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2013/01/16
もうどうでもいいや、と思った。
本当に、どうでもよくなってしまった。
「あの、唐突でご迷惑でしょうが」
そんなふうに見知らぬ女に声をかけた。
「はい。なんでしょう?」
目と目が合った。
その素敵な瞳。
いつまでも見つめていたかった。
しかしながら
抱きしめるのも殴られるのも億劫だ。
「いえ。なんでもありません」
すぐに、その場から逃げだした。
酔っ払いと思われたことであろう。
実際、相当な酔っ払いであった。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
吐いたっていい。
転んだっていい。
狂おうが死のうが問題じゃない。
なにがどうなろうとなんでもない。
で、そのまま帰って寝てしまった。
そうなのだ。
家に帰って寝たっていいのだ。
2013/01/14
ここは坂の多い町だ。
家の近所に、通学する高校生たちが
「ジェットコースター」と呼ぶ過激な坂道がある。
そして、その坂道を上ったところに街灯が三つある。
これは前にも話したことがあるけど
僕はひどい近眼と乱視で
目の不自由な人なので
夜に街灯を裸眼で見ると、印象画風に
ぼんやりと光るブドウの房に見えてしまう。
だから、街灯が三つあると
ブドウの房が三つ見える。
この三つを想像上の直線で結ぶと三角形になる。
「魔のトライアングル」という言葉が浮かんでくるのは
夜のせいだろうか。
ところで
この三角形が正三角形になると
悪いことが起こる。
そんな気がしてならなかった。
意味のない妄想である。
しかし、ひとり夜の坂道を上りながら
いつの間にか光るブドウの房が直角三角形になり
だんだん二等辺三角形に近づき
やがて正三角形になりそうになると
つい不安にかられて目をそらしてしまう。
見なければ正三角形にならない。
だから、悪いことは起こらない。
そう思い込もうとしているわけなのだ。
精神が病んでいたに違いない。
そして今夜
ついに見てしまった。
すれ違った女子高校生に注意を奪われ
警戒するのをうっかり忘れたのだ。
それは、完璧な正三角形だった。
三つの光るブドウの房による夜の正三角形。
見事だ。
じつに美しいと思った。
なにも悪いことは起こらない。
悪いことなど起こるはずがないのだ。
なぜなら、まさに完璧な正三角形なのだから。
むしろ
いままで見なかったのが悪かったのだ。
どうして見ようとしなかったんだろう。
どうして見えなかったんだろう。
近寄って見ても、遠く離れて見ても
どんなところからどんな角度で見ても
完璧な正三角形じゃないか!
2013/01/12
夜の住宅街を歩くのはきらいだ。
犬は吠えるし、猫は死んでるし。
それに
水道のポンプなのか
エアコンの室外機なのか
モーターの音は耳障りだし。
そりゃ
たまには良いこともあるけどさ。
眠れない若奥さんがパジャマ姿で
袋小路でひとり踊っていたりして。
だからなんだ。
と追究されても困るが。
だいたい
こんな夜更けに
どうして住宅街を歩いているのだ。
そこまで追究されても困るが。
2013/01/08
浅い眠りから覚めたばかり。
なにやら夢を見ていたようだ。
眠っている間に日は暮れてしまい、
すっかり夜になっていた。
起きて歯を磨き、
顔を洗い、軽い運動をする。
それでも眠気は取れないのだった。
室内照明を消す。
窓の外は月明かり。
そんなに部屋の中は暗くない。
窓辺のソファーに腰かけ、
忘れつつある夢の映像を思い出してみる。
(灰色のドレスを着た案山子のような女)
また眠りに落ちそうな予感・・・
不意に大きな音が聞こえた。
それは鈴虫の鳴き声。
どうやら窓辺に一匹いるらしい。
ソファーに寝転び、目を閉じて聴く。
大きな音なのに、眠気は続いていた。
実感はないものの可能性として
この音も夢かもしれない
と考えてみた。
音はリアルでも
鈴虫の存在はリアルではない。
この窓辺が
夢と現実との境界面かもしれないのだ。
再び灰色のドレスの女の姿が見えてきた。
案山子の顔だから
笑うこともかなわない。
やはりこのまま眠ってしまいそうだ。
それにしても
寝心地のよいソファー。
このソファーを窓辺に置いた記憶はない。
そもそもソファーなど部屋にあったろうか。
そう考えてみると
