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2010/03/28
エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
止めグループは、いったん置いておきまして。
連結グループです。
まあ、この連結グループ同士のみの使用は、
まず使えないので(使っていいけど)説明は概要だけにします。
動的グループと止めグループの、
ちょうど中間を位置するのがこの連結グループです。
形状も中間、
どっちつかず。
単体では、
いわゆるなんの意味もない捨て駒です。
そうやって生まれた可哀そうな彼らですが、
実は、
これから色々と連携をしていく上で非常に重要なポジションに起ちます。
というのは、
クセの強い動的グループと止めグループを、
上手く取りまとめられるのは彼らしかいないのです。
なんともナメクジのようなユッターリとした動きですが、
それがなんとも、
ちょうど良い具合になってキリ!とキツイ感じの紙面に潤いと平和を与えます。
まるで水面に浮く流木にようにいろんなオブジェクトと連結します。
なので、
次回からは本格的な新・花形装飾活字「水草」的作法に入っていく訳ですが、
その前に、前説みたいなのをちょろっと書かせてください。
今回一番やりたかったのは「イメージからの解放」です。
すなわちイメージを自由にする事。
視覚的な感覚に及ばないものを視覚化する事で、
美的感覚を日本に帰する事を目的としました。
もしくは、
日本人をグラフィックデザインの幻想から解放出来るようなものを作ろうとしました。
装飾という観点でいうと、
「水草」には細かさや優美さはありません。
ただ、漆や染めとして色に思いを馳せた、
元々の日本的な美意識に願わくばもう一度戻ってきて欲しい。
そしてそれをグラフィックデザインとして還元したのが、
この「水草」であると思ってください。
これから書く事は決して新しいグラフィックデザインの提案ではありません。
何が新しいのか、
平仮名を開発したあの感覚で、
新しい視線でこのグラフィックデザインを今一度見て欲しいと思います。
何度でも書いてやります。
ボクは東京オリンピック以降のグラフィックデザインは間違っていたし失敗だったと思っています。
あの成功をいつまで引きずってるんだか。
2010/03/27
http://www.fengfeeldesign.org/
止めグループを重ね繋ぎ合わせるとどうなるのか。
あんなに紙面を圧倒していた止めグループは、
「静か」になります。
動的グループの時にも説明をしましたが、
ぶつかる瞬間のインパクトは水滴が結合吸収しあう瞬間を、
クローズアップしたという点では共通です。
止まっていたグループは、
ますます止まる事になり、
ますます物質化される事になります。
今回の画像を見て貰うと勘のいい人は既にお気づきかもしれませんが、
それはもう日本庭園の「庭石」を彷彿とさせる形状になっています。
「根」の部分を利用し結合する事で、
元々短かった「根」がさらに短くなり、
ますます楕円としての形状が表に出てくるのです。
とくに止めグループ同士の連結作業は、
静かに慎重に行わなければなりません。
何故なら、
短い「根」なのですが、
十分に空間を切り取る能力があるからです。
出来れば、
お互いの根を合わせるように配置し、
出来るだけ「根」が外に出さないようにしましょう。
基本的に出さないというルールを作ってしまえば、
いざ重要な局面で出すという選択肢によって、
画像のように隔てた空間配置でも、
空間毎の変化を与える事が出来ます。
また、
このように止めグループで遮断する事での、
空間分解は可能になっていますので、
動的グループとも組み合わせる事でも、
紙面への影響を作りだす事が出来ます。
それは追々書いていくとして、
注意点もありまして、
止めグループのみで遮断して空間分解を行う場合は、
出来れば飛び出る「根」の向きが一定の側の方が、
対称となる空間との違いわかりやすいという事です。
これも逆を言えば、
隔てるだけ隔てておいて、
同じ空間にしたりと、
バランスを変えれる訳ですが、
動的グループとのバランスを考えると、
基本所作として一定の方向に「根」の飛び出る方向を同一の空間にすべきかと思います。
あ、それと重力の方向の配慮も忘れずに!!
