空丸

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空丸

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    Works 53
  • インスタレーション・2

    インスタレーションは、物語に、似ている。

    なんか順序があって、「読み出し」可能。

    でも、彫刻は、ごろっとしたカタマリ。
    そこに、そのままにあって、それ以上どうしようもない。

    平面作品の中には、時空が封印されている。
    凍結凝固されてしまっている……といってもいいかもしれない。

    平面作品に格納された物語は、ふつう、見る人が読み解いていくのだけれど……
    それを作者がやろうとする……そこで、インスタレーションになる。

    そんな気がします。

    作者によってひきずりだされた「物語」は、平面からはみ出し、空間に居場所を求める。
    空間は、物語に彩られて、特有のにおいを持ちはじめる。

    お、インスタレーション……

    そう思う、抱合体のできあがり、です。

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  • インスタレーション・1

    インスタレーションって、なんだろう?

    彫刻と、どうちがうの??

    この言葉がよく使われるようになったとき、そんな疑問を持った。

    でも、だんだんわかってきました。


    以前、ある彫刻家の個展に行った。

    会場に入ったとき、なんか違和感があった。

    この人、自分の作品のことしか考えてない。

    作品が空間に配置されてどうの……
    なんて全く眼中になく
    ただ、作品そのものにしか関心がない。

    このとき……
    彫刻とインスタレーションは、まったく違うものである!
    ということが、わかった。


    彫刻は、元から立体。3次元。

    インスタレーションは、平面。2次元の発展形。

    私にとっては、ちょっとした「発見」でした。

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  • 第3身体のこと・12

    私は、自分の身体のこともわからないし、世界のこともわからない。

    第1身体と第3身体は、私にとって、ブラックボックスになっている。

    第1身体と第3身体が接するところに現われる、第2身体。
    これが、いちばんよくわかります。

    第1身体と第3身体は、自然。

    これに対して、第2身体は、いろんな意味において、「人の技」。

    アルスともいい、テクネーともいう。

    アートであり、またテクノロジーでもある。

    テクノロジーは、第1身体にくいこんでいって、これを明らかにしようとする。
    第1身体を覗くための装置の代表は、顕微鏡(ミクロスコープ)。

    また、テクノロジーは、第3身体の領域深くさぐって、神秘を見ようとする。
    第3身体を覗くための装置の代表は、望遠鏡(テレスコープ)。

    人の、第2身体は、どこまで拡張できるのか……

    そして……ついに、至りえなかった領域。

    第1身体と第3身体の奥の院は、合体して

    ヌメノン、物自体

    となる。

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  • 第3身体のこと・11

    グレン・グールドというピアニストがいます。

    彼は、1946年、コンサート・ドロップアウトを宣言。以後、ステージには立たず、スタジオ録音のみで演奏を発表しつづけた。

    「世界」は、彼にとって、アンフレンドリなものだったのだろうか。

    少なくとも、レコードやCDやフィルムでつながっていく「世界」は、彼を受け入れ、また彼が受け入れられる世界でありつづけたようです。

    人は、なにをもって、「世界」をフレンドリと感じたり、そうではないと思ったりするんだろう……

    個展を開いても、1週間でお客さんが100人にも届かない。
    なんか、むなしい気もします。

    でも……
    たまたま来たという若い女性。
    何十分も見てくれて、感想を述べてくれた。
    そこに……「あっ、伝わった」と感じた。
    これで、十分という気もします。

    私を、受け入れてくれる世界。
    それは……また、見知らぬ人の一言だったりする。
    そこに、「世界」が、生まれます。

    ずっと以前に亡くなった哲学者の本の一節。
    そこを読んで、はっと目が開かれたりする。
    ああ……そうだったのか!と、急に世界が開かれます。

    彼は、自分の死後、東洋の島国の一人の人の中に
    そんな世界が生まれる……ってことは、予想だにしなかったでしょう。
    でも……生まれた。
    これって……すごいことだなあ、と
    思います。

    第1身体は、すでに滅びても……
    それでも、彼にとっては開かれつづける第3身体としての「世界」がある。

    結局、何万部売れたとか、展覧会に何万人きたとか……
    本質的に、関係ないことなのかもしれません。

    一瞬にして伝わるもの。
    紙や、画面や、CDや……
    そういった媒介手段が、一瞬にして消えてなくなる。

    そこでは、たしかに世界は「一つ」です。

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  • 第3身体のこと・10

    知らない場所へ行くとき、いつもちょっと緊張します。
    そこは、私にとって、まだ「世界」じゃないから。

    知らない場所に立ってみて、そこが
    フレンドリか、そうでないか。
    これは、かなりの差です。

    異国になじめる人、なじめない人。
    漱石は、ロンドン留学で胃炎になった。

    北朝鮮の被害者のように、拉致されてしまう……
    これは、究極のアンフレンドリですね。

    コアラなんかだと、「世界」はかなり狭いようです。
    もといた場所と同じ環境、同じ食物にしてやらないと、すぐに死んじゃう。

    逆がセイタカアワダチソウで、日本に根付いてススキを駆逐しました。

    こういう力の差って、どうなんだろう……

    第3身体は、必ず「共有」になるから
    「世界」というのは、実は「共有」ということかもしれない。

    じゃあ第1身体は……というと、これは「個」という幻想でしょう。

    「個」が100%になったり0%になったりする。

    個が濃くなってくると……それは第1身体として意識され
    薄くなってくると……第3身体としてとらえられるようになる。
    そういうことなのかもしれません。

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  • 第3身体のこと・9

    世界は、そこにあるものではなく……
    私が、世界に受け入れられることによって
    そこに、つくられるものだと思います。

    私の第3身体である「世界」は……
    私の第1身体が、そこに受け入れられることによって
    はじめてそこに、現われてくる。

    私を受け入れない世界は、私にとっては無。
    私を受け入れる世界が、私にとって、ある。

    世界のどこも、知識として知っているだけでは「有る」にはならない。
    そういう世界を「そこにある」と思ってしまうのは……
    人間の脳に与えられた、おおいなる錯覚……なのでしょう。

    渡り鳥や回遊魚にとって、世界はどう見えて、どうあるのだろうか。
    自分の第1身体があるところ……彼らにとっては、やはりそこが世界。
    なので……第1身体が動いていくにつれて、世界がそこに、つぎつぎとひらけてくる。

    人間は……渡りのルートや回遊の道筋を考える。
    でも、かれらにとっては、おそらくそういうものはない。

    つぎつぎと開かれて、自分を受け入れてくれる世界……
    やっぱり、彼らにとっては、それこそが「世界」なのでしょう。

    目的地とかルートって考え方がない。
    そういうものは、人の第1身体にとりつく第2身体……なのかもしれません。

    おそらく……
    地球上のいきものにおいて、人間だけにある第2身体(財産)。
    これを介するから、人は、本当の第3身体のことがわからなくなる。

    第2身体というものは、おそらくは人の脳のつくりだした複雑怪奇な妄想。
    それが消えたら……消えることがあったら……
    そのときはじめて「世界」は
    私の前に、その本当の姿を現す……のでしょう。

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  • 第3身体のこと・8

    リチャード・ロング。

    山行水行……

    だいぶ前に、世田谷区立美術館で見ました。

    イギリスの現代美術家ですが、
    まるで、日本の禅僧のようなイメージの方。

    この人は、「地元の泥」で作品をつくる。

    美術館の壁には、世田谷の泥が……
    はかなくも美しい模様を、見る人に語りかけるように
    描かれておりました。

    マップの上に、自らが踏んだ地をしるした作品もあった。

    うーん、これは、正直。

    現代美術なんて、ひねた、こむずかしい……
    と思うと、良い意味でうらぎられます。

    ストレート。しかも気負わない。

    淡々と……ただもくもくと
    やるべきことだけを、きちんと納めていく……

    これは、なんか、やっぱり「悟り」ですね。
    月並みな言葉だけど。

    私の第3身体は、なんだろう……

    私の第3身体は、どうやって、そこに現われるのか……

    そんなことを、考えさせられました。

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  • 第3身体のこと・7

    私の第3身体は、私の第1身体が、のし歩いていく場として、形成される。

    赤ん坊のころは、ベビー布団とかベビーベッドの範囲だけ。
    それが次第に大きくなって、部屋全体になり、家全体になり、ついに外にでる。

    もっとも、親に運ばれて着地した地点で、飛び地をつくりますが。

    交通機関を使えるようになりますと、さらに範囲は広がります。
    でも、交通機関に運ばれている区間は、はっきりいって「未踏」の地です。

    飛行機なんかで海外にいく。
    これはもう、はっきりと「点」攻略になる。
    着いた先で、足で歩いたところだけが、自分の第3身体になります。

    知り合いで、日本の海岸線の一周をやっている人がいます。
    むろん、徒歩で。

    のべつ歩いているわけにいかないので、前に終わったところからまたはじめる……ってやりかたですが。
    彼は、こうして、日本の4つの島の海岸線を歩きとおしました。

    さて、それがどうなの? ということなんですが……
    歩いた領域が、彼の第3身体となった。
    これは、実際に歩いたその人しかわからないことですね。

    私の街。
    かつて暮らしていた街は、県庁所在地で、そこそこの規模でした。
    でも、私は、その街のほんの一部しか知らない。
    一部しか、私の第3身体に、なっていません。

    よく行ったところでも……
    実際に歩いた道、入ったお店しかわからない。
    あとは……ブラックボックス。

    よく行ったお店でも……
    やっぱり、まったく立ち入っていない空間もある。

    うーん。
    そうやって考えると……
    私の第3身体って、やっぱり点座標なんでしょうかね。

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  • 第2身体のこと・12

    独身者と花嫁の出会いは、それは、電気的接触。
    一瞬、スパークがおこって、またすぐに無の世界……なのでしょうか。

    花嫁の衣装は、独身者たちによって脱がされるためにある。
    と同時に、花嫁は、衣装を脱がされる自分自身を、感じる。

    花は、自分自身を見るために咲く。

    こんなことを、言った人がいた。

    なるほど……と思うけれど、でも、論証はできない。

    しかし、デュシャンの花嫁は、たしかに
    自分自身を見るために装い……
    そして、脱がされる自分自身を感じるために、脱がされる。

    人の衣服は、いろんな面で、アンビバレンツです。

    脱がされるために着る。

    着ている自分を見る他人の目のために、着る。

    その他人の目にのって、自分自身を見るために、着る。

    こういう複雑怪奇なしつらえが、人にとっては
    とてもおいしい心の食物になるので……

    だから人は、なにも着けない第1身体で
    生まれてくるのかもしれません……

    人の第2身体は
    自分と他人が、そこで切り結ぶ場であり……
    また、自分と、他人を迂回した自分が
    そこで、再び出会う場……でもある。

    独身者たちによって衣服を脱がされる花嫁……

    どう考えてもこれは
    良くできている、一瞬の物語。

    *写真は、東京大学にある「大ガラス東京ヴァージョン」
    デュシャンのメモである「グリーンボックス」の解析によって、再制作された。
    ただし、レプリカではなく、生前のデュシャンによって「ホンモノである」と烙印を押されたホンモノ。だそうです。

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  • 第2身体のこと・11

    デュシャンの「花嫁」の原型は、よく知られているように、「階段を降りるヌード」と題された一連の作品なのでしょう。

    「階段を降りるヌード」では、「ヌード」という言葉があるから、これは衣服をつけていない、第1身体そのものの状態だと思われます。

    これに対し、「大ガラス」の花嫁は、独身者たちによって「裸にされた」とあるところから、第2身体、つまり衣服を脱がされた「ネイクド」の状態。
    どちらも「裸」なのだけれど、ある意味、大きな落差がある。

    ヌードデッサンなんかのときにも、モデルさんは、バスローブなんかをまとった状態で現れて、パッと脱ぎます。
    ふつうに服を着ている状態から、一枚一枚脱いでいく……ということはやりません。

    「階段を降りるヌード」は、デッサンのモデルさんのような状態だけれど、「大ガラス」の花嫁は、まさにストリップ・ショーそのものです。

    独身者たちの制服の鎧の中に充満するガスの欲望が、花嫁の衣装を、一枚一枚はいでいく。
    それは、まずは想像の中で……

    ところが、この独身者たちの欲望に点火するのは、花嫁そのもの……。
    花嫁は、そのことを、いったいどれだれ自覚的に知っているのだろうか。

    たとえば最近の、街をゆく若い女性の服装は、過激です。

    下着じゃないの?とか、ほとんどお尻の見えているジーンズとか……

    彼女たちにとってみれば、それは、「かわいいー」とか「セクシー」とかのファッション用語領域にはいるものかもしれないけれど、男性の目は、やっぱりちがう。

    男性は、独身者となるとき、自らを鎧で固めて、その内部には「欲望のガス」が、ふつふつとたまりはじめる。

    デュシャンの独身者たちが、制服で身を固めているのは、わかる気がします。

    独身者の気配を感じた花嫁は、花嫁自身の目とともに、独身者の目も、もちはじめる。

    独身者のまなざしは単純明快で、「欲望のガス」そのものだけれど
    花嫁の2重のまなざしは複雑で、その分だけ「快感」も大きいのかも。

    うーん。これはやっぱり、オソロシイ作品だ……。

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