1万8000人の登録クリエイターからお気に入りの作家を検索することができます。
2011/01/25
文章を寄稿していただけました!いつも送っていただける文章を読んでいて感じるんですが皆さん、はっきりいって真剣でマジなんだよね。そして、今回もそんな文章です。是非、一読を。
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?eid=807261
2011/01/24
http://www.fengfeeldesign.org/
なんというか結局、装飾とはパターンでしかない。ある不合理なパターンをランダムに並べたとしても、結局は合理的なパターンに集約される。川原で拾ってきた石ころでも、それらをパターン化する事によって、装飾とする事が出来る。自分達が描いているイメージでさえも、それがオリジナリティやテイストという言葉で開放されたとしても、いずれはパターン化され図式化される。いわゆる手癖のようなもの。その現象をリアルタイムに利用しようとしたのがデザインという姿勢であり方法だったんだけど、もちろん現代も使われているし、どんどんと活用していくべき方法ではあるとは思うんだよね。でも、そもそものパターン化されるべき現象が無ければ、意味が無いという事も察しなくてはいけない。もちろん、この花形装飾活字も同じ事が言えて、いかに、装飾をパターン化して綺麗に並べたとしても、元々の現象を踏まえていないと、そのパターンが崩壊しちゃう訳です。同時にそれは花形装飾活字という危うさでもあって、古さや新しさにも関係しているかもしれない。もしかしたら、現代じゃないと使えない、もしくは、当時の人が考えもつかなかったものが得られるかもしれない。パターンでしかないが故に、それはパターンで無くなった瞬間に、定義された装飾とは言えなくなってしまう。とくに、エンスヘデのやつに関して述べれば、何を装飾のパターンとし、どの作業を活版という技術に委ねたのかというのが大きなポイントだと思うんですよね。わかりますかね…。このデータを使ってみたけど、ウマク使えないという方は耳を傾けていただければ嬉しいんだけど、1つ1つの版はパターン化された装飾なんだよね。だから単体でも凄く使えるしカッコイイんだけど、それだけだと、この花形装飾活字という思慮深さには全然、手が届いた事にならない訳で、時代や世界、活版という技術…etcの意図を汲み取りつつも、一番大切な事は「思い通り」に組まない事です。再度書きますが、これはパターン化された装飾なんだよね。もし、ウマク組みたいなら、自分の思った通りに組んじゃいけない。これは装飾という名の「知恵」であり、そこに創造は存在しない。全てがパターンで構成され、その奥深さが故に、壮大なランダムが生まれているように見えているだけ。そして、それを時間という流れの中で、リアルタイムで構成されている。つまり、全てのデザインは、この花形装飾活字が、花形装飾活字として存在した時点で全工程が終了しているって事。残念ながら、ボク達がする事なんてないし、これを使用したところで、真のオリジナリティに辿り着く事はないんです。エンスヘデのものは、なんとも憎らしくも、その完成度が恐ろしく高い。同時に世界観が設定されて、使いにくい人には圧倒的に使いにくいものになっている。それは何故なのは、もう書いたので書かないけれど、もはや、パターンの構築さえも終わってるのかもしれない。だとしたら凄い話だべ。それはデザインの領域を超えたところで定義が行なわれているという事になる。と言いつつも、ボク自身は、これにそこまでの信頼は寄せてないけれど、デザインという定義は埋まるのは確かでもあるし、言葉にするなら、「物凄く配慮されている」状態なんだと思う。ホント、勉強させられちゃうよね、先人の方が、グラフィックデザインと印刷の境界をキチンと見極めてたって事だからなあ。もっと言うと、印刷という作業にだけ、活版という技術にまで、パターン化は施さなかったからこそ、ここまでの自由が発生している。それは多分、領分が違うという理由だけでいいような気がする。
2011/01/12
紹介中の花形装飾活字を配布中です!!
