揶白 (KF)

絵画

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揶白 (KF)

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揶白 (KF)

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    Works 46
  • 平和一心

    平和を考えた時、自分は自分の自然体が大事。これは遂げる。

     

     

    (ム)蟲ーがいて、それを後から聞く半(ム)ーがいて、奉献と書かれた石像の下、

    頑張った

    後から、袋閉じのような形で(ム)蟲ーが入ってる。

     

    自分も神のおおもとを得たのだ。「霊格」が人につく、力がつくと言う意味。

     

     

     

     

    このつくが、付くなのに、自己外を表す付着とかぶる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    (ム)蟲ーや、悪いやつのガイコツ音が響いた時、困惑するのは、辛いことを忘れているから。 

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  • 言葉が戻る

    成長は、小さい時の自分からではなく全体性を思った自分から始めているのではないか、と思う時がある。哲学をしなければ答えにならない。こう思うと哲学は、誰かと考える、と言う意味かもしれないと思う。

     

     

    日本には哲学がない、と母に言うと祖が出てきて、ずっとやってたで!と怒っていた。

     

     

     

     

    私は今、神秘的な勉強中。

     

     

     

    良さ悪さを視るを修行している。それだけを叩き込む毎日を影でしていたのは本当。

     

     

    因果因縁を絡めた神を感じても、目は半目に閉じる。

     

     

    憧れの真っ只中、そんな仙人界岩からは、

     

     

     

     

    自分の脳を移動させる、ならともかく、

     

    そいつは、いくら脳をよそに出して、肉欲で遠くからでも遥々見つかっているのを人をよそにまず眺める。

     

     

    脳を粗末にしている。

     

     

     

    そもそもそれを見る修行が、技術を名乗る為に最もふさわしい形。とは、私は知らない。その様子を見た人が、合わなければ、知識として小さく置いておく。これは、私はわかる。

     

     

    粗末にしている、日本語。

    crude、英語。

     

     

    粗末、だけでは対象に

    届かないが、英語ではこんなに小さく

    している、という動詞が一つになっている。

     

     

     

     

    脳を粗末にしているやつ、

     

     

    こういったやつを上から映す宿りの私で、何かの霊感で映ることがあり、私をそいつと思っても、感じが合わず、時空が先に違ってすぐに剥離するから私は平然と上手くいっている、と感じる。修正力が地球にあり、映らないと思うが、私は精神上すこぶる健やかで、すぐに悪いことや老廃ものなどは失せている。感情の消化力が猛烈に高く、暗所でオタク活動をする事が趣味、そこから出た覚えは寧ろ一度もなく、趣味は人には言えないでいる。

     

    昨日、オオクニが映した私は、良い私。願う。

     

     

    付着するもの、肉体の重さに浮き上がるもの、波長が合わないのだ。わかっているのに混同させ、私をそいつと同一視する目は決まって力がないから何を以っても言うことがない。次元上すぐに剥離するからだ。悪いことを肯定する人は弱いからだ。まして精神上という。

     

     

     

     

    同じ人で、同じ重さの時は噛み合うだろうけど、精神などに肉体から襲いかかってるようなやつがいくら何を持っててものを投げても次の瞬間無効化されるのが普通で、聞きの良い人が絡まっても形状は直るから心配ない。老廃は、身体の代謝を高めたり、悪いと思うことを何とか諦めたりしないと自分自身に溜まるから、沈んで行くから放っておくのだ。そう生きる真っ当な努力の中、何か力が集まって、事故や騒動の原因に辿りつくまでが遅かった。「過信」と神は言っていた。

     

     

    悪いと察知するそいつたちの行く道、いつも良いと感じる私の道、は違う。浮くことを雲の様に自意識的に感じれるような余裕のある人はいて、余裕という間を挟んだ感覚は「心境」だろう。浮かべずしつこい悪霊がいても時間なんて合わさってない事がわかる。地球にすらいないかもしれないやつの言うことを、観察という取り組みもせず感覚的にわけもわからず聞くから、おじけていると私は捕らえる。

     

     

     

     

    良いことをしても神に出会わなければいけない。それを起こすような愛情が地柄的になく、それを愛していて、騒動もあった。どんな向上心を与えてもやる気のなかった人を遥かから感じ取り、しかも想像が出来たのだ。それはわりと自分が一緒に考えたかった人々と同時に思えるのである。

     

    気になるのは、理解してて精神上であれこれ心配するなら、意識を戻し、他人の強さに文句を言っているより帰って自分の精神を特訓するのが、いつもしていたじゃないか。離れても信じれる他人が安心する変わらない自分。この切り替えしと繰り返しはいつもしていたのだ。光は、人が祈る限り神の都合でくるくる回る。任せよう。

     

     

    いつもそうではなくその時だけで、あとは綺麗に忘れて生活をしている。

     

     

     

    それが早いように自然に触れていることが良く、高ぶると自分でないから執着が沸く、しかし、

    高ぶるがしっかりと目的に帰結するから空が見える。高ぶるが、その人の物でしかも自覚している私は、善が上にちゃんとある。

     

     

    逃げ合うかもしれない所を執着という言葉に纏めた高僧に感謝。

     

     

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  • あれとこれとを下手でも分けている

    精神上の仕事を大きく整理する。

     

     

     

    ツータイプ

    ①別れる別れないじゃない

    ②離れてるから離す

     

     

    山吹色と青色くらい形に差のあるこれらだけを毎日考えている。あんまり見えることではないが、霊視出来ないと。

     

     

     

     

     

    ほか、くろいものは仏に渡す。

     

     

     

    この行いの前提としてまず祈り、怯えても神に目を合わせつつ空に勢いよく投げても人間には想像出来ないが必死に取りに行かれていると思う。辛抱して悪いことを諦める過程で、神仏に謝るとその絵に奥行が見える。「謝」は何か。感謝も、神的にはただ感じる心と言って、何もしない為に必要な、人間の時間だ。

     

    この時間に、削ぎ落とす、もっとと言って増やすおばん、くっ付ける、そんなものを止めるやつがいなかったと、怒っていた。

     

     

     

     

    醜美もあらへん。感じる時間が、気持ち悪い無駄な時間に潰れて行く。地球っぽくない、まして自然観を前提にする「何か」を目指す事とは変わり違い過ぎる。

     

    人は当然何かしたいが、それなりに我慢して光を得ている。人体があっても脳のみで完成するなら仕方がないはない。テストもあらへん。目にこそ付くことはないが両極端なおばんは精神的に肉欲しく自分の夢を得ないからそいつの希望は省かれている。夢が「絶望」とそいつが言っても、そう気取りある生のものではなく、絶望する自分、これが希望だからだ。鏡を離す自分なんて想像は皆目見当がつかないだろう。人類でも初めて説明した。

     

    脳のみで完成する、いつかそうしたい、素敵だ、そう精神的な理想を得る人とも違う。

     

     

     

    鏡から自分が解脱するのに何年もかかるから、私は付着せずに解脱をして宿る。一段階上だ。付着している人とは高レベやむずかしいものから始めるし、多いものと聞いただけで剥離する。余裕がある。

     

    知らないひとを怒らないし、知らないひとにつく嘘もない。これが愛情の川である!

     

     

     

     

    正気に戻った時、人生をこれだけで明かせることが、数えるといくらでもある。数えることで目に見えてそのまま見渡すと「本腰」になる。普通は執着も忘れる。おはようの時間は人それぞれ。たとえ必要な明示が止められ遅れても、そこに神は必ずいる。

     

     

     

    いくら思い込みをしていても、神的には弱い肉欲に思いを見るような目はないからだ。時空、つまり肉体が重なること、精神が重なること、は現に起こらない。私は、現は手に霊が映ることをやって行きたい。

     

     

     

     

     

     

     

    何の辛みもなく、手足も動かすことなく脳などでひたすら自分が優しくしたいは自惚れの他なく、私とは立ち位置が全く異なって理由的に優しくする人とは関係性は今後も生じず、

     

    まず、自他を間違えるようなやつは二十からは見ない。

     

     

    そいつに優しくされても今まで何の良い影響もなく、

     

     

     

    (ム)蟲ーの引いた線をケチに自分のものと思って使うやつも、(ム)蟲ー側が長い為に心ははっきり距離が生じ、地球にいても出会うことはない。

     

     

    そもそもそいつは私を見る力が途方にないのでは。神なんてもっと無理。

     

     

    そいつの引っ張ってる私自身が、そんな犯罪をはっきりしたことも、二十から自他を間違えたこともないからだ。

     

     

     

    そいつは、(ム)蟲ーのしたことを私のせいにするが、責任っぽく言うけどお前が肉体的にそう思う限り肉体的な(ム)蟲ーとはそいつのもので、責任とはそんな単純なことから離脱した精神上の言葉だ。更に、私に出会ったこともよしもないそいつの(ム)蟲ーが粘着質だ。悪い意味での。私は見分けない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 成人している人間がそれが嫌と言っていることを深く考えられへん

    受け取ったことばから押し込められるのではなく、自分で砕く。目についた単語を自分で砕くと、錬金して違う石になる。目につくハンマー、辞書や書籍。重いやつ、軽いやつ。

     

     

     

    知らないのに深く考えられへん、

     

     

    悪いことはやめて

     

     

    一銭かなると思ったやろ、それはそいつの回る所がもうデッドで。そいつが回ってる直下には気の良い方を力強く隠している。生死を伴う大々的宇宙の実感をしている中で、平々な顔でそいつを使おうなんてしたら、古くもない過去からずっとそうしてきたそいつの地球歴や宇宙間的本当のカス如く姿、これを見ると、

     

    過去に渦巻く殺された人間、良い人とはあなたから離れる。先もあるのに。努力は長い。なんの生きているや住まいその前提を見失い、人間を故意に慣らせる様な悪質な事が、過去あったとして、二回目として言ったら除外やねん。それは、裏でも表でも言い負かして通じる事のないから、現れる。強い者が現れ、現れた者の上により強い神がいて周りを睨む。触らない、とは現に納得している自分、現物として納得している自分までで、急いで目を下にやったり、瞼を閉じなければならない。「誰かわからない。」親しんでいないから誰かわからない。

     

     

    じゃあ、そこからこういう風に考えよう、そう思って前を向いて忘れるが、

     

     

    辛いと思っでそうしたのは誰?

     

    そういうあんたは存在することに自信があらなあかん。あんたという人がそいつと一緒に辛んだらフコウやねん。自信は

    ムネを張ることじゃない。

     

     

    「わたし」は、過去からずっとその世界の勉強やねん。想像する自分に近づく。そうしていると世界の輪郭を感じとる。そして見渡せる。

     

     

     

     

    正義とか善を考えると、ステップを踏んだから、

     

     

    単純にその勉強になるのが、

     

     

    一直線に視える。

     

     

     

     

    何も置いていけない自分が、その心が固まってないのに何も話せない。小さい子たちが成長するのは「わたし」に増して悩むことをするようになる、こどもたちが成長するのではなくあなたになる、わたしになる。私の時点で成長など考えなかったひとは「こどもたち」は早い。だから、自分のリズムを信用したい。もっと良い絵や光景を思い浮かべている。見えてるか見えてないか覚束ない自分の周りで全ての話を終了する気か。

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  • 自信の前後が全然わからない

    これは、成長度だ!

     

     

     

     

    石を題に縦積みのタワー式と、分別形。どうしてこのような違いかたをするのか、最もな考えを不思議に沿わせる為に。そう思うのは、実際に目で古墳を見て感じ取った私の心、人と心が一致するからだ。

    私の分別能力に、バーバパパの分別力が間に合うか、こう先で光が見えるが今はよしにして一度閉じ、ひょんな光、楽しい未来に渡し続ける。

    「自分」は情熱を燃やし、肉から油をきった時に、新しい光がまた溢れ落ちるのだろう。

     

    並べてみて、二つ並べてみたところで世界の秘密はわからない。わからないと知った。

     

     

     

    外的内的の、主観「村人(ムラキャ)」を自分で打ち抽出した。その輪郭となるのは華。客観的なを継ぐ客体の事だ。村に華からしても、決して現れることもないと思っっていた主。知らなかった主観の言葉は、まだ。

     

     

     

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  • 歳が有れば

     

     

    歳が「有れ」ば、自分がどれくらいの貯金があって、これだけはと抱えることが出来る。だから、どれくらい払えるかがわかる。そして、

     

     

    男女も二つに髪を結った麻の着る美しい、裸足で森でも街(もり)でも駆け巡る菩薩が、私たちを見守ってくれている。

     

    大きな石を、賢さで動かす光は、天女なら何故「私の答え」が天女なのだろう?と考える。天女と天神を測る静かな天秤の前。

     

    傾きは、なにで直るのだろう?

     

     

    人は、祖を見て、人は「このレベル」がこんなに低いを知って嬉しかった。と、言った。不安でたまらずほんとにほんとに安心したから。

     

     

    本当に歳はなく、心の広さを知るのは、歳が私の順序になる。前者はのっぺりした数だが、もう少し美しさがある。向こうが霊格で、こちらが肉体では重さが吊り合わない。「繋がりが無い」ということになる。

     

     

     

     

    (ム)蟲ー、このニュアンスは最初に高い、嬉しい霊界で言うと、

     

    ・重くてすすめない

     

     

    決して地蔵通りでもたのしい。その知識だけをわくのように取り、中身も内容も生じない。そのヒトは知識を待っていない。本人は、知識と理解したのではなく、悪いことをしたから急いで自分から逃げる中の取っ掛かりを覚えている。何事にも定着しない、その目の座った様子は、他周りの人間の優しさがロールケーキか切り株に見える。よく見えないが、(ム)蟲ーは不安そうにほっとしている。

     

    久しぶりに街から持ち帰った(ム)蟲ーのショットを話そう。

     

    ①食事店。店員「いらっしゃいませ。」蟲「タバコ吸いに来たんですけど。」

     

    ②下品な言葉で女性をからかう僧ムー。拝む。

     

    ③DJムー(レゲエ)

    MC「みんなの愛してるもの、全部俺によこしてくれたら大丈夫やからぁぁー!!Whoooooo!!!」

     

     

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  • 宇宙の川

     

     

    祖神大和の王卑弥呼が伝える為に、人が「自分」をどうしても聞く為に、

     

    一度、私を巫女と言い、語りの亀裂のあったその土地の道を繋ぐ。厳かな顔でこちらにどっしりと座り掛ける祖霊を見た時、それを退かせる私の力を見るのだ。任せることの信用と試し。私は、そういった神社の心ならつづら打ち。巫女とは元のプライドが随分違い、もう太鼓はぼろぼろであった。

     

    缶で出来た、小花が散りばめられた金色のもやの茶入れの柄には闇から来る風のかまいたちが描かれる。心に差し込むかなしみが蓮葉のような形を作り、そこに金色という映えた色が目に映る。乏しい緑の川から自分は溢れこぼれ、道頓堀の堀に流され浮かぶ。死体の様な私自身が、茶入れを包む茶巾となり、悲鳴はまた桃や白の小花になり中で氷っている。

     

     

     

    巫女がいる、歌い手がいる。つづら打ち、「物事の正解が隣だった」と説く。

     

     

    私は温故知新を感じ入ってその素晴らしい景色を真心に描く。霞むくらいの大海、目に映る先には自己がいる。光から、離れられないのだ。

     

     

     

     

     

    様々な前司を述べられ、光が心を通る中。鬼島に残る迎え船の行く理由を知った。「俊寛」の演目がその月に松竹座にあった。

     

     

    行為とは、自分に起こっている心の活動であり、

     

    起こす本人たちが、自分さえ感じ取れないものとして行動をするがそこに他者が映ったためしはない。それは古いやつでもなく、自分はこうしたのだと光りながらきっと消える。「影」に宙という概念ががあれば、恒河沙阿僧祇があり、良さも悪さもその中を登る。私はそれを見てそのヒトに人間じゃない仏が待つ。人の重い命について考える。何故なら、生じる時だけはひとりなのだから。死は必ず誰がいるその場所について語るのは今いる私ではなくもう死んだ人や神なのだ。

     

     

    卑弥呼が伝える為に、人が「自分」をどうしても聞く為に、

     

    一度、私を巫女と言い、語りの亀裂のあったその土地の道を繋ぐ。厳かな顔でこちらにどっしりと座り掛ける霊を見た時、それを退かせる私の力を見るのだ。任せることの信用と試し。私は、そういった神社の心ならつづら打ち。巫女とは元のプライドが随分違い、もう太鼓はぼろぼろであった。

     

    缶で出来た、小花が散りばめられた金色のもやの茶入れの柄には闇から来る風のかまいたちが描かれる。心に差し込むかなしみが蓮葉のような形を作り、そこに金色という映えた色が目に映る。乏しい緑の川から自分は溢れこぼれ、道頓堀の堀に流され浮かぶ。死体の様な私自身が、茶入れを包む茶巾となり、悲鳴はまた桃や白の小花になり中で氷っている。

     

     

     

    巫女がいる、歌い手がいる。つづら打ち、「物事の正解が隣だった」と説く。

     

     

    私は温故知新を感じ入ってその素晴らしい景色を真心に描く。霞むくらいの大海、目に映る先には自己がいる。光から、離れられないのだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

    行為とは、自分に起こっている心の活動であり、

     

    起こす本人たちが、自分さえ感じ取れないものとして行動をするがそこに他者が映ったためしはない。それは古いやつでもなく、自分はこうしたのだと光りながらきっと消える。「影」に宙という概念ががあれば、恒河沙阿僧祇があり、良さも悪さもその中を登る。私はそれを見てそのヒトに人間じゃない仏が待つ。人の重い命について考える。何故なら、生じる時だけはひとりなのだから。死は必ず誰がいるその場所について語るのは今いる私ではなくもう死んだ人や神なのだ。

     

     

     

     

     

     

    これはさっきの茶入の色違い。もっとラクに捉えて、人が笑えることを許せる人になって欲しい。

     

     

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  • 安全、自分を見返る

    誰かに見られてる、と思ったら大違い。この場合、「誰か」ではなく、「何か」である。だから、「何?」である。法華経で「所以者何…誰かではなく、何か異なるもの。おまけで「者」と言ってあげる。」と書いてある。

     

     

     

     

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  • 脚立から落ちて灯篭が倒れて来た話

    枝を伐る時、

    脚立に乗っていて3メートルから落ちた。灯篭の方に引き寄せられ、

    灯篭がまさか落ちてきて、腕で払った。へし折れた脚立が倒れてきて灯篭が同じ方向に倒れるから、その下にいた。灯篭と脚立が同じ方向に倒れる。脚立にはチェーンがついていて開かないようになっている。脚立が倒れてへし折れ、灯篭が落ちてきた。地面に落ちたらジャンプして助かる。

     

    灯篭を腕で払って助かった。それを家の人が見ていたから、頭も落ちたら危ないって言われたから、病院につれてもらって捻挫で済んだ。

     

     

     

    灯篭

     

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  • 詩の遠くを視る心

    独白人格一致

    2010/01/30

     

    制作

    日本の作品群を一筋の歴史の流れがあるのだろうか。



    つぼみ、花、種といった前後関係としての現象で大概すると、


    (1)宗教、イデオロギー、人間理性への理想などの目に見えない閉目塞聡の自己特定
     ↓

    (2)映像、音楽などの目に見える外部記憶による自己投影
     ↓

    (3)動物化した10代による二次創作の10年後(必ず成長しているはず)の姿は?



    ということになる。

    同一の人格を一致した人になるのか、映像メディアでは現実が性的に不一致となるため分裂的、多重人格的になるのか、それらのどちらになるのだろう。



    自分の中でしっくりくる絵。私の分身。文化的遺伝子の利己的コピー。


    どのような言い方でもいいのだが、

    「私の個性だけが持った感覚」という内部感覚と、

    作品=外部記憶とが同じものとなるときにはじめて作家は同一性とオリジナリティを獲得するのだ。

    こうした鏡像的な共感となる例は思いのほか少ない。

    というかほとんどない。まれ。多くは現代の生活と絵を描いている自分との異なる二面性を持った解離的な生活のなかにある。





    20世紀絵画の歴史でも分裂。西欧大陸内派と外派とで大きく分裂をし、

    おおまかに言えばシュールレアリスム(物語)と抽象表現主義(痕跡の現象)とに分化していき、単に絵を描くといった行為にとどまらず、

    ますます知的で複雑な多重人格者となっていった。



    どちらかといえば、異なるを主義であっても両方やっちゃうような生活の反面を回避したのだろう。棲み分けれない。

    ややこしい。




    わかりやすく現代日本と西欧絵画との不一致な関係とはこう考えてもらいたい。



    (A)シュールレアリスムは物語であるためほとんどスキャナーなどでデータ化することができた。よって現代の日本に伝えられた。

    (B)抽象表現主義は人生論であるため、パソコンなどに取り込むことができなかった。日本には伝わらなかった。




    日本でシュールは流布したが、西欧の抽象は日本ではやらなかった理由である。



    それではここで登場した上記(A)の物語論と(B)の表現論とに切り分けて概要をほんの少し述べよう。

    まずデジタルな物語論の中には時間の幅と物語表現(キャラ/キャラクター)が含まれている。

    一方、アナログな表現論の方では、過去の描いた跡の残り、加筆はもちろんだが、消去も含めて加算的につみあがっていくタワー式。



    言い換えると、


    ①物語→原稿に漫画、イラスト、連続写真=先に時間という枠があって、その隙間に表現を差し込んでいくという感じ。

    ②表現主義→キャンパスに厚く地塗り=先に過去の表現の痕跡があり、後に連作として時間を持った物語をあらわす。


    つまり、物語とは先に時間が有り、後に表現がくる。
    表現主義は先に表現が来て、後に物語となるのだ。

    互いが逆だ。一致しない。



    これらを聞いてどうおもわれるだろうか。

    ノートにペンで漫画を書く一般的な日本の絵の一面が①、

    西欧的に広いアトリエで巨大なキャンパスに筆で大量の絵具を乗せる一面が②、

    交差することのない平行線のように思われた。




    ざっくりと上記のような二重生活を棲み分け続けていたものの、

    しかしながら現在はこれらをあますところなく統一。

    ①と②をひとつの行程で行えるシステムを改良した。

    物語論をシステムに置き換えたのである。



    その行程とは、

    写真撮影や紙をもちいて原稿作り→入力した画像データを加工→独自にプリント出力したあとこれらをキャンパスに大量の樹脂で貼る。

    という感じだ。



    アナログ→デジタル→アナログとなっている。

    一行程だし、前後関係も保っていられる。

    しかも続けていくうちに、私には目に見えるはずのないデータがついに目に見えたのだ。





    この一連の行程をいいかえれば、

    原稿作り→超平面化→表現主義→・・・

    となる。


    こうしてやってきてはじめて気がついたのだが、(発見のはなしが続出して乱文)



    中沢氏の言うメディア印象論を念頭に、

    アナログは世界感を前後の姿を連続している現象そのものとして感じさせ、

    一方デジタルでは未知の世界へと実際にはつながらず、つながっているそのラインだけを感じさせる、

    コントローラーを握った人の入力の錯覚が引き起こすもの、

    といったミクロコスモスの読後感そのままだ。



    しかしながら論理、抽象とは異なって

    実証的な実践でさらに一言つけくわえるならば、

    透明樹脂であるアナログの方が未知の世界そのものである。

    アナログに未だ隠された世界があったのだ。






    透明な塊。屈折する光。目を疑う光景。遠近感の消失。

    透明な塊に閉じ込めたれた古典技法の人物画というのは実は、

    奥行きが出てリアルに見えるのではなくて、

    奥行き知覚のゆがみが魅せる「完全な非日常」をリアルに感じているのだ。



    他にも紙でレイヤーの重層構造、油性で透明化、水性ボンドで表層化、

    効果といったら乗算、インク溶かす、破る、裏返す、裏彩色、ペンでのグリザイユなど、



    なんのこっちゃわけがわからない。



    イマツF氏はこの知性構造を少しはわかっているようだった。

    なんて頭が良いやつだ。後日、印刷屋の私に写真データを渡してくれるみたいだ。

    それを上記の行程、内容にするのが楽しみでたまらない。



    デジタルの原稿からパソコンでイメージは8割がた思い通りに行えるようになった。

    これはツールの思想があれば安易にできるが、

    アナログの表現主義での過去としての痕跡と見せる技法は上をみてごらんのとおり、

    読んでもまったく意味がわからない。ペン画以外はほとんど偶然から生まれる仕様だ。





    アナログ→デジタル→アナログ

    ときたら察しの良い方はお気づきかもしれないが、

    次は・・・→デジタルとなるだろう。



    独自に作ったマルチ撮影台をつかってアニメにするつもりだ。

    多分2年後に・・・。



    読んでとおり特殊な技法を使うため、

    そのアニメ作画を外注することができずに困り果てて、

    だから身近の人たちに画期的なニス(樹脂)の使い方を伝えていたのだ。

    実は、撮影、デジタル編集、未知の樹脂の技法を使いこなせる人を選んで声をかけていたのは、未来のアニメ制作のためであった。

    ウニプリントをつづけながら、漫画とアニメを作っていくつもりだ。

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    ウニ

    2009/10/24

     

    日記・ブログ

    なかなかHP化ができない。

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    立つ瀬なし

    2009/10/16

     

    日記・ブログ

    すべて「選外」とのハンコをいただいたのは、全国規模の美術の公募。

    1つ落ちて2つ落ちると、不思議なことに3つ目は落ちたも同然の気分であった。

    次の瞬間にはもう気分は転換されていて、よそはよそ、うちはうちと疾風のごとく籠絡を決め込んだ。さっさと旗を丸め終えたあとには、なぜか爽快な気分だ。すべて落選はどういうわけか気持ちいいのである。夕立ちの後腐れのなさよ。空が軽い。DMの表紙のレイアウトをおもいついた。

    手元のほうはまだまだ混雑していて、思いついたばかりのダイレクトメールと、詳細用のHPに手をつけはじめている。

    ちょっとした企画をはじめるところだ。

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    宝塚造形芸術大学が変わる

    2009/10/03

     

    学校

    クリエイターズ・バンクは携帯などのモバイルからでも日記を更新できないものだろうか。自宅はオフえ環境なのでまったく更新できない。いつもauでネット検索したりやウェブメールを見たりしている。

    来年から宝塚造形芸術大学の名前が変わり、「宝塚大学」ヅカ大となる。
    全入制の一般大学になるのだろうか。

    私の通う洋画コースを含め日本画と美術理論、アートセラピーなどこれらをすべてをひとつにまとめた美術学科へと規模を縮小。

    美術学科では教授・生徒ともにけっこう削減かな。来年、当大学から芸大という冠が消えます。

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    お知らせ

    2009/08/03

     

    作品更新

    2009年、宝塚造形大学のアートフェスにてちょっとしたイベントをします。
    詳細は後ほど。

    場所:宝塚造形芸術大学「本音のアートフェス」
    期間:9/20〜9/21の二日間
    HP:http://honne-artfes.com

    団体名「大澤出力センター」
    出典名「プリントクラブ」

    そのため途中経過ですが、現在手がけている作品を少しアップしました。

    大きい画像はこちらから。

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    かんせい

    2009/07/21

     

    活動記録

    したたるインクの先には木目細かな海綿のようなものが行く手をふさぎ、溜め込まれた容器の内にあるすべての顔料たちはそのインクタンクの出口にむかって流れつぎつぎとスポンジに吸い込まれていく。鮮烈な噴出の霧を撒き散らし紙面上をすれすれに横切り空を渡ると、次の瞬間には散布されたわずかな色の数が加えられ、異なる色の粒の集まりが加法と混ざり合う純然たる水溜りの末路を迎えたときにして、色というモノがその実態の姿を見せる摂胞された混色の灰色が残り、細い繊維を濡らしていた。



    印刷物を用いた作品のうち写実風に仕上げる技法が完成しました。絵でもあり、写真でもあります。

    こちらの方では徐々に完成した画像をアップしていきます。また依頼の受付もやっています。

    このイラストの大きな画像はこちらから。

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    作例 Photomerge

    2009/06/29

     

    作品更新

    こちらの作例は少しめずらしいものである。

    何の変哲もないマツバギクの写真だが、どういうことかというと、

    この写真の元画像はデジタルカメラで撮影されており、ピクセル数が約10000×10000pixel程の大きさだ。

    画素数でいうと約10,000万画素の画像である。

    使用したカメラは610万画素のPENTAX K100D。
    レンズはFA28−70mm F4。



    600万画素程度のデジカメで10,000万画素をとることはできない。
    しかしながら何十枚ものショットを一枚に合成することにより、巨大画像データを作れるのだ。

    今回は Adobe Photoshop CS4 での「photomerge」という自動処理で合成した。
    CS4の処理機能は旧バージョンよりも驚くほど向上している。それによって完全にとはいえないまでも、一見して細かな描写までもを合わせることができた。


    このマツバギクをよく見ていただければ、破綻している部分をみつけることができるだろうが、私は紙にプリントして、そこからさまざまな技法を用いた本番であるから、この程度で十分の合成である。

    ちなみに驚愕の10,000万画素とは、写真プリントでは2メートルに引き伸ばしても高精細で印刷できる。

    Photomergeはコチラ

    新たに画像アップしました。

