岡田千夏

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京都府京都市

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  • ゆく猫、くる猫

     今年の7月16日に、実家のネロが死んだ。9歳だった。
     子猫のときは、手のつけようのないようなやんちゃ猫で、家族はみな手や足に引っ掻き傷を作られた。大人になってからも、しょっちゅう盗み食いはするし、決して言うことは聞かないし、暴君ネロの名がぴったりな猫だったのだけれど、同時にその名の通り王者の品格も備えていて、他のどの猫もネロに一目置いていたし、人間から見ても、その顔には威厳が感じられた。
     そんな気の強い性格とは裏腹に、体は弱くて、よく病気をした。また甘えん坊な一面もあって、一番懐いていた母に抱っこされるのが大好きだった。
     死んですぐには、とてもネロがいなくなったことが信じられなくて、実家に帰っても、どこか、押入れの中とか、いつも寝ていた場所から何食わぬ顔をしてひょいと姿を現すのではないかという錯覚にとらわれたけれど、そうではないのだということに気づくたび、喪失感に襲われた。
     半年近くがたって、ネロがいないという事実もあまり動揺せずに受け入れられるようになったけれど、やっぱり、もしもいまこの瞬間に、どこかの寝場所からあくびでもしながら出てきたとしても、ちっとも不思議な気はしないだろうと思う。
     今年はネロが死んで、タマが来た。ゆく猫とくる猫がいる。もっとも、ネロの場合は、はじめての完全室内飼いの猫で、最後も両親に看取られて、お墓も実家の庭にあるから、ある日ふいとどこかへ姿を消してしまった外猫たちに比べると、いってしまったというよりも、存在の形を変えて、やっぱりいまも実家にいるというイメージがある。
     これから先も、ゆく猫がいて、くる猫がいるだろうと思うけれど、来る猫は拒まず、去る猫は追いかけて行くのである。

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  • よい猫年を

     新築した親戚の家に遊びに行ったとき、南側に向いて大きく開いた窓から明るい光がいっぱいに差し込む居間でくつろぎながら、このソファの上に猫の一匹でも寝ていたらもっといいのにねなどと、父と話したことがあった。
     家に猫がいるかいないかで、居心地のよさは全然違う。猫が別に何かをするわけでもないけれど、ただそこに寝ているだけで、部屋の空気はがらりと変わる。
     猫好きの勝手な意見だと思われるかもしれないが、そう思ったその人自身、自分が「猫好き」であることに気づいていない可能性がある。そういう「猫好き予備軍」は、世の中に結構いると思う。私自身も自分が猫を飼うまでは、なかなか猫の魅力を知るきっかけに恵まれず、猫なんか可愛くない動物だと思っていた。それが今では、もう猫がいないと生きていけないくらい(と言ったら大げさかもしれないけれど)猫が好きだし、それに猫を愛している状態というのは、とても幸せである。
     今は自分を「猫好き」だと思っていない人も、居間に一匹猫を置いてみたら、本当の「猫好き」な自分に気がつくかもしれない。新しい年は、潜在的な「猫好き」がもっともっと表面化して、多くの猫と人が、幸せになって欲しいと願う。

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  • 黒猫のワイン

     お酒はあまり飲めるほうではなくて、普段アルコール類などまったく買わないのだけれど、クリスマスで財布のひもがゆるくなっていたのと、ラベルでにゃあと鳴く黒猫に惹かれて、ドイツのツェラー・シュワルツ・カッツのスパークリングワインを買ってしまった。
     お酒と無縁な人間であるからよく知らなかったけれど、ラベルによると、シュワルツカッツとはドイツ語で黒猫のことで、「黒猫の座った樽が最も出来が良い」というドイツのユニークな言い伝えですでにおなじみであるらしい。
     その黒猫ちゃんのワインとはいかなるものかと、ローストチキンと一緒に飲んだのだけれど、勝手に炭酸のジュースみたいなものだと想像していたのがそうでもなくて、私のような飲めない人間にはあまり値打ちがなかった。
     しかしラベルはとても気に入っている。足がすっと伸びた黒猫もかわいいし、左側に描かれた色づいた葡萄の葉っぱと金のつると実もきれいである。
     調べてみると、シュワルツカッツにはいくつか種類があって、それぞれにしゃれた猫のラベルがついているようである。中身はさっぱり飲めないけれど、瓶だけ眺めて楽しみたい。

