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2008/09/21
授業中、教室に波が押し寄せてきた。
床はすっかり水浸しになった。
正面の黒板にまで波の飛沫がかかり、
無数の小さな黒い点々がついた。
「じつにけしからん!」
教師はチョークを波に投げつけた。
「ここは浜辺じゃないんだぞ」
教壇はすっかり四角な小島になっていて
彼が怒るのも無理ないな、と思った。
教室のあちこちで悲鳴があがり、
生徒たちは椅子や机の上に避難した。
「どこからやってきたのかしら?」
すぐ隣の席の女子生徒が自問している。
彼女の靴と靴下は両足とも濡れていた。
「ちゃんと扉は閉まっているのに・・・・・・」
窓もみんな閉まっていた。
波が入ってくる隙間はないはずだった。
「みんな、波なんか無視しろ」
教師は授業を続けようとしている。
「こんなの気のせいだ。幻にすぎない」
それでも波は教室に打ち寄せている。
懐かしい潮の香りさえする。
級長でもある男子生徒が手をあげた。
「先生」
「なんだ」
「僕、この波に見覚えがあります」
「なに、本当か」
「はい」
「どこの波なんだ」
「去年、僕が溺れた夏の海です」
その途端、彼は波にさらわれてしまった。
見上げると、カモメが飛んでいる。
もう波の音しか聞こえないのだった。
2008/09/20
果てしなく広がる宇宙を海にたとえれば
その古い時計台は離れ小島に建っている。
小島には時計台守りの老人が住んでいて
この老人の他に住人はいない。
時計台のネジを巻くのが老人の仕事だが
老体にとってあまり楽な仕事ではない。
それでも毎日、老人は時計台に登る。
くる日もくる日も時計台のネジを巻く。
旅の途中の船が時間に迷わぬように。
急ぐ船が時間に振り回されぬように。
もっとも、船はめったに小島の近くを通らない。
それでも老人は、ネジ巻きを欠かさない。
時々、老人は岸辺にひとりたたずむ。
そこから果てしない時の流れを眺める。
はるかな遠い未来が
いつしか近い未来になる。
やがて未来は現在になり
すぐに現在は過去にかわってしまう。
近い過去はさらに遠い過去へと続く。
どこまで続くのか、果ては見えない。
いつもながら美しいものだ
と老人は思う。
この時の流れを止めてはいけない。
誰かがネジを巻かなければならない。
そんなふうに老人は確信するのだ。
それから老人は、時計台の文字盤に目をやる。
もうすぐ一日が終わろうとしている。
ううん、と老人は背伸びをする。
「明日もいっぱいネジを巻くんだ」
そんな老人の呟きが海のかなたへ消える。
2008/09/19
彼は哲人である。
(なぜ私は私なのか?)
今、彼は悩んでいる。
(たとえば、なぜ私は彼女でないのか?)
悩みは深刻らしい。
(しかし、もし私が彼女なら)
散歩しながら考え込んでいる。
(彼女は私になってしまう)
ところで、彼には恋人がいない。
(すると、やはり私は私でしかない)
まあ、しかたがない。
(私である彼女は、なぜ私は私なのか考える)
なにしろ、彼は哲人なのだから。
(これでは堂々巡りだ)
世俗的なことなど眼中にない。
(それにしても、なぜ私は私なのか?)
たった今、彼は交通事故で亡くなった。
(逆に、なぜ私でないのは私でないのか?)
自分が死んだことさえ気づかない。
(たとえば、なぜ彼女は私でないのか?)
現実の世界など眼中にないらしい。
(しかし、もし彼女が私なら)
すでに彼は胎児に生まれ変わっている。
(私は彼女になってしまう)
それでも気づいていない。
(すると、やはり私でないのは私でない)
まあ、しかたがない。
(彼女である私は、なぜ私は私なのか考える)
なにしろ、彼女は哲人だったのだから。
(これでは堂々巡りね)
2008/09/16
ある暑い夏の昼下がりのことでした。
私は縁側で裸のまま昼寝をしていました。
まるで風というものがないのでした。
とても寝苦しかったことを覚えています。
うつらうつらとまどろみかけた時、
蝉の鳴き声のような猫の鳴き声を聞きました。
あるいは、猫の鳴き声のような蝉の鳴き声
であったかもしれません。
庭を見ると、一匹の猫がいるのでした。
その狭い額に一匹の蝉がとまっていました。
これは蝉猫とでも呼ぶしかありません。
手招きすると、蝉猫は公園へ逃げました。
私の家の庭には垣根というものがなく、
そのまま隣の公園へ続いているのです。
公園のベンチには老人が腰掛けていました。
めらめら燃える麦わら帽子をかぶったままの
その老人が眼を凝らしているのは、
顔が溶接された若い男女のカップルでした。
もっと若いカップルもいました。
砂場では男の子が磔ごっこに夢中で、
逆さ十字架の上で女の子が泣いていました。
