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2009/02/27
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
やっとこさ本題です。
と言っても書きたい事は脇道に逸れた時に書きまくってしまいましたが、
ようするに花形装飾活字においてその曲線の美しさは、
単に美意識によるものではなくて、
タイポグラフィにおいての裏づけのある配慮された美しさなのです。
とくに技術的な問題も含めて活版は直線的です。
花形装飾活字を罫線の延長線上と考えるなら、
なおさら直線には意識しなければならないし、
その役目も果たさないといけません。
美術的にも価値を高めるべきです。
重要なのは、
美術家でなくても使えるという前提で構築されているという点です。
曲線は美の究極であり極める事は直線の比ではありません。
それを利用する事が印刷で可能になるという夢を与えてくれました。
そしてそれがタイポグラフィにおいて配慮されている訳です。
もちろんそれも少しのルールを覚える事と工夫で簡単に扱えます。
これ以上は書かない方がいいですね。
ホントギリギリだなあ。
なんだか曲線のこだわりといってもカーブがこうねいいんだよねとか書いてませんが、
花形装飾活字において曲線へのこだわりとはこういう事だと思います。
そんなの曲線のラインがねとか美術家でないからわかんないですよ。
あくまでタイポグラフィであってグラフィックデザインですから。
そして偶然性に身を委ねるだけのものが、
この曲線にはある訳です。
完成の域とか書いてますが、
まだまだ発展途上やと思います。
それは多分、
時代とか感覚とかそういうのでどんどん変わっていく部分です。
そういう意味でまだまだ花形装飾活字は捨てられません。
あくまで「活字」で、
いっそ言語と同じでいいと思うんですよね。
文章と同じくらいに美術を言語にしちゃったわけですよ。
この曲線群ってやつはマジでスゲーのです。
単に装飾ならイメージですから、
花形装飾活字の曲線の在り方、そのこだわり、
当時の考えた人に賛美以外の何もない感じです。
こんなもんで。
2009/02/24
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
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中心に添えるばかりがシンメトリーではないし、
対称的に配する事がシンメトリーでもないのです。
何をここまでシンメトリーにこだわるかというと、
花形装飾活字こそが、
シンメトリーを追求した一つの答えだからです。
文字。
とくに英字の場合に、
A,H,I,M,N,O,S,T,U,V,W,X,YZはシンメトリーであると言えますが、
その他は完全とは言えません。
また、
文章を組む場合にはその限りではないのです。
単語の組み合わせや、
情報の在り方によってその中心は常に変化します。
逆を付けば完璧にシンメトリーよりも、
欠点のある文字が加わる事で、
そのバランスによるバリエーションに変化を与える事が出来るのです。
が、
やはり文字だけでその中心を一つの紙面の構成するには無理が出ます。
それはシンメトリーを優先するが故に、
美術的な概念は達成できたところで、
伝達性や情報性に汚点を残す事があってはいけないのです。
タイポグラフィとは、
シンメトリーであるべきだけれど、
その限りではないのです。
伝達性を欠いてまで、
その独自性や芸術性を優先してはいけないのです。
その中で悪あがきしたのが、
花形装飾活字であったのだとも考えています。
これについては、
例の友禅の雛形図案のなんたらこんたらにも通じるようにも思います。
しいて言えば、
それが装飾である必要は無いのです。
最近ではとくに記号やマーク、
ポスターでしたら、
何割かの比率で色を掛けて情報を分けたりしています。
花形装飾活字という手法は時代遅れのようではありますが、
現在に至るまでこれに変わる同じ能力の持った、
整理性に含めて芸術性も高めれる方法に出会った事がないのもまた事実なのです。
もしかよかったら、
そういう視点で楽しんでみるのも1つです。
1行の文章を単に中心に配するだけでなく、
そのバランスを意識しつつ、
花形装飾活字を活用してみるのも面白いと思います。
アンバランスなシンメトリーを是非楽しんでみてください。
という事で、
だいたいからして脇道に逸れてしまいましたので、
これを書こうとした花形装飾活字の曲線へのこだわりについてを書いていきます。
けれども繋がっていない訳でもなくって、
ちょろっと書こうと思ったら長くなってしまいました(言い訳)。
次回へ続く。
2009/02/23
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そもそも美術に関するものは、
シンメトリーが基準なのです。
それを意識せずに制作する事はいい意味で無造作ヘアー、
悪い意味で天然パーマ。
やはりここでも「意識する」というのは非常に大きなウェイトを締めています。
むしろその天然パーマを意識して直す動作こそが、
デザインでありタイポグラフィにおける素であり、
天然パーマがどのような天然パーマかという部分こそが、
身を委ねるべき対象という訳です。
むしろ修正ではなくて、
その魅力をいかに引き出すかという視点が重要です。
そしてシンメトリー。
頭の形。
髪の毛の質。
色、長さ、硬いか柔らかいか、多いか少ないか、
どこにウズがあって、どこで分かれているか、
顔や全体像との相性はどうか、
生活やスタイルにマッチしているか、
廻りの環境はどうか、
年齢は?性別は?目的は?期間は?