つづく。
2010/03/26
http://www.fengfeeldesign.org/
止めグループの基本的な使い方です。
止めグループの「根」の特徴は、
向きによる動きではなく、
重力の方向を示していることです。
下向きに配せばリンゴは下に落ち、
上向きに配せばリンゴは上に落ちるという具合で、
異質空間形成のイメージが、
遮断によるものではなく、
空間そのものの重力変化によってもたらされます。
また、
重力の比重の変化を行う事で、
同じ向きのイメージでも違った階層にイメージを構築する事が出来ます。
動的イメージ時に遮断によって得られた空間変化に、
これを加える事で空間のバリエーションを増やす事が出来ます。
この点において気を付けなくてはいけないのは、
物質化された止めのイメージには流動性がなく、
紙面における白い部分は紙面外にはみ出します。
つまり一定の遮断を行った空間での配置は、
紙面そのものへの窮屈さを生み、
情報に圧迫感を与えるという事です。
なので実際のところ今回の画像のような感じで、
多用するのは避けて、
やはり要所要所での見極めで使った方が良いと思います。
コツとしては、「情報」に対して重力の影響を与える事が出来れば、
その時点で使用を控えバランスを整えましょう。
重要な事は、
動的グループと常に一対で考え、
情報にとっていかにすれば丁度良い重力なのかを意識しながら、
配置すればおのずと量や位置、向きがわかります。
2009/06/01
IMAGEST(イメジスト)
http://www.miwakazuki.jp/imagest/
ええと無事この日を迎えれて安堵です。
アクセサリー以外の全てのアートワークを手がけました。
まさか自分がシルバーアクセサリーに関わるなんて!ていう感じですが、
現時点出来る技術を全て投じました。
パッケージまで全て凝りに凝ったので、
是非買ってみて確かめて貰えると嬉しいです。
ま、買わなくても単純に見て貰えると嬉しいです。
これからこのブランドを中心にアートワークを手掛けていくと思います。
いろいろ企んでいるのでどうぞ展開をお楽しみに。
2009/05/19
もう既に気づいている人の方が多いのかもしれない。
なんかごっちゃになっていて、
全てひっくるめて1つになってしまっているような印象を受けていたりする。
デザインで何かをするという事。
凄く今、これが流行っていて、
この5年でたくさんの方に声を掛けられて誘われる事があった。
この5年っていうのは、
ナガオカケンメイのD&DEPARTMENT PROJECTが、
一般化し有名になっていった時間と合致してる。
D&DEPARTMENT PROJECT自体は2000年からのスタートだけど、
その高まりは一瞬のものだったように感じる。
なんかちょっとカッコイイシーン。
デザインというなんだかわからないものが、
これのおかげでわかった人が増えた訳だ。
その一方で、
もの作りをしている人達が、
自分の作ったものに対して自信を無くしている会話にも、
度々出くわした。
生活の両立が図れない。
今の時代というのは既に原型が出来上がっている場合が多い。
その最初になる事が難しい事で、
模倣という懐疑的な視点を、
自分で作ったものにでさえ目を向けなくてはいけない。
前提という壁。
楽器というものを作る行為。
漫画というものを描くという行為。
楽器と定義されているものを楽器とし、
漫画と定義されているものを漫画とする。
そして自信を無くしてしまっている現状。
作る側がこれでは弱すぎはしないかな。
技術。
この2文字にも注目した方がいいのかもしれない。
で、
日本的発想の着眼点。
「作らせて貰っている」その幸福感。
全体主義の社会性。
どれも何も当てはまっていない。
咬み合っていないともいうのかな。
前提が全面に押し出されている現実。
正直、
ナガオカケンメイのやってる事、
やってきた事は好きじゃない。
実際に、いろんな勘違いした人を増やしてしまっているし、
その影で置き去りになっている重要な部分が、
蔑ろしすぎてるから。
考え方は変わっていない。
それが絶対に「デザイン」である必要なんて無いし、
意味がある必要も無い。
それが前提であり発端なのだから。
だから、
これからも「デザイナー」なんて名乗らないし、
「デザイン」というもので何かをしようとする動きには絶対に反抗心しか持たないと思う。
デザインで何かが出来るというものではない。
あ、大体からして、
作る人が自信を持つという事は、
何も威張るではなくって、
むしろその逆に気付く事なんじゃないかな。
逆に威張っている間は自信なんて絶対持つ事はないと思う。
