サカグチテツキヨ

グラフィックデザイナー

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大阪府

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サカグチテツキヨ

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  • 花形装飾活字を愛でる その174

    エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
    詳しくはhttp://printersflowers.fengfeeldesign.org/をご覧ください。

    ツイッター http://twitter.com/fengfeeldesign

    日本語との愛称についてです。装飾の密度としては「新・花形装飾活字水草」に通じるところがあるので、日本語にも充分に耐えれる仕様になっています。ルールについても、やっぱり「水草」の組み方が日本語に合う組み方といういう事で、水草のように組めるようになっています。ただ水草のように連結するというイメージよりも。流れに任せて流れていくような、いわゆる「流動的」パターンに偏った設計になっています。なおかつ重力の方向が一定の方向なので、今回は全てを下の方向にしてますが、その特性を使い向きを変える事で紙面におけるバランスをコントロール出来ます。装飾のパターンでもある「葉」と「花」の向きにも気を使う事で内側と外側の概念も簡単に作り出す事が出来、また、その逆にそれらを意識的に変化付けていく事で、また違った味わいにする事も可能です。日本語はイメージの強い文字なので、どうしても控えめに配置しがちですが、イメージの深度として階層の文字とは違うところにしてあるので、大胆に並べてみても面白いかと思います。また、「水草」ほどは紙面の支配するようなタイプのものではないので、まず文字の配置を決めてから、後から構成を考えての補助機能としても充分に使えます。組みにしても、版単体でも充分にアクセントになる事から、紙面伝体を組むという意識は上記でも書いたとおり、少し無くして、無意識に並べたものを、気分に乗ったとおりに配置するというやり方が日本語での使用の場合には正しいように思います。もちろん、紙面全体の構成を考えつつも可能な訳ですが。

  • 花形装飾活字を愛でる その173

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    では「fuji」はという話。作業そのものは今までと同様にグラフィックデザインだったと言えるし、それが花形装飾活字と分類されるものの範囲であったとも言える訳です。結果、文字になんらかの現象をもたらす事が出来たんですが、個人的な解釈としては、それが単に花形装飾活字と分類されているというだけで、文字そのものや装飾そのものの単体がもたらす現象ではないと見ています。例えばそれは写真でも可能だと思うし、何かの組み合わせにおける、一種の麻薬のような快感に近いような気がしています。その中で文字というイメージの塊のような産物にこそ、花形装飾活字が合うという事になります。日本語の書体が、よりスタイリッシュで味気の無い軽めの書体になってきているのは、それをとりまく環境や技術、イメージが本来の文字が持つ強さを補えなくなってしまっているところにあるからで、それが単に嗜好や方向性によるものだという判断は少し早いような気がします。この花形装飾活字だって、そうした文字の変化に呼応して新しい形になるべきだったし、そうなる必然にあったのだけど、何故か装飾の部分の快感のみがクローズアップされて、イメージの淘汰が起き、結果、捨てられたっていう…。なんでこんなに僕がこの花形装飾活字を押してこうやって活動しているのかは、ずっと書いてるけど、それがグラフィックデザインだったからで、まだまだ可能性というか、方法論として、キチンと考えられてきてないなという感覚と、いやいやまだまだ過去の遺物にするにはまだ早いでしょ、っていうくらい現代のグラフィックデザインの荒みかたが半端なかったんですよね。とくに僕なんかはコンピュータ世代から入った訳だし、その中においてこうやって、花形装飾活字に出会えたことは別に変わった事でもなく、必然なように思います。それは懐古や回帰的な考え方じゃなくって、文字を単純にかっこよく見せる手段として追い求めた結果の選択肢の1つとして充分に使われるべき対象だったんですよね。で、ここからが今日書きたかった事なんですけど、これはあくまでグラフィックデザインという世界での研磨でしかないんだけど、実は文字という考え方は、グラフィックデザインではないような気がしていて、境界線を引いた時に、どうしても文字を入れて考えると少しズレテくる感じがあって、これは一体なんなのかと考えた時に、文字をグラフィックデザインを使って考えるという視点で見ると、ピタっと合う感じがしたんです。つまり、今まで文字をかっこよく見せようとしていた行動というのは、文字もグラフィックデザインの境界線の中の出来事ではなく、それをグラフィックデザインという技法で内包する作業だった訳です。この考えが出た時に、もし、絵という1枚の平面に表示される要素の中で、それがグラフィックデザインかという答えに大きな疑問を残すものとなりました。重要な事は、文字は文字、写真は写真、絵は絵であるという認識であって、それらがグラフィックデザインであるというのは違うのではないかというものです。で、で、そこで花形装飾活字の登場です。この花形装飾活字というのは、これそのものがグラフィックデザインであるとホントずっと書いてきましたが、この感覚というのは、文字は文字、写真は写真、絵は絵という要素にグラフィックデザインを内包させる行動そのものに圧倒的に近いんですね。むしろそれを具現化し、唯一、こんなにも文字という対象に近づく事の出来た現象だったんですよ!つまり、これは写真や絵には真似が出来ないというものです。それはもちろん花形装飾活字がその領域を出ない発想であるのと同義ではあるんですが…。絵や写真をグラフィックデザインとするなら、装飾やイメージの部分の快感のみに浸るのではなく、グラフィックデザイナーなんて名乗るんなら、そこらへん一度整理して考えてみるべきな気がします。もしね、文字という対象が常にそこにあるならね。花形装飾活字をそういう感じで一食沙汰に見ないでねという話でした。

