無心の概念が考えること
2023/07/10
世の中、色ってのは黄色だけじゃない。
穏やかな明るさ、やさしさ
「色付き」には、黒色と既に決まってあり、
全てを守るような赤色など、
特徴ない人に求められない。ということ。
気になりまくるなら、その理解があなたに足りてませんよ、という、
色そのままのほうが、人が砕けて魂に近づけるから、止めることが出来ない。
「私でいる意味」が、思ったことが、同じだった。
時間は、流れる空気そのものは、心にあらかじめ組み込まれている為に、分かたれない。
質問という「ですか?」は、
質問という作品の「ですか?」の語尾は、
自分に折り込んで、自分は傷ついても自分に聞いて、畳んで、
自分が聞きたいことを、自分から絞り取って、
自分が聞きたいことにたいして自分を包括していて、しっかり
わけを理解している。
答えを完全に求めているから、
「ですか?」になる。
ノイズがないのだ。
フランス人でも、「そのプレッシャー」について、自分が聞きたいなら、
このような礼儀があったら、いくらでも質問出来るが、まず聞いたことがないだろう。
もともとある、礼儀の文化にたいして仏道が叶ったから、
受け入れる。
こういう簡素な考えが広く、映画などで観て美しかったので覚えている。大阪も陰気で、途切れている空気や文化があって、同じではないだろうか、とこの役場気質で、「途切れた、忘れてしまった」記憶が私の端にある。
感じる透明なイメージを、その一文をいま何か書こうとするのは、自分のことだけだ、とすぐに分かる。
人前の許せるたった一瞬を。
思い、感情がわかると思う自分は、
他人の思いまでわかるやつなのか?
自分の心に手をあてて、すると、
自分の影、フォルム、が取れる。
書いてるこのブログは趣味で、
違うかったら違うと言える、この便利さに感心している。
自分のただの趣味だからこそ葉脈があり、それが出来る。
「違う」というめっぽうオリジナルの一言を盗むのにこんなに手こずらせる人は、自分とは違う。
「私」の文脈から、こんな姿では情けなく
魂から私が私自身を隠す何かが、あった。
ところに、「しきい」を踏んづける何か様子が見える。
「過去、なにかをしたんだ。」
(わたしを見つける前、いや、見つけてもいないのかもしれない、ただの、悪行の名前が浮かんでいる、と「見える」、で良い )
この「読み」は、日本人も久しく有難いような気がして思いがして、そう、こう特徴や、良い事を、遥々の方に知ってもらえるのも嬉しい、と聞いている👍
自分が泡になるから、相手に思いを伝えるのを止めてしまおうじゃ、時間は待ってくれないだろう。しかし、彼は消える、でもなくそのまま泡になって立ち止まり浮かんでしまった。
自分のペースは、
私は、まぁまぁ破茶滅茶で
人の心配よりも、平気で天真爛漫に生きている。
あり得ない体力と、人の、持つことが出来なかった知識がある。
(ボコボコでも元気は元気だから)可哀想でない、と言う方が、
本来の、
母国っぽい。
「自分でどうにかする。」っていうアツさは、
誰でもわかると思う。
それで、違うかったら違うと、言ってくれれば、
凄く良かったことを、見逃せず、なんにたいしてかも知ることは出来ない、として恨んでいる。
「自分は可哀想じゃない」
と、言い続けなければ理解されない。
この時、しつこさ、
悪い部分を自分に開け放つ。
ところに、方位的なそうさを感じたが、
誰かの勉強らしい。
誰かが勉強しているなら、済む。荷が、降りる。
真面目なら、流れる気が良いから。
この「伝わる」の意味を思い出している。
勉強は、「食べたい」じゃない。
「自分の心に手をあてる」方位とは、
そこからのもん。
大雨、雷だ。これが昔から続くと馳せても自分からは、全く繋がっていないような
過剰なリアル感や「まるっきり家の中」の様な曇り、を感覚的に感じる。
縄文人が、大阪弁で「そうしてるねん。」と微笑んでいた。
人は、こういうところに育っている、という私の自然体を感じ取って、許しているんだと感じている。
古代人の言う感謝だ。
感謝の意味の、その中の一つ、だ。
美しいひとだな、と思ったけど、
このまま話し続けていられる程には、
自分は何かをしていない。
屋久島にも行ってない、星空も見に行ってない。
母国を超える太古の教え。
話すところ、古代人にとっても「社」は、かったるいことのようだったらしい。
一方、大切だと思う人も大勢いて、
学校のようだったのか。
「修験」では、ムーは既に「足下」に修められ、「もの」が自分に入ってくる箇所は一つと決まっている。
外部の誰かに希望を抱いて話しかけたい気持ちが零れている様な、大澤君が、ベランダの上から道の私を思い切り見下ろし、
「楽しんでいてん。」
と、言ったが、
ベランダ、部屋、道、という構図からは、
真実がまず一番重要ではないものだと、
想像だけで出来ている二次元的世界を、自分の前に佇む景色、世界に
本の挿し絵のように、挟みたいのだ。
こういった新しい試みが、取り組まれている。
新しい試みに向けて実際、取り組まれている。
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