いろんな問いに合わせて最上のシンメトリーを探りよせます。
つまりシンメトリーとは中心であり、
同時に中間でもある訳です。
が、
前回の内容に合わせて書くとすれば、
その限りではないという部分にもスポットを当てなくてはなりません。
今回の書きたい部分の肝でもあります。
タイポグラフィではどうでしょうか。
完璧なシンメトリーは可能でしょうか。
今までに多くの美術家やグラフィックデザイナーや印刷職人が、
この問いに挑戦し続けてきた事でしょう。
シンメトリー、
ああ、シンメトリー。
下手したらこれを追求し続ける事で一生が終わってしまうんじゃないでしょうか…。
とは言ってもやはり何処かで折り合いを付けなくてはならないです。
そうです。
望むべきシンメトリーは完璧でなくてななりません。
ですが、
それは無理なのです。
物事に完璧は有り得ないですし、
完璧な女性程に魅力の欠如を感じずには入られません。
何処かに欠点があるからこそ、
1つの魅力が発揮されるのです。
重要な事は丁度良い具合を見極める事です。
丁度良い具合を探す旅とは、
準備や技術や経験、知識があればある程度は達成出来ると思いますが、
そこらへんの具体的な花形装飾活字とタイポグラフィについては、
次回へ続く。
2009/02/20
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当時の曲線に対する執着はスゲーと思います。
バランスに対すると言った方がいいような気もします。
そのオブジェクトに対する、
なんとも異様なまでの追求は、
現代には抜けてしまった、
感性やら雰囲気には変えがたい、
確固たる美意識がそこにはあります。
という事で、
拡大した画像を踏まえて解説していきます。
アウトラインにする際に一定の修正は加えていますが、
出来る限りの再現を心掛けました。
そこらへんのうんぬんは前回までに書いてきたとおりです。
これは今回のものに限らず、
当時の花形装飾活字、
もしくは印刷技術において、
バランスが重視されていた事が覗えます。
タイポグラフィの父、
エミール・ルーダーもこう発言しています。
「タイポグラフィは時にシンメトリーである。」
そしてこうも発言しています。
「ただし、タイポグラフィにおいてはその限りではない。」
なんのこっちゃっちゅう話ですが、
これって日本語やからわかりにくいのかもしんないですね。
文字のバランスによってはその中心を探るのは困難です。
ましてや紙の中心やバランスを、
その情報に合わせて探って鎮座させるなんて、
コンピュータじゃ絶対無理ですし、
ましてや人の手で行おうものなら目がギンギンになる事請負です。
昔からそれに関する技術や技法については編み出されてきたの事でしょう。
マックの開発者がタイポグラフィに関係していたのは幸いだったと、
良く本に書かれていますが、
本当そうだと思います。
文字間や段落等の概念をコンピュータで行う事を考えたとしても、
実際に技術者がいない事にはその発想は無かったのでしょう。
本当に幸運だったと思います。
いかに感覚でバランス養いそれを実行したとしても、
一旦、コンピュータに犯された感覚はそう簡単には取り戻せないでしょう。
それを思うと、
当時の技術者の技術にも勝るその感覚には圧倒されるばかりです。
花形装飾活字は、
装飾をするベールの奥に整理をするといった目的があります。
完全なシンメトリーが可能であれば、
このような装飾は必要では無かったのだと推測します。
もっとそういう事を気にしない装飾になっていたと思います。
もっとも実際そういう方向の花形装飾活字もありますが、
それは今回は置いといて、
地味に時間が来てしまったので次回へ続く。
2009/02/18
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「工夫した対称法」というか、
使っている方でマンネリ化してる方は多分ボチボチいるような気がします。
そういう方必見の方法です。
どうしても最初はオブジェクトの複雑な美しさに目が行き過ぎて、
それをそのままドーンてな具合使ってしまいがちです。
それやとヴィネットと変わらず、
花形装飾活字の本領とは言えないのです。
いえいえもちろんそのままでも十分なんですが、
それをちょっとだけテクニシャンな技がこれです。
マンネリ化するくらいに使われた方は、
違う形でもある一定の線の流れがある事に気付いている事と思います。
つまりそれらを対称的に組み合わせる方法です。
そうする事によって、
きっと今でにないオブジェクトそのものの美しさに、
組み合わした時の美しさもプラスされ、
より一層良くなるかと思います。
2009/02/17
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ようこそ花形装飾活字の世界へ!
