サカグチテツキヨ

グラフィックデザイナー

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大阪府

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http://www.fengfeeldesign.org/
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サカグチテツキヨ

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  • 花形装飾活字を愛でる その196

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    うーんうーん何書こうかな。最近、依頼で花形装飾活字を使う機会が増えてて、凄く有難い感じなんだけど(今度ギターの装飾に使うかも)、もしかしたら思っているよりかは、抜きを加えて使ってあげた方が現代にあってるような気がします。エンスヘデのやつにしろ、普通に使うとちょっとしんどい感じなんだけど、少し空間を空ける感じで、2,3個装飾を減らしたりバランスを整えると、なかなか使える感じでいいかもしんないです。その方が、なんか喜んでもらえます。歴史とか正しいとかの理屈うんぬんの前に、ボクの場合だったら作ってあげる人がって事になるんだろうけど、その人と共有する何かが先頭に立ってこそな気がします。なんかこう、底辺がないと主張を繰り返す、なんともエゴなグラフィックデザインが出来上がりがちですが、それが何に向いてのものなのかという点では、ボクのしたかったグラフィックデザインの在り方に花形装飾活字は凄く近いんですね。なんというか、どっちかだと思うんですよ。対象がパブリック的なのか個人的なのかで、それを使う目的や考え方が変わってくる訳だけど、ボクの意識は個人に向いていて、それがなんともハマったんだよね。だからなのかもしれないけれど、収益を所有したくないという姿勢になってしまって、凄く苦労していますwむしろ所有しない収益という在り方に考えは進んでいますが、その収益がボクの生命活動のなんたるかによって左右されないものであって欲しい訳です。それがボク個人のものではないという考え方。重要なのは何が個人の所有であり、それがどのような経緯で手に入れたものなのかという事なのだと思います。お金で買えるものは一見、なんでもという概念がありますが、残念ながら値が付いていないものが価値を付け辛くなるという現象も同時に抱えています。売る側が商品の価値を定め、必要な単位を所有していく。しかもそれにはリスクが売る側に課せられてるっていう。なんの話やねんて感じですが、これがグラフィックデザインが取り巻く、社会や経済の状況に大きな影響があるように思います。もし、この花形装飾活字が活躍する時があったとして、例えばOLDTYPE001がここでは5000円という価値で売っていますが、本来の価値というのはボクが定められるものではないと思います。例えばですよ、これが100円だったら、無料だったら、あなたはラッキー♪と感じて買うかもしれない。そうなった時にその価値が正しいのかというところは、無視しちゃってる訳です。別に50000円でもいいと思う。エンスヘデに関して言えば100000円積まれても売らないみたいな。残念ながらテメーで金作って活動出来るほどに、人の単位として個人が力を付けてしまっている。お金を払うという事は渡した相手に借りを作る事。お金という代用品を使って、物質を所有するという行為。重要なのはお金そのものに価値があるというものではない。価値はモノにこそある。それがつまり花形装飾活字を底辺にしたグラフィックデザインという事になる。お金を払ったあなたは、そのお金でボクの為に何かをしなくてはならない。その凄い広いバージョンが現在の経済ってやつなんだろうけど、広すぎるせいで、お金そのものに力があるように、価値があるように見えてしまっている。だからボクはお金が嫌いなんだ。お金を出せば、それはもうあなたのものだけど、同時にボクに借りを作るというリスクを負っているという事になるから。だからこそ、文章を書いて送って欲しい。文章という一定の価値基準があるものをボクに渡す事で、貸し借り無しの取引が出来る。以前に裏ルートを設置していたのはその為です。出来ればこの花形装飾活字ではお金による取引はイヤだったんだよね。でもやっぱ生活するのに必要だから設置しているけれど、本来はやっぱ文章を書いて送って欲しい。あなたの書く文章はあなたの産んだ価値でもある訳で、他人から渡されたものではない。知らない人の価値を受け取ったところで嬉しくないしね。出来れば本人が作り上げた価値で取引がしたいです。残念ながらボクはお金にはなんの価値を感じていない。何回も書いて申し訳ないが、生活にどうしても必要だから、花形装飾活字との取引という形にしているけれど、花形装飾活字を買ったと思わないで欲しいかも、出来れば、ボクがこの花形装飾活字にかけた時間給だと思ってください。あなたの為にこの時間を尽くしたのだと思ってもらっても結構です。お金がダメなら、文章を書くという動作にかかった時間で相殺してください。お待ちしてます。どうかよろしく。