    次回から「fuji」の解説に戻ります。

  • 花形装飾活字を愛でる その172

    エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
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    なんか話が変わってきたので「fuji」の事はひとまず置いといて、気になるのは、グラフィックデザインがなんでこんなにカッコイイのかという事なんだよね。それは花形装飾活字がカッコイイと同義なような気がしていて、某有名な人はデザインは未知化する事とか言ってるけど、とくに視覚に起因するグラフィックデザインなんかは、むしろ「知」の部分が大半を占めてるんじゃないかな。視るという感覚は他の感覚よりも優れていると思っているし(情報の収集という意味で)、それが記憶として残る大部分を担っているとも思っているんだよね。その中において未知的な感覚というものが果たして存在するのかという事だよね。視た事が無いものを視た時の感動は一入に募るものだが、それもやはり視たという記憶の感覚の再構築にこそ、その感動がある訳で、脳が感じる「未知」という感性が織り成す奇跡とやらも、なんとも疑わしいものだと考えているんだよね。重要な事は、それを知らない事や知っている事などではなくって、それを視たという現実であり、リアリティにこそあって、それを感じている人間自身は実は脳という記憶装置に従って感動しているにすぎないというのがボクの考えな訳です。あくまで装置の機能であり、視るという動作になんら関係のないものだと思ってます。それは「想像してから視る」いう事と「視てから想像する」くらいの違いはあるのかなと。グラフィックデザインはどちらかというと後者ですよね。そして花形装飾活字も明らかに後者という事になる。カッコイイと感じているのは脳や魂が原因とする人間の根本ではなくって、視たという感覚そのものであり、それをただ感情という装置が反応しているにすぎないという視点。要するに花形装飾活字と活字(文字)の関係ってそこにあるような気がしていて、花形装飾活字という彩りというのは想像する活字の世界のなんら1つの要因にもならないものという定義で間違いないように思うんだよね。現在ではイメージが文字に相乗効果を与えるようなものがグラフィックデザインとして用いられているけれど、そもそもグラフィックデザインがコミュニケーションの一因なのであれば、イメージが先行するようなものは果たして正解かどうかは大きな疑問の余地があるように感じます。もしね、それがグラフィックデザインならねという話。それがグラフィックデザインという領域で作業するなら、イメージの先行とグラフィックデザインは同じにするのはあまりのも危険ではないのかな。そこにコミュニケーションが生まれるかどうかは実際の人間社会における、ある種の勘違いの連続のようなものに似ているような。で、多分それが底辺にあって、あの某有名な人は「未知化」と言うてるのではないのかな。ただ知らないものにするだけでは少し浅はかなもののような気がするし、花形装飾活字も実は「未知化」が可能で、ただそれが、デザイン、もしくは、グラフィックデザインに繋げるには少し暴力的な気がしていて、違う某有名な人は「視た事が無いものを視たいだけ」とも言ってる。感覚的にはそれが一番近いと思うよね。花形装飾活字と活字の関係って、活字というものを花形装飾活字を使う事で視た事が無いものにするという感覚。ただそれをまた「未知化」ともいうが、それがグラフィックデザインという動作かどうかは、踏み込みすぎかなという感じ。

