岡田千夏

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京都府京都市

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  • 時代祭

     10月22日は、京都三大祭の一つ、時代祭の日であった。
     それをどうして今頃書くかというと、その日かその次の日あたりに書こうと思っていたのが、鎧兜の猫武者の絵を描くか、維新猫隊の絵を描くか悩んで、今日になってしまった。結局、馬に乗った猫武者も捨てがたいけれど、猫武者一人では行列のイメージが出ないので、維新猫隊を描くことにした。
     それはいいとして、息子に馬や牛車なんかを見せたら喜ぶだろうと思って、時代祭の行列を見に連れて行った。
     あとでニュースを見て知ったことだけれど、11万人もの人出があったそうで、沿道には人垣が出来て、その頭と頭のあいだから、背伸びするように見ると、やがて笛や太鼓の音楽が聞こえ出して、明治維新の時代から順に、時代衣装をまとった行列がやってきた。
     維新志士隊の格好をした若い人たちが整列して歩いてくるのだけれど、みんなそれぞれ自由な髪形をして、前髪がやたら長かったり、上の方の髪がトサカみたいに立っていたりしている。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」とか土方歳三の「燃えよ剣」なんかを読んで思い描いたイメージからすると、だいぶ違和感がある。
     違和感といえば、若い人に限らず、馬にまたがった年配の戦国大名が眼鏡をかけていたりするのも、なんだかおかしい。眼鏡がはじめて日本に伝わったのは、ザビエルがやってきた1549年で、国産品の製造が始まったのは江戸時代である。でも一方で、そういった違和感は、平和な現代のお祭であることの象徴みたいで、それはそれでいいような気もする。
     豊公参朝列の中に、牛車があった。きらびやかな車を引く黒い牛は、もうだいぶ疲れてしまったのか、すこぶる機嫌が悪そうで、右に左に頭を振って蛇行しようとするのを、牛の両側についた数人が手綱を握って抑えている。
     牛車が止まってしまった。どうするのかと思ってみていたら、牛は、振り絞るような声で、「モォーッ」と一声鳴いた。くだらない冗談みたいだけれど、確かに、「もう、いやだ」と言っているように聞こえた。

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  • 狩野永徳展

     京都国立博物館に、狩野永徳の特別展を見に行った。狩野永徳といえば、狩野派を代表する画家である。その知名度の高さのためか、博物館はたくさんの人で込み合っていた。
     恥ずかしながら、今回の展覧会を訪れるまで、狩野永徳の作品というのは、学校の歴史の教科書に載っていた「唐獅子図屏風」しか知らず、永徳の作風というのは、獅子に現れるような大胆で力強いものだと勝手に思っていた。したがって、館内に入ってすぐの花鳥風月の絵を見て、いささか驚いた。非常に繊細なのである。木の枝に止まる鳥たちの翼はバランスをとるために今にも羽ばたくかのよう、か弱い足でしっかりと枝を握り締め、細いくちばしは可愛い声を発するかのようである。草や花は風にそよぎ、赤く色づいた木の実は枝からこぼれ落ちそう。そういうひとつひとつのものが、緻密に、生き生きと描かれていた。そうかと思えば、唐獅子や、雲間に現れる龍など、気迫が伝わってくるような大胆な絵もあって、永徳とは、その二つを併せ持った人なのだと思った。
     そのほか、壁画縮図などは、下書きのような線で描かれた絵に、ところどころメモ書きが入れられているのだけれど、そのタッチが、いまの漫画みたいで面白かった。
     見ごたえがありすぎて、薄暗い照明の中で一生懸命目を凝らしたから、全部見終わって明るい青空の下に出たときは、ひどく目が疲れていた。