そんな公園風景をぼんやり眺めながら
ふと気づくのは、視界の大いなる傾きでした。
脇腹まで腰が縁側に沈んでいるのでした。
年月を経た床板は涼しく感じられました。
歪んだ木目がたまらなく愛しくなり、
私はそっと頬を押し当ててみたのでした。
ある暑い夏の昼下がりのことでした。
2008/09/12
ここは厳しき法廷。
傍聴席は牛や馬で満員。
中央の裁判長席には赤鼻の猿。
柵に囲まれた陪審員席には羊の群。
証言台に立つのは学生服を着た少年。
床には手足を縛られた少女が倒れている。
「被告は、いわゆる美少女です」
狐の検察官が発言する。
「それがどうかしましたか」
猿の裁判官が口をはさむ。
「いいえ。なんの意味もありません」
傍聴席でのんびり牛が鳴く。
「原告の少年は、いわゆる美少年です」
「それがどうかしましたか」
「はい。特別な意味があるのです」
けたたましく馬がいななく。
「じつは被告、美少年が好きなのです」
「なるほど、じつは私も好きです」
「裁判長、私情をはさまないでください」
一匹の羊が陪審員席の柵を跳び越す。
羊は法廷を一周してから退廷する。
兎の弁護人がつぶやく。
「羊が一匹」
狐の検察官が原告の少年に質問する。
「学生服にはポケットがありますね」
「はい。あります」
「全部でいくつありますか」
「ええと、七つです」
「襲われたのは、どのポケットですか」
「ズボンの、このポケットです」
「つまり、七つのうちの一つですね」
「そうです」
「そこに被告の手が侵入したのですね」
「そうです」
「それから、なにをされたのですか」
「あの、それを今、ここで言うのですか」
「勿論です」
「ポケットの袋を、外に引き出されました」
牛と馬と羊の鳴き声で法廷が揺れる。
猿の裁判長が木槌を打つ。
「静粛に、静粛に」
狐と少年の質疑応答が続く。
「それは災難でしたね」
「ええ。もう僕、びっくりしちゃって」
「そうでしょう。そうでしょう」
「今でも、胸がドキドキしています」
「袋を出されて、あなたは嬉しかったですか」
「まさか。とんでもありません」
手足を縛られたままの少女が床を転がる。
少女は泣きながら叫ぶ。
「うそつき! うそつき! うそつき!」
スカートの裾がめくれて下着が覗く。
法廷がざわめく。
猿の裁判長が木槌を打つ。
「発言する前に、私の許可を求めなさい」
一匹の羊が陪審員席の柵を跳び越す。
羊は証言台に近づき、少年に噛みつく。
「ああ、痛い。許してください」
そのまま紙のように少年を食べ始める。
「ああ、痛い。僕はうそつきでした」
少年を引きずりながら羊は退廷する。
兎の弁護人がつぶやく。
「羊が二匹」
狐の検察官が怒鳴る。
「信じられない。証人隠滅だ!」
猿の裁判長が注意する。
「証人を許可なく食べてはいけません」
おびえた牛が法廷の壁に角を突き刺す。
馬は暴れて、猿の裁判長を蹴飛ばす。
ほとんど法廷は壊滅状態。
どさくさに紛れ、狐の検察官が服を脱ぐ。
血走った眼で、床の少女に襲い掛かる。
「そうなのだ。美しいことが罪なのだ」
羊の群が陪審員席の柵を次々と跳び越える。
「羊が三匹、羊が四匹、羊が五匹、・・・・・・」
いつしか兎の弁護人は眠ってしまう。
2008/09/08
この女は何者なんだろう。
「君、誰?」
「私、本を読んでいるの」
まるで質問の答えになっていない。
頭がいかれているのだろうか。
そうかもしれない。
そうでないかも。
ふたりの間に、なにが始まって
なにが終わったというのだろう。
それとも、なにも始まっていないから
なにも終わっていないのだろうか。
枕もとに揺れる蝋燭の明かりを頼りに
女は熱心に本を読み続けている。
「なにを読んでいるの?」
「暗い穴の底」
知らない書名だった。
どんな内容なのか尋ねてみたいが
質問ばかりしていると嫌われそうだ。
それに、書名ではないのかもしれない。
ため息をつき、仰向けになる。
見上げると、天井がない。
真っ暗な夜空。
真上に浮かぶ丸い月。
「なるほど・・・・・・、暗い穴の底ね」
「そう、暗い穴の底」
2008/09/02
登校の途中、女の人に呼び止められた。
「ねえ、私の家にお寄りなさいな」
僕は返事に詰まってしまった。
「ねえ、いいでしょ」
「僕、学校へ行くんだ」
「あら、そんなの大丈夫よ」
「でも、遅刻すると先生に怒られる」
「だったら、私が連絡しておくわ」
「でも、でも、ママに叱られる」
「平気よ。黙っていればわかんないわ」
まだ僕は心配だったけど、
大人の女の人が大丈夫と言うのだから
本当に大丈夫なんだ
と思ってみたんだ。
それで僕は、女の人と並んで歩いた。
この女の人を〈おばさん〉と呼ぶのか、
〈おねえさん〉と呼ぶべきなのか、
よくわからなかったので
僕は黙りがちだった。