  • 花形装飾活字を愛でる その171

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    ただ、あくまで設計という概念の話であって、実際の利用において結局は花形装飾活字の域を出ないというのが実際の話。それはもちろんそれが花形装飾活字であるが故であり、それとは違うものを作るというのは、その領域において、やっぱなんか違うんだろうなあというのが本音の話。これはいつも書いてるけれど、単に装飾ならそれを描いた方が絶対にいいし、花形装飾活字風とか的なら、最初からそのスタンスでやるものね。とりあえず大きい声で言うとくと、ここにあるのは全て花形装飾活字で間違いはないと思うし、それに恥じないクオリティまでに高めていると思う。これはグラフィックデザインの領域が、その外に出ないのと一緒で、その利用においてのレスポンスこそが、後のクリエイティビティに影響を与えているのだと考えられるし。つまり、これそのものの要素が魅力的なのではなく、それを取り巻く環境において、今、花形装飾活字を改めて提示する事にこそ魅力が存在しているという感じ。ありとあらゆるイメージがテクノロジーの進化によって自由に操作出来る現在において、これからももっともっとテクノロジーの進化によって、その自由度の幅は広がっていくものだと考えられるが、果たして中身はどうかというと怪しいものである。なんというか、重要な部分がスッカラカンではないかという恐怖観念さえ沸いてくるほどだ。その中において「fuji」の開発の在り方は光を与える方法論だったように思う。結局、私達は何を見て何を感じて生きているという根本を掘り起こす作業にこそグラフィックデザインはあるのだから、新しさや快感、エッセンスの部分よりも、普段の自分達が何をみて心地よく思っているかをグラフィック化する意義に関して「fuji」は問う事が出来たように思うんだよね。なんだかんだいって、これからも「文字」そのものの利用は終わらないだろうし、もし「文字」を使っていくのだったら、花形装飾活字という1つの答えを使う事は間違いじゃない。最近はとくに日本語の「文字」そのものの装飾性は削ぎ落とされて、判読性における機能がクローズアップされるようになってきた。悪くいえば味の無い無機質でなものが増えてきているように思う。現代において、それがカッコイイと認識されているし、グラフィックデザイン、もしくは紙面のデザインが欧米よりの現在は、少なからず日本語に対してコンプレックスはあったろうし、それは極々当然の流れのように感じる。そこで1つの疑問があって、読むスピードや判読性の心地よさは、「文字」という心地よさに依存したものなのかどうかという点である。いわゆる日本の美に通じる情緒的な読みにくさというのは、果たして心地さではないという判断で正解なのか。ていうか、日本の美というのは、そこにあったのか?なんであえて、それを消して美を求めるのか。それが日本語なのに?