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/
この花形装飾活字を配布するといった活動の中で、というよりも3年ほどの配布で、たくさんの方々にこのデータをお渡しした中で色々気付いた事や、実際に使われていく中で多様なその使用を観察してきて、ああなるほどなー的な事がいろいろあったんだよね。なので、客観的にグラフにしてみたり、数値的にその分布を図にしてみたり楽しんでいたのだけど、やはり、なんというか、この花形装飾活字というのは、その提供ではなく使用という一途で考えた場合に「思慮深さ」にこそあるという結論にやはり辿り着きました。単に装飾が綺麗だからという一面だけでなく、その知恵ととも内包しながら使えている人なんて、マジで一握りという結果になったのはなかなか面白く観察させていただきました。案外、グラフィックデザイナーの方から欲しいという声が少なかったのが特徴でした。それよりも、どちらかというと、趣向的に好みの方に興味を持っていただける傾向にあるように思います。ていうか、デザイナーの方はこういうのは自分でつくる対象であり参考でしかないんだろうなと感じています。実際にこれが使われるシーンなんてある事が少ないから実践出来ないからこそプロとして避けていたのかなという感想です。ただ、技術的な意向が強いのか、配布に関しての問い合わせよりも技術的な質問な問い合わせが多かったんだよね。実際のところ、これら花形装飾活字というものを認識する上では、果てしなく時間がかかるし、まず底辺として、これら装飾は今のグラフィックデザインのメインストリーム的にそぐわないし、否定の対象にもなっている事は、時代だから仕方ないなあという感じです。1つこれから調べていきたい事でもあるんだけど、それを使いたいのか、所有したいのかで相当に、その使用の奥深さみたいな事に変化があったんだよね。これは面白い結果だったし、ボクも実感していきたい1つの在り方なんだけど、例えば、使いたいと思って、問い合わせしていただいて、それを目的に沿って使った後に、どのように扱われているのか、という点において、大きな疑問がある訳です。いったいそのデータはどうなるんだろう、その人にとって、もういらないものになるのか、所有物としてずっと扱っていただけているんだろうか。単なるコンテンツとしてでしかなかったのか…etc。いらないものになったとしては、それらはその後どうなるのか、このなんとも曖昧な価値の存在において、ある一方で重宝されて、ある一方では、ゴミになっている状況って絶対にあると思うんですね。そしてそれがこの扱われ方という事において、人それぞれで変わってくるという花形装飾活字の面白いところのように思います。でも、これも面白かったんだけど、使う人によって、まったく使われ方が違うという事です。もちろん、その装飾の組み方から、目前に構えているシーンまで、その至る全てに違いが発生していて、これから、ボクも大筆振って、さあ使っていくぞ!ってなっても全然遅くないんだよね。もしかしたら、無償で配布していたら状況は変わっていたかもだけど、この花形装飾活字というやつは、持っているだけでは何の役にも立たないし、用途が無いと使えない、使う知恵もなければ、ウマイとヘタが発生するっていう。これはおそらく時代にマッチしていないだけとも言えるんだろうけど、その今の時代の多様化した浅はかさみたいなものを実際に垣間見れたような気がします。ズバリ、ディープに物事に接している人のなんと少ない事か。しかもそのディープさが面白いという人のなんと少ない事か。今のデザインの事情として、キチンと作るよりも、広く浅く作った方がウマクいく現状を感じていて、これとダブってしまって…、つまりイメージの構築が進んだ訳です。印象という偶像が相当支配をしていて、目の当たりにしているものよりも、イメージが先行するという奇奇怪怪な事が起こっているんです。この発言は古臭い!と言われれば一言で済むんだろうけど、結局、でも、この花形装飾活字というものを印象や偶像で組み立てたところで、ウマクは使えないんだよね。それどころか、なんとも歯の浮いた結果になるっていう。なんだろう、なんというか、それでもマッチする瞬間ってあって、逆にイメージが多様化してくれいるおかげで、この花形装飾活字が使われるシーンというのも同時に、増えてるし、増えていくと思うんだよね。実直な部分として、花形装飾活字というのは、ただ持っていても、ただ所有していても、なんの意味も成さないし使うのが難しい。だけども、所有しているという事が大事で、所有しているという概念が、使うというステップに移行する瞬間のようなものを産むんだと考えています。それを使うだけでは花形装飾活字は成就は出来ないんです。今の時代だからこそ、まず持つ、所有するという事が出来る。データ化しているから場所も取らないしね。その上で使う動作にこそ価値があるのだと感じます。どのように使うか、使われていくのかというのは、また別の話で。そして、ボクはそれを所有している。これをどのように使うのかで、これら花形装飾活字の価値もまた変化するものなのだと感じています。花形装飾活字はこれそのもので完成ではないんです。もちろん最初のコンセプトや見た目も重要なんだけど、その奥深い、「思慮深い」花形装飾活字の面白い部分みたいなものを、たくさんの人に味わってもらいたいと思っているし、ボクもそれがボクが所有していない、別の人が所有している上での使われ方というのを楽しみにしていたりします。わかるかな、この「花形装飾活字を愛でる」でさえも、こういう使い方だから面白いのであって、もっと使い方があるんです。それをこれから示していけたらなあと思います。
2011/01/07
この度、PRINTERS''FLOWERS OLDTYPE 001をリリースいたしました!
