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2010/02/17
インスタレーションは、物語に、似ている。
なんか順序があって、「読み出し」可能。
でも、彫刻は、ごろっとしたカタマリ。
そこに、そのままにあって、それ以上どうしようもない。
平面作品の中には、時空が封印されている。
凍結凝固されてしまっている……といってもいいかもしれない。
平面作品に格納された物語は、ふつう、見る人が読み解いていくのだけれど……
それを作者がやろうとする……そこで、インスタレーションになる。
そんな気がします。
作者によってひきずりだされた「物語」は、平面からはみ出し、空間に居場所を求める。
空間は、物語に彩られて、特有のにおいを持ちはじめる。
お、インスタレーション……
そう思う、抱合体のできあがり、です。
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2010/02/16
インスタレーションって、なんだろう?
彫刻と、どうちがうの??
この言葉がよく使われるようになったとき、そんな疑問を持った。
でも、だんだんわかってきました。
以前、ある彫刻家の個展に行った。
会場に入ったとき、なんか違和感があった。
この人、自分の作品のことしか考えてない。
作品が空間に配置されてどうの……
なんて全く眼中になく
ただ、作品そのものにしか関心がない。
このとき……
彫刻とインスタレーションは、まったく違うものである!
ということが、わかった。
彫刻は、元から立体。3次元。
インスタレーションは、平面。2次元の発展形。
私にとっては、ちょっとした「発見」でした。
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2010/02/15
私は、自分の身体のこともわからないし、世界のこともわからない。
第1身体と第3身体は、私にとって、ブラックボックスになっている。
第1身体と第3身体が接するところに現われる、第2身体。
これが、いちばんよくわかります。
第1身体と第3身体は、自然。
これに対して、第2身体は、いろんな意味において、「人の技」。
アルスともいい、テクネーともいう。
アートであり、またテクノロジーでもある。
テクノロジーは、第1身体にくいこんでいって、これを明らかにしようとする。
第1身体を覗くための装置の代表は、顕微鏡(ミクロスコープ)。
また、テクノロジーは、第3身体の領域深くさぐって、神秘を見ようとする。
第3身体を覗くための装置の代表は、望遠鏡(テレスコープ)。
人の、第2身体は、どこまで拡張できるのか……
そして……ついに、至りえなかった領域。
第1身体と第3身体の奥の院は、合体して
ヌメノン、物自体
となる。
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2010/02/13
グレン・グールドというピアニストがいます。
彼は、1946年、コンサート・ドロップアウトを宣言。以後、ステージには立たず、スタジオ録音のみで演奏を発表しつづけた。
「世界」は、彼にとって、アンフレンドリなものだったのだろうか。
少なくとも、レコードやCDやフィルムでつながっていく「世界」は、彼を受け入れ、また彼が受け入れられる世界でありつづけたようです。
人は、なにをもって、「世界」をフレンドリと感じたり、そうではないと思ったりするんだろう……
個展を開いても、1週間でお客さんが100人にも届かない。
なんか、むなしい気もします。
でも……
たまたま来たという若い女性。
何十分も見てくれて、感想を述べてくれた。
そこに……「あっ、伝わった」と感じた。
これで、十分という気もします。
私を、受け入れてくれる世界。
それは……また、見知らぬ人の一言だったりする。
そこに、「世界」が、生まれます。
ずっと以前に亡くなった哲学者の本の一節。
そこを読んで、はっと目が開かれたりする。
ああ……そうだったのか!と、急に世界が開かれます。
彼は、自分の死後、東洋の島国の一人の人の中に
そんな世界が生まれる……ってことは、予想だにしなかったでしょう。
でも……生まれた。
これって……すごいことだなあ、と
思います。
第1身体は、すでに滅びても……
それでも、彼にとっては開かれつづける第3身体としての「世界」がある。
結局、何万部売れたとか、展覧会に何万人きたとか……
本質的に、関係ないことなのかもしれません。
一瞬にして伝わるもの。
紙や、画面や、CDや……
そういった媒介手段が、一瞬にして消えてなくなる。
そこでは、たしかに世界は「一つ」です。