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  • カマドウマ、現る

     みゆちゃんが、台所でひと跳び、ふた跳びし、何かを追いかけていった。閉めた窓のところまで追い詰めて、サッシュのレールの隙間に逃げ込んだその何かを捕まえようと、手で掻いたり鼻を突っ込んだりしている。ゴキブリにちがいないと思って、憂鬱になった。ニ、三日前に、みゆちゃんが浴室の前の洗濯かごやバケツなんかを置いてある場所に座り込んで、何かを見張っているような様子だったので、そこに隠れていたのが出てきたのだと思った。
     やがて、くるりと踵を返してこっちにやってきたみゆちゃんの口の端から、足とか触覚がはみ出しているのが見えた。どうしようかと思ってうろたえていたら、みゆちゃんが獲物をそっと床の上に置いた。またわざと逃がして、追跡ごっこをするつもりらしい。
     みゆちゃんの頭越しにおそるおそるのぞいてみると、それはゴキブリではなかった。コオロギかと思ったけれど、それも違う。ちょうど、ゴキブリとコオロギの中間みたいな虫だった。カマドウマである。はじめて見た。コオロギみたいに三角形に曲がった後ろ足に、弓なりにカーブした体、恐ろしく長い触角。体長の4倍も5倍もありそうなこの触覚は、いったい何に使うのかしら。
     カマドウマが窓の方へ向って逃げはじめた。追いかけようとするみゆちゃんを抑えて、急いで窓を少し開けたら、カマドウマはすぐにその隙間から庭へ出て行って、事なきを得た。
     密閉性のあまりよくなかった昔の家屋では、カマドウマはよく見られたそうである。それが、最近の住宅ではほとんど見られなくなった。そのカマドウマが現れた我が家というのは、どこかに虫の出入りする穴でも開いているのかもしれない。その証拠に、廊下をダンゴムシが散歩していたり、なぜこんなところにこんな虫が、というようなことがときたまある。

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  • かいなもち「いっぷくちゃん」(奥飛騨旅行記)

     白山スーパー林道まであと10キロ足らずというところでお昼時になって、そろそろお腹も空いてきた。「瀬女」という道の駅があったので、お弁当でも売っていないかと車を止めた。
     昔の農家風の天井の高い土産物屋の中はしんとしていて、客は年配の男性客がただひとり、店番のおばさんはレジの向こうで静かにたたずんでいる。
     おせんべいとか漬物とか土産物ばかりで、お弁当とかおにぎりみたいなものは置いていないようだった。この先、店もあまりなさそうだし、しばらくのあいだのお腹の足しにと、なにか饅頭みたいなものでも買っていこうかと思って店内を見ていたら、店に入ってすぐのよく目立つところに、「石川県推奨」というシールのついた真四角い竹の皮の包みがあって、中はおはぎだというような説明が書いてあったので、買ってみることにした。
     包みの大きさからして、おはぎが四つほど入っているのだろうと思って開けてみたら、中からは予想を裏切って、巨大なおはぎがひとつ、にこやかに笑うおばちゃんの似顔絵のついたおてふきと一緒に、ずしんと出てきた。
     夫と二人で四分の三ほど食べたところで、お腹がすっかり膨れてしまった。腹持ちのよさも抜群で、その後しばらくのあいだ、巨大おはぎが胃の中に鎮座しているかのようで、ちっともお腹が空かなかった。
     この巨大なおはぎの名称は、「かいなもち いっぷくちゃん」である。

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  • 松葉のハート

     北陸道の尼御前SAで休憩をとったときに、すぐ近くに尼御前岬公園というところがあるというので、歩いて行ってみた。岬から浜辺の松林までの一帯が公園になっていて、杖をついた小柄な尼御前の像が立っている。源義経が都落ちしてここを通ったときに、足手まといになることを恐れた尼御前が自ら命を絶ったという伝説が、尼御前岬という名前の由来となっているらしい。
     空はよく晴れていて、翼を広げたとんびが、松林を越えた強い海風を受けて、どんどん高みに昇っていった。小松空港に着陸する飛行機が高度を下げて空を横切ると、轟音がそのあとを追った。
     岬から見る日本海は青く、その色合いは岸から沖へ離れるにつれて、四段階くらいに変化していた。ついこのあいだまでの夏日が嘘のような、秋の海である。風の中で虫が鳴いていた。
     海の風にすっかり冷えて、風を防いでくれる松の林の中に戻った。よく手入れされた柔らかな芝生が広がっていて、その上に一面、茶色く枯れた松葉が散らばっていた。
     広場の真ん中に、松葉が不自然に集まったところがあった。松葉がハートの形に並べられて、ハートの中に、イニシャルなのだろう、アルファベットが四つ並んでいた。
     片想いの女の子か、幼い恋人たちか、それとも旅の風に若やいだ熟年カップルか。松葉のハートを作った人を想像した。

