空丸

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  • 第3身体のこと・6

    人の第3身体は、パブリックにかかわる。
    ここが、いちばんやっかいなところだと思います。

    第3身体の、いちばんの特性は、<共有>ということでしょう。
    他の人と、また他の生命と、そして地球上の山や川やすべてのものと
    共有する。これが、第3身体の顕著な特徴。

    実は、完全に個人のものと思われている第1身体からして、<共有>です。

    自分の身体の中にいる細菌たちとの共有……そればかりでなく、自分の身体の細胞一つ一つが生命体であると考えると、彼らとの共有……

    第1身体に入ってくるさまざまなものは、かつては別の生命体であったし……第1身体から出て行くものも、やがて他の生命体となる……

    こうやってみると、いちばん<個的所有>のしばりがきついのは、実は第2身体……ということになるのかもしれません。

    昔、スウェーデンだかどっかで、共産主義のコミューンがあって、共産主義思想を徹底しようとした。
    そこではなんと、歯ブラシまで共有していたそうな。

    いくら<私有財産の否定>といっても、歯ブラシの共有まではなあ……というのがふつうの感想だと思います。
    でも、車くらいになれば……会社の車なんか共有が前提だし、最近では、1台の車を複数の人でシェアする試みもあるそうですね。

    電車やバスまでくると……「公共交通」という名が示すとおり、共有が前提の世界です。

    第1身体の極限には、「財産」に関係のない本質的な「共有」があり、第2身体は、「財産」に深くかかわって、第3身体に近づくほど「共有」の度合いが高くなる。

    個人商店なんかだと、まったくその人の会社ですが……有限会社、株式会社とすすむにしたがって「共有」度合いは高まります。
    株式会社でもあまりにでかくなると、もうこれはほとんど「公共」で、つぶれかけてもつぶせない。国が、財政援助までやります。

    ところが……第3身体の規模がさらに大きくなって、「地球全体」にまで及ぶと……今度はまた、「財産」観念との結合が薄まってきます。

    地球全体……ということは、当然人間だけじゃなくて他の生命や地球自体のことも考えなくちゃならないので、「人間」にだけ通用する「財産」ルールが通らなくなります。

    ここで……「環境」となってしまった第3身体は、奇妙なことに、くるりと反転して、第1身体に直結してしまう。
    「環境」を考えるとき……やっぱり、みな、「自分の身体」を、どうしてもその中心にもってきます。
    これは、無意識的に……でも。

    環境問題は、なぜか、「自分が生き残る」とか「自分が気持ちよく暮らしたい」ということに、直結してしまう。
    とくに、日本では、その傾向が強いみたいです。

    ヨーロッパ的な考え方だと、環境問題はあくまでパブリックとしての第3身体の極限形態と考えるから、アプローチは非常に合理的でシステマチックな印象がある。
    ところが……日本においては、もともとパブリックとしての第3身体的な考え方が希薄だから、「環境」が「自分の身体」に直結してしまうのかもしれません。

    いずれにせよ、第3身体が極限までいって地球規模になりますと、ここで、「人間のルール」は通用しなくなるので……
    人間が、合理的に考えられる道も、ここで終わると思います。

    この洗剤は、使用後に分解されるから地球にやさしいよ。

    そんなことをいう人もいたりしますが……
    じゃあ、その洗剤が、ホントに地球にやさしいか?
    これを、どこまでも追っかけて徹底検証するのは不可能です。

    そもそも「地球にやさしい」って、どういうこと?
    どの範囲までを「やさしい」とするの?

    人が、第3身体のことをわかるのは、せいぜい自分が住み、暮らす範囲だと思います。
    それ以上は、想像や論理がはいってきて、わかってない部分を勝手につないでしまう。
    そういう勝手な論理ばかりが乱立して、いつのまにか「実感」のない世界に迷いこみ、すべてがわからなくなってしまう。

    第3身体のことは、第1身体の声に聞く。
    それが、今できる、いちばん確実な方法なんじゃないかな?
    と、思いますが。

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  • 第3身体のこと・5

    第3身体の上限が地球になること。
    これは、ふしぎだが、ほんとうのことだと思います。

    私たちは、地球の上を、歩く。
    まっすぐ歩いているつもりでも、曲がっています。
    地球の表面が、丸いから。

    まっすぐどこまでもいくと、結局、出発地点にもどってくる。
    まあ、海は船で渡るとして。

    地球の周りを一周4万kmとすると、1km歩くごとに、地球の中心から測って0.009度ずつ傾く計算になる。
    10kmで0.09度、100kmで0.9度、つまり約1度です。

