HARU WORKS(柴山晴)

イラスト・日記

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神奈川県

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  • クリエイティブな記事 あるいは ことばの定点観測・「幻」について

     どういうわけか、ブラニフカップまで自作してしまった。実際にはないけども、エスプレッソカップは存在してオークションにもかけられていたらしい。というわけで、今日は「幻」ということばについて。

     このことば、時間軸的に見ても「いま」は存在しないものを指す。「幻の航空会社ブラニフ」というとき、「かつて」存在したものを指す。形になる前に立ち消えになった場合も「幻の法案」などとも新聞は書く。こちらは「未来」にはありえないことを指す。

     国語辞典を見ても見当たらない定義というのは、夢幻のようにメディアにあらわれては消える。「語用論」をやっている醍醐味も薄れる。現代の人類の記憶は、紙や革に記されることもなく、磁気嵐があればはかなくも消える運命にある。

  • 「敵」は己のうちにあり!

     職場には口うるさいが、敵に回さなければ上々の上司がいる。その人は、いつも、なにかいわれるのではないか、だめ出しをされるのではないか、と内心びくびくしている。その裏返しか、私たち部下に攻撃的になる。係長を頭越しにである。係長も受け流している。

     きょう、自宅なのだが外部の人たちに連絡を至急取らなければならなかった。そのとき、ああいわれたらどうしよう、通じなかったらどうしよう、そう考えてしまった。待てよ!それは、上司の口癖じゃないか。私自身、失敗せず仕事がうまくいっているときは、上機嫌で何とも思っていないのに。

     つまり、ボスの言うことを無意識のうちに真似しているから、楽天的になれない。マイナスイメージで接してきたら、プラスにするには自分で心がけるしかない。上司が替わるごとに、振り回されてしまう心理状態なのである。強気に出られないのは、半分は組織風土、もう半分は受け手の私自身である。先日、自分を大切に出来ないと他者を大切に出来ないと書いた。そういうことなのである。能動的、積極的に行動できない、それは半分は自分の責任なのである。そこを意識するとどうなるだろう。また試してみたい。

  • 移動図書館の記憶・メルクマールとしてのベストセラー1996-2001

     あるいはとある移動図書館のレゾンデートル。今でこそ、ネット・マンガ文化百花繚乱だが、その下地である消費者層を固定化したのは皮肉にも、公費でまかなわれているはずの移動図書館だった。その働きは、本館のベストセラー予約でも同じなのだが、トレンドを載せて田舎道を突っ切り、放課後の学校や公園で貸し出しをしていた点を除けば、何ら変わりない。
     だが、マンガが学習支援にシフトしていることに、あの狭い図書館とという世界では(田舎という事情もあるにもかかわらず)なかなか再認識されないでいた。むしろ、学力日本一の秋田のほうが、関東の下手な田舎(いつもカードを忘れたなどと来る常連の子ども。秋田なら「ほじなし!」と一喝されるぞ。)よりも学びのフォローアップが充実している。
     図らずも、メディア消費の文化の片棒を担がされた移動図書館。いまだに走っているところを見ると違和感を覚える。

  • 長過ぎるつぶやき:「欲」と「我」

     今日、帰りに私の年次休暇を代理で入れまくった同僚を見かけた。私自身、体調を崩していたこともあり、それも揶揄されたこともあり、その姿を見かけただけで「いい人」ではなく「憎らしい人」と認識を新たにした。なぜなら、代理で年次休暇を入れるのは、昇進の評価に響くからである。私だってそれから4年、同期や後輩に抜かれ、冷や飯を食っていることに不満がいっぱいなのである。

     さて、空の一角をにらみたくなるとき、それは「我」の大切さに気づいたときである。私も、このブログでしばしば、聖書の引用を続けている。信者ではない。海外へ出たときは「仏教徒」としている。映画「ボルケーノ」のワンシーンを思い出す。地下鉄で残された人を助け出す消防隊員。溶岩の上に飛び降りる前に、彼が口にした言葉。「私を犠牲にする代わりに裁きと罪から救ってください」。結局、「神」に結び付けらていたとしても、「我」が永遠に救われることを「望んで」いるのである。仏教の「欲」からみると、欲望とは「煩悩」であり、その種類は百八にものぼるとされる。人間は「生きたい」と「たい」を口にするとき、他の命をいただいてまでも「己」を生きながらえることを望む。

     最近では、ミラーニューロンといって、他者と自己をともに大切にしたいという「本能」が明らかにされている。自死に向かおうとする「アポトーシス」とは対照的である。それよりも前に、「自己」を大切にしなければ他者を大切にすることはできない。他者を大切にする前に、「己」は息をしているか、水を飲んでいるか、食べて満たされているか。だからこそ、ものを考えられる、言葉を発することができる、そして他者を思うことができる。そのことに気づけば、なぜ自分が大切なのか思いいたせないだろうか。

     私は今日、帰り道電車を待ちながら、空の一角を見つめながら、ないがしろにしてきたようで実は大切な「自分」に気づき、その存在をないがしろにした他者に怒りを覚えた。そして、今にも泣き出しそうな曇り空をみて、「このとしまで、四十代まで、なんのためにないがしろにされつつ生きながらえたのか」、そう反芻するように繰り返し考えた。過ぎたことは過ぎたことでとりかえしはつかないが、私自身をないがしろにして何らかの「利益」を得てきた特定の「他者」たちに怒りを覚えた。結局、道義的な「悪」とは、そうした、他者を犠牲にして私利を得ようと反省のない他者の存在ではないだろうか。他者を愛する気持ちは自己を愛する気持ちに発する。「悪」に「報い」や「復讐」を望む気持ちもまた、「自己愛」なのである。あるがまま、歩んできたまま、私のような凡人に残せることは、それぐらいしかない。

     今日も途方にくれて、上を向いた。またいつか、上を向くか。生きていることは、悲しむことでもある。決して、喜ぶことは私には今後、あり得そうもない。現代日本人の悲哀。「上を向いて歩こう」、そして「時代」。喪失感は、生きながらえるほど深くなる。一度抜けた永久歯が生え変わらないように、一度白髪にかわった髪が黒さを失うように。それでも思う、「私」は大切なのだ、と。だからまた、明日も生きていける。

    落ち葉

                             ヴェルレーヌ
                             堀口大学 訳


              秋の日の ヴィオロンの 溜息の
              身に沁みて ひたぶるに うら悲し
              鐘の音に 胸ふたぎ 色変へて
              涙ぐむ 過ぎし日の 思ひ出や
              げに我は うらぶれて ここかしこ
              定めなく 飛び散らふ 落ち葉かな

  • サガミハラ市はる区

     実在しない場所ですが、パロディーです。ひとり区。ダウンロードに掲載しています。プリントアウトして、残暑見舞いにどうぞ。
     真ん中に立っているのは私、脇にいるのが飼い犬です。

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