どうぞよろしくお願いします!!
ぼ、ボクの生活費を助けて!!ぶわっ!
http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?eid=807257
2010/12/21
http://www.fengfeeldesign.org/
漢字との相性について。非常に悪いですwというか、そういう事をするんだったら、ちゃんとそれぞれの書体がある訳だし使えばいいんだよ。って説明はマズイかなあ。当初の計画だと、もう少し漢字に歩み寄る予定でしたが、というか、そういう風に作ったからそういう事なんだろうけど、まあ、見ての通りです。右から一般的な、ゴシック、明朝、楷書、おまけに教科書体です。そもそも異形のものをくっつけてたダメだったという話なのかなあ。ここは多分、肉の付け方でスゲー変わってくるんだろうなあという印象でした。恐らく、肉の時点で漢字の要素をふんだんに取り入れる事で、それは可能になるのだと思うのですが、今回の「みずくさ」にはそぐわないのと、一旦、これを作っておいて、次の段階として、パターンを形成した方が納得出来そうに思ったからです。ただ、漢字との相性が完全にダメという事ではなく、むしろボクとしては新しいマッチングの仕方をしていると思うんですが、悪いというよりかは、なんか見た事が無い感じかなあ、こういう使い方でも、もっと探せば相性の良さはアンドモアな気がします。実は使い方次第では、そのポテンシャルのは全てでは無いんですが、まるで、日本語書体と英字書体の組み合わせた時くらいの違和感というのは簡単に発生が可能だというものです。もっと言えば、中国語書体と日本語書体を分離出来た瞬間でもあります。の話は次回以降になるので置いといて、この平仮名に合うというのは非常に難しく、バカとハサミは使いようという言葉があるように、これにはこれの使い方がある訳です。ただ、今回はこのように並べる事で、この「みずくさ」という立ち位置を示す事が出来ればと思いました。使えない訳じゃないし、これについては数回に渡ってお伝えしたいのです。それくらい、漢字と平仮名との相性は、日本語の書体を形成する上では重要な1つなんですね。単に見た目に追求した方がいいというものではないですが、それは充分にありうる範囲だし、この「みずくさ」という書体をどのように使うのかという提示は、やはり、これが使われていく上で1つの重要なポイントなのです。漢字に限らず、他の言語書体との組み合わせにより、もしかしたら、面白く使えるかもしれない。この「みずくさ」はそのような実験的な眼差しでも充分に答えられる程の未知があると信じています。とくにこういう風に使って欲しいと考えて作った訳ではないし、狙って作った訳ではありません。単に、平仮名という書体とは一体なんなのか、その1つの回答として示したに過ぎないのです。
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415
2010/12/20
http://www.fengfeeldesign.org/
アウトライン化についてです。平仮名書体「みずくさ」にとってアウトライン化とはいかなるものだったか。アウトラインという外郭部分前提の在り方に何を内包すれば、平仮名たる存在になりうるのか。この開発にとって一番のポイントは、その工程だったように思います。書くという動作そのものの平仮名を書体という刻印的なものに変換するには、どのような要素と配合を行なえば、アウトラインという単純作業の中に、平仮名という線という骨を組み込む事出来、肉という筆を施す事が出来るのか。それがしかも、女性的な甘美を手に入れるには、何をエッセンスとして取り込めばいいのか。この判断というのは、完成に大きな影響を与えると考えるに至りました。まず、平仮名を構成する骨が直線であるという一面です。これについては非常に判断が難しいのですが、とくに、書を手がけられている方の平仮名を書く動作を観察すると、その筆の動きが曲線ではなく、何故そのように曲線に見えるかの理由は、どうやら力強く書かない事にあるようでした。漢字を崩したというよりも、その書き心地を求めた結果、崩れる事になったのだと感じました。なんというか直線を流す、その結果丸みを帯びたという感じです。