この部屋もなんだか空々しい。
あの案山子女の顔に似ている。
はて、どちらが本当の夢なのだろう。
案山子女、それともソファーのある部屋。
まあ、どちらが夢でも構わないが・・・
そんなことを考えるせいか眠れない。
あるいは
もう眠っているのだろうか。
いずれにせよ
窓辺で鈴虫が鳴いている。
2013/01/06
視界の上半分には空色の空がある。
視界の下半分には海色の海がある。
ふたつの境には水平線が引かれている。
空の上にあるのは雲と太陽と昼の月。
海の上に浮かんでいるのは小舟ひとつ。
小舟の上にはひとりの漁師がいる。
漁師は両手で釣竿を支えている。
釣竿の先からは釣糸が垂れ、
海面を突き抜け、海中に沈んでいる。
その釣糸の先端には釣針が結ばれ、
釣針には餌が刺さっている。
海中にはたくさんの魚が泳いでいた。
今、一匹の魚が餌を飲み込んだ。
餌だけ。
釣針は飲み込まなかった。
すると、釣針から餌が消えた。
餌が消えると、釣針も消えた。
釣針が消えると、釣糸も消えた。
釣糸が消えると、釣竿も消えた。
釣竿が消えると、漁師の両手も消えた。
漁師の両手が消えると、漁師も消えた。
漁師が消えると、小舟も消えた。
小舟が消えると
雲と太陽と昼の月も消えた。
雲と太陽と昼の月が消えると
空も消えた。
空が消えると、海も消えた。
空と海が消えたので、水平線も消えた。
そして、みんな消えてしまった。
消え損なった魚だけが泳いでいる。
じつに優雅に・・・
でも、魚の姿は見えない。
太陽も昼の月も消えてしまったから。
2012/12/13
昼休みの教室。
同級生のクニオ君が僕の肩を叩いた。
「ちょっといいかな」
そのまま僕の隣の席に腰かける。
返事は必要ない。
クニオ君は普通の少年ではないから。
彼は他人の意識を意識できる。
つまり、人の心を読む超能力者なのだ。
大人びているから
とても同級生とは思えない。
「じつは最近、能力がアップしたんだよ」
「ふーん」
「人の無意識の領域まで意識できるようになった」
「ほほー」
「さすがだね、君。
あんまり驚いていない」
クニオ君の笑顔は素敵だ。
ちょっと照れくさそうな表情になる。
「それでね、君の無意識はすごいんだよ」
僕には返事のしようがない。
「君は当然ながら意識してないはずだけど
君の内に潜在する無意識に比べるとね」
クニオ君はまわりを見渡す。
「同級生とか先生とか誰でもそうだけど
他の人の無意識は全然つまらないよ」
そのまま素直に信じていいものかどうか
僕には判断できない。
なんにせよ複雑な気分。
そんな僕の意識を意識しているのか
クニオ君は僕の目をじっと見つめている。
それにしても
クニオ君の意識と無意識の領域の区別は
いったいどうなっているのだろう。
あの素敵な笑顔を見せながら
すぐにクニオ君は隣の席を立った。
「それだけ」
僕は黙ってうなずいた。
クニオ君が彼の席に着く前に
午後の始業チャイムが鳴り始めた。
2012/12/05
警察官らしからぬ男だった。
そいつには顔がなかった。
長い髪に隠れて見えなかったのだ。
「無駄な抵抗はよせ。おまえを逮捕する」
手錠をはめられた。
「はて? 罪状はなんでしょうか」
とりあえず質問してみた。
「罪状を知らぬとは重罪だ。連行する」
そのまま見慣れた繁華街を歩かされた。
途中、顔見知りの太鼓持ちに出会った。
「旦那、本日はお日柄もよく、どちらまで?」
「それがな、わしにもよくわからんのだよ」
「それはまた、なんとも大変でげすね」
「ああ。やっぱり、おまえもそう思うんだね」
太鼓持ちはヘラヘラ笑いながら
腰の太鼓を叩き始めた。
顔のない男は太鼓の音を無視した。
まるで耳もないと言わんばかりに。
やがて、見知らぬ街角を曲がった。
それは警察署らしからぬ建物だった。
なぜか割れたメロンの断面を連想させるのだった。
犬の番兵が立つ玄関は狭苦しく、
牛の首が転がる廊下は歩きにくかった。
天井には斜め逆さにロウソクが灯され、
溶けたロウが床の上に垂れていた。
うっかり靴底を滑らせて転ばぬよう
我々は注意して歩かなければならなかった。
通路は迷路のように複雑に曲がりながら
急な階段を上り下りするのだった。
やがて辿り着いた地下の奥の空間は
誰がどう見ても賭場になっていた。
繁華街よりにぎやかだった。
「あの、博打は法律にふれんのですか?」
当然のように、その質問は無視された。