    名古屋−東京間を約300kmとしますと、この傾きは2.7度。
    これは、けっして小さな数字ではありません。

    名古屋の人は東京の人に対して、東京の人は名古屋の人に対して、それぞれ3度近く傾きながら暮らしていることになります。

    惑星地球の重力場は、このようにすべてを曲げて、あらゆるものをその表面に貼りつけて、囲いこんでいます。

    この力に対抗するには……
    地球の中心に対して垂直方向のベクトルを持たねばならない。
    そして、この垂直ベクトルだけが、地球上に存在する唯一の<直線>となります。

    まっすぐな建物も、まっすぐな道も……
    実は、すべて曲がっている。
    垂直に上昇するエレベータだけが……実は、本当のまっすぐ。

    地球上の生命は、むろん人間も含めて、すべてこの<測地力>(ジオデジック・フォース)の影響を受けている。
    人の第3神体も、やっぱりこの力の影響を受けて曲がり……それは、地球表面をぐるりと取りまいて、完結します。

    ジェームズ・タレルの作品で……
    水平方向の窓が一切なく、垂直方向、天井にだけ開口部があるのは……
    人の第3神体を、通常の水平に曲がっていく力から遮断して、本当の直線、つまり天空に延びていく垂直力にゆだねようとする試み……

    ここで、人は、どのような<感覚の変化>に
    とらえられるのでしょうか。

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  • 第3身体のこと・4

    第3身体の最小範囲は自分の部屋。
    これに対し、最大範囲は、惑星地球。

    以前、カプセルホテルにとまったことがありますが、これはつらかった。
    スペースの狭さもありますが……なにより、カプセルのぐっと内向きに収縮してくるベクトルが、第3身体的にあんまりよくない。
    で、サウナに行くと……大勢の人がいるにもかかわらず、ホッとしました。

    テントなんかも狭いんだけど、カプセルホテルのような、あの圧迫される感じはありません。
    薄い布一枚で、環境に開かれている。
    風や温度、光なんかを感じられる。
    寒かったりするけれど……だいじなことではないかと思います。

    第3身体というのは、やっぱり環境への連続感覚が大切なんではないでしょうか。
    この空気は、地球の裏側までつながっている……
    この海は、どこまでもいける……
    そういう感覚かなと思います。

    窓に、精巧な大型モニタを取り付けて外の景色をそのまま映し出す。
    見えるものは同じでも……やっぱり、それはちがうのでしょう。

    ジェームズ・タレルの、天井が抜けて空が見える部屋。
    私は入ったことがない。どんな感じなんだろう……

    この作品の特異なところは……水平方向の環境が一切見えず、天空だけが切り取られて見えるというところだと思います。

    第3身体の最大範囲である「環境」を完全ブロックして、第3身体を超える、第4身体とでもいうべき天空・宇宙を直接に見せる。
    ここで、人は、惑星地球を「離れる」感覚を体験するのだろうか……

    人は不思議で、この惑星地球を「離れる」ということを考えることが、できるのです。

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  • 第3身体のこと・3

    第2身体と第3身体のいちばん大きな違いは、

    第2身体 → 動産
    第3身体 → 不動産

    ということだと思います。

    服や装身具や車なんかは本人と共に移動可能だけれど、家や土地なんかは、携帯できません。
    キャンピングカーなんかだと、微妙なところですが……(やっぱり第2身体でしょう)

    楽器なんかでも、この観点から考えると、ヴァイオリンやフルートや三味線、尺八のたぐいは完全に第2身体。
    これに対し、ピアノなんかになると、けっこう第3身体ぽい(2.5身体?グレン・グールドのピアノなんかは第2身体で、どこの演奏会でも自分のスタインウェイを運んだ)

    パイプオルガンなんかになっちゃうと、これはもう完全に第3身体ですね……(不動産に分類されるのかどうかはしりませんが、おそらくそうなんでしょう。動かせないもん)

    これに対し、第1身体は……

    第1身体 → そもそも財産ではない
    第2、3身体 → 財産(動産、不動産)