直線を止めると丸くならないそうです。常に動いた状態で、文字を書くというよりも、なんだか、音の波長を読みとっているという感覚に近いと感じました。でも。これはあくまで書くという動作です。書くのではなく、それを書体とするにはどうすればいいのかというのが、今回の開発のテーマでもありましたし、現代の人にも認識出来る文字である事は大前提です。書く平仮名の最高のエッセンスをいかに書体というルールに反映させるかにあるように考えました。単なるサンプリングでは終わりたくないというのが、本音のところだと思います。何故ならサンプリングで終わらした書体は今までにもたくさん見てきましたし、それが平仮名書体という形を成しているものを含めて、偏り方が、正直なところ、カッコ悪いものだったんですね。どうすればカッコイイものになるか、というか、カッコイイ平仮名とは何か、それがアウトライン化された時に実現出来るものとは!実際のところ、アウトラインという単純な作業には表現の限界がありますし、なんかこう、軸みたいなのが抜けた、フニャフニャなものになるのは、イラレを触ってきた方にはスゴークわかる事だと思います。イラレのベジェ曲線の便利な麻薬的な部分であり欠点でもあるんですね。そもそも真円で構成されるベジェ曲線は、所詮はランダムで形成される人間の手から生まれる美しい曲線に可能べくもなく、それは、どんなに研磨をしても得られないものなのです。ホントにこれはイラレを使ってきた人にはわかるかと思います。いわゆるイラレ臭さ、歪みの無い線やからこそ得られる圧倒的な正しさ。最初の頃はそれが持て囃された訳ですが、なんかやっぱり味気というかなんというか、アナログ的なノイズの現実をリアルな部分として設計する側が肌で感じて体得しておかないと、なーんか、嘘が出来てしまうんですね。書体においてアウトライン化する際には技術者の方が一番気を使われている部分であると察します。つまり、このリアリティをどこにするか何にするかが、今回のポイントになった訳です。それが最初に書いた、線で在り、肉である訳です。しかもそれを言葉では説明の出来ない自分の感覚としてどこまで体得出来るかが、多分今回、作業に費やした大半だと思います。デッサンや意見を聞くという作業に比率で言うところの全体の8割はかけました。そしてエッセンスの分割です。体得したリアリティと抽出したエッセンス (まるで料理…)をいかに、書体や技術というものに振り分けるかです。で、線と肉に分かれた訳です。まず、線だけで設計し、アウトラインで肉を付けました。もっと言えば、現在の設計を元にして、肉を変化させた別の書体が出来上がるといった具合です。設計をもっと研磨すれば、その後の「みずくさ」にも変化が現れます。肉そのものの考え方が変われば、それもまた「みずくさ」に落とし込まれていく訳です。線と肉。直線と曲線の結合。つづく。
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415
2010/12/19
http://www.fengfeeldesign.org/
ボクの勝手な想像なんだけど平仮名は物静かなんだよね。あんまし存在感があってもダメだと思う。主張するような形状のものは実際に無いし、どちらかというと消えていくような儚ささえ感じる。前回の時に、識別出来るギリギリを目指したのも、そこが理由なんだよね。次の瞬間に煙に巻くというのかな、水に溶けて無くなるくらいの、見逃したら最後くらいな勢いじゃないと、それが平仮名になるのは難しいのかなと思ってて、喋る事が恥ずかしさに溢れててほしいし、それでいて時間が経過している要素も今回は加えたんだよね。ボクは昔から大人の女の人が書く綺麗な平仮名が凄く好きで、可愛い文字よりも、誰にも知られていないけれど、凄く綺麗な雰囲気にやられる事が多い。可愛いさもたしかに時には愛嬌だけど、乱立されるとムカっとする時があると思う。もちろんそれは、漢字の補助的な役割を持つ事が一つの方向であったにせよ、だからといって、主張はダメなんだよね平仮名って。静かで、今にも消えそうな細そさみたいな崩れた感じが、やっぱり理想なんだよね。その理想を遂げたのが小野道風の書でもあるんだけど、そんな書とは裏腹に文献を紐解けば紐解くほどに、相当いやなやつだったりと、色々と残念なところではあるんだけどwちなみに小野道風の漢字は草書に独自のアレンジを加えたものになってて、それを上手く自身の平仮名とマッチさせているのはさすがだなあという感じです。