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  • 金木犀の匂い

     日の落ちる時間がだいぶ早くなった。すっかり暗くなってから実家の門をくぐると、庭に甘い香りが立ち込めている。知っている匂いなのだけれど、しばらく思い出せないでいた。金木犀だった。暗がりに目を凝らすと、庭の金木犀の枝に、ぽつぽつと、小さなオレンジ色の花が咲き始めていた。
     ひとつひとつはとても小さな可憐な花だけれど、それが枝じゅう散らばるように咲いて、芳香を放つ。やがて花が落ちると、木の下の地面は、淡いオレンジ色の花のじゅうたんとなった。小さい頃、落ちた花をすくって葉っぱに乗せて並べ、花のお弁当にしておままごとをした。
     いま住んでいる家の庭には、私たちが引っ越してくる前に、大きな銀木犀の木があった。秋が訪れるたびに、いい匂いをさせていたのだけれど、大きくなりすぎて伸びた根っこが裏の家の庭にまで到達し、やむなく切ってしまったのだという。隣のおばさんがそう教えてくれた。
     庭には、それらしい大きな切り株があって、ときどき、みゆちゃんはその上に腰をおろしている。切り株の表面はもうすっかり黒ずんで、死んだようになっているけれど、切り株の周りからは、あたらしい芽が数本伸びて葉を広げている。その芽にはやく花がつかないかと願ってもう三年経つのだけれど、まだ白い花の咲く気配すら感じられない。

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  • 猫健康法

     医食同源という言葉をわりと信じている。だから、食事の内容には結構気を使っているほうだと思う。二、三日に一回は魚を食べるようにしているし(と書いたところで、本を調べてみたら、一日一食は食べるべきらしいので、まだまだ改善の余地あり)、野菜もいろんな種類を食卓に乗せるように努力はしている。ちょっと前までは、「がんを予防する12品目群」の表を作って冷蔵庫に貼り、12品目が一、二日で全部取れるようにマグネットでチェックしながら、献立を考えたりしていた。12品目チェックはやめてしまったけれど、例えば、朝も野菜がたくさん食べられるように、生野菜のほかに野菜スープを作ったりというような工夫は続けている。今の時期は彩り豊かな秋野菜がたくさん出回っているから、毎日の野菜メニューを考えるのは、ちょっとした楽しみでもある。
     食事の面では、そうやって気を使っているのだけれど、今の生活スタイルでは体を動かすということがほとんどなくて、慢性的な運動不足である。
     少し前に、「猫とやせよう」という本が出ているのを本屋で見かけた。猫を肩に乗せてスクワットするとか、要するに猫をダンベル代わりにエクササイズするというような内容だったと思うけれど、ひとつやってみようかと思っても、いかんせん、そんな従順な猫は家にはいない。抱き上げた途端、後ろ足で蹴っ飛ばされて、さっさと逃げられるのがおちだろう。猫と体操するのはあきらめて、ゆっくりやってきた秋の風情を楽しんで、少し遠くまで歩きに出かけようかしらと思う。

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  • 猫と新聞の関係

     みゆちゃんが、遊ぼう遊ぼうと、足元でにゃあにゃあ鳴いていたけれど、新聞を読んでいたので、「あとで」と思ってかまわないでいた。しばらくすると姿が見えなくなったので、あきらめてどこかへ行ってしまったのかと思ったら、突然新聞の向こう側からみゆちゃんの顔がにゅっとでて、新聞を覗き込んだ。その様子があまりにも面白かったので、新聞を置いて遊んであげようと思ったら、畳んだ新聞の隙間めがけて飛び込んで、二三歩、頭を新聞紙に突っ込んで押し進んだ。
     猫は新聞が好きなようである。まず、乗るのが好きだ。新聞を机の上に広げて読んでいたら、決まって上に乗ってくる。それもたいてい、ちょうど読んでいる記事の上に乗る。それから、新聞紙のあいだに駆け込んで、紙をかさかさといわせるのも好きらしい。お座りが出来る頃になった人間の赤ちゃんが、新聞紙をくしゃくしゃしたりびりびりしたりするのが楽しいのと一緒かもしれない。新聞を山型に立てて、その下から猫じゃらしをちらちらさせると、目を真っ黒にして、新聞のトンネルの中に突っ込んでくる。遊ぶことは滅多にないデビンちゃんも、この遊びには乗ってきた。
     新聞ではないけれど、いつも宅配を頼んでいる生協のカタログを床に広げて、注文票に記入していたら、やっぱりみゆちゃんがやってきて、カタログの上に座る。それを真似して息子が注文票の上に寝そべる。そうやって、いつも二人に邪魔されている。