    ということだと思います。

    アンクルトムの中に出てくる黒人奴隷が、雨が降るといつも帽子を脱いで上着の中にしまう。

    帽子をかぶってればぬれないのに……と思って訊ねると、
    「身体は主人のものだが、帽子は自分のものだから」

    このくだりが印象に残っています。

    現代ではむろん、人の身体はだれの財産でもありませんね。

    著作権は、かなりうまくこの状態を反映している。

    著作権は
    売買できる「著作財産権」と
    売買できず、作者と一体の「著作人格権」
    この両方で構成されている。

    著作財産権は第2身体的であり……
    著作人格権は、第1身体的です。

    この考え方を敷衍していきますと……
    第3身体に対応できる、「著作環境権」みたいなものも、必要なのかなあ……

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  • 第3身体のこと・2

    人には、どれだけの空間が要るか。

    満員電車では、ゼロです。
    ゼロでも、限られた時間なら、耐えられるってことです。

    昔、こどものころ……大金持ちのトイレの広さについて、考えました。
    6畳くらい?いやもっと?
    いくらなんでも100畳200畳はないかな……
    ということで、浮かんできたのが……
    広大な部屋の中央に、便器がひとつ。(なぜか和式)
    高い、たかい天井から、水洗の紐が垂れている……

    こんなトイレで用をたすって、どんな気分だろう?

    第3身体としての家は、複雑です。

    知り合いの建築家で、トイレは、家全体のいちばんいいところに置く
    という人がいた。
    実際に設計した模型も見せてくれた。
    でも、彼は、お客のいない、いわゆるペーパー建築家だった。

    もう一人、知り合いの建築家の話。
    お客さんに頼まれて、住宅を設計。
    その彼が、ぼやいていた。
    「施主さえいなければなあ……」
    一瞬、マジ?と思ったが、顔を見ると本気でした。

    家は、住む人のもの。
    良い建築家を 選びましょう。

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  • 第3身体のこと・1

    第3身体は部屋。家。街。環境。そして地球。
    地の神々の身体に、つながっていきます。

    第3身体は、自然法則と人間がきめた法則に支配される場。
    ここで、私は、はじめて本格的な制限を受ける。

    英語でlawと書くと、これは、自然法則にもなれば、法律の意味にもなる。
    日本語では、このふたつを一語で表す言葉はないみたいです。

    100mはいくらがんばっても10秒そこそこだし、フィギュアスケートで5回転は無理。
    人類の先端にも、こんな制限がかかってます。

    宇宙は、たぶんだめでしょう。宇宙は、人の場じゃない。
    第3身体の限界は、地球……ですね。

    でも、私自身は、地球を越えて宇宙にいける。
    なぜならば……私というものは、第1身体でも、第2身体でもないし、むろん第3身体でもないから。

    第1身体も、第2身体も、第3身体の法則が入ってきて、かなり縛られてます。

    物理法則。身体の内側に服を着ることはできない。
    人間法則。街中を、裸であるいては、いけません。

    1、2、3。
    全部の身体がきちんと調和すると……
    それは、「天国」とよばれるのかもしれません。

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  • 第2身体のこと・6

    人の皮膚は、電気を帯びたようになっていて、なんだか第2身体の受容領域を形成しているみたいです。

    蝋人形なんかが、いくらよくできていてもわかるのは、皮膚表面が、この第2身体の受容領域になっていないからかもしれません。

    第2身体の受容領域は、つねにある閾値以上に活性化されていて、第2身体を欲している。

    人の皮膚は、服に飢えている……

    それは、ちょうど、内臓表面領域が、食物に飢えているように。

    自分にピッタリの服を着ると、なんか安心できるのは……皮膚が服を得て、お腹一杯になるから?

    アニメに出てくるモビル・スーツなんかも服、第2身体の一種ですね。
    パイロットは、服を着ている感覚で、巨大なロボットを操る。

    エヴァンゲリオンなんかだと、服よりももっと密着して、第1身体と溶け合っている感じになりますね(実際、溶けちゃったシーンもあったし)

    人の皮膚の第2身体の受容領域は、あんまり甘くみれないな……と思います。
    人は、実は、この部分でも考える。というか
    脳で考えるより、もっと ぴちっ としたことを考えるのは、実は
    この部分ではありませんでしょうか。

    なにに ぴちっ とするのか……といえば
    それは、まわりの世界に。
    世界にぴちっとつながっていく働きは、実は、この部分にあるんじゃないかと
    さえ、思います。