  • 花形装飾活字を愛でる その195

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    なんだかんだいって、初めてのOLDTYPE001を仕事で使えるチャンスに恵まれまして、あーだこーだと使いまくってます。うむうむ思いの他クルクルする感じが前面に押し出されるのだなあ。出来るだけ軽い感じに仕上げたつもりだったんだけど、まあ、あくまでも想定していたよりもという範囲だけどね…。使っていて面白いなあというのが正直な印象。これは面白いです。圧倒的なルールを与える事で自然と導かれるように組めるという事がわかった。これこそ自由。デザインにおいて自由とは制限を与える事。その行動を際限なるまでに単純化し、考えられる全てを縛る事にこそある。その行動があってこそ、デザインにおいて自由という選択肢が用意される。作るという事そのものは自由であってはいけない。使用にこそ自由は用意されるべきであり、つまり花形装飾活字は「使用=作る」なのだ。作るという行動を自由にするツールが花形装飾活字にはあると思う。ボク達が与えられた自由とは、各種ツールや技術があってこそのものだ。ならば、作るという二次的空想論の中にも、ツールや技術を駆使した構築があっていいように思う。とくにデザインの初動は用意された自由以外の選択肢は与えられない。だとしたら、デザインという目的、技能において必要な事柄を、それらの項目をいかに自由に構築するかに注いだ方が明確に、その使命をまっとう出来るのはないかな。OLDTYPE001そうやって生まれたツールです。何回も書いてしまいますが、装飾はパターンでしかないんだよね。どうしても装飾の美しさや綺麗さばかりが目に付いてしまいますが、もちろん、その観点で使用する事が何よりも望ましいのですが、花形装飾活字というのは、ボク達にそれだけでは装飾と言うのは構築出来ないのだよというのを、物凄く教えてくれます。これは本当に素晴らしい事です。美しいや綺麗を感覚的な部分ではなく、知恵の部分として、それを構築出来る。偶然的に出来たものではなく、何が偶然かをも明確に指し示してくれる。ボクは、このOLDTYPE001を使っていてつくづく思い知らされています。今回、仕事で使う事になって、ここまで仕組まれて計画された装飾である花形装飾活字にとって、何が偶然という要素を形成しているのかというのが、物凄く、手に取るように伝わってきていて、作るとはどうあるべきなのか、グラフィックデザインとはどういう姿勢で臨めばいいのか、まだまだ勉強出来る余地があるのだと確信せずにはいられないのです。作る仕組み、根本。そしてグラフィックデザイン。まだまだこれからです!と言いつつも、やれやれ…この考察はいつまで続くのやらと思いつつなんだけどwリンクの文

  • 花形装飾活字を愛でる その194

    http://www.fengfeeldesign.org/

    簡単な話です。何を解説すればいいのかなあとずっと思ってて、言葉で喋るよりも見てもらうのが早いのかなあと思いました。実際とこガイド通りに組めばいいし、そんなにたくさん使わなくても、1種類でも装飾のパターンが構築出来るという優れものです。装飾、というよりも、ボク達が勝手に装飾と認識している形態と言ってもいいけど。まあ、こんなの形式でしかないしね。せいぜい頭と視点で制御出来る装飾のパターンは4種類程度、それを超えると一気に崩壊する。その4種類でいかにパターンを構築し装飾とするかが鍵になるかと思います(一応OLDTYPE001の解説です!)。どうしても仕組みの理解が浅いと、個々の完成度から1つとして装飾を組み立てようとしてしまいますが、それは花形装飾活字の全否定であり、重要なのは装飾の完成度ではなく、それを構築する、4種類がいかなるバランスを保っているかという点に集約するのではないかと考えられます。単に並べて綺麗ならいいじゃないかとボクは思いますが、出来れば思慮深いところで観察していただき、グラフィックデザインを楽しんでみてください。よく考えたら、ボク自身、これで遊んでる最中だしね。なんかやっと分かってきた感じ。そういう意味でも、出来れば別の人が作った花形装飾活字というのも使ってみたいんだけどね。個性やイメージを超えたグラフィックデザイン、自分じゃ作りえない土俵でのグラフィックデザイン。しかもそれをグラフィックデザインという共通認識で行なえるという。本当はこういうのは1種類だけ持っていて、それを色として勝負していくってのがセオリーなんだろうけど、なんかもう、この花形装飾活字的に言っちゃうと、そういうやり方は古いというか、どんなけエゴでデザインしてんだテメーらっていうwもっともっと主義や趣向以外の状況で生まれたイメージの中で使われる花形装飾活字を作っていきたいもんです。もっとミニマムにもっとクローズドで。本当の面白さってのは懐にしまっておきたいもんです。

