川瀬大樹

画家

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京都府城陽市

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    Works 305

川瀬大樹

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川瀬大樹

画家

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    Works 305
  • レバレッジCORE

    レバレッジとは日本語に訳すとテコの原理。
    つまり小さな力を加えるだけで大きなモノを動かせれる。
    最小限の作業で
    最大限の効果を生み出す事可能なのがネットの世界であって。
    21世紀モデルとしての仕組みが大いに機能し始めて
    20世紀までだと考えられない様な
    レバレッジによる宣伝がネットやメルマガSNSを通じて
    実現できる世界へとなってきたんだと思う。
    つまりリアルビジネスよりも
    ネットビジネスモデルの方が
    設営するのに掛かるコストや先行投資によるリスクを
    極限までに削り取る事が出来るメリットがあると思う。

    例えばリアルビジネスでお店開業しようと思えば
    敷金だとか品入れだとか広告費や、
    はたまた人件費まで含めると
    初期投資に数百万円くらいはかかるとビジネス記事で読んだ事がある。
    これがネットの世界だとわずか数千円〜数万円の初期費用で
    ネットビジネスを始められ、場所代に掛かる膨大な家賃が
    一切かからず、ネット上なので
    スペースも無制限にストック効くのだ。
    これらを総合的に踏まえれば後々楽を出来るのが
    ネットビジネスの世界で、自動化によるシステム構築により
    設営者本人に圧し掛かる負担を大幅に削減できるので
    余って出来た自由な時間を獲得する事が可能なのだ。

    もはやリアルビジネスの時代は終焉を迎えようとしていて。
    これからはネットを介してレバレッジを存分に利かせた後、
    リアルな展示空間で展示をしてゆくという
    一連の流れがが有効打として
    機能を存分に発揮してくれると考えている。

    仮想空間による二次的現実世界で
    普段からブログや画像アップなど
    こまめに掲載するという事は、
    自身が設営するギャラリーを
    常日頃から開放させるという意味合い込められると思うのだ。
    普段から二次的現実世界でアーティストとしての情報を
    何かしら発信する事で、ギャラリーを
    開放運営しているという事柄へと結びつくので、
    リアル展示で発表する時にも、それがレバレッジとなってくる。

    普段ネット上で絵を観覧してもらったり
    文章で想いの丈を本気度100パーセント注入すれば
    自ずと鑑賞者のボルテージの高揚を促し、
    リアルな展示場で絵を見てみたい気持ちが高まってくると思う。

    すでにリアルな空間で僕の絵を
    見ている人達にとっては、展示後の近況や最近の状況などを
    仮想空間における設営ギャラリーで発表している事によって、
    その後の物語や作者や絵の成長などを観覧出来るわけ。
    そしたらまた展示会行きたいなぁ〜とか、
    次はどんな展開空間を
    リアルな場所で魅せてくれるのかなぁ〜みたいな気持ちが
    芽生えてくるので、告知をすればフラリと
    展示会場まで足を運んでくれたりするのだ。

    ネットの世界は情報を発信する側と受信する側に
    区分けされ、その双方を巧みに使い分けてゆく事が
    重要なるキーを担っている。
    単に受信しているだけだと、箱の外から箱の中を
    覗き見しているだけに終始してしまうのだ。

    自身が発信したい、伝えたい想いを継続発信する事で
    ネットフィールドで存在が認識、定着してゆき、
    そこからシェアによる共感及び共鳴が得られるのだ。

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  • クリエイティブによる変質性

    アート作品の価値の良し悪しって
    鑑賞者の好みであると同時に
    変質性と言う概念が作品へと宿っていると思うんだ。
    要するに変なわけよ、描いてる人も作品もさ^^
    つまり変=個性=価値だと思って良いと思うけど、
    単に変なだけでも駄目なわけで。
    変=個性をイコールで繋ぐためには
    磨き上げられた変質性という要素が必要不可欠だと考えてて。
    変なだけで価値に繋がらない悪い例を例えるとすれば、
    パンツ頭に被った人が街中を歩いていたとしたら、
    それは単に歪な変態なわけで..、実り豊かな価値を
    周りに提供なんて出来るわけないじゃない〜「笑」
    それと一緒で、変も磨かれてなければ、
    単に変という概念は
    有害な要素にしか終始しないわけよ^^
    変に磨きをかけてゆく事で、それはその人ならではの
    持ち味として輝き出せる事ができうる個性へと昇華されるわけであって。