    ここは……じつにアブナイ場で
    緊密な自我領域とパブリックの交差する場でもあり
    自分が、世界の中で、自分であることを保証する場
    でもある。

    ここに、大きく
    私たちは、自分の名前を書く。
    でも、その名は……
    自分さえ知らない名
    だったかも、しれません。

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  • 第2身体のこと・5

    旨いものは、人から、言葉を奪う。

    昔、テレビで、旨いもの食べ歩きのリポーターの方が、語っていた。
    ある番組で、海辺で漁師さんからとれたての蟹をごちそうになった。
    彼は、「ウマイ」と言った。
    その瞬間、漁師さん、
    「あっ、今日の蟹はダメだ。」と。

    漁師さんいわく、本当に旨いときは、だれもなんにもいわない。
    ただ黙々と、食べるんだよ、と。

    そのリポーターさんによると、そのとき……
    あまりに旨すぎて、なんの言葉も出なかった。
    でも、リポーターという職業柄、なんかいわなきゃ
    ということで、「ウマイ」と言った。
    ホントは、ものもいわずに、ただ喰いたかったとか。

    旨い!は、人の第1身体と世界を、直結させるんでしょうか。
    がぶっとやった瞬間……もうなにも要らない。
    おそらく、その「絵」だけで、充分に伝わったんでしょうね。

    吉本隆明の本に……
    ずっと山奥に暮らして、一度も海を見たことのない人が
    はじめて海に出て
    「海だ」
    という……とある。
    言語にとって、美とはなにか。

    第2身体でない言語。
    それは、やっぱり「美」なのかもしれない。

    言葉を脱いで、裸でくらそう。
    それは、結局絶対無理な話なんだけど……

    服を脱いで、裸になることはできても
    言葉を脱いで、裸になることはできません。
    でも、それをやる言葉ってものがある。
    隆明さんは、そんなことがいいたいのかも。

    「美」がそこにあるのなら……
    やっぱり、それを求めたい、ものです。

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  • 第2身体のこと・4

    言葉。
    言葉もときどき、人の第2身体になるのかもしれない。

    人は、言葉をまとって、自然界に生活している。

    人の身体はすべすべだから、衣服をまといます。
    ほかの動物にはない、存在の仕方です。

    裸で街を歩いたら、どうなるか……
    昔、パフォーマンスでやりましたが……そのときの感覚は、不思議だけれど、言葉を失った感覚ととてもよく似ていました。

    言葉を失ったことがないから、そういうのも変だけれど……
    言葉と服は、実は、同じものなんじゃないか。
    そう、思います。

    お風呂やさんで裸になっても、そういう感覚にはなりません。
    でも、街中で裸になると……
    やっぱりものすごく頼りない……なにか裸で世界に投げ出されている感覚(あたりまえですが)。

    人は、裸が自然ではなく、服を着ている方が、実は自然なんだと思います。
    人のあり方と言葉というものがどうしても切り離せないように。
    人は、第1身体と世界をへだてる「なにか」が要る。

    それが……実は、人の本質的な存在の仕方だと思います。

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  • 第2身体のこと・3

    イレズミやピアス、割礼なんかは、1.5というよりははるかに1に近い。回復不能という点を考えると、0.9とか0.8くらいの世界かもしれない。
    893さんのユビツメなんか、0.7くらいの感じかな?
    どれもやったことがないからわかりませんが……オソロシイ世界です。

    面白いことに、数値が1に近づけば近づくほど、精神、ココロに与える影響は、深く、大きなものとなる。
    数値が2に近づけば、精神やココロに与えるダメージは、小さくなります。

    人の範囲というものは……皮膚や消化管内壁をめぐるあいまい領域を常に出入りしていて、実は、人のココロというものも、そこはかとなくそのあたりを漂っているものなのかもしれません。

    私が私であること……は、実は、この境界領域の問題なのかもしれない。
    そこに……イレズミやピアスみたいな過激なものから髪型や服、ファッション、ギア、バイクや車みたいなものが混在して、私が私であることを「つくっている」。

    この「私領域」を一歩、内側に入ると、そこはもう、私自身にもわからない、闇の世界です。
    あるいは……この「私領域」から離れていくと、そこには公、パブリックのせ界がひろがっている……

    テレパシーやフレンドリ、はたまたハームフル、傷つけあいみたいなものは、この境界領域に懸かってくる現象……ここで、私は、私でないものと交わり、また敵対し……ここは、「自我形成」に、まことに大きな影響をもってくる領域であると思います。

    私が、私であること。私とはなんなのか……
    それは、ブルトンのいうとおり、私がなにに「懸かられて」いるのか……そのことそのものなのかもしれません。

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