  • 花形装飾活字を愛でる その189

    http://printersflowers.fengfeeldesign.org/

    そして、パターンそのものを作る事をパターン化する目的で作ったのが「imagest」。これはパターンからの自由を求めて作ったのだけど、結局これも装飾のパターンを構成するところに落ち着いた。自由にする事で世界観や時代観からの脱却を計ったのだけど、それさえもやはり装飾にする事でパターン化され、統一化される事になった。それに比べてルールに縛りまくった「エンスヘデ」の方が、何故か自由に溢れていた。あ、「imagest」値段が高い!という声を聞くんだけど、あくまで「エンスヘデ」基準なのであしからず、あんなのが1万とかそこらで手に入っちゃいけないし、10万でも安いくらい。それが文章を書くだけでゲット出来るってんだから、あーた!と、話を戻して、そうその「エンスヘデ」の方が自由に溢れていて、そういう意味で「imagest」は実験だったんだよね。もちろん完成という前提です。イメージにおいて、装飾において、自由とは開放ではなかった。たしかに自由度は上がるが、それはパターンから逃避でしかなかったんだよね。開放かと思ってたんだけど、取り除いただけだった。というか取り除いたらどうなるか見てみたかっただけなんだけど…。装飾においての自由とは、圧倒的な世界を作る事、ありとあらゆる思考で仕組み、全てにおいて配慮する事にあったんだよね。この3つが合わさったのが花形装飾活字だと定義していいと思うし、ポイントはなによりも配慮するというところにあって、世界を作る事や仕組む事はどちらかというと、時代や作る意図や技術の部分でもあるし、もちろんそれだけでも花形装飾活字という定義は維持されるんだろうけど。なんというか花形装飾活字とは使うという事を目的にした、プロダクトに近いような気がしたんだよね。実際のところ「エンスヘデ」よりも「imagest」の方が使いやすいというのを言う人が多いのは、おそらく感覚としてリアルタイムじゃないのと、使う人間の技術の底辺の在りどころが変わったから。昔の方が凄かったという事で〆るつもりは全然なくって、ただ、当時の事を知らないで、使うのはやはり無謀というか、当時の発想で作ったものを現代の発想で使うというのは、あまりにも無謀なんじゃないかな。もし現代の共通言語で言うなら、花形装飾活字は「アドビ製品」のようなものだった。ボク達はイラストレーターやフォトショップのおかげで圧倒的な自由を得ているけれど、発想そのものは花形装飾活字となんら変わりがないんだよね。ただ、この論は境界を無くしすぎている感じもあるので、結論とはしないけれど、何を完成とし、技術とし、それらがどう使われていくのか、シーンとニーズで考えた場合に、イラストレーターやフォトショップによって、パターン化されたモノ作りを行なっているだけなんだよね。どんなにそれがオリジナリティに溢れていようとも、なんとも凄い色々出来る機織り機を使っているに過ぎないわけで。でも、それがダメって事じゃないよ、とくに否定する訳じゃないけれど、花形装飾活字も同じ位置にあると決めてしまった方が使いやすいし、作りやすいという一面があるのも確かなんだよね。装飾の時点で既にパターン化されたものなんだから、そのパターンを複雑にシステム化し、より自由に使えるように作られたツールが、花形装飾活字でいいと思う。むしろ、この花形装飾活字でテイストがどうとか喋るのはどっか違う気がしてて、なにをサンプリングして花形装飾活字化するのかという事を考えた方が、捉えやすいんじゃないかな。という事はシステムさえ決めてしまえば、それをパターン化し、装飾のみを変えて作りあげる事が可能という事になる。つまり、花形装飾活字の可能性であり、そこがスゲーとこなんだけど。個人的には、装飾を考えるというよりかは、その仕組みや配慮の仕方を考える事の方が好みかな。で趣向で装飾を決めている感じ。この別軸感は花形装飾活字を使う上で保った方がいい。