    僕の作品も、客観的に見たら変ですからね^^
    けれど売れたり評価得たり
    人気投票で上位へと食い込めるのは
    変に磨きがかかってて、
    価値を第三者へと提供出来てるからなんだ。
    か細いキリンのフォルムはパッと見、
    変でいて在り得ない形をしていると思われるけど、
    そのラインが美しかったり綺麗だったりを
    感じていただいてるから、
    変が価値として認められながら受け入れられるんだと思う。
    変な部分って、どんな人間にでも必ず備わっていてさ。
    けれど日本だと特に
    普通とかマジョリティーな大多数の方に
    重きを置かれてしまって、変であるとか人と違うって事を
    悪い事だと一般常識として周りから刷り込まれてしまう。
    けれど、敢えてそれを
    跳ね返してゆくマインド精神で挑みゆきたいものである。

    変は他者との違いとなるから
    違いは差異となり、
    それが洗練されてくれば
    価値がそこから生まれてくるんだ。
    要はそれぞれが兼ね備えし変質性に
    スポットライトを当て輝ける個性として
    磨き上げてゆく事が大事であり必要なのだ。

    所詮、普通の捉え方は誰にでも出来る概念なので、
    普通という観点ではそれ以上でもそれ以下でもない
    平均的価値しか生み出す事が出来ないからね。

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  • みやこめっせにて

    昨日は京都アートフェアやら
    京都でギャラリー巡りしてきてね^^
    みやこめっせで開催されてた
    アートフェアを客目線で見てきて、
    率直に思った感想は、胡散臭いの一言でして^^
    コマーシャルギャラリーや古美術を取り扱った画廊が
    それぞれのブースで選りすぐりの逸品をチョイスしながら
    区分けされたブースにレイアウト展示してるのだ。
    こう言った目利きの通った作品って
    ブランド化された美術品として販売されるから
    富裕層だとかお高く止まった空気が会場にプンプン流れてるわけよ^−^
    庶民的なアートフェスとは別の世界やな。

    真っ黒なビジネススーツを着て
    リーゼントで髪型整え、
    お堅い恰好したインテリメガネの画商が、
    それぞれのブースでふんぞり返りながら身構えているわけよ^^
    そんで、先生だとか、師匠は最近どうしてるの?みたいな話を
    画商と作家がトークしてて、それもそれで胡散臭さ満開なわけ〜^^
    そんで飾る事以外機能性無い美術品を
    何十万とかの高いキャプションつけて、
    庶民的な催しが普段されてる会場で変な造形物並べて催してるわけよ^^
    胡散臭さが胡散臭さを呼び覚まし、
    胡散臭いスパイラルが、そこらかしこに発生してるわけさ「笑」
    かくゆう自分もそんな胡散臭い美術品を鑑賞目的に
    足を赴けてる胡散臭い来場者であって^^
    まぁ、そんな感じで..美術の世界は外野から見れば
    胡散臭いと言う言葉に括られるの理解出来るし、頷けるよね^^

    自分を偽り富裕層や、お綺麗な言葉使いを
    口八丁にしゃべりながら、接客していて、
    お高いフェイクな嘘で彩られた空間を
    イリュージョンとして見立てながら、
    美術の世界は特別な世界であるんだ!、と豪語している^^
    まぁ、そんな美術作品を
    ハイカルチャーな主体として捉えてるのは、
    いささか胡散臭く、
    ちょっぴり面白くて、
    そして笑え泣けてきて、
    むず痒いものでもありましたとさ〜^^