よくよく考えれば、この「みずくさ」は明朝体に合う訳ではないので(使い方次第です)、そもそもが本文に使うのが難しいんですが、実際のところ、その本文の性質によっては可能だし、どのように潜り込ませるかで、その本質が見えてくるように思います。だから、今回の「みずくさ」について言えば、タイポグラフィという書体の一面を持たせつつも、グラフィックデザインという。平面における、文字の表現というベクトルも持ち合わしていると言えるのではないでしょうか。「書」と「書体」は次元の違うものであり、とくに平仮名の場合は、道筋がスッパリ分かれてしまったんですね。今回は、その分かれてしまった道筋の、お互いに持ち合わせている要素の交わる可能性の1つを示したにすぎない訳です。そうした、というよりも探っていく内に作りたいものが、具体的になっていけばいくほどにそうなった、としか言いようがないのだけど、これを作った心境としては、もしくは、MAC以降のデザイナーとしては、なんで今までこれをやってこなかったのか、という疑問が、やっぱ出ちゃうんだよねえ。もちろん平仮名書体という名目で崩れた文字というのは出てるけれど、それでもやっぱり、がちゃがちゃしていて騒がしいってのが本音かなあ。何故なら技術的にいろんなものを取り入れすぎているというか、売ろうという使ってもらおうという意識が見え見えすぎてガックリきちゃうんだよね。こういうのってさ、もしくは、書体であるんならさ、それを新しくするというのはやっぱり無理だと思うんだよね。どこかでやはり歴史とかそれまでの流れみたいなものがあって、生まれるものだからさ、ただ、それをデジタルフォントとして上乗せって訳にはいかないと思うんですよ。なんか話が逸れてってるような気がしますが、じゃあ「みずくさ」はなんなのって話でさ。このみずくさに関していえば、今だから生まれた書体な気がしています。実際に売っちゃってますけど、売るとか使ってもらうとか、あんまし意識せずに、作られるものって、今まであんまし無かったと思うんだよね。しかも、コンピュータでこういう事が気軽に出来るようにもなってきてて、そういう背景ってあるような気がしていて。なんだろうな、なんというか、文字を表現もしくは表示する技術っていろいろあると思うんですよね。石とか木とか紙とかモニターとか生地とかの素材にインクとか箔とか電気とか版とか、なにかしら表示しちゃう訳でしょ?そのたんびに文字の感じとか変わってってる訳ですよ。目的とかも含めてね。その上で、ボクが作った「平仮名書体みずくさ」ってのは、平仮名の1つの在り方を示したんだと思うんですよ。なによりも、オイラの場合なんて、あんましオフィシャルな場所でデザインしてこなかった人だから、どちらかというと、ウマイ人の真似しまくって、それで結果出してきた人だから凄く感じるんです。書体とかにも金かけずに、パクリまくってきたからね。中には書体の名前すら知らないものとか、ああ、あれねウーロン茶のポスターのやつねみたいなwMAC以降のデザイナーってそういう中でデザインしてきたから、どこか諦めてるところがあって、だから物質的な回帰の部分で印刷が持て囃されてるのも分かるんだけどさ。それでもやっぱり、思うんだよね。そんなの意味ねーって。話が最初と凄く変わってしまったけれど、それを受け止める側が間に合ってないってのは感じないのかなあ。表現の面で射抜かれるくらいの痺れる感じってやつ?それらと媒体がマッチした時にビビっとくる訳ですよ。もう、ずっと疑問なんだけど、なんで誰も作ってないんだろう。平仮名書体で検索したら、既に俺が上位に出てくるとか終わってねーっすか??昔もっと居たよね。なんかわからないけど、変にいっぱい作ってた時があったと思うんだけど、やっぱあれですか、モリサワとかになっちゃうんですか!?単にやっぱネームバリューですか?たしかにモリサワの書体は完成されてるけれど、すぐに真似出来るべ。そういうのを華麗に操るからデザイナーですか、ああそうですか。だから面白くないんだよな、日本のデザインって。そういうの全然クラフトマンシップに溢れてないと思うんだよなあ。下手でもいいから作ろうぜ書体!!!!