  • 花形装飾活字を愛でる その170

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    結局、今までここでやってきた花形装飾活字の設計というのは、「自由」を得る事でした。imagestに始まり、水草、fujiにいたるまで、エンスヘデで感じた理不尽な縛りから開放を目指しきたように思います。imagestでテクノロジーと「組む」という純粋な喜びを追求したのち、水草で一旦、最高潮までに達した自由を、fujiで心地よい縛りを与える事で、花形装飾活字とは何か、その本質を見極める事が出来ればという思いの中で制作しました。素晴らしいエンスヘデの花形装飾活字にも実は心地の悪い縛りみたいなものがあって、その反面、それが美しさを与えていたり、圧倒的な荘厳さを見せ付けていた訳ですが、それはまるで箱入り娘のような、圧倒的な気品の中で構築されたものでした。なんとも体裁のよい整えられた、なんというか育ちがいい花形装飾活字で、そこが多分、圧倒的な設計の妙とともに凄さを醸し出している要素の一つであるというのは同時に気付けていたのだと思います。だからこれはスゲー!と感じたし、他を圧倒していたんですね。いわゆる名門!という感じでした。imagestで目指したのは、エンスヘデでという圧倒的な存在の何を残して何を捨てるかの軸を定める事です。そもそもみわくんのオリジナルブランドのアクセサリーのイメージ構築の一環として設計したのが、きっかけだったんですが、何を残して、何を捨てたかという点において、捨てたのはルールで、そして残したのは美しさと荘厳さでした。装飾としてのルールも含めて全てを捨てて機能を自由にし、その曲線を配置する事で、いかにその美しさを得る事が出来るか、という一点に的を絞り設計したのが、このimagestでした。結果としては、成功というよりは、何を成功とするかという事に関して書けば、結果、圧倒的な自由を得れたという事になるかと思います。つまり、この文章で書いている自由と束縛の表現はimagestを設計する上で得れた実験結果であると言えます。そうなんです。エンスヘデのやつは実は自由では無かったんですね。自由どころか、ルールだらけのなんとも扱いにくいやつだったんです。が、ですよ、ここが重要なんですけど、それこそが花形装飾活字という素晴らしき装飾の自由だったんですね。実はimagestと水草の間には、いくつかの試作品が存在してまして、急に水草に逝ったという事ではなく、段階を踏んで水草でした。では、水草はなんだったのか…については散々とこの愛でるで書いてきましたが、この視点に限ると、圧倒的な自由をいかに得るかという事と、その反面の美しさをどう得るかという事の頂点の回答が、水草だったと言えます。だからエンスヘデと水草は対称的でもあり、同等なんですね。同じレベルに並べるのは、少し傲慢なのかもですが、僕個人の意見としては、そこまで言ってしまっても良いところまで引き上げたと自負させていただきます。そして「fuji」。エンスヘデと水草という距離の間に生まれた異種。自由とルールという相反する機能を持ち合わせた花形装飾活字。水草をエンスヘデに寄せたとも表現していますし。エンスヘデが水草に影響がもしあったらという想定での設計でもありました。

  • 花形装飾活字を愛でる その169

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    基本所作ですね。情報の分断、もしくは連なる直線状の枠です。もし、エンスヘデの比較するなら、この「fuji」にはエンスヘデのもののような平均的な能力を与えるのではなく、個々に枠としての役割を与えています。そして何がこれが日本的という点においては、「面」ではなく「線」になっています。枠をオブジェクトの肉全体で構成するのではなく、むしろ「fuji」が線で構成されるオブジェクトである為(何故ならサンプリングが日本からのローカライズだから)に、オブジェクトの役割そのものが同時に、枠を構成する役割になるという感じです。エンスヘデのものが装飾に釘を挿しオブジェクトに内在させる形で線を構築していましたが、この「fuji」は装飾の部分そのものが役割であり「枠」なんです。だから、凄く日本的というか、凄く日本人の私達には直感的で使いやすい仕様なんじゃないかなと。いろいろ試してみると面白いかと思います。直線的にも出来ますし、緩くカーブを描く事も、曲げる際にもその緩急にも気を配ることが出来ます。今回はそんなに使っていませんが、装飾色の強いものを使う事で彩りが調節出来て、紙面にメリハリをつける事も可能です。