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  • みゆちゃん記念日

     さる12月19日は、みゆちゃんがうちにやってきたみゆちゃん記念日なので、いまさらのようだけれど、みゆちゃんの特に可愛い点について述べて、のろけようと思います。
     本当は、19日当日にこの記事を更新すればよかったのだけれど、我が家にとって重要な記念日なのに、なぜか、私がみゆちゃん記念日を21日だと思い込んでいた節があって、それで去年も今年も間違えて、みゆちゃんが来たの21日だったよね、と昨日夫に確認したところ、19日だと訂正された。
     さて、みゆちゃんの存在自体が可愛さの権化みたいなもので、寝ている姿なんか、思わず真っ白なふわふわの毛に顔をうずめたくなるくらい可愛いのだけれど(本人には迷惑されます)、今回あらためて紹介するのは、「立っちしてスリ」と「立っちしてポン」である。
     どちらも、みゆちゃんに特異な行動ではなくて、他にもやる猫はいると思うが、「立っちしてスリ」は言葉の通りで、頭をなでてあげようと手を伸ばすと、「待ちきれにゃい!」といった感じで、後ろ足で立ち上がって、自分から頭をすりつけてくることで、私はこれをされるのが大好きである。軽く折り曲げて提げるようにした前足とか、うつむき加減でつぶった目とかが、たまらなく可愛い。
     もうひとつの「立っちしてポン」は、みゆちゃんが「遊ぼう!」というメッセージとして使うもので、やはり後ろ足で立ち上がって、両手で私の膝のあたりを挟むようにポン、と軽く叩く。半ズボンで膝を出しているとよくわかるのだけれど、決して爪は出さないで、柔らかくて小さな肉球の、可愛い感触がする。みゆちゃんが「立っちしてポン」をするのはいつも不意で、私の前を歩いていたと思ったら、突然振り返ってポンとしたり、うしろからだだーっと走ってきてポンしたりする。その唐突なところも好きだし、猫と接するときはこちらが一方的に撫でたり抱っこしたりということが多いけれど、そうやってたまにみゆちゃんのほうからスキンシップをしてきてくれること自体うれしくて、もちろんみゆちゃんの遊びの相手をしてあげる。
     ますます可愛いみゆちゃんを、これからも猫なで声で猫可愛がりしたい。

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  • 猫ちゃんはプリンターがお好き

     みゆちゃんはプリンターが好きである。というか、本当のところは好きかどうかはわからないけれど、プリンターが気になってしょうがないことは確からしい。プリンターを動かすと、寝ていても必ず起きてやって来て、印刷物が出てくるところに鼻や手を突っ込んだり(機械に巻き込まれないか心配なのだけれど)、うしろに回ってみたり、上に乗ったり(壊れないかしら)、チェックに余念がない。
     そうやってみゆちゃんがプリンターの周りをうろうろしている姿を見るのは面白いから好きなのだけれど、先日年賀状を刷っていたときに、八割がた出来上がって送り出されてきたはがきの端っこをみゆちゃんが加えて引っ張り出して、印刷に失敗してしまってからというものは、ちょっと警戒しながら、みゆちゃんの好奇心を眺めている。