話が変わってしまったから次回へつづく…w
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415
2010/12/12
平仮名の美しさは、文字1つ1つというのは、それほど追求するものではない。何故なら、その1文字では何も伝わらないから。もちろん1文字でも言葉になる文字はあるけれど、その意味の用い方として、それを伝える行為というのは、個人同士の手紙のやり取りだったり、個人の日記のように狭い範囲で通じる方法であり、それがメインの軸として成り立つ事はほとんどない。成り立つという意味では、漢字の方が強いし、1文字毎の落とし込みは英字の方に分がある。平仮名は決められない文字なのだ。文字でありながら、文字と言う形骸を持ち合わせない、なんとも不思議な文字である。文字であるという意識は、人の頭の中にあるのに、それを物質化した途端に圧倒的に意味を成さない。文字という能力でいうと、他の国の言葉とは少し違う軸にあるようなのですね。それが何かと言われると言葉に詰まるのですが。現在の平仮名は、そういう形骸出来ない要素をふんだんに無くした上で成り立っている。形にしないと、それが判読出来る術としては弱いものでもあるし、「書籍」というものを構築する上で、なんとも不便の部分が大きいというのが、今日の書体の形になっている理由だと思う。たとえば、例の画像のように、食べ物が少しおいしくなったら、それはそれで平仮名なんじゃないかなという答えを、今回の「みずくさ」では「形」にしたかったんですね。それが書体として運用出来たら絶対に面白いと感じたんです。「まめ」が「豆」という意味を持つ文字で表現ではなく、響きや形の音として伝わって欲しかったんです。それこそがボク達日本人が持ちえている不思議な能力だし、もう一度それを思い出して欲しかった。まさしくこれこそがボク達が出来るグラフィックデザインの素みたいなもののようにも感じました。言葉の意味を紙面に置くのではなく、それを見た人の心に内在しているイメージを呼び起こす文字。それが平仮名なんです。だからこそ、平安時代にラブレターや日記に広く用いられたのだと思います。だから、平仮名のデザインというのは、記憶なんです。だから1つ1つの文字をデザインする時に「あ」が「あ」過ぎないよう気を使いました。「あ」はどこまでが「あ」で、どこからが「あ」なのか。「あ」と認識出来る限界はどこか。文字として認識出来るギリギリを追求したのが今回の「みずくさ」であるともいえます。「みたらしだんご」が凄くおいしそうに見えるのは(ボクは凄く見えます!)、その文字がおいしそうなのではなく、「みたらしだんご」のおいしい記憶が単に、平仮名に呼応しただけなのですね。当時の和歌(ラブレター)でもそうです。伝えるのではなく連想させるものが多いのは、その特性をよく理解した手法だと言えます。「うどん」が「うどん」として意味を成しているのは、音の連想なんです。そこにある文字そのものが意味を成している訳ではない。それが平仮名です。残念なのは、当時ほどに連想が容易ではなくなった点です。確実に漢字を利用した言葉が増えたのです。そのせいで、平仮名は文字としては音として補助する役目に成り下がってしまいました。でも、こんなにも不思議で面白い平仮名の魅力を「みずくさ」で味わっていただけたら嬉しいです。そして、平仮名が日本のタイポグラフィ、というよりも、絵(音)のようにグラフィックデザインの表現方法の1つとして用いられたら絶対に面白いんだけどな。お、太い声だな、かわいい感じだな。みたいなw ちなみに、今回の「みずくさ」について言えば、40歳くらいの落ち着いた女の人イメージですw つづく
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415
2010/12/09