という事で前回までの内容を踏まえてもう一回ここからやんなきゃイカンと思った訳です。
これを機に一度最初から読むといいかもしれません。
今回書いた内容と言うのはどっちかというと、
このエンスヘデ活字鋳造所シリーズ60の花形装飾活字をアウトラインする前に、
ふつふつと考えていた事なのです。
その迷宮の後、
アウトラインの作業でいろんなものを得て、
その得たものを生かしたものが、
今まさにこの文章を打ってるノートパソコンのデスクに、
所狭しと新しい花形装飾活字の原画が散らばりまくってます。
いいとこまで来てます。
がまだまだなので公開は今年中の後半くらいとしか言えない感じです。
後、4回くらいくじけないといけないらしいです。
この作業は本当に楽しい。
花形装飾活字を考えるという事と、
グラフィックデザインを考えるという動作がめちゃんこ似ていて、
行き詰っていたグラフィックデザインに対する考察が、
ずずーいと大きく幅を広げています。
花形装飾活字を考えるという事は同時に印刷を考えるという事にもなるので、
それに対する意識も以前にも増して気の効いたものになってきているし、
間違いなくあらゆる面で上達を遂げているものを感じています。
ああ、
そうだよなあ、
デザインってこうだったよねえって具合で、
初めてデザインに触れたときの感動に近いものがあって、
意欲むんむんでくじけながら作っております。
それこそ一時でなくてずっと使えるものを考えているので、
期待していても損はないと思いまする。
次回からはこんなトーンで息抜きな内容になりまする。
2009/02/14
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お待ちしております。
それは与えられたクリエイティブですか?
もしくは必要とするクリエイティブですか?
誰かに頼まれたクリエイティブですか?
誰かと共有しているクリエイティブですか?
自分の為のクリエイティブですか?
モノを作る時に望ましいのは限られた飽和状態を作るという事です。
とくにデザインの場合は、
コップ半分の水を満杯にする事は出来ません。
もししたとしてもそれが満たされたクリエイティブと言えないからです。
せいぜい満杯の表面張力ギリギリで、
そこからこぼれ落ちる水滴ぐらいは拾えるかもしれません。
よく考えなければなりません。
今、目の前の作らなければならないものは、
本当に必要なものでしょうか。
実は不用で役に立たないものではないでしょうか。
役に立つもの立たないもの、
必要なもの不要なもの。
その基準は何がどこで満たされるというのでしょうか。
どうしても、
クリエイティブを中心に考えるから合点がいかないのです。
重要なのは要素です。
そのコップに満たされている水こそが、
クリエイティブの源泉でもあります。
繰り返しになりますが、
とくにデザインの場合は、
一言で書くと「統合主義」ですから、
せいぜい表面張力の滴り落ちる水を啜るくらいの事しか出来ません。
単に職人的な考えや意識の向上は、
デザインという作業の前提では不用で無駄なものという、
位置づけであるとしか言えない訳です。
その中には意志や意見、
ましてや奇抜やアイデア、
こだわりなんてものは捨てなくてはいけないのです。
デザインとはクリエイティブを行う上での手法や考え方の1つでしかありませんから、
そこには個が存在してはいけないのです。
そして重要なのは「要素」です。
あ、もう1つ、
デザインは「決める」という言い方も出来るかもしれません。
随分前に、
デザイナーは日常で「意識」しない瞬間がある事を恥じなければらないと書きました。
それこそがより良いフォローの実態であり、
デザインの根本でもあると考えています。
デザインが必要で困っている人にこそデザインは必要なのです。
それに気付く事がデザイナーの技量であり、
その必要としている要素こそが、
デザインをするという事になる訳です。
大切な事は、
それ以上の行為は有難迷惑であり、
つまり、
役に立たない不用なものであると言えるのです。
そうならないように、
心地よい丁度良い具合を考えるのがデザインであり、
決して、