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  • 手の平サイズのアート展に参加します^^

    http://oldtimes.jp/
    今週の土曜日から
    東京早稲田に在るドラードギャララリーで開催される
    手の平サイズのアート展に参加させていただきます^^
    4.27「土」〜5月6日月曜祝日まで開催です☆
    12時〜20時 水曜休廊 .最終日18時まで
    画像は昨日出来た、手のひらサイズの
    マッコウホエールとザトウホエールであります^−^
    ミニチュアールなミニマムサイズって
    日本人の得意分野なんだと思う。
    この国って、職人が経済や
    文化を発展してきたといっても過言じゃないと思うんだ。
    極め細やかでしなやかな、それでいて繊細な技の極み。
    民族の持つ血脈が現代の自分にも継承されてて
    根気のいる黙々とした反復作業が意外と好きで向いてる様に思うんだ。

    例えばミリ単位で点を打つ。絵の具の目分量や
    水加減の微妙な調整を何年も何年も
    反復させる事で会得出来る技の境地。
    ミリペンやボールペンに相応する点を
    絵の具の手捌きによって同じ様に打つ事が出来る様になった。
    絵の具はペンとは違い
    厚みや線の太い細いなどを
    一本の絵筆から幅広く調整できるので
    その分奥ゆかしくて、単調なリズムには陥らない。

    動物画のフォルムも線のストロークをミリ単位で調整しているんだ。
    ジラフの身体全体のラインは
    ミリ単位で微調整を加えながら、
    これぞと思える美しいラインが抽出出来る部分まで
    絵の具でフォルムを削ったり、付け加えたりの編集作業を
    幾重にも折り重ねてゆく。
    気の遠くなる様な繊細な作業プロセスに悦を見出しながら
    黙々淡々と納得ゆく領域まで根気強く探究出来る。

    大和魂から繰り出される至福なる絵図。
    それらをミニマムな世界に凝縮した美の極みを
    垣間見る事が出来ると思うので
    是非じっくりと点や線による
    技の極みをより多くの人に見てほしいと思うのだ。

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  • ノウハウコレクター

    骨密度100パーセントのギッシリ中身と内容が詰まった
    充実感満開による一日を心掛けてゆきたいものですね。
    骨密度濃厚な一日を半年、一年と
    架け橋で、バトン繋いでゆく様な。

    骨粗しょう症って骨の病気があるじゃない。
    骨の中身が空洞になってしまう病気..。
    つまり骨密度が脆く耐久力に乏しい。
    例えるなら、骨粗しょう症な充実感に満ち足りない1日を
    半年一年と折り重ねてゆけば、
    骨密度濃厚なクリエイターと
    骨粗しょう症たるクリエイターとの差異は
    一目瞭然となり大きな大差が生まれてきてしまうから。

    今日はサイズの大小について書き記そうと思う。
    近年はアートフェスなどが全国各地で盛んとなり
    ライトな一般客に絵を見て貰う機会にも
    多々恵まれてくる様になった。
    ミニサイズのお手軽リーズナブルな数千円で購入できる原画が
    とても裁きやすいと作家間で広く認知される様になった。
    つまりノウハウによる売るための仕組み作りが
    数千円の小原画を中心とした絵の主軸で構えられる様になり
    誰も彼もが、ミニサイズにて購入出来る
    原画作りへと精を出し始めている様に感じる。

    ここで問題なのは、所詮ノウハウなんてのは
    絵を幅広く買って貰うために必要な
    仕組みでしかないわけじゃない?
    売るためのノウハウに終始する作家ノウハウコレクターが
    激増して肝心の中身が
    置き去りになってしまった悲しき現実もあると思う。

    売るためのノウハウ、ひたすら売るための
    作品作りに邁進するがあまり、肝心の作品作りに対しての
    質の向上が疎かになってしまっているのである。
    なので結局の所、ノウハウコレクターに終始している作家と
    中身の絵としてのクオリティーにまで
    気配りが出来る作家との差異は、一目瞭然となってくるので、
    結局の所、ノウハウだけに重点置いてる作家作品は
    葉書サイズ一枚数百円でもやはり内容がともなっていないから
    販売に繋がらないし、きっちりと小さな絵の中に
    値段以上のクオリティーを宿す事の出来る
    確固たるこだわりを持った作家作品は
    例え同じ葉書サイズで、
    3000円だろうが、4000円であっても販売へと結びつく事が可能なのだ。