  • 花形装飾活字を愛でる その168

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    基本的な組み方についてです。この花形装飾活字「fuji」には簡単に組む為の3つの仕掛けを用意しています。1つは「重力」、もう1つは「連綿」、この2つについては先だってお伝えしました。もう1つ、この「fuji」を使用する上で重要な仕掛けがあります。それは「引っ掛ける」です。これら3つの要素をも組み合わせて使用する事で「fuji」の魅力を最大限に引き出す事が出来ます。何よりも簡単であるという事、誰にでも使える単純さに加えて、それが美しさに繋がるアプローチである事が、この3つを用意した理由でもあります。前の2つ「重力」と「連綿」という考えは従来の花形装飾活字に有り得る要素でした。最後の「引っ掛ける」がテクノロジーの壁を越えた新しい可能性になります。「fuji」の版をよく観察すると、ハンガーのフックのような引っ掛ける箇所を持った版があるのに気付くのではないでしょうか。それが引っ掛ける要素の基本形です。また、形全体が引っ掛ける事の出来る円形に仕立てられている版もあります。それらは、繋げる、もしくは方向転換の要であり、繋がる連綿、重力の方向の誘導弁になっています。かならずしも、「引っ掛ける」必要はありませんが、組んだ時の一体感は圧倒的に強まりますので、積極的な使用をオススメします。ただし、極度な使用は単に生い茂っている雰囲気しか「絵」としては与えないので、情報とのバランス、紙面のサイズ等を見極めながら使用が正しいように思います。1つ、注意点として、重力としての要素が強い版でもあるので、とくに引っ掛けた場合に方向の転換が著しく、少しコツのようなものが必要なので、ある程度、どんな感じになるか何度か、いろんなパターンを試してみた方がいいです。ただ、簡単なので、適当にやってもいけるので、いろいろ遊んでみてください。いやほんとカッコイイ!こんなに簡単に、こんなにカッコイイ、グラフィックが手に入るっていう。お買い上げお待ちしてますw

  • 花形装飾活字を愛でる その167

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    クオリティについてです。とりあえずドドーンと拡大画像。なんでこれがエンスヘデに寄ったという表現をしているのかの1つの答えです。もちろん表現としてのコンセプトとしてのデザインは重要ですが、そうではない、もっと物質に添った考えをするなら、今回の「fuji」は水草よりもエンスヘデにしたと言えます。まず、彫るという作業をアウトライン上で行なった事と、曲線の在り方として、ググッとエンスヘデのものに近い仕様になってます。彫りのぐら付きやガタツキを「再現」ではなく、本当にそうなったという程度の感覚としての彫りを目指しました。水草との比較としては、それが1つで成り立つように版そのものを曲線として完結させています。意識したのは真円で、設計の段階で四角の版ではなく真円を描き、それを版として設計をしました。なんというか、活版としての機能面は置き去りにしつつ、やはり技術という側面においては現代にコマを進めるべきだし、活版という制限から生まれた産物であるにしろ、それは制限する人の意志に委ねられるまでの自由を得た今としては、そこにこだわる理由は無いと判断したからです。要するに暴力的に書けば、活版なんて時代遅れの技術にこだわるつもりもないし、だからといって、過去の技術を捨て去る勇気も無いという具合です。何を拾って、何を捨てるか、そして何が新しい要素かをキチンと、どれだけ見極めて意識して設計するかで、この花形装飾活字は深度を変化させる訳ですが、「fuji」に関していえば、結構、大胆に切り捨てを行なったと言えますし、何が必要かという意味では、かなりピンポイントで選び取れたように思います。結局のところ装飾でしかないし、元を正せばホントそれだけの事なんだけど、ただ1つ言えるのは、これはクリエイティブではないという事でしょうか。どちらかというと、やはり印刷の一連の作業に似ていると感じます。図案があって文字があって、それに付随する技術で、紙を選びインクを選び、目的に合わせて刷っていく。この花形装飾活字というのは、その印刷という技術の一旦であり、目的を意識しないで技術や研究といった概念のみで構築した際に、「fuji」という存在は、その一方の到達点であるような気がします。つまり、これはクオリティとしての分岐点でもあって、このまま、歴史や技術を継承したものを追及していく事も出来るし、現代のシーンに合わせた利用の実験的制作も可能なんですね。「fuji」の版そのものとしての完成は追及と利用の丁度中間地点にあるように思います。と、版そのもののクオリティについて言及しようとしていたんだけど、遠回りになりつつも、どんなもんでしょう。「fuji」そのもののクオリティの在り方と位置については伝わりましたでしょうか。そりゃもう品質という意味では、まったくからして自信を持って贈らせていただいております。そんなの書いてもしゃあないですしね。版、1つずつの目的、完成度は非常に素晴らしいと自負しています。見た目も美しさも。どっちかというと今回は可愛い感じにも仕上げているんですが、エンスヘデのやつよりかは、重くない感じを目指しましたし、かといって、水草よりかは装飾色の強い設計になっています。ルールも単純だし、見た目こそシンプルですが、まず実際に組んださいの使用のバリエーションに驚かれると思います。とりあえず花形装飾活字というものの要素は、ボクが今まで研究してきた発見や気付きも加えつつ、良い部分の全てを託した、新しい試みではない、継承という意味での、まったく新しい花形装飾活字です。まあ、まずは見てみろよな。是非使ってみてください。