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2010/02/12
知らない場所へ行くとき、いつもちょっと緊張します。
そこは、私にとって、まだ「世界」じゃないから。
知らない場所に立ってみて、そこが
フレンドリか、そうでないか。
これは、かなりの差です。
異国になじめる人、なじめない人。
漱石は、ロンドン留学で胃炎になった。
北朝鮮の被害者のように、拉致されてしまう……
これは、究極のアンフレンドリですね。
コアラなんかだと、「世界」はかなり狭いようです。
もといた場所と同じ環境、同じ食物にしてやらないと、すぐに死んじゃう。
逆がセイタカアワダチソウで、日本に根付いてススキを駆逐しました。
こういう力の差って、どうなんだろう……
第3身体は、必ず「共有」になるから
「世界」というのは、実は「共有」ということかもしれない。
じゃあ第1身体は……というと、これは「個」という幻想でしょう。
「個」が100%になったり0%になったりする。
個が濃くなってくると……それは第1身体として意識され
薄くなってくると……第3身体としてとらえられるようになる。
そういうことなのかもしれません。
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2010/02/11
世界は、そこにあるものではなく……
私が、世界に受け入れられることによって
そこに、つくられるものだと思います。
私の第3身体である「世界」は……
私の第1身体が、そこに受け入れられることによって
はじめてそこに、現われてくる。
私を受け入れない世界は、私にとっては無。
私を受け入れる世界が、私にとって、ある。
世界のどこも、知識として知っているだけでは「有る」にはならない。
そういう世界を「そこにある」と思ってしまうのは……
人間の脳に与えられた、おおいなる錯覚……なのでしょう。
渡り鳥や回遊魚にとって、世界はどう見えて、どうあるのだろうか。
自分の第1身体があるところ……彼らにとっては、やはりそこが世界。
なので……第1身体が動いていくにつれて、世界がそこに、つぎつぎとひらけてくる。
人間は……渡りのルートや回遊の道筋を考える。
でも、かれらにとっては、おそらくそういうものはない。
つぎつぎと開かれて、自分を受け入れてくれる世界……
やっぱり、彼らにとっては、それこそが「世界」なのでしょう。
目的地とかルートって考え方がない。
そういうものは、人の第1身体にとりつく第2身体……なのかもしれません。
おそらく……
地球上のいきものにおいて、人間だけにある第2身体(財産)。
これを介するから、人は、本当の第3身体のことがわからなくなる。
第2身体というものは、おそらくは人の脳のつくりだした複雑怪奇な妄想。
それが消えたら……消えることがあったら……
そのときはじめて「世界」は
私の前に、その本当の姿を現す……のでしょう。
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2010/02/10
リチャード・ロング。
山行水行……
だいぶ前に、世田谷区立美術館で見ました。
イギリスの現代美術家ですが、
まるで、日本の禅僧のようなイメージの方。
この人は、「地元の泥」で作品をつくる。
美術館の壁には、世田谷の泥が……
はかなくも美しい模様を、見る人に語りかけるように
描かれておりました。
マップの上に、自らが踏んだ地をしるした作品もあった。
うーん、これは、正直。
現代美術なんて、ひねた、こむずかしい……
と思うと、良い意味でうらぎられます。
ストレート。しかも気負わない。
淡々と……ただもくもくと
やるべきことだけを、きちんと納めていく……
これは、なんか、やっぱり「悟り」ですね。
月並みな言葉だけど。
私の第3身体は、なんだろう……
私の第3身体は、どうやって、そこに現われるのか……
そんなことを、考えさせられました。
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2010/02/09
私の第3身体は、私の第1身体が、のし歩いていく場として、形成される。
赤ん坊のころは、ベビー布団とかベビーベッドの範囲だけ。
それが次第に大きくなって、部屋全体になり、家全体になり、ついに外にでる。
もっとも、親に運ばれて着地した地点で、飛び地をつくりますが。
交通機関を使えるようになりますと、さらに範囲は広がります。
でも、交通機関に運ばれている区間は、はっきりいって「未踏」の地です。
飛行機なんかで海外にいく。
これはもう、はっきりと「点」攻略になる。
着いた先で、足で歩いたところだけが、自分の第3身体になります。
知り合いで、日本の海岸線の一周をやっている人がいます。
