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2024/11/18
みなが同じことして、ぽろりとこぼれるものがオリジナルになるんだ。だからなくならない、と画学生時に話していた。つまり額とうか枠取りがあり、
枠取りがないのは、自由を見つけるテーマの段階に入っていないから作品じゃない、となる。美術は美貌を求めても、その都度からしても誠に不自由と言ってて、普通が出来てそれを継続しているから「形」になり、少なからず触れることで震撼したことが私たちの視界に映り、詩人を見分け作品になっている。こういって芸術になるのなら、言葉はもっと普屈の、普賢を通る、そしてまた民のものを示すライトななにか、であろう。
土着性を思い出すことの出来ない時は自分がわからない、という声が多かった。
必ず存在する唯一性から、内面化、外部化し原理といった、本当の興味や重力、普賢菩薩、抵抗を考えることに戻る。
或る衣服の良さが、「自分」は、和わしさの視線により出来ているから、もう少し未来に向けて買うのを諦める作品など、化粧なども文化的には和わしいから社会に持たれる。素の顔に纏う気持ちと服の古来的関連の輝きなど美しさを楽しむ。
一旦遠くまで放り投げられた私たちの、自意識の昇華はまた与えられた問題をパラドックスと言う。
ややこしいことこそを、ずっと考える「院」も、考えることが出来るという孤立にはしっかり目を向けた寺や法華がある。沼格が、沼と当たるが外層では光れ、目を伏せ我慢を重ね夜を越した視界では生い茂る緑と向かいの空からは善き対照に憎悪にも似た空白や人の過去や詩、空白の上をすさぶ人、
人生の重さをもとの腰に降ろし、それから通常のたかさや道にすんなり戻せることを知る。但し重いきっかけの戸を引いたときに、人間としての眩さを万代を見始める。こういった観音が及び、仙道と唱えられる節も日蓮様の経文に見られ、自己やそのスケールという意味での宇宙、を探しに行くことになる。
ジーパンというように「ルーツ」という名称が、巨大で宗も藩も委も歌も霊もこう慣らしているんだ。それで良いんだ、というのが声であり、光を蔦う。
菩提自体が、三柱の衣食住という、はじめを衣といいまったく客観性に向いたことを、いつも真新しく思う。
友人の父が、一番厳しい店舗をしていて、店舗自体がそれだと言う。大きいほど律から離れないから。
三百三ある菩提の特徴をノートに書き記す。
ただ、形を超えた美は想像を与えなければいけないのかも。作品にはなにをもってか題があり、タイトルとするそれら説明とは惑星の誤差にかかる。実際ある、実際存在するというのが何をもってか。何故、焦るかが月が一日25時間、地球が一日24時間、それで気持ちの早さを人生に組まなければならなくなっているなど。
方法とは、どちらにしろ一定だから。
花、月、雪、星、宙、自然愛だから歩調っていうもっと自然なことをまた愛す、(この存在し得たものに対し)行為の客観性でクビにしてる。ナイヨウも知りたくない、権利があっても知らず知ることと与えられた時間にたいして清貧にしてる。
わかってくれたら、、南無!!
「妙」が、そもそも絶妙、極妙、微妙とか、ニュアンスディテールとか、妙だな、とかこういった意味を指し示す。これを法といい、誰にでも開けることに大切に花を書かれている。
ゲームの外側っていうのがあって、意識にそぐうていないとという思いにたいしては、外側はどのような時でも開かれている。
何もシテは来なかったから、生じたことと、それを今一度。これにて、成長が続き、鏡からはヤミが光に変わりつつ捏ねられるように、必ず光と思え、「見える」という感覚を知ることになる。それまでは、誤差のわけを知らなかった様に、何故仏道では仏のようにゆったり学べないのだろう?という疑問であった如くである。如くである。
だから普通に、「背」になっていくことにたいして「苦労は買ってでもしろ」の躾
のように、買える苦労を前に前に考える。
少しだけある、僅かにある希望から、一つからくっついてくるものをよく対峙し、善く削る。
他人もない、折角貰うことの出来たこの尊さを大切に。これまでの自分にたいするささやかな祝いをしたい。
一円舞第、自はそれ以上知れないと身をかがめる態度が、こういった妙法などをプレーンに知る新たな面から知ることは仏様も仏の仏の幸せだと思う。
こう締めるのは、あとは自分が自分で気楽に過ごす為。大人というのは、それまでに確立したものの答えに向かい、それは変わらない。だからだれかと一緒にいたつもり等、未だに無いんだ。壁が光に成り、光をくだって光が聞こえ、光が有る、大事なのはその現実さ。そしてまた光が成長したってぶつからないんだ。だから、そいつが黒いのさ。
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