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2012/11/20
どうやら温泉のようである。
あたりは桃色の湯煙に包まれている。
脱いだ記憶はないが裸であった。
水音のする方向へ進んでゆく。
慎重に歩かなければならなかった。
足もとがヌルヌルしているので滑りやすいのだ。
やがて桃色の川が見えてきた。
川面には船が浮かんでいる。
温泉に浮かぶ船なら湯船に違いない。
その湯船に誰かが乗っていた。
湯浴みする後ろ姿がぼんやりと見える。
長い黒髪と白い肌が妙になまめかしい。
湯船はこちらに向かって流れてくる。
船頭もいないのに不思議なこと。
「一緒に乗ってくださいますか」
なつかしい女の声であった。
昔、どこかで聞いたような、聞かないような。
「からだが冷えてしまいますよ」
あいかわらず湯船の女は後ろ姿のまま。
その顔を見たいような、見たくないような。
2012/11/17
帰宅の途中、古本屋をのぞく。
外国語の文法に関する本を探していたのだ。
ところが、その古本屋の軒下にある入り口は
細かな仕切りのある棚で塞がれていた。
それは本棚ではなかった。
細長いスプリングやピン、
またはネジのようなものが並んでいる。
それらを指でつまんで調べていると
棚の上にある横長の引き戸が開いた。
しわだらけの老婆の顔が、ぬっと現われ
「もう閉めようと思うとるんやけどな」
なるほど、もう夕暮れである。
「ああ、そうですか」
指につまんでいた金属部品をあわてて棚に戻す。
「明日は何時からやってますか?」
その質問に対して老婆が返事をする。
けれども開店時間を知りたいわけでもないので
ほとんど注意して聞いていなかった。
「ああ、そうですか」
適当に相槌を打ち、逃げるように去る。
(ふん。あんな古本屋、二度と行くもんか)
そもそも外国語の文法にしたって
ことさら知りたいというわけでもないのだ。
2012/11/14
しゃがんだまま氷の塊に乗り、
人通りの多い商店街を滑ってゆく。
ミニスカートのお姉さんばかりが十数人ほど
パチンコ店の前に立ち並んでいる。
ハイヒールの根を持つ美脚の林を
低く縫うように通り抜けながら
私はしきりに首をひねる。
(なんだろう? 客寄せイベントか?)
シャッターは上がりかけているが
氷の塊は勝手に滑ってゆくばかりなので
店内の様子は確認できないのだった。
氷の塊は足早なナメクジの如く滑り続け、
通過した跡は浅い小川を連想させる。
ヌルヌル流れるナメクジの小川。
小川と言っても
こんなに底が浅くては
たとえミニスカお姉さんが落ちたとしても
ハイヒールの先っぽが
ほんのちょっと濡れるだけだ。
2012/11/01
あとで考えてみると
それはあまり駅舎らしくなかった。
いかにもな階段はあるのだが
「網の坂」とでも呼ぶべきものであって
大きなクモの巣を連想させる銀色の網が
「登れ」とばかりに斜めに張られてあるばかり。
ラッシュアワーにおける通勤と通学の人々が
それにへばりついて登っている。
この網の坂の途中に
狭い門のような場所があるのだが
せいぜい二人しか通れそうもないのに
我も我もと大勢で通り抜けようとしている。
また、不意に左右に裂けていたり
意味もなく複雑に絡まっていたりもしている。
あまり人通りのなさそうな部分には
本当にクモの巣が張られていたりもする。
そんなまさにクモの巣のような坂を
まさにクモのように這う女たちは
スカートの乱れが気になるのか
その裾を片手でしっかり押さえている。
いつもながら不思議に思う。
どうせ毎回のことなんだから
スカートなんか穿いて来なければいいのに。
女のスカートの丈が短くなるほど
すぐ下に続く男の密度が明らかに高まるのも
なんともあさましい姿である。
とにかく、みんな急いでいる。
急がなければいけないような気もする。
だから登り続けることにためらいはない。
苦労して斜め上を見上げる。
靴と脚と尻が蠢いているのは見えるが
電車のホームはまだ見えない。
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2012/10/29
何事かについて僕は悩んでいた。
そして、窓辺の机に頬杖を突きながら
開いた窓から外の景色を眺めていた。
草木が生い茂る田舎臭い風景で
あるいは本当に田舎なのかもしれない。
大声で笑ったり叫んだりしながら
目の前を制服の女子学生たちが通る。
彼女たちが高校生なのか中学生なのか
僕には区別できない。
また、なぜそんなにふう彼女たちが騒ぐのか
やはり僕にはわからないのだった。
そんな僕のいびつな楕円形の視界の端に
なつかしい友人の顔が現われた。
女子学生たちとふざけ合っているので
僕が手をあげているのに気づきもしない。
なぜか僕は手頃な小石を持っており、
それを向こうに放り投げて大声で呼んだ。