むろん、徒歩で。
のべつ歩いているわけにいかないので、前に終わったところからまたはじめる……ってやりかたですが。
彼は、こうして、日本の4つの島の海岸線を歩きとおしました。
さて、それがどうなの? ということなんですが……
歩いた領域が、彼の第3身体となった。
これは、実際に歩いたその人しかわからないことですね。
私の街。
かつて暮らしていた街は、県庁所在地で、そこそこの規模でした。
でも、私は、その街のほんの一部しか知らない。
一部しか、私の第3身体に、なっていません。
よく行ったところでも……
実際に歩いた道、入ったお店しかわからない。
あとは……ブラックボックス。
よく行ったお店でも……
やっぱり、まったく立ち入っていない空間もある。
うーん。
そうやって考えると……
私の第3身体って、やっぱり点座標なんでしょうかね。
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2010/02/08
独身者と花嫁の出会いは、それは、電気的接触。
一瞬、スパークがおこって、またすぐに無の世界……なのでしょうか。
花嫁の衣装は、独身者たちによって脱がされるためにある。
と同時に、花嫁は、衣装を脱がされる自分自身を、感じる。
花は、自分自身を見るために咲く。
こんなことを、言った人がいた。
なるほど……と思うけれど、でも、論証はできない。
しかし、デュシャンの花嫁は、たしかに
自分自身を見るために装い……
そして、脱がされる自分自身を感じるために、脱がされる。
人の衣服は、いろんな面で、アンビバレンツです。
脱がされるために着る。
着ている自分を見る他人の目のために、着る。
その他人の目にのって、自分自身を見るために、着る。
こういう複雑怪奇なしつらえが、人にとっては
とてもおいしい心の食物になるので……
だから人は、なにも着けない第1身体で
生まれてくるのかもしれません……
人の第2身体は
自分と他人が、そこで切り結ぶ場であり……
また、自分と、他人を迂回した自分が
そこで、再び出会う場……でもある。
独身者たちによって衣服を脱がされる花嫁……
どう考えてもこれは
良くできている、一瞬の物語。
*写真は、東京大学にある「大ガラス東京ヴァージョン」
デュシャンのメモである「グリーンボックス」の解析によって、再制作された。
ただし、レプリカではなく、生前のデュシャンによって「ホンモノである」と烙印を押されたホンモノ。だそうです。
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2010/02/07
デュシャンの「花嫁」の原型は、よく知られているように、「階段を降りるヌード」と題された一連の作品なのでしょう。
「階段を降りるヌード」では、「ヌード」という言葉があるから、これは衣服をつけていない、第1身体そのものの状態だと思われます。
これに対し、「大ガラス」の花嫁は、独身者たちによって「裸にされた」とあるところから、第2身体、つまり衣服を脱がされた「ネイクド」の状態。
どちらも「裸」なのだけれど、ある意味、大きな落差がある。
ヌードデッサンなんかのときにも、モデルさんは、バスローブなんかをまとった状態で現れて、パッと脱ぎます。
ふつうに服を着ている状態から、一枚一枚脱いでいく……ということはやりません。
「階段を降りるヌード」は、デッサンのモデルさんのような状態だけれど、「大ガラス」の花嫁は、まさにストリップ・ショーそのものです。
独身者たちの制服の鎧の中に充満するガスの欲望が、花嫁の衣装を、一枚一枚はいでいく。
それは、まずは想像の中で……
ところが、この独身者たちの欲望に点火するのは、花嫁そのもの……。
花嫁は、そのことを、いったいどれだれ自覚的に知っているのだろうか。
たとえば最近の、街をゆく若い女性の服装は、過激です。
下着じゃないの?とか、ほとんどお尻の見えているジーンズとか……
彼女たちにとってみれば、それは、「かわいいー」とか「セクシー」とかのファッション用語領域にはいるものかもしれないけれど、男性の目は、やっぱりちがう。
男性は、独身者となるとき、自らを鎧で固めて、その内部には「欲望のガス」が、ふつふつとたまりはじめる。
デュシャンの独身者たちが、制服で身を固めているのは、わかる気がします。
独身者の気配を感じた花嫁は、花嫁自身の目とともに、独身者の目も、もちはじめる。
独身者のまなざしは単純明快で、「欲望のガス」そのものだけれど
花嫁の2重のまなざしは複雑で、その分だけ「快感」も大きいのかも。
うーん。これはやっぱり、オソロシイ作品だ……。
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