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  • 猫用ゴーグル

     実家にいた頃、当時の外猫たちがよく近所の猫と喧嘩をして、ニャウーという声が表から聞こえてくるたびに、仲裁のために飛び出していった。寒い季節の夜中なんかに喧嘩の声が聞こえてくると、聞こえないふりをしようかしらと思いながら(実際、聞こえないふりをしたこともあるけれど)、上着を羽織って、懐中電灯を手に外へ出ていくと、やっぱり懐中電灯を手にした父や母も、猫を探しに出ているのだった。
     今では、実家の外猫のポチとタマがときどき近所の誰かと喧嘩をすると、父が仲裁に出かけていく。父が心配するのは、病気の感染もそうだけれど、目をやられないかということである。伯母は猫好きで、白黒猫を飼っていて、外の野良にもご飯をあげているのだけれど、その外猫の一匹が、喧嘩で片目をやられて、失明してしまったそうである。その話を聞いて、猫おやじの父は、猫用の防護メガネみたいなものが作れないだろうかなどと、突拍子もないことを言っている。

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  • 二十数年ぶりの快挙

     記憶にある限りで初めて年賀状を出したのは、確か小学校に入った頃の、いまからふた回り前の亥の年で、母に干支の絵を描くのだというようなことを教えられ、ボールペンで、紋付袴を着たイノシシがにこにこ顔で凧揚げをしている絵を描いて、仲のよかった友達や田舎のおばあちゃんなど、数枚の年賀状を送ったと思う。
     たぶんその頃は、余裕を持って年賀状を書いていたと思うけれど、それがいつのまにか、毎年、年賀状を準備するのは年の瀬が迫った29日とか30日とかになっていて、いつも間に合うかしらと気をもみながら作るから(間に合わないことも多いし)、来年こそは早く書こうと思うのだけれど、それが出来ずに去年まで来た。それが今年は、七福猫の図案を早くに作ったためか、信じられないことに、すでに全部書き終わってしまっていて(枚数が少ないということもあるけれど)、年賀状の受付はまだかしらなどと思うほどの余裕ぶりである。
     昔は、干支の動物を意識した図案を考えていたけれど、最近は猫ばかりである。干支の逸話によれば、猫はねずみにだまされて、新年の二日の朝に神さまのところに行けばいいものだと思い込んでいたため出遅れて、結果干支の動物になれず、それをうらんでねずみを追いかけるのだそうだが、猫年がないおかげで、十二年待たずに毎年猫の絵を描き送っても問題ないから、それで結構である。

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  • 水仙トイレ

     水仙に毒があることは知らなかった。切花を数本買ってしまったあとで調べてみると、ヒガンバナの仲間で毒があり、ニラと間違えて食べて中毒を起こしたりとか、牧草に混じっていたのを家畜が食べて中毒死したという事件があるらしかった。
     たとえば水仙を挿した花瓶の水をみゆちゃんが飲んだりすると、どれくらいの危険性があるのかわからないけれど、体に悪いだろうと思う。猫というものは、専用の容器に飲み水を入れてやっているのに、わざわざ、流しに溜まった水とか、金魚の水槽の水とかを飲むのが好きで、現に、いま机の上に活けているガーベラの花瓶の水を、みゆちゃんはしょっちゅう飲んでいる(ガーベラについては、調べた限り毒はなさそうだけれど、だからといってその水を飲むのは、あんまり体によくないかもしれない)。
     水だけじゃなくて、水仙は単子葉植物だから、猫草と間違って食べてしまう可能性もあるかもしれず、そうなると致命的だ。みゆちゃんの手の届かない水仙の置き場所を考えたけれど、犬と違って猫は上下方向どこにでも上り下りするから、結局、常にドアを閉めているトイレの中に飾ることにした。
     おかげでトイレは水仙の香りでいっぱいになった。天然の芳香剤みたいである。トイレの定番として、水仙の花はいいかもしれないと思いはじめている。

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    • 岡田千夏

      2007/12/14 02:24

      海浜鉱石さん、こんばんは。コメントをどうもありがとうございます。
      花壇に生えている水仙を猫が食べたと言うような話もきかないので、あまり神経質になる必要はないのかもしれないですが、一応、隔離してます…