  • 装飾することばとたましい

    文章を寄稿していただけました!いつも送っていただける文章を読んでいて感じるんですが皆さん、はっきりいって真剣でマジなんだよね。そして、今回もそんな文章です。是非、一読を。
     
    http://printersflowers.fengfeeldesign.org/?eid=807261

  • 花形装飾活字を愛でる その188

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    なんというか結局、装飾とはパターンでしかない。ある不合理なパターンをランダムに並べたとしても、結局は合理的なパターンに集約される。川原で拾ってきた石ころでも、それらをパターン化する事によって、装飾とする事が出来る。自分達が描いているイメージでさえも、それがオリジナリティやテイストという言葉で開放されたとしても、いずれはパターン化され図式化される。いわゆる手癖のようなもの。その現象をリアルタイムに利用しようとしたのがデザインという姿勢であり方法だったんだけど、もちろん現代も使われているし、どんどんと活用していくべき方法ではあるとは思うんだよね。でも、そもそものパターン化されるべき現象が無ければ、意味が無いという事も察しなくてはいけない。もちろん、この花形装飾活字も同じ事が言えて、いかに、装飾をパターン化して綺麗に並べたとしても、元々の現象を踏まえていないと、そのパターンが崩壊しちゃう訳です。同時にそれは花形装飾活字という危うさでもあって、古さや新しさにも関係しているかもしれない。もしかしたら、現代じゃないと使えない、もしくは、当時の人が考えもつかなかったものが得られるかもしれない。パターンでしかないが故に、それはパターンで無くなった瞬間に、定義された装飾とは言えなくなってしまう。とくに、エンスヘデのやつに関して述べれば、何を装飾のパターンとし、どの作業を活版という技術に委ねたのかというのが大きなポイントだと思うんですよね。わかりますかね…。このデータを使ってみたけど、ウマク使えないという方は耳を傾けていただければ嬉しいんだけど、1つ1つの版はパターン化された装飾なんだよね。だから単体でも凄く使えるしカッコイイんだけど、それだけだと、この花形装飾活字という思慮深さには全然、手が届いた事にならない訳で、時代や世界、活版という技術…etcの意図を汲み取りつつも、一番大切な事は「思い通り」に組まない事です。再度書きますが、これはパターン化された装飾なんだよね。もし、ウマク組みたいなら、自分の思った通りに組んじゃいけない。これは装飾という名の「知恵」であり、そこに創造は存在しない。全てがパターンで構成され、その奥深さが故に、壮大なランダムが生まれているように見えているだけ。そして、それを時間という流れの中で、リアルタイムで構成されている。つまり、全てのデザインは、この花形装飾活字が、花形装飾活字として存在した時点で全工程が終了しているって事。残念ながら、ボク達がする事なんてないし、これを使用したところで、真のオリジナリティに辿り着く事はないんです。エンスヘデのものは、なんとも憎らしくも、その完成度が恐ろしく高い。同時に世界観が設定されて、使いにくい人には圧倒的に使いにくいものになっている。それは何故なのは、もう書いたので書かないけれど、もはや、パターンの構築さえも終わってるのかもしれない。だとしたら凄い話だべ。それはデザインの領域を超えたところで定義が行なわれているという事になる。と言いつつも、ボク自身は、これにそこまでの信頼は寄せてないけれど、デザインという定義は埋まるのは確かでもあるし、言葉にするなら、「物凄く配慮されている」状態なんだと思う。ホント、勉強させられちゃうよね、先人の方が、グラフィックデザインと印刷の境界をキチンと見極めてたって事だからなあ。もっと言うと、印刷という作業にだけ、活版という技術にまで、パターン化は施さなかったからこそ、ここまでの自由が発生している。それは多分、領分が違うという理由だけでいいような気がする。