「ちょいと軽く首を絞めただけですよ」
ぬいぐるみの鶏が弁明していた。
その首は今にも千切れそうに折れていた。
「ふん。みんな三つ指の亭主が悪いのさ」
酔っぱらいの女が愚痴をこぼしていた。
その開いた手の指は七本あった。
やっと手錠がはずされた。
「さあ、ここで何か賭けてみろ」
顔のない男が、そっと耳元で囁くのだった。
「もしも賭ける値打ちがあるなら」
2012/12/03
下宿の廊下の奥に灰色の猫がいる。
暗くてはっきり見えないが
ふたつの小さな眼が金色に光っている。
あいつに入られたら、追い出すのは大変だ。
引き戸を開けると同時に部屋に滑り込み、
すばやく戸をピシャリと閉める。
けれど、あまりにも建物が古かった。
引き戸と柱の合わせ目に大きな隙間があり、
そこから廊下がよく見えるのだ。
やはり灰色猫の姿が闇に浮かぶ。
目を凝らすと、灰色の鼠のように見える。
こんなに小さくては、戸の隙間から
部屋の中に入られてしまうに違いない。
なんとかしなければならない。
あせってしまい、とりあえず
近くにあった本で隙間を埋めようとする。
すると灰色鼠は
こちらの動きに興味を持ったらしい。
いそいそと戸の隙間に近寄ってきた。
ところが、それは鼠でもないようなのだ。
顔が細長くて、馬のように見える。
しかも灰色ではなく、白と黒の縞模様。
白黒の縞の馬ならゼブラである。
どうも怒っているらしい。
その証拠に、いなないている。
ただし、なぜか声は聞こえない。
こんな小さなゼブラが部屋に入ろうとするのを
どうやって阻止できよう。
こんな薄い本では役に立たない。
しかし、もっと厚い本を取ろうと移動すれば
きっと怒れるゼブラが部屋に侵入する。
さらに悪いことには、どういうつもりなのか
戸の隙間が徐々に拡がっているのだ。
ううん、困った。
じつにまったく困ってしまった。
廊下の奥の部屋、つまり隣の空き部屋に
誰かいるような気配がする。
大家から話を聞いていないが
新しい住人でも入ったのだろうか。
その時、隣の部屋の引き戸が開き、
白熱電球の明かりが廊下にあふれた。
2012/11/27
レムは、宇宙の幽霊みたいなもの。
物質ではない。
存在しないものでもない。
うまく説明できないなにものかである。
しかし、レムは言う。
明らかに存在するもの
惑星や、そこに棲む生物の方こそあやしい、と。
宇宙そのものを含め、なにも存在しなければ
すっきりして、すんなり納得できる。
なのに、光とか物質とか、真空という状態とか
悲しみや殺意や、わけのわからないものが
いたるところに存在する。
それだから、まるで明確に存在を示すものの方が
むしろまともであるような印象を持ってしまう。
けれど、それは錯覚であり、経験に毒されている。
存在の曖昧な幽霊の如きものの方が
むしろ宇宙の住民としてふさわしい。
少なくとも、レムはそう考えている。
だからレムは、君たちを恐れる。
まるで当然な顔して存在する君たちを。
2012/11/23
一瞬、ものすごい美人だと思った。
視線が合い、それを剥がすのに苦労した。
位置を変え、再び彼女を盗み見た。
ところが、なんだかおかしいのだ。
美人じゃない。
普通以下かもしれない。
今度は別の女性と目が合った。
今度こそ、ものすごい美人だと思った。
さっきのとは別タイプの美人だ。
いや。
さっきのは美人じゃなかった。
よく見なければいけない。
反省しなければ。
すると、やはり美人ではないのだった。
さっきのはもちろん、今度のも。
そんな反省を、続けて五人も繰り返した。
自分の目が信じられなくなった。
いったいどうなってしまったんだ。
そのうちにとは思っていたが
ついに狂ったか。
ひょっとして、歯の治療のせいだろうか。
前歯を差し歯にしたばかりなのだ。
しかも歯の高さが合ってない。
奥歯で噛みたくても前歯が当たるのだ。
それにしても、最近の歯医者はいい。
なにより、昔みたいに痛くない。
そして、歯科助手には美人が多い。
歯科医師の職業的選択傾向かもしれない。
客というか患者として嬉しい限りだ。
電動椅子に座っただけでドキドキする。
若い女性に恥ずかしい口の中を掻きまわされる。
歯の治療中はほとんど目を閉じている。
無神経な男と思われたくないから。
本当は目を開けて見上げていたいのに。
口を開けて、目を閉じる。
不自然だ。
ああ、不自然だ。
やはり、これは歯の治療のせいなのだ。