デザインとはこういうものなんだよなんて言うアンポンタンがいますが、
それは本当に大きな勘違いであり、
デザインの質とはなんら関わらない影響のないものであるのは、
キチンと理解しなければなりません。
あくまで要素ですから。
あれはデザインでこれはデザインではないという言い方は変なのです。
ただ、
必要なデザインか、
不用なデザインか、
役に立つデザインか、
役に立たないデザインかは、
要素を見極めるデザイナーの技量そのものであると言えるのです。
そこに圧倒的な違いが出るのだと思います。
と、
言ってもこれから、
デザインはどうあるべきなのかとか、
社会的なデザイン批判を繰り広げる訳ではありません。
さーていよいよ花形装飾活字。
次回へ続く。
2009/02/13
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お待ちしております。
姿勢を示すという事はとても大切な事だと思います。
現在のデザインの在り方として、
時にはデザイナーは自分の主義主張を必要悪として使用するけれど、
基本的にはフォローすべき対象を受け止めるべき偶然性に、
どれだけ身を任せる事が出来るかという事なのでしょう。
デザインは計画はではありません。
意図は企み等はあってはいけないのです。
何を偶然とし、
何を必然とするのか、
それを見極めた時に役目が達成されます。
けれど、
これは言葉で理解するものではありません。
デザインする人、
クリエイティブに関わっている人は、
無意識の内に自問し自答し続けています。
もしこれを無視し続けているのなら、
自分自身のクリエイティブに疑問を持たなければなりません。
そして答えを出さなければならないのです。
姿勢とはある意味での自答であり、
変化し続ける対象でもあるのです。
現在にある花形装飾活字は、
姿勢を示し続けた結果です。
何が変わるべきで、
何が変わらないでいるのでしょうか。
重要なのは、
その両方をキチンと探ること、
そして新たなに自問自答を行えるまで、
じっくり見定めて考える事にあると思います。
その姿勢も、
新しい花形装飾活字が生まれる活力(化学変化)として変わらない部分なのでしょう。
ただ気をつけなくてはいけないのは、
自問自答そのものに疑問を感じてはいけないという事です。
正しさや間違いでは答えを他へ依存する結果になります。
すなわちそれは姿勢ではなく依存です。
デザインでもなければクリエイティブでもないのです。
とまあ、
抽象的ですが、
次回は少し具体的に書きます。
2009/02/12
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お待ちしております。
しかし、
今回は「デザイン」という視点で、
花形装飾活字と向かい合いたいと考えています。
花形装飾活字の存在位置についてはこれまで書いてきた通りですが、
「デザイン」するという発想となると、
これまでの手法通りという訳にはいかないと思います。
デザインは言わばフォローです。
花形装飾活字においてフォローするという事はいかなる状況を言うのか、
これをまずは定義として揺ぎない軸に据え置かなくてはなりません。
なによりも難しいのは花形装飾活字そのものもフォローする存在であり、
そのイメージになんら影響するものではないという事です。
イメージが無いとされるものをデザインするという事は、
若き日の失敗ぐだぐだ自分最高デザインの時代の事を、
今一度甦らせなければならないという、
今まで否定してきたというか、
社会におけるデザイン存在では否定され続けている、
所謂、プロのデザイナーが学生的なデザインだよねえとか言う領域を、
きちんと考えるという事なのだと感じています。
今、考えたら、
プロの方達が否定(見下すとも言うか…)するあの学生的デザインは、
結局はデザインという商業の仕組みの上では成り立たないだけで、
デザインの質そのもので考えたらば、
よっぽどまともな事してたよなと感じるのです。
まあ下手といえば下手なのでしょうが、
そんなの当然で、
マジという部分では認めるところがあったように思います。
日本におけるグラフィックデザイン衰退の肝はここにあると見ているのですが、