    • 海浜鉱石

      2007/12/13 23:41

      洒落が上手い!
      (いきなり叫んですみません)

      それにしても、植物の置き場所に気を遣う必要があるんですね。
      よくよく考えてみれば人間の話にしても、この地球上、食べられない植物のほうが圧倒的に多いですよね。

  • 百日紅の紅葉

     植物園のホームページには、今年は例年以上に紅葉のきれいな年だということが書いてあって、実際、この前植物園を訪れたときにとてもきれいだったのだけれど、その前の年だってやっぱりきれいだったと思うし、行ったのがよく晴れた午前中だったから、光の影響も大きいのではないかと思っていた。
     ところが、庭の百日紅の木を見たとき、やっぱり今年はいつもよりきれいなのかもしれないと思った。いままでは、自分の家の庭のささやかな紅葉にはあまり注意を払っていなかったのだけれど、今年は丸い葉が深みのある黄色からオレンジに染まって、晴れた日に仰げば、青い空を背景に、とても美しかった。
     そのきれいな黄色い葉っぱも、十二月の冷たい風がどうっと吹いて、あっというまに散ってしまった。さびしい木が冬らしくなった庭に、ゆきんこが一匹、はやく降りすぎて困惑した雪のひとひらのように、覚束なげに飛んだ。ゆきんこというのは、お尻のところに綿毛のような白い毛の生えた小さな虫で、北のほうでは雪虫と呼ばれているそうだけど、正しい名前は、トドノネオオワタムシという。
     私の通っていた小学校は、小さな山のふもとにあって、その山すそにいつかの年の卒業生が作っていったアスレチックでよく遊んだのだけれど、地面に積もった落ち葉が冷たく湿る冬の初め頃、赤や青のペンキで塗られたアスレチックの丸太のあいだを、ちらほらとゆきんこが飛んだ。ゆきんこを両手で囲うようにして捕まえて、心の中でお願い事をしたあと、空に放したゆきんこが上へ向って飛んでいけば願い事が叶い、下のほうへ行ってしまうと叶わない、などということを、どこで仕入れてきたのか友達の誰かが言い出して、みんなで一生懸命ゆきんこを捕まえた。放しても上へ飛んでいかなければ、別の元気そうなのを捕まえて、上へ飛ぶまで繰り返した。
     ゆきんこを見ると、いつもそんなことを思い出して、庭のゆきんこも、両手で捕まえて何かお願い事をしてみたいような気になった。庭に降りたみゆちゃんは、ひらひらと落ちてくる散り残った黄色い葉っぱか、ゆきんこか、なにかを追いかけるように走り回っている。

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  • キジトラの散歩

     玄関先にやってきたキジトラのことを書いた次の日の昼に、家の前の通りを歩いていくキジトラの姿を見かけた。ちょうど散歩に出かけようとしていたところで、特に行き先も決まっていないから、距離を置いてゆっくりあとについていった。
     他に人通りのない裏道を、立ち並ぶ家々に沿ってとことこと歩いていく猫は、どこか目的地があるのか、いったい何を考えてその方向へ進んでいくのだろうと思う。
     やがて右に折れて、月極めの駐車場を横切って、その突き当たりにある家の前に置いてあるミニバイクにちょっと体をすりつけるようにした時に、尻尾をぴんと持ち上げた。ピンク色の首輪と、夜に見たときの黒目がちなイメージで、勝手に雌だと思っていたのだけれど、雄猫だった。そのあと、駐車してある車のタイヤの向こうに腰を下ろしてこっちを振り返った顔は、えらの張った、ふてぶてしいまさしく雄の顔で、暗がりで見た自分の記憶のいい加減さにあきれた。
     キジトラは、車の下で昼寝でもしようと思っていたのかもしれないけれど、私たちが遠巻きにしてちらちら眺めるのが落ち着かないらしく、再び腰を上げて歩き出したので、私たちも、もうあとを追わなかった。

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