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  • 毛虫小道

     琵琶湖疎水の横の小道を散歩していると、縁石の上に何か黒くて長いものが乗っていて、一瞬ムカデかと思ってどきっとしたけれど、よく見たら黒い体に薄い黄色の毛の生えた、大きな毛虫であった。
     桜の木につく毛虫で、琵琶湖疎水の横の小道には桜の木がたくさん植えてあり、春には、染井吉野や、名前の知らない白い花を咲かせる桜が満開になって、疎水の深い水の色に映って爛漫たる景色となる。
     実家の庭に山桜があったときには、この毛虫がよくついた。いま縁石の上を歩いている黒い毛虫は体長が6センチほどもあるけれど、もう少し若い時分には体も小さく赤い色をしていて、その赤い毛虫が、山桜の葉をすべて食べつくし、さらなる食糧を求めて、いっせいに幹を伝い降りだしたのを見たときには、冷や汗が出た。
     黒い毛虫は、縁石の上を小道に沿って、ずんずん進んでいく。おそらく、蛹になるために土に潜る場所を探しているのだろうと思う。野菜についてきた青虫を育てていたら、やがて土に潜って蛹になったことを思い出した。
     一匹だけかと思ったら、小道の前方を、同じような黒い毛虫が一生懸命横切っているのが見えた。もしかしたらそこらじゅうに毛虫がいるのではないかと思って、急に薄ら寒くなって辺りを見回してみたけれど、その二匹以外にはいないようだった。
     さきの毛虫は決まった目的地でもあるかのようにまっすぐ進んでいくのだけれど、あとの毛虫は、もう切羽詰っているのか、小道の端まで来ると、植え込みからこぼれてコンクリートの上にかぶさった土を掘って潜ろうとした。もちろんそんな浅い土の中に潜れるはずもなく、あきらめて、今度は落ち葉の下に潜った。縁石を超えてあと20センチも進めば、深い土があるというのに、言っても伝わらないところがじれったい。
     そうこうしているうちに、さきの毛虫はどんどん進んで、こちらは縁石から雑草の生えた地面に降りて、やはり土を掘ろうとしはじめた。しかし、このあたりの地面はどこも固い。柔らかいからだの非力そうな毛虫に掘れるとは思えなかった。しばらく頑張っていたけれどうまくいかず、落ち葉に潜って誤魔化したりしている。
     そんなことでうまく蛹になれるのかしらと心配になったけれど、それでもやっぱり桜の木には毎年毛虫がつくのだから、どこか蛹になれる場所があるのかもしれないとも思った。
    毛虫たちがどうするのか見届けたいと思ったけれど、きりがないので、あきらめて帰った。

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  • マンドリルのマンマル君

     京都市動物園で、23日にマンドリルの赤ちゃんが生まれたというので、生後6日目の日に見に行った。生まれたのは、マンドリル夫婦の第三子となるオスの赤ちゃんである。
     息子の手を引き、入ってすぐのキリンから順に見てまわって、マンドリル舎にたどりつくと、お母さんマンドリルはガラス張りの飼育舎の一番奥で、こちらに背中を向けていた。横にはお父さんマンドリルが付き添っており、見えないけれど、お母さんの胸には赤ちゃんが抱かれているようである。飼育舎の周りを回って、いろいろ角度を変えて見ると、なんとなくお母さんの膝の上に赤ちゃんらしきものが見えて、お母さんは赤ちゃんの毛繕いをしているようであった。
     しばらく待ってもこっちへ来る様子はないので、先に息子の好きなゾウを見に行った。
     再びマンドリル舎へ戻ってみると、ちょうどお母さんが飼育舎の真ん中にある木の台の上に移動してくるところであった。つねに赤ちゃんを大事に胸に抱いているお母さんマンドリルの姿は、同じように赤ちゃんを抱く人間の母親の姿に重なって見えるけれど、人間の赤ちゃんが首も据わらず一人では何も出来ない無力な存在であるのに対し、マンドリルの赤ちゃんは、生まれながらにしてすでに強い腕力を持っている。その証拠に、お母さんマンドリルが両手足を使って移動する際には、落とされまいと、自力でしっかりと母親の胸にしがみついている。
     木の台の上でごろんと仰向けになった母親のお腹の上に、赤ちゃんが乗っている。やはりお父さんは見守るようにそばにいる。二頭いる上の子供のうち一頭も近くにやってきて、マンドリル家族水入らずの様子であった。
     新しく生まれた赤ちゃんは、みんなに親しまれるよう「マンマル(まん丸)君」と名づけられたそうである。

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