますが、「だから」いつか死ぬ、と思い始めるのも違う事のように思います。それは、だから今頑張る、というわけですが、考察としては、哀しいとか、嬉しいとか、愛が、感情だけが、そこにある現実であり、自分を見失うことが、積み重ねようとする態度とそこに繋がっていようとする情緒に至ってないものです。
    あまり理論的ではありませんが、
    感情だけが精神に対して現実的で、これを癒やすことと養いの全て。例え今、「空虚」でも、心的に佇むべきものなのです。
    美しさは真実であり、両者の、どちらにも重力がありますが、真実を磨くことにあたってあらゆるプレッシャーや、ストレスからまのがれる事もあるのです。現実とはどのようなものか? 云いますと、夢が月明かりほどに入り混じっていて、それほど夢想と対峙していないと考えるのですが、このひ、自分の空が青くなければ、現実がおぼつかず、現実のことを「客観性」とうっかり答えてしまうような精神ガリガリさんも少なくはないので、この本を書くことにしました。客観性はまた大事なのですが、極端であります故、あらゆる物が難しくなるのです。精神の鍛え方はもっと、他にあり、私はこのうるわしい日本の魂の円滑剤として、それを今日はご説明します。ただ、少食で結構、という心の方も多くいますので、これは良い、とは一概に行きません。そのなかで、古く道を求める方に手に取って頂き、押し広める事の可能で有る文化的な継承が有り、あなた様の「わたくし」「御座います」と云うような言葉に真の意味において重力が増し、養う事が出来ますのなら幸いなのです。

     

     

     

     

     

     

     

     

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