    結局の所、腕が伴わない作家歴の浅い段階で
    いきなりミニサイズの作品を主体的に売り込んでも、
    絵の質や世界観が不安定なので、販売へと繋がらないと思う。
    それよりかは、サイズの小さな0号、サムホールを経由後、
    中サイズの10号15号20号に展開させながら
    大きな30号50号サイズなども含む大作を描くプロセス得た後で
    ミニサイズへと還元するのが、正しきアプローチの仕方だと思う。

    様々なキャンバスの容量を描き出せる腕や
    個展などの1人で空間をプロデュースさせれる作家が
    ミニサイズを描くのと、
    作家活動始めたばかりの
    ひよっこクリエイターがミニサイズ描き出すのとでは、
    絵としての意味合いが大きく差異となり立ち現われてしまうのだ。
    前者は値段以上の価値をミニサイズの中から見出せるのに対し、
    後者は値段以下の価値基準でしか鑑賞者に見てもらえない。
    よって販売に結びつけながら利益を賄う事が出来ないのだ。

    ノウハウコレクターになってはゆけない。
    個人のスキルが向上すれば、仕組み作りによるノウハウも
    それに伴い活きてくるので、
    大事なのは誰でも真似出来るノウハウではなくて、
    それぞれの能力の発展による
    卓越した腕磨きなんだとつくずく思うのだ。

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  • 本質的目的、付帯的目的

    ノウハウって仕組み作りであって
    目的を到達させるために用いる手段なわけ。
    だからノウハウ自体が目的化しちゃったらまずいよね。

    付帯的目的と本質的目的ってのがあって。
    付帯的って言うのは刹那な喜びや
    単発的な達成感が獲られる瞬間的なモノであって。
    例えば売れた作品でお金が手に入るとか、
    賞が貰えたり、人気投票で上位に入るって言うのは付帯的目的なわけ。
    けれど、付帯的な目的が本質的な目的へと
    すり替わっちゃうパターンも中には存在しちゃうんだよね。
    例えば絵を売る事自体が本質的目的そのものへと
    すり替わったとすればどう言った結果をもたらすのか?
    それは絵を売る事自体が目標に変わっちゃえば、
    当然売れなくなったり、展覧会や絵の制作依頼などが
    来なくなれば絵を描かなくなってしまいますよね。
    お金になる事が絵を描く動機に終始すれば
    金銭へと還元するような仕事が来なくなれば当然描かなくなる。
    つまり描く事が目的ではなくて、
    いつの間にやら、絵を売る事自体を
    目的化しちゃってしまうから
    描いてても、全然楽しくないですよね。
    マインドがこうなってきちゃうと、
    続けてゆく理由が無くなるから
    絵に対しての使命感や責任感も喪失しちゃって、
    必然的に絵を描く事から
    フェードアウトしちゃうんだろうな。
    20代後半で芽が出ない、絵が売れないし
    キッパリ諦めようって、パターンは
    実はこのケースが非常に多い様に思う。

    絵を描く事が目的から→絵を売る事自体が
    目的へとすり替わり反転しちゃうわけだな^^
    僕は普段、絵を売る事に頑に、こだわってるのは
    あくまで絵を稼ぐ事で
    画材費用や出展料をキャッシュバックさせながら、
    描き続けてゆく事を達するための
    手段にすぎたいわけであってさ。つまり付帯的目的ね。

    アイドルとかもそうじゃない^^アイドルやってる子達って
    アイドルやる事自体が目的なわけで。
    スポットライト浴びたステージで一生懸命歌い踊りながら
    キラキラ輝ける事自体が
    好き好きでたまらないわけやからさ。
    これがお金稼ぐためにアイドルやってますだと..、
    自身も継続的には続かないし、
    周りもそんな腐れたアイドル見たくもないですよね^^