  • 花形装飾活字を愛でる その187

    紹介中の花形装飾活字を配布中です!!
    http://printersflowers.fengfeeldesign.org/

    この花形装飾活字を配布するといった活動の中で、というよりも3年ほどの配布で、たくさんの方々にこのデータをお渡しした中で色々気付いた事や、実際に使われていく中で多様なその使用を観察してきて、ああなるほどなー的な事がいろいろあったんだよね。なので、客観的にグラフにしてみたり、数値的にその分布を図にしてみたり楽しんでいたのだけど、やはり、なんというか、この花形装飾活字というのは、その提供ではなく使用という一途で考えた場合に「思慮深さ」にこそあるという結論にやはり辿り着きました。単に装飾が綺麗だからという一面だけでなく、その知恵ととも内包しながら使えている人なんて、マジで一握りという結果になったのはなかなか面白く観察させていただきました。案外、グラフィックデザイナーの方から欲しいという声が少なかったのが特徴でした。それよりも、どちらかというと、趣向的に好みの方に興味を持っていただける傾向にあるように思います。ていうか、デザイナーの方はこういうのは自分でつくる対象であり参考でしかないんだろうなと感じています。実際にこれが使われるシーンなんてある事が少ないから実践出来ないからこそプロとして避けていたのかなという感想です。ただ、技術的な意向が強いのか、配布に関しての問い合わせよりも技術的な質問な問い合わせが多かったんだよね。実際のところ、これら花形装飾活字というものを認識する上では、果てしなく時間がかかるし、まず底辺として、これら装飾は今のグラフィックデザインのメインストリーム的にそぐわないし、否定の対象にもなっている事は、時代だから仕方ないなあという感じです。1つこれから調べていきたい事でもあるんだけど、それを使いたいのか、所有したいのかで相当に、その使用の奥深さみたいな事に変化があったんだよね。これは面白い結果だったし、ボクも実感していきたい1つの在り方なんだけど、例えば、使いたいと思って、問い合わせしていただいて、それを目的に沿って使った後に、どのように扱われているのか、という点において、大きな疑問がある訳です。いったいそのデータはどうなるんだろう、その人にとって、もういらないものになるのか、所有物としてずっと扱っていただけているんだろうか。単なるコンテンツとしてでしかなかったのか…etc。いらないものになったとしては、それらはその後どうなるのか、このなんとも曖昧な価値の存在において、ある一方で重宝されて、ある一方では、ゴミになっている状況って絶対にあると思うんですね。そしてそれがこの扱われ方という事において、人それぞれで変わってくるという花形装飾活字の面白いところのように思います。でも、これも面白かったんだけど、使う人によって、まったく使われ方が違うという事です。もちろん、その装飾の組み方から、目前に構えているシーンまで、その至る全てに違いが発生していて、これから、ボクも大筆振って、さあ使っていくぞ!ってなっても全然遅くないんだよね。もしかしたら、無償で配布していたら状況は変わっていたかもだけど、この花形装飾活字というやつは、持っているだけでは何の役にも立たないし、用途が無いと使えない、使う知恵もなければ、ウマイとヘタが発生するっていう。これはおそらく時代にマッチしていないだけとも言えるんだろうけど、その今の時代の多様化した浅はかさみたいなものを実際に垣間見れたような気がします。ズバリ、ディープに物事に接している人のなんと少ない事か。しかもそのディープさが面白いという人のなんと少ない事か。今のデザインの事情として、キチンと作るよりも、広く浅く作った方がウマクいく現状を感じていて、これとダブってしまって…、つまりイメージの構築が進んだ訳です。印象という偶像が相当支配をしていて、目の当たりにしているものよりも、イメージが先行するという奇奇怪怪な事が起こっているんです。この発言は古臭い!と言われれば一言で済むんだろうけど、結局、でも、この花形装飾活字というものを印象や偶像で組み立てたところで、ウマクは使えないんだよね。それどころか、なんとも歯の浮いた結果になるっていう。なんだろう、なんというか、それでもマッチする瞬間ってあって、逆にイメージが多様化してくれいるおかげで、この花形装飾活字が使われるシーンというのも同時に、増えてるし、増えていくと思うんだよね。実直な部分として、花形装飾活字というのは、ただ持っていても、ただ所有していても、なんの意味も成さないし使うのが難しい。だけども、所有しているという事が大事で、所有しているという概念が、使うというステップに移行する瞬間のようなものを産むんだと考えています。それを使うだけでは花形装飾活字は成就は出来ないんです。今の時代だからこそ、まず持つ、所有するという事が出来る。データ化しているから場所も取らないしね。その上で使う動作にこそ価値があるのだと感じます。どのように使うか、使われていくのかというのは、また別の話で。そして、ボクはそれを所有している。これをどのように使うのかで、これら花形装飾活字の価値もまた変化するものなのだと感じています。花形装飾活字はこれそのもので完成ではないんです。もちろん最初のコンセプトや見た目も重要なんだけど、その奥深い、「思慮深い」花形装飾活字の面白い部分みたいなものを、たくさんの人に味わってもらいたいと思っているし、ボクもそれがボクが所有していない、別の人が所有している上での使われ方というのを楽しみにしていたりします。わかるかな、この「花形装飾活字を愛でる」でさえも、こういう使い方だから面白いのであって、もっと使い方があるんです。それをこれから示していけたらなあと思います。

