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2010/08/19
今日、帰りに私の年次休暇を代理で入れまくった同僚を見かけた。私自身、体調を崩していたこともあり、それも揶揄されたこともあり、その姿を見かけただけで「いい人」ではなく「憎らしい人」と認識を新たにした。なぜなら、代理で年次休暇を入れるのは、昇進の評価に響くからである。私だってそれから4年、同期や後輩に抜かれ、冷や飯を食っていることに不満がいっぱいなのである。
さて、空の一角をにらみたくなるとき、それは「我」の大切さに気づいたときである。私も、このブログでしばしば、聖書の引用を続けている。信者ではない。海外へ出たときは「仏教徒」としている。映画「ボルケーノ」のワンシーンを思い出す。地下鉄で残された人を助け出す消防隊員。溶岩の上に飛び降りる前に、彼が口にした言葉。「私を犠牲にする代わりに裁きと罪から救ってください」。結局、「神」に結び付けらていたとしても、「我」が永遠に救われることを「望んで」いるのである。仏教の「欲」からみると、欲望とは「煩悩」であり、その種類は百八にものぼるとされる。人間は「生きたい」と「たい」を口にするとき、他の命をいただいてまでも「己」を生きながらえることを望む。
最近では、ミラーニューロンといって、他者と自己をともに大切にしたいという「本能」が明らかにされている。自死に向かおうとする「アポトーシス」とは対照的である。それよりも前に、「自己」を大切にしなければ他者を大切にすることはできない。他者を大切にする前に、「己」は息をしているか、水を飲んでいるか、食べて満たされているか。だからこそ、ものを考えられる、言葉を発することができる、そして他者を思うことができる。そのことに気づけば、なぜ自分が大切なのか思いいたせないだろうか。
私は今日、帰り道電車を待ちながら、空の一角を見つめながら、ないがしろにしてきたようで実は大切な「自分」に気づき、その存在をないがしろにした他者に怒りを覚えた。そして、今にも泣き出しそうな曇り空をみて、「このとしまで、四十代まで、なんのためにないがしろにされつつ生きながらえたのか」、そう反芻するように繰り返し考えた。過ぎたことは過ぎたことでとりかえしはつかないが、私自身をないがしろにして何らかの「利益」を得てきた特定の「他者」たちに怒りを覚えた。結局、道義的な「悪」とは、そうした、他者を犠牲にして私利を得ようと反省のない他者の存在ではないだろうか。他者を愛する気持ちは自己を愛する気持ちに発する。「悪」に「報い」や「復讐」を望む気持ちもまた、「自己愛」なのである。あるがまま、歩んできたまま、私のような凡人に残せることは、それぐらいしかない。
今日も途方にくれて、上を向いた。またいつか、上を向くか。生きていることは、悲しむことでもある。決して、喜ぶことは私には今後、あり得そうもない。現代日本人の悲哀。「上を向いて歩こう」、そして「時代」。喪失感は、生きながらえるほど深くなる。一度抜けた永久歯が生え変わらないように、一度白髪にかわった髪が黒さを失うように。それでも思う、「私」は大切なのだ、と。だからまた、明日も生きていける。
落ち葉
ヴェルレーヌ
堀口大学 訳
秋の日の ヴィオロンの 溜息の
身に沁みて ひたぶるに うら悲し
鐘の音に 胸ふたぎ 色変へて
涙ぐむ 過ぎし日の 思ひ出や
げに我は うらぶれて ここかしこ
定めなく 飛び散らふ 落ち葉かな
2010/08/15
実在しない場所ですが、パロディーです。ひとり区。ダウンロードに掲載しています。プリントアウトして、残暑見舞いにどうぞ。
真ん中に立っているのは私、脇にいるのが飼い犬です。