時代背景は、平安時代。今回は書体開発。という大風呂敷の中で、その視点をどこに持っていくかを考えました。英字的な変化を与えての書体開発という事にはやはり今回もなる訳もなく、その関係は、先の花形装飾活字「水草」を日本におけるグラフィックデザイン再起という視点と、まったく似たものであると感じたのです。目的そのものが書体に対するレスポンスなのだとすれば、果たして、その美的要素というのは、平仮名という生い立ちに沿ったものかというのは大きな疑問であり、それは平仮名そのものの役割や可能性を辞めてまで行なうかどうかという点で、考えなければいけない課題だと思いました。単に、現在の書体に対して否定の考を下すのではなく、それはそれ、これはこれといったように、そこはグラフィックデザイン的に、やはり一度見極めなくてはならないと思います。また、技術的な側面から言っても、活版という背景を持ちつつも、そこはやはり何がテクノロジーかという事に重きを置き、その利用の可能性と、「平仮名」というポテンシャルを引き出す上で、それが「書体」であるという落とし込みにしなくては、今回の開発の肝は無くしてしまうのだろうなという予感は既にあったのだと思います。「書」ではなく「書体」にしなければならない訳で、「書」そのものを行なうのであれば、それがデータである必要もなく、単なるサンプリングで終わる作業であり、「書体」という枠を無視した行為なのだと感じました。データである価値と、それが何を経てそうなったのかという説明出来るだけの構築の両立は、今回の開発には必須だったのです。作りたかったのは素材ではない、「書体」として使えるものです。それがアウトライン化されたデータとして新しいテクノロジーの元、単なるリバイバルなどではなく、1つの可能性として、感覚として伝えれる事が出来ればと考えました。そして、本来の「平仮名」の魅力を引き出すべく、「書体」開発が始まったんです。これが最初です。で、平安時代となった訳です。平仮名の設計そのものは、平安時代には積極的に行なわれていました。平仮名そのものが乱立的に作られたのと同時に、平仮名を使用した「言葉」も生まれたのが特徴です。有名なのは「色言葉」で、それが色欲や色恋といった、文字に隠された妖艶な優美、もしくは雅なんて言葉で覆い隠す場合もありますが、結局は口説き文句であり、声に出さない音としての確立が、既にこの時代に成されていたのは、平仮名という存在を無視しては語れないのだと思います。美しくない平仮名を書く人は、きっとモテなかったでしょうし、それはどこか目で観るラップのようなものを感じます。口で言うより目で見るように仕向けた方が、その人に気持ちが伝わるというのは、単なる、想いを伝えるのではなく、その想いそのものを音と言う視覚に記録する感覚は、後の日本的な美に繋がってように感じます。意味を重視しない言葉が「平仮名」であり、それを並べた時の美しさが価値だったんですね。単純に「好き」という文字が、「好き」という意味を持っていたのではなく、もっと表層的に「好き」という文字の並びが綺麗だったのだと思います。もちろん意味としてはあったのだろうけど、平仮名を作るというリミックス文化の世界においては、それはより、視覚的な美しさに重きを置き、開発されていったのだよなと想像した訳です。しかし、意味が確定された現代において、そのポテンシャルを最大限に引き出すのは同時に不可能であり、意味を成さないものです。同時に、言葉としての意味合いも、「平仮名」のデザインも確定的に決められた時代にあり、その動作そのものが、より限定的なっているという事実は踏み越えてはいけないと考えました。踏み越える動作そのものは「書体」という考え方を否定する事になりますし、そこは何としても変えてはなりません。「書」の世界では、前衛という考えで、より日本的に変換させた「漢字」の「書」を書く流行していると聞きますが、やはり、その部分で振り切れてしまっては、この「平仮名書体みずくさ」を考える意義みたいなものから逃げてしまうように思いました。新しい平仮名書体を考えるというよりも、平仮名書体の新しい考え方を構築する方向に意識を巡らせたのが今回の開発に大きな影響を与えるのですが、それはまたつづきます。
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415
2010/12/09