  • 花形装飾活字を愛でる その178

    エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
    詳しくはhttp://printersflowers.fengfeeldesign.org/をご覧ください。

    ツイッター http://twitter.com/fengfeeldesign

    可能性についてです。もしくは、これから行なう研究の方向性についてです。ボチボチ書いてはきてますが、個人で行なう研究という単位については、限界を感じ始めています。花形装飾活字と、そうでない境界線みたいなものが薄っすら見えてきて、何が花形装飾活字なのかという深度が明確にはっきりしてきました。次に起こす行動として、これらをより確信に近づける為のものをと考えています。そもそもの花形装飾活字という研究の始まりは、これが一体なんなのか、謎の魅力を放っている不思議な物体に対して、紐解き、「知」としてそれを知る事にあります。「もの事を見てから、イメージをする。」その手法を、花形装飾活字を用いた上で、より深き深度で行なう事が、この研究の第一の目的でした。それをもっと確定的なものにしたい、加速させたいという思いがずっとあって、同時に、個人でやる研究に行き詰まりみたいなものも感じていました。まあ、だいたい花形装飾活字は分かったし、もういいかなーと思う心が半分、いやいや、まだまだ可能性に溢れていて、研究する価値があるんじゃないかなという想いが半分な気がしています。今も実際そうなんだけど、どうせなら、そのぽっかり空いた半分の、もういいかなあという心にかけてみてもいいと思ったんですね。つまり、手が空いたって事だよね。今まで両手じゃなきゃ出来なかった事が片手間でよくなったと考えた方が良いと感じた訳です。それが全てだって訳じゃないけれど、単に辞めるってのは面白くないよねという話でもあるし、せっかく得た、花形装飾活字作れるという希少な技術を、このまま捨て置くのはスゲーもったないと自分で思ったし、最近、周りからそういう事を言われ始めてもいて、作った花形装飾活字そのものの、知的財産の所有や、特許や著作権的な在り方は難しいけれど、この作れる自分と言うのは、自分しかいない訳で、そういう事に翻弄されるくらいなら、やっぱ、ガシガシ作る続けたいという気持ちが勝ったという具合です。この花形装飾活字を「所有」するのは僕ではない方がいい。これを持つべき人間は他にいるてなもんだと思ってます。だってそれがグラフィックデザインだし、グラフィックデザインの使命というか在り方と、花形装飾活字重ねるなら、そこらへんも、ちゃんと考えなアカンというか、すぐにも行動に移すべきだなと考えました。なんで、こんなにグラフィックデザインは「消費」して「捨てられる」対象になっちゃったのか、ボクにとってはグラフィックデザインを始めた当初からの疑問でした。10年という時間が経ったけれど、何も変わっちゃいない。変わるどころか、そのスピードは加速されていくばかりで、物事は悪い方向に進むばかりです。1つ、面白い例があります。ボクがデザインを担当させていただいたWEBサイトがあります。そのWEBサイトは8年間、一度もリニューアルをしていません。システム的な中身はリフレッシュを繰り返していますが、「WEBデザイン」を一切リニューアルせず、ずっと使っていただいています。むしろ8年間、広告の要として使っていただいています。果たしてデザインの「古い」は使い捨てられる「古い」でしょうか。物質としての「古さ」や、技術としての「古さ」のようなものは擁護する事は出来ませんが、デザインとは何か。その答えとともに、花形装飾活字の可能性があるような気がしています。