    野球とかもそうやな。
    マウンドでバット振る事が好きで好きでたまらないわけ^^
    だからプロ野球で現役居られるギリギリまで
    マウンドで一生懸命に使命感帯びながらやれるわけよ^^
    野球少年だった頃の野球が好きだった目的が
    ずっとユニフォーム脱ぐまで本質目的として
    捉えられていれば、現役最後の瞬間まで続けてゆけるんだ。

    本質的目標は永続性が高くて
    それを見失わない限り、
    気高く誇り持ちながら長く続けてゆけるんだと思うね。

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  • 責任感と使命感帯びた行動

    例えば消費者マインドによる受動的で駄目な捉え方。
    「友達に勧められて見た映画が詰まらなかった..」
    「知人が一押しだったと豪語した漫画があんまりだった..」
    「誘われて一緒に行ったライブが、イマイチ盛り上がれなかった..」
    これらは責任を他者に押し付けているだけで、
    結局全て、最終的には自身が決定権を下しているのだ。
    映画見るを選択したのも自分であれば、
    漫画や音楽ライブなどに行く事を最終的に決断したのは、
    自分自身に他ならない。
    つまり、誰かのせいに問題を摩り替え、
    押し付けている内は気持ちの面では楽かもしれないが、
    自身の成長を促進させる事などまず出来ない様に思う。
    自身が変わりたければ、責任は前提として自分にある事を
    認知した上で、理不尽や不条理な事に遭遇したとしても、
    誰かのせいではなく、その起こった出来事から
    何を教訓としながら、そこから何を学び取り、
    それから得れる事柄を考えて次へと生かす様な
    投資マインドによる捉え方で世界を見渡してゆけば
    おのずと第三者に責任を擦り付けなくて済むのだ。

    作家活動においてもそれは同じで
    最終的な選択権を下すのは
    自分以外に居ない事を前提しながら
    責任感と覚悟持って挑む事が大事なんだ。

    責任感を人に託さず自身が背負いながら挑む事で、
    そこから積み重ねながら会得出来る学びはとてつもなく大きい。
    責任感を持つことでそれが制作する上での
    強固たる使命感を帯び、作品に対するきめ細やかなる手仕事や
    画面に対しての気配りが
    作品全体へと行き渡りながら宿り、昇華されゆくのだ。

    結局の所、責任感を持ってどんな事柄に対しても
    果敢に取り組まなければ実り豊かな結果には
    出会う事など到底出来ないのだ。

    絵が上手く立ち行かないのは、画材が悪いだとか、
    出展料が高いとか、
    周りの作家の質が良くないから伸びないなどと、
    他者のせいにばかりして愚痴をこぼす作家は
    結局の所、他人に上手く行かない理由を
    むりくり押し付けながら、
    責任感背負うのを逃げているだけの卑怯者にすぎない。

    成果が上がる、結果が出せるアーティストは
    責任を自分が自らきっちりと背負った上で
    そこから積み上げてゆくプロセス「過程」担いながら
    より良い結果を責任感や使命を全うさせた上で
    如実なる形として自己実現する事が可能なんだ。

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  • 未来をより良くクリエイト

    周りの作家でライスワーク、つまり生活するために
    稼ぐ仕事が、しんどい限界だと..嘆いてる作家を
    ちらほら見かける事が最近多くて。
    この手合いの作家は作家活動も
    適当に最小限へと執り行い終始する結果となる。
    普段の撲殺される仕事で
    ストレスが溜まりに溜まり、疲労が蓄積され
    肝心のライフワーク「創作活動」が生きて来ない。
    ゆえにライブワーク「作家活動」による
    作品発表する場でも瞬間.瞬間の充実感に満ちた
    輝きを得る事が出来なくなる。
    つまり成果が持続してあがってこないわけ。
    3つのワークは全てに連動してて、
    ライスワーク、ライフワーク、ライブワークの
    三種による神器が上手く機能しない事には
    実りある充実感を得る事など出来ないんだよねぇ。