まず、この平仮名の事を書く前に、表態文字の可能性について先にまとめあげていた、紙ラボの野口さんに今一度、感謝とリスペクトを捧げます。そもそもの平仮名開発の発端というのは、花形装飾活字「水草」において、日本語書体でデザインしやすいように仕組んだはずなのに、その日本語書体に違和感を感じたところにあります。じゃあ、作っちゃおうと思ったんですね。無いなら作るしかない。だいたいからしての水草という根本が違うところにあるのだから、本来の書体と合わしても若干のズレが出てしまう事は致し方ないことなのだと考える事になりました。でも、実際に漢字なんて開発するには人手が足りない上に、これは日本の文字ではなく、中国の文字として割り切る事で、平仮名、片仮名オンリーの搾った開発へと踏み込んだ訳です。これから書いていく事になりますが、漢字は根本が違いますから、それはもう、なんというか仕方のない事なのだよなと理解に至った訳です。以前から、有名な書体をサンプリングして使う(買うお金が無いので)という作業は実際の仕事でもおこなっており(ダメですよ!)漢字に関していえば、さほど気を使うものではないというのは判明しておりました。むしろ平仮名ほど自由で奔放な文字はなく、漢字ほどルールと意味に縛られた文字はないよなと思ったのであります。この平仮名書体「みずくさ」の開発において、まず考えたのは「自由」です。ボクは既存の平仮名書体にはその「自由」が無いと考えています。自由を手放し、ルールを取ったと言ってもいいかもしれません。もしくは漢字にあわせるために平仮名の方が寄り添ったのですね。これは明らかで、現代仮名を見れば一目瞭然です。平仮名そのものが漢字に近くなっています。昔の文字と是非見比べてみてください。せっかく漢字を崩した平仮名をもう一度漢字に近づけている。こんなのどう考えたって無理が祟るのは当然なのです。では、平仮名とは一体なんなのか。平仮名は漢字のリミックスから生まれました。中国から輸入された漢字を全力で取り入れた日本は、後に平仮名を産みます。漢字以前の日本の言葉を探ると面白い事が分かります。「話す言葉」と「書く文字」がバラバラだったとあるのです。これは諸説いろいろあるんですが、とくに面白いのは漢字以前に韓国などで使われるハングル文字で、「話す言葉」を当てはめていた時代があったんだそうです。だから微妙に言葉がダブってたりするのかなあとか想像したりして、その上で「絵文字」(ペトログラフだっけか、ちゃんと調べてくださいw)を「書く文字」として扱っていたともあります。これは予想なのですが、恐らく、この感覚が今日の漢字と平仮名という日本語の形に繋がっているんじゃないかなと考えています。つまり、日本人は文字には「意味」と、より感覚的な「音」の要素の2つを常に求めていたという事になります。漢字を崩して平仮名という音に当てはめる作業は、これも予想ですよ、現在ではかなり確定された漢字による崩しが伝えられていますが、むしろ、当時はもっと平仮名があったんじゃないでしょうか(わかってる人にはわかってるんだろうけど…)。その中において、藤原行成が書「和漢朗詠集」という形が完成されたという考え方に落とし込めば、むしろ自然なように感じます。何が言いたいかというと、そもそも音があって文字があった訳です。なのだとすれば、「ふわふわ」「さらさら」は何故に「ふわふわ」と書く事が出来、「さらさら」と書く事が出来るのか。もちろんどちらが先天的なものかと問われればわからないのですが、「さらさら」が「さらさら」と書けるのは、それをウマクいかに表現しようかという平仮名創設の当時に既にあったのだと言ってしまっていいように思うのです。むしろ、「ふわふわ」は今でこそ、音で「ふわふわ」と表現されているし、僕たちは文字として「ふわふわ」という読み方が出来るんですけど、そこはだって、先に音があった訳だし。平仮名は音なんです。完成された音の文字なんです。それを無くしてしまった現代の書体に否定の言葉浴びせたいんだけど、それはひとまず置いといて、例えば、カセットテープの磁気みたいなもの。たまたま「阿」が「あ」なだけで、むしろ、それに意味が無いと言い切ってしまいます。平仮名においては、文字の能力として、どんなに言葉として繋がったとしても、それを意味として捉えてしまっては、その根本に辿り着く事は不可能なんですね。そこで漢字の存在なんです。それまで、「話す言葉」と「書く文字」がバラバラだったものを、片方にという訳でもなく、統一という訳でもなく、リミックスの方向に動いた。なんかもう!!この時点で大興奮なんですけど!わかりますか!?視覚的に整えられた音なんですよ平仮名って!読んじゃいけないんです。視な(聴かなきゃ) きゃダメなんですよ!つづく。
平仮名書体「みずくさ」をリリースいたしました。
2000円で販売中です。どうぞよろしくお願いします。
詳しくは下記アドレスまで!
http://blog.fengfeeldesign.org/?eid=1152415