揶白 (KF)

絵画

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  • 鏡と主体

    所有している、とつよく云えることに向かう方を示す。


    自然に近いことが、芽としての「いやらしさ」として有る。

     


    肉体としての私の自画像とは?


    むしろ、精神は肉体をつたってどこかを流れ落ちる気である。


    幻の自分、それは美しい自分を見た。

     


    男に、持ってほしいとつよく希望された自覚が例えば、

    自己の客観性や輪郭とはズレて、外れている。

    気まずさも、とうに抜け、


    さて新たな旅路に向かおう。

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  • 光を食べる

     

     

     

     

    「どこに行っても良い。」声を、風の中で聞いた。

     

     

     

     

    必ず真実であるが、

     

     

     

     

     

    どこに行ってもいい、こんな力強さは自分にはないし、

     

    限定された自由を追求することを「行き先」と題す。
     

     

     

    光とは、心の間で起こる嫌な気持ちなどを、

     

    噛み砕いて

     

    胃で噛んで燃やして、何となくわかってくる。

     

    紙のように何でも跳ね返して、発散すると、

     

    落ちこぼれになってしまう。

     

     

     

     


    強い憧れとは、いつかの自分、

    または失った自分が、含んで映っているのだ


    何で自意識過剰になるかというと、


    あまりに自分ではないものを取っちゃったり、自分ではないレベル、所にいるからだ



    無(ムー)は自意識だったのだ!これは、自分(私)の自意識というよりかは、そういった神秘や哲学的な意味を否定し、ムーに与えないでいる。
    ムー自身が自己で蓄積し続けるしかない自意識だけの何か、つまり強く言うと縁のものではなくまして感情ではない、物質的な、になってしまった概念としての「ムーの自意識」を説明するなら、ムーは、自滅した自意識、と書く。悲惨であるから、
    我々は、これをムーと名付けた。そういう形で、「外側」に出ることを達成している。なぜなら幽霊の向こうに神はいても、幽霊とは真実生きていた人としていることが不思議と成立している。だから崇拝しないことを選んだ。これらが一年かけた「私の展開」として縁起が有った。わけもなく祝われたのだろう。

    無とは、主観や客観性などの、影のない小セカイのことだ。ただ、そう言い切る力が自力であるから希望や光に属すが、神の教えに、自身の大きさが歯車(はぐるま)程度であることに変わりがないから修行を続けている。要は「苦を苦と実際した人」となった。









    論文の格好など、掴みたいなら掴むべきだ。「良いこと」をしているうちに、こつこつしているうちに良いことが来る。
     

     

     

     

     


     

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