だいたいからして技術うんぬんで物事言い過ぎなのです。
間違ってないけれどそういう事じゃないんですよね。
そんなの太ってる子に将来お相撲さんになれと言ってるのと同じちゅうか。
と、その話はかなりズレテいくのでとりあえず話を戻しまして…、
イメージの存在しないデザインの在り方ってのは、
ずばり姿勢の提示だと思うんですね。
デザインなんて、
物を作る時の思想でしかないし、
その夢みたいな幻想をいかに形にするかを考える時に、
デザインという手法、思想がスゲー便利なんです。
花形装飾活字の場合ってのは、
それを具体化させた代名詞みたいなもんで、
あくまで活版印刷という文字を整理する為に特化しているものなんですが、
それを踏まえても上質な思想の1つである事は間違いないでしょう。
その上でデザインをする、
デザインという視点で花形装飾活字の可能性を広げる、
ということはどういう事なのでしょう。
そもそも、
それを図案にして示すというよりも、
デザインするという視点を新たなに提示し、
例として図案化するというのが、
近いのかもしれません。
おそらく今、グラフィックデザインとして認知しているものは、
グラフィックデザインという1つのあり方でしかないはずです。
とくに海外、ヨーロッパが先進的なデザインとして日本で注目を浴びる事がありますが、
そういう事じゃないのです。
単に、
おそらくですが日本において、
グラフィックデザイン1つにとっても、
その在り方を勘違いしている可能性が高いと言えるのでしょう。
芸術に対する認知度の低さもまた、
現代の「日本人」の無関心が生んだ最悪の結果だと考えます。
が、
そういう事書いてるとカルチャーうんぬんに話が及んでしまうので、
次回は花形装飾活字に戻します…
2009/02/10
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お待ちしております。
ところにより、
前回の誤字脱字は凄かったですね(毎回か…)。
伝達性の高い図案とはなんなのでしょう。
海外のように、
気の利いた一句ととも記されるブラックジョークなイラストもそれに近いような。
非常出口に代表されるようなサインやマークやら。うーむ。
ただしこれらは図案とは呼べません。
あくまで日本語活字書体(イメージ)と寄り添う事の出来る、
イメージではない図案。
図案なのにイメージではない。
そうなのです。
花形装飾活字そのものなのです。
しかし、花形装飾活字の場合というのは、
あくまでイメージよりの発想のものであり、
その伝達性の高まりに併せた、
あくまでイメージとしての活字であると言えます。
なんかややこしいですが、
この場合はというのは、
イメージが先行しなくてはいけません。
日本語書体がイメージなのに対して、
それがイメージから波状した伝達性でないといけないのです。
逆に英文を加えた場合に違和感の生じる手法を生み出す事から始めるべきなのです。
その上で新しい花形装飾活字を考えるという動作が正しいように思います。
中でも竹久夢二がいいラインを渡っていたようです。
前回でも書きましたが、
もしかしたら理屈ではない部分ではありますが、
きっと日本語と組合した時にイメージとして成り立つ図案を目指していたはずです。
その1つの回答があれら(図書館とか図案見れる場合があるので是非)という事だったのでしょう。
イメージの強みを持つ日本語書体。
日本語書体そのものが既にイメージなのですから、
比率でいうところの、
イメージ3:空白3:活字(日本語書体)4という、
現在の方法では間に空白を入れることが選択肢としては多く選ばれているようです。
空白を入れないことで、
ちらしのように息苦しいものになるのもまた、
納得のいくところ。
なのだとすれば、
それをフォローすべき図案の在り方を考えるべきです。
有名、無名いろんなデザイナーがその試みを提示しているようですが、
知りうる範囲では完成の域にはほど遠いようで、
その原因も随分前に書きましたが、
デザインする「人」が地べたとするアイデンティティの不安定さが招いているのだと見ています。
う、まだ続きそうです。