  • 花形装飾活字を愛でる その166

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    重力の方向について。この花形装飾活字『fuji』には重力の方向が定められています。重力の方向を一定にする事で自然なアプローチでセッティングする事が可能です。1つの連なる要素を見つける事が出来れば、後は繋がる方向に配置するだけです。この装飾には「葉」と「花」の2つがあり、それらをバランスよく繋げたり離したりする事でアクセントが付き、より心地の良い配置になります。もし「自然」に配する事を希望するなら、例の画像のように少し斜めを意識すれば「自然」な感じ、いわゆる日本の友禅の雛形に見られるような配置に近くなります。この「fuji」には水草と同じ「外」と「内」のルールがあり、今回の「fuji」の肝でもあるんですが、「外」と「内」を一定の制限で誰もが気軽に使えるように仕組んでいます。それがつまり重力の方向を意識するという事になります。コツは「違和感」が無いように繋げるだけ、それだけです。後は対象に合わせて変化を与えるだけ。簡単です。そもそも、この繫がりの発想の着眼点は平仮名の「連綿」から来ています。なので一度、縦に真っ直ぐ繫がりに気を配りつつ並べてみると確認出来るかと思いますが、まさしく平仮名のあの連綿そのもの(遠いけれど…)です。それが「水草」であり、「fuji」への継承でもありました。結局、日本の装飾や画というのは平仮名的なんですよね。極論なのかもですが、なんというか、動いている「動」の存在を記憶媒体のように移行させるのが日本的な美であるんじゃないかというのが、ボクの考えで、つまり不変的なものを絵として描くのではなく、まるでそれが動画のような動きそのものであるんじゃないかな。というよりも「fuji」そのものが、もしも、西洋人がこの発想に気付いていたらという元で生まれたというのもあるし、組むという発想そのものを日本的な要素を強める事で変化させ、いわゆるエンスヘデのもののような「流れ」や「空間」そのものを圧縮させて不変化させつつ配置する完結型の配置方法ではなく、「重力」という紙面では絶対に完結が起こりえない発想での配置。そして対象の文字が醸し出す情緒の内包。もっと言うと、西洋の花形装飾活字が、文字の情報そのものを限定付けて整理するいわゆる「箱型」であるとしたら、今回の場合というのは「受け止め型」という事になる訳です。「魅せる」「飾る」の整理ではなく、紙面に現れない文章の美しさ、「萌え」や、それこそ「情緒」のようなものの整理を目的とした装飾。それが花形装飾活字「fuji」であり、重力で組むという発想でもあります。

  • 花形装飾活字を愛でる その164

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    とうとう7000文字をクリアするツワモノが現れましたよ。なんとも「私のグラフィックデザイン」という意図に沿った素晴らしい文章です。ボクはグラフィックデザインに関わって、かれこれ14年になるのだけど、根本的には変わっていない事があって、それは考えを定着させない事なんだよね。つまり視覚的なものを支配するグラフィックデザインにおいては絶対的に重要な要素であって、対面する環境によって、まったく違うグラフィックデザインが発生するものなんだよね。今回のこの文章も、その1つの視点から生まれたグラフィックデザインという事になるし、何かを気付かせてくれる一手という意味では充分すぎる内容な気がしました。グラフィックデザインは常に動いている。確固たる技術や伝統様式等は存在しない。それは「何か」という視点を第三者が書く事によって、それを読んだ人間によって、まったく違う何かが発生する。ボクにとってそれがグラフィックデザインだったのですね。そして今回の文章を寄稿していただいた著者もグラフィックデザインだった。それがなんか心地よく読める感じです。グラフィックデザインを前提にしているという事は、それを視点として気付けた人間にとって、どれだけ心地良いものか!是非とも、この栄養を味わっていってください。グラフィックデザインをニヤニヤして読めますwではどぞー。

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