(追記2)方法論162,163
2025/04/26
高野山 霊宝館に毘沙門天と不動明王の二対の立像が門のように佇んでいるのを見る。
天(デジタル)ならば、蟲ーでもこのように辱めることをし、
二対というのも、天上の語は、
それはパーフェクトなアナログが出来てから。初めてそして、デジタルの使用(シヨウ、シオン、葦、花、→考え)も許されるだろう。
黄泉神
進まないのではなく、右や左に行かない。
川は、
天まで上がるときに、沼といえたり、竜(たつ)といえたり、
タツノオトシゴでは、思わぬ「あ」という言葉が目に付かない二間に生まれ、あれが色玉、わたしは沼、神に上がるほど上流を聞く。多岐であるから滝が有る、となる。古い権利社会を知るとき、三十ではひたすら溜める、四十は曲がりくねり、五十が咲く、七十で美麗という基本を良く覚える。
門は、入って行くんだな。とわかる。タイトルが明王であることもわかる。「明るさ」
刺繍でも仮止めを施し、物をすすめるにつれ実体化する。何に成るのかな? Some、何か、この言語は四隅まで存在している。執着を解くのもその通気口を広く空けて直感正しくなりやすいため、これである。また多岐を知るのである。天上にも滝が有るようだ。
仏様を「人」から名付けることが、理屈上できないから目的が総じて明王だ、とすることが出来る。
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自分の神を、自分が作る。形を得て成長する、等。天からして、
未だ、菩薩道。未だ、は末の吉や末恐ろしさと書き、良さを表す。読むことでしか知れない、成れない文語も未だある。
ギリシャ文化に、硬い誓いが見られる。同じことを示す「時代」とは、あるその日に紀元前を見抜く。
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