「私の家はすぐそこなのよ」
「あの、どうして僕のこと・・・・・・」
「女の子なのに、どうして〈僕〉なの?」
「えっ?」
僕は驚いた。
「僕、女の子じゃないよ」
「うそ。どこから見ても女の子よ」
そういえば、ピンクのスカートをはいてる。
さっきまで黒い半ズボンだったのに。
髪の毛も長くて、三つ編みになっていた。
「ほんと、女の子みたいだ。おかしいな」
声まで女の子みたいだった。
あたりの景色まですっかり変わっていた。
見慣れた町はどこかに消えていた。
「ここよ。さあ、お入りなさい」
女の人に案内されたところは牧場だった。
大きな赤い牛が草を食べていた。
「どこが家なの?」
厩舎らしき建物さえ見えないのだった。
「いいじゃない。そんなこと」
そうかなあ、と私は思った。
女の人と私は黙って牧草地を歩いた。
風が吹くとスカートの裾が持ち上がるので
慣れない私は落ち着いて歩けなかった。
女の人もスカートをはいていた。
長くてヒダのある紺色のスカート。
このまま私が大人になるとしたら
こんな女の人になれるのかもしれない。
そう思うと、なんだか嬉しくなった。
「私、なんだか・・・・・・」
「さあ、着いたわよ」
女の人がドアを開けると、
そこは見知らぬ学校の教室だった。
「みなさんの新しいお友だちを紹介します」
たくさんの瞳が私を見つめるのだった。
2008/08/30
ある朝、鶏が玉子を一個産みました。
割ると、中からルビーが出てきました。
「あら、楽しみにしてたのに」
料理好きのお母さんはがっかりです。
次の朝、玉子から出てきたのは砂金でした。
「こんなおかしな鶏は捨ててきなさい!」
お父さんは怒ってしまいました。
「ふつうの鶏だったら良かったのにね」
真珠とダイヤモンドの転がる並木道を
鶏を抱えて歩く少年の姿がありました。
2008/08/22
その婦人はいつも雨傘をさしていた。
毎日毎日、
雨が降っていてもいなくても。
晴れた日は日傘のつもりなのだろうか。
近所の人たちはみんな気にしていたらしい。
ある晴れた日のこと。
ぼくの弟が婦人に教えてあげたのだ。
「おばさん、雨は降っていませんよ」
びっくりした表情の婦人。
雨傘を傾け、空を仰ぐのだった。
「あら、本当だわ」
そして、婦人は雨傘を閉じた。
「坊や、どうもありがとう」
そのまま婦人は歩み去った。
ぼくと弟は顔を見合わせたものだ。
その日からだった。
婦人が雨傘をささなくなったのは。
毎日毎日、晴れた日はもちろん、
雨の日も、
どんな土砂降りでも雨傘をささないのだ。
これもまた、近所の人たちの噂になった。
ある雨の日、
ぼくと弟は一緒に道を歩いていた。
ふたりの目の前には
あの婦人の姿があった。
やはり雨傘はさしていないのだった。
閉じた雨傘を手に持ち、
服が濡れ、下着が透けて見えていた。
ぼくは弟の背中を押した。
「おまえ、教えてやりなよ」
弟の表情は複雑だった。
「・・・・・・なんて?」
ぼくの表情も複雑だったはずだ。
「・・・・・・雨が降っていますよ、って」
2008/08/21
朝から晩まであくび姫
医者に診せても止まらない
眠っていてもあくび姫
夜見る夢さえ退屈なのよ
昔、ある国のお城に
あくびばかりしている姫がいました。
毎日が退屈で退屈で
あくびが止まらないのでした。
そんなある日
ある旅の男が城にやってきました。
「お姫様のあくびを止めてさしあげます」
いかにも自信ありそうです。
さっそく姫の前に目通りが許されました。
男は大きなトランクを開けると
姫にそっくりな一人の娘を取り出しました。
「なるほど、わかったわ」
姫はなかなか賢いのでありました。
「その娘に私のあくびを移すわけね」
そして、あくびをひとつ。
「いいえ。お姫様」
男は首を振りました。
「この娘をお姫様の椅子に座らせるのです」
「なるほど。で、私はどうするの?」
「すみませんが、お席を立ってください」
「あら、そうなの。しかたないわね」
姫は立ち上がりながら、あくびをまたひとつ。
空いた姫の椅子に娘が座ると
まるで本物の姫のように見えるのでした。
「それから、どうするの?」
さらに姫は、あくびをもうひとつ。
「お姫様は、この中にお入りください」
男は空のトランクを示すのでした。
「もう、本当にしかたないわね」
なんどもなんどもあくびをしながら
大きなトランクの中に姫は入りました。
男はトランクを閉めると
それを片手で持ち上げました。
「それから、どうするの?」
くぐもった姫の声がかすかに聞こえます。
「これで、おしまいです」
男は大きなトランクを持ったまま
黙って城をあとにしました。
さて、それからというもの
姫の椅子に座った姫そっくりの娘は
あくびどころか、まったくもう
なんにもしないのでした。
やれやれ、ご退屈さま。