卍の浴槽
2016/08/09
家の中から彼の声がする。
「窓が明るかったら入っていいよ」
ところが、どこにも窓がないのだ。
ただし、壁板の隙間から光が漏れている。
これが窓であろうか。
それで、そのまま家に入ってしまったのだが
なぜか玄関を通り抜けた記憶はない。
広くて薄暗い浴室には湯気が立ちこめ
石造りの浴槽に湯があふれている。
いや、違う。そうではない。
むしろ、石造りの浴槽が湯であふれているから
その部屋が湯気の立ちこめる浴室なのだ。
浴槽はいくつもあり、それぞれ形が異なる。
それらすべて中央付近で卍の形の溝でつながっている。
古代遺跡にある謎の巨石を連想させる。
見渡せば、浴槽の湯に野菜や肉が浮き沈みしており
いかにも栄養豊富そうに見える。
さっそく裸になり、浴槽のひとつに入る。
いい湯加減だ。じつに気持ち良い。
やがて、奥の別室から裸の彼が現れる。
「少なくとも四つの風呂に入ってくれよ」
彼の笑顔は相変わらずである。
「もちろんさ。全部入るよ」
嬉しくなって、すぐに隣の浴槽に移る。
そうやってしばらく楽しんでいたのだが、ふと
故郷の友人が着衣のまま近くに立っているのに気づく。
「あんな奴と付き合うな。
あいつはな、じつに恐ろしい男なのだ」
そう囁く友人に腹が立つ。
「うるさい! あっちへ行け!
そんなこと忠告する資格もないくせに」
友人の顔を狙って殴りかかったが
踊るようにやすやすとかわされてしまう。
体勢を立て直して振り返ると
裸の彼が着衣の友人の腕をつかんでいる。
「出て行け。
もうおまえは、あの人の友人ではない」
凄みのある彼の低音が室内に響き渡る。
いつであったか、これに似た情景を
どこかで見たことがあったような気がした。
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