    ライスワークによる仕事で
    愚痴や不満が溢れ出てくれば、
    当然思い描く未来も暗くて、
    ドンヨリモヤモヤしたイメージでしか捉える事が出来なく、
    これから得られる充実感など獲得できるはずもなくて。
    現在居る立ち位置で三種のワークが
    充実したモノであれば、そこから
    より良い未来を思い描いて、
    希望抱ける未来を設計出来ると思うし、
    それを思い描く事で願いが成就される様に思う。
    現在が充実感ある手応え感じていれば、
    酒の場で不満や愚痴を言う事が無くなり、
    それよりかは充実感を帯びた
    今を生きる仲間同士で、
    自身の未来について熱く語り合えると思うのだ。
    自分が思い描いた未来はどうありたいか?
    どういう風な指針でこれから先を
    クリエイトしながら自己実現させてゆきたいかを
    語りあう方が、互いにとって
    健全かつ有機的なシェアが出来ると思うんだ。

    作家活動は最小限の努力では
    当然成果上がるほど甘くはないし、
    最大限の本気による努力や精進で
    ブレーキを解除させながら、それぞれが手に入れたきモノを
    手の内へと掴み取ってゆけるんだと思う。

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  • 一極集中!

    足場の不安定で、評価されない.売れてない初期の頃ほど
    余裕をぶっかますものなんですよね〜^^
    自身もそうでしたから^^

    逆に足場が安定して成果が着実に上がっている
    アーティストほど、裏ではストイックであると思う。
    では半年.1年の最短時間で最大限の成果を
    巻き起こすためには、どうすれば良いのか?
    答えは至ってシンプルでいて明快。
    それは絵とは関連性の無い全ての事柄を辞める事。
    そして1年間、画業に費やせる時間を1極集中させ徹底する事なんだ。
    たった1年、1極集中すれば見えてくる風景が一変するんですよ^^
    それを獲るために他の選択肢を
    捨て去るなんてのは、本気でやっている作家にとって、
    たやすく簡単な事ですよね。

    けれど、この1極集中させる事が
    なかなか出来ない、だから5年10年続けようが、成果上げられないんです^^
    ちなみに僕はそれが出来なく
    作家活動始めて8年は断続的な成果しか上げられませんでした^^
    結局、作家活動1年2年で成果出てる作家達って、
    才能とかセンスとか陳腐な言葉では括れなくてさ、
    この一極集中をきっちりアートライフとして捉えながら
    落とし込めているんですよね。
    本当凄いよね、僕には活動当初、これが無理だった..。

    では、具体的に1極集中する事について今日は書き記そうと思う。
    まず駄目なパターンは、
    売れてない足場が安定してない時ほど、
    無駄な余裕をかましてしまう。
    例えば漫画読み漁ったり、テレビみたり、
    好きなミュージシャンのライブ行ったり..。
    これらは気晴らしになって良いんじゃないの?って思われるかもしれませんが、
    これが実はすごく遠回りする形となってしまうんです。
    脇道にそれる事で、肝心の作家活動と創作活動に費やす時間が削られる。
    つまりどうでも良い事に時間やお金を費やしたがゆえに
    真に執り行いたい画業がおろそかになり、
    テキトーなパーセンテージ、つまり最小限の努力で
    宙ぶらりんに創作活動や作家活動をしてゆく結果となるので、
    1年たっても、目に見える形で大きな成果はあげられなくて。
    わずか1年1極集中するだけで、
    栄えある成果があげられるんですよ。
    その期間くらい、漫画や音楽、映画や旅行など、
    極限まで減らせば良いじゃない^^
    まずは自身のやるべき事をチャッカリとこなした後で
    娯楽を大いに楽しむって癖をつけないと、
    先に気晴らししてしまい、オフを楽しんでいる内、
    あれよあれよと1日があっとゆう間に過ぎ去り、
    いざ始めようと思えば夜になり
    眠くなって、眠りこけてしまうわけでさ^^