自分の作ったものを愛せない人でしかないんだから。
自分で作ったものに絶対的な自信があれば威張る必要なんてないんだもんね。
あ、
最近の面白い会話から抜粋。
ボク「いっそガレージから1人の人が始めなアカンわな」
A君「それって才能のある人の特権じゃないですか。
才能が無い人は無視するって事ですか?」
続けてA君「1人よがりになるのもどうかと思いますよ。
1人で作ってる訳じゃないですから。
いろんな人が居て作ってる訳ですから。
それに、
目指せるとこがあるから、
1つの事にいろんな人が挑戦出来るんじゃないですか。」
と、
話は続くんですが、
面白い内容やったのでここだけ抜粋。
気付いてるのに気付けてないこの感じ。
これって今回のこの記事を書くきっかけになった会話で、
まさに的を得てて面白かったんですよね。
生み出す事と作る事。
今、圧倒的に不足してるのは生み出せる人なんすけど、
これは長くなるので、
http://yohaku.biz/mmgwp/?p=62
これでも読むといいよ。
2009/03/11
最近はイメージとデザインについて考える事が多いです。
イメージを構成するのがデザインなのか、
デザインを構成するのがイメージなのか。
「文字」という狭間と制約の中で、
度々に「表現」という言葉が用いられてきました。
イメージがもしデザインを凌駕するなら、
デザインは変化が求められます。
また、
デザインがもしイメージを凌駕するなら、
そのデザインも変化を求められます。
デザインが変化すればイメージは変わる必要がないからです。
ではイメージとはなんなのでしょう。
イメージは不変なのでしょうか。
不変であるならデザインは変わる必要はありませんし、
とっくに定義され方法論として語られているはずです。
そもそもイメージの存在がデザインを必要とした時点で、
デザインは変わるべき特質を持ったと言えます。
もし、イメージが変わるものだったらどうでしょう。
イメージとは人のイマジネーションそのものであって、
意識によっては変化が生じます。
変化が生じるという事は定義出来ないという事になります。
そうなのです。
イメージもまたデザインによって変化が可能であるという事なのです。
なのだとすれば、
イマジネーションという行動がデザインなのででしょうか。
デザインはイマジネーションという行動そのものなのでしょうか。
イメージは無限です。
制限や制約のあるものではないのです。
それを制限、制約するのがあるとするなら、
人の意識であると言い切ってしまいます。
イメージを思考として置き換えた時に五感とは違う物であると考えます。
そしてここが重要なのです。
人のイマジネーションの限界が、
同時にデザインの限界であるというのは、
つまり五感に裏づけされた感覚以上のものは人は作り出す事は出来ないと思うのです。
モノづくりしてる人で、
よく、
神が下りてきた!とか言ってるけど、
そんなの所詮勘違いであり、
単なる五感で手に入れた経験則とイメージとを融合させた化学変化でしかないのです。
人の意識や思考でさえ怪しいものです。
五感が無かったらこれ程までのイマジネーションは得られいたでしょうか。
ではデザインが関係する五感とはなんなのでしょう。
デザインでさえも、
偶然性を構成する要素の関係が五感で読み取る全てであった、
という事なのではないでしょうか。
モノづくりは奇跡ではありません。
人の意識が起こした行動で五感なのです。
しかしこの論にも不可解な疑問が生じます。
それは意識と意識の融合です。
つまりアイデンティティです。
1つの五感で得た意識を一定の数の違う人と共有するという行動です。
わかりますかね。
これこそが「デザイン」なんです。
そして「イメージ」の在り方の意味は、
この前後で変わってきそうなのです。
それはアイデンティティを構築する前なのかした後のイメージなのかで、
大きく変化が生じ、
イメージという概念が2つに分けてしまえるのです。
それをデザインするという事は一体なんなのでしょうか。
もしイメージとデザインが隣合わせなら、
デザインという行動もまた、
同じ言葉にも関わらず2つの違うデザインが生じます。
とくに注目しているのは、
アイデンティティを構築する前のデザインです。
共有意識を構築する前のデザイン。
これって一体なんやろ??って凄く思ってます。
2008/03/19
http://www.seiko-do.net/online_shop/name_card/index.html
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