  • 花形装飾活字を愛でる その176

    エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
    詳しくはhttp://printersflowers.fengfeeldesign.org/をご覧ください。

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    そして、ペアにしたものを並べていきます。この場合には版である事を意識した方が並べやすいかと思います。もちろん単体のものを版として配置していいんですが、こういう具合で一度密度を定めた方が、使い勝手や使いこなすという意味では正しい方法になります。しかしこれは古典的な組みを意識した場合の方法論でもあるので、その使い方を限定するものではありません。単体の個々の役割としては、水草的は流れを手に入れる為に、古典という視点から見るとバランスがアンバランスな状態にあるます。なので、シンメトリーに組んだときに、かみ合わせの悪さというか、なんとも腰の落ち着かない、一定のリズムのつまらないものになる可能性が出てくるので、こうやって予めペアで組んだものを1つの版として使用する事で、古典的なバランスを得る事が出来るのです。

  • 花形装飾活字を愛でる その175

    エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
    詳しくはhttp://printersflowers.fengfeeldesign.org/をご覧ください。

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    2つの版を使ってペアを作るという方法です。版そのものの装飾ルールが単純なのと、曲線の比率を合わせた作りをしているので、とくにコツとか必要もなく、インスピレーションでペアを作る事が出来ます。なんというかそれこそ各々の美的センスで組み合わせるべきだと思います。また、これに慣れてくると、流れのある組みにも自然と適応していけるという一石二鳥の方法です。この「花形装飾活字fuji」の開発で目指したところでもあるんだけど、要素を減らした上でいかに質を向上するかという面でも、このペアという考え方はあって、エンスヘデのやつにしろ、結局、ペアで組んだものが本領を発揮し、それらがパーツとなり紙面を構成するパターンが多かったんですね。数を種類を多く使えばいいというものでは無かったんです。でもルールを限定しすぎて、単なる装飾にしてしまうのは、花形装飾活字として開発するからにはしたくなかったし、今までの研究の流れからも絶対に無い方向性でもありました。でも、要素やルールを増やせば増やすほど、能力は高まるけれど、使い勝手の悪いものになるという。なんとも狭間というか、本当は、ルールを制限しつつ、その能力を最大限にいかせる限定的なものにしていくというのが正しき開発でもあるんだけど、これが単に花形装飾活字という単体の開発においては、このfujiが限界なのかなとも感じていたりします。やはり、何か目的がある視点での、その部分で限定的な要素における花形装飾活字なら、次のステップにいけるような気も。ただ、このペアという発想は、とある視点での到達点であるようにも感じていて、隣合う版がいかにペアといて成り立つかという点に関して、それこそが花形装飾活字であるように思います。結局、全体としての構成も含めて、その全てはブロックや領域で成り立つのだとすれば、それらが始めて発生する要素としての可能性。つまり文字でいうところの1文字だけでは意味を持たない、平仮名、アルファベットのような感覚に近い、組み合わせるという言語の構築でもある、ブロックとして形成の始めでもあります。単に花形装飾活字という特性の中でその装飾の複雑さや、ある一定の技能を有するルールの構築の必要性を除いた場合に、ペアである事がもっとも単純で素であると考えています。モールス信号?のような言語形成。それが意味を持たないというだけの話です。彼らはイメージという海で物語ってはいるんですけどね。

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