    漫画× 音楽× ショッピング× 旅行× 映画× などなど、
    これらは画業を最優先させた後でいくらでもいつでも
    満喫できるわけだから、画業まずありきで、
    それをこなした上で娯楽にありつくって感じやなぁ。

    これが作家活動始めて、しばらくは出来なかったし、
    マインド上げてゆくのに僕の場合、すごい年月と
    遠い回り道を費やす形となった。
    本気でやれば遅くても2.3年で売れるし成果上げられるので、
    まずは1極集中を徹底貫徹させてから、
    趣味や娯楽に余裕を持って手を伸ばしてゆきたいものだな。

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  • 100杯の味より1杯の別枠を意識

    100杯のスープより
    一杯のスープの方が味として勝ち勝つケースが在って。
    今日はこの論点から考察を掘り下げ、ブログを書き進めてゆく。

    僕は天下一品のコッテリラーメンが好きで
    多分生きてる中で100杯以上は、食べていると思う。
    けれど、一年半くらい前に
    友人が天一より味が格段に上手い
    コッテリスープのお店が在ると教えて貰い、一緒に行く事となった。
    感想は、好み以上にスープの次元が違うと実感したんだ。
    麺の弾力からスープの味わいの極上至福な風味まで
    何から何まで天下一品のスープを凌駕している。
    そこはチェーン展開してなく、
    1人のラーメン職人が、味に拘り抜いた極上スープを
    長い歳月掛けて編み出した一点モノのお店で、
    店の名前はマリオとネーミングされてて。
    僕が思うに、そのモノが持つスケール感というのがあって。

    例えばインプットする立場で絵画鑑賞に行くとするでしょ?
    その場合、あんまり響かない緩くって、
    宙ぶらりんな展示会を9つ梯子するよりかは、
    これぞ!と思える極上の1つとじっくり対話しながら鑑賞する方が
    得られる事柄大きいと思うのだ。

    お寿司の世界とかでもそうじゃない^^
    例えば回転する100円寿司しか食べてない人ってのは
    例えそれに100回通ったとしてもだよ、
    100円寿司のふり幅、つまりその範疇の中での
    スケール感でしか、感度が出来てないわけ。
    これじゃあ、いつまで経っても本物の真骨頂など
    一生分かるはずなどありませんよね(笑)

    自身のスケールマインドを拡張させてやるには、
    別次元にある領域を感覚として体験する事で
    気付きが芽生えると思うんだ。
    100円寿司100回行くと仮定すれば、1回の高級寿司職人が
    直にカウンターで握ってくれる寿司屋に行けるだけのお金に相応しますよね^^
    それなら、一度思い切って、鍛え抜かれた腕と、
    選び抜かれたネタから繰り出される寿司職人の
    握りし寿司を頬張ってみると良いと思うんだ。
    そうすれば明確なる差異が垣間見えてくるでしょ^^

    スケール感ってやはり、それに見合うモノに触れる事で
    そこへ行くためにはどうすれば良いのか、
    自身の経験したポジションと照らし合わせながら
    相対的に良し悪しを判別出来ると思うんだ。
    絵の世界だってそれは一緒でさ。
    出展料払ってれば、誰でも参加出来てプロになれるんだって
    甘い考えの人達100人だけのスケール枠だけに
    寄り集まりながら居座れば、
    そこでの範囲レベルでしか物事捉えられないから
    当然、その手の境地を目指す手仕事なんて出来るわけがなくてさ^^
    それよりかは絵に本気で身を捧げている、
    絵筆一本でこの世界で大成してやろう!って強い願望や
    志し抱いた人の考えや思想に触れる機会を設ける事で、
    自ずと自身のスケールマインドは拡張されて
    変化の兆しが徐々にそこから滲み出てくる様に思う。

    その道の本物になりたければ
    戦場と言う名の窮地に最前線で身を置きながら凌ぎ削っている
    本気のやつから本物の精神を学ぶのが良い。
    宙ぶらりんのスケール感100人の手仕事であるとか、
    生半可な緩い気持ちで画業を志す100人の作品からは、
    その範疇内のスケール感でしか
    物事をt捉える事が出来ないと思う。

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