「おーい、ちょっと寄っていけよ」
その友人を僕は同性のように思っていて
なんだか気安く呼んだのだけれど
よく見なくても明らかに異性であり、
それもなかなかの美女なのであった。
ようやく友人は僕に気づいたようで
手を振ってくれたのだけれど
一緒にいる女子学生たちが開放してくれないらしく
すぐにこちらへは来れないように見えた。
「よければ、君たちも一緒においでよ」
僕がそんなふうに窓から声をかけると
女子学生たちは互いに顔を見合わせ
恥ずかしそうに小さく笑うのだった。
あるいは友人は彼女たちの先輩なのかもしれない。
たがいに抱きついたり蹴る真似をしたり、
なにやら楽しそうにふざけ合いながら
彼女たちは坂道をゆっくり上がってくる。
友人だけでなく女子学生たちも一緒なので
僕はなんだか嬉しくなってしまう。
友人のおかげなのだ、と感謝する。
なんだか何か言わずにいられなくなる。
「彼女は僕と同級生だったんだけど」
僕は自分の言葉にいくらか驚く。
「よく相談を持ちかけられていたよ」
まるで彼女たちが友人に相談を持ちかけてばかりいて
「僕にも相談を持ちかけても悪いことあるまいよ」
とでも言いたいみたいに聞こえる。
「そうだったんですか」
かわいらしい女子学生が目を丸くする。
本当に驚いたのかどうかわからないが
ともかく返事をしてくれたので
いくらか救われたような気になる。
とぼけた顔のコアラの親子みたいに
背中に女子学生を一人ぶら下げたまま
友人は勝手口から僕の部屋に入ってきた。
跳び上がって僕の机の上に裸足で立つと
彼女は窓から外に思い切り首を突き出した。
それから、僕には理解できない類の冗談で
まだ外にいる女子学生たちを笑わせるのだった。
友人の短いスカートから下着が見える。
元気に開いた太股が健康そうだった。
彼女は、たしか人妻ではなかっただろうか。
それに同級生ではなかったような気もする。
なんであれ、彼女は僕の友人に違いない。
背中の女子学生は天井に押し付けられ、
遊園地の観覧車にでも乗っているつもりなのか
キャーキャー叫びながらも笑っている。
見ているだけで僕まで楽しくなってくる。
僕の机の上には書きかけの原稿用紙があり、
小説家にでもなったつもりなのか
万年筆なんかもそれらしく置いてある。
僕は文章が書けなくて悩んでいたのだろうか。
なにを悩んでいたのか
もう思い出せないのだけれど
なにやらすごく幸せな気分である。
そういうわけなので僕は
ここに忘れないように書いておく。
あいにく万年筆ではなくて
パソコンのキーボードではあるけれど。
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2012/10/14
白い粉が紙袋の中に入っている。
おそらく小麦粉であろう。
その粉をビーカーの中に入れ、
線香のように数本の試験管を立る。
どうやら化学実験をしているらしい。
部屋に友だちがやってくる。
なにごとか話してから彼は立ち去る。
おかげで白い粉のことは忘れてしまった。
僕はベッドの端に腰かけ、
しばらくぼんやりしていた。
すると、部屋は寝室だったのかもしれない。
ふと、視界の端に黄色く光るものが見えた。
床の上に白い粉の入ったビーカーがあった。
それを持ち上げる。
火がついている。
立てた数本の試験管から
まるでロウソクみたいに炎が出ていた。
熱で試験管が割れそうな気がして
この火をすぐに消さなければならない。
そんなふうに僕は思う。
ところが
息を吹きかけても
ビーカーを振っても
指先を泳がせてみても
いかにも楽しそうに炎は揺れるだけ。
このままでは爆発するかもしれない。
部屋の中で爆発されては困る。
僕は急いで窓から出ると
トタン屋根の上に裸足で立つ。
ビーカーが割れるのを心配して
どこから取り出したのか
大きなビーカーの中にビーカーを入れようとする。
けれど、大きなビーカーはあまり大きくなくて
外側のビーカーの方が割れてしまう。
ガラスの破片が屋根の上に散らばる。
そのまま滑って軒下の庭の上に落ちてゆく。
「痛いな。ああ、痛いな」
ここからでは姿は見えないけれども
女の子の声がする。
ガラスの破片が刺さったに違いない。
ガラスの破片は下に落ち続けている。
下からは女の子の声が聞こえ続けている。
「訴えてやる。訴えてやる。訴えてやる。
あたしはあんたを決して許さない」
なんとも不安な気分になる。
なのに、まだビーカーの火は消えそうにないのだ。
2012/10/12
彼女は不眠症ではない。
まるで眠ったことがないのである。
生まれてからずっと起き続けている。
おそらく育児は大変だったはずである。
両親とも若くして亡くなっている。
疲労すれば眠くなるであろう。
しかし、彼女は疲れを知らない。
小さな海なら、端から端まで泳ぎ切ってしまう。
それこそ一睡もせずに。
退屈すれば眠くなるもの。
ところが、彼女は飽きることがない。
百科事典全巻を十回だって読み返す。
睡眠薬も催眠術も彼女には効かない。
致死量飲んでも綱渡りができる。
催眠術師は先に眠ってしまう。
べつに眠りたいとは思わない。
けれど、夢は見てみたい。
彼女は、夢を見たことがない。
だから彼女の夢は、夢を見ること。
まだ見ぬ夢について、彼女は考える。
あるいは、そんな彼女こそ
誰かの夢かもしれないのだけれど。
2012/10/09
増改築が繰り返された複合ビル。
わけのわからない店があちらこちらにある。
百貨店をひっくり返したような景観。
ここに私がいるのは帽子を買うためだ。
帽子なんか嫌いなのに、おかしなこと。
いつしか私は迷子になっていた。
エスカレーターがいたるところにある。
しかも曲がっているものばかり。
上昇している途中で下降し始めるもの。
ぐるりと回って元の場所に戻るものまである。
ふざけているとしか思えない。
私は困ってしまった。
店員らしき若者に道を尋ねてみた。
「ええと、そこへ行くためにはですね、
ちょっと口では説明できないので」
親切にも彼は、私と一緒に歩いて
帽子売り場への道を教えてれると言う。
いくつかエスカレーターを乗り継ぐ。
「あなた、ここの店員さんですよね」
「いいえ。ここの住人なんです」
内心の驚きが顔に出ないよう
私は目を伏せなければならなかった。
「さあ、ほとんど着きましたよ」
「ああ、どうもありがとうございます」
「あとは半歩進んで一歩下がれば着きます」
「もう大丈夫です。助かりました」
一歩進んだところにエスカレーターがあった。
それに乗ろうとすると、若者が叫んだ。
「違います。一歩でなくて半歩です」
あわてて私は足を引っ込めた。
深呼吸してから、慎重に半歩進んでみた。
そこに別のエスカレーターがあった。
進んだ逆の方向に向かって動いている。
(ああ、これが「戻る」という意味か)
そのように私は納得して
そのエスカレーターに乗ろうとする。
すると、ふたたび若者は叫んだ。
「違います。そこから一歩戻るのです」
もう私は途方に暮れるしかないのだった。
2012/10/08
真夜中の病院。
女性看護師が悲鳴をあげ、
そのまま転がるように廊下を走り去った。
目が異常に冴え、
暗闇のはずなのに明るく見える。
手鏡を覗いてみると
両目が炎のように光っていた。
病室の闇に浮かぶ青白いふたつの炎。
新米看護師でなくても驚くはずだ。
交通事故に遭ってから眠れないのだ。
頭部打撲が原因としか考えられないが
記憶も意識もしっかりしている。
ただし、脳波に異常があるのだそうだ。
正常と比べて波形が逆転しているらしい。
生理学的にあり得ないとのこと。
また、物理学的にも不可解という。
「わははは。面白い!」
病室の入り口で父が笑う。
「ドアを閉めると、ドアが閉まる」
父が病室のドアを開閉している。
「ドアを開けると、ドアが開く」
それから床に転がって笑う。
なにが面白いのか
さっぱり僕にはわからない。
そもそも本当の僕の父は
すでに亡くなって久しいのだ。
その父は
やがて友人の顔になる。
踊るように駆け寄り、
僕のベッドの脇に立つ。
友人は少年の頃のままで
なぜか女装している。
「こっちは楽しいね」
友人の手が伸びてきて
僕の傷に触れる。
「だって、あっちでは感じないもの」
包帯の上から撫でる。
傷口が痛む。
「ほらね。君の顔が歪んだ」
そういえば久しぶりだった。
本物の友人は
遠い外国にいるはずなのだから。
突然、
廊下に騒がしく靴音が響いた。
女装した友人はベッドの下に隠れる。
「お願い。みんなには黙っていてね」
「うん。そのつもりさ」
友人との忌まわしい過去について
僕は誰にも喋るつもりはなかった。
目を閉じて眠ったふりをする。
そして、僕は
笑いを必死にこらえた。
なにしろ彼が
ベッドの下に隠れるとは意外だった。
これが普通の夢なら
目が覚めて消えるだけなのに。
2012/09/21
拍手に迎えられ、舞台に立った。
埋めつくされた客席。
期待のまなざし。
やけに照明がまぶしい。
司会者はいなかった。
案内をしてくれる人も。
頭の中が真っ白だった。
何も思い出せなかった。
「あの、私は何をすればいいのでしょうか?」
この質問は大いにウケた。
会場に響き渡る笑い声。
しかし、私はコメディアンではなかったはず。
「あまり歌はうまくないのですが」
これもウケた。
歌手だったのだろうか。
それにしては楽団が見当たらない。
とりあえず、でたらめに踊ってみた。
罵声が聞こえたので、すぐにやめた。
「ここは、どこなんですか?」
まるでウケなかった。
「そもそも、私は誰ですか?」
まるでウケなかった。
「あなたがたは、いったい・・・・・・」
ざわめく客席。
数え切れぬほどの非難のまなざし。
だが、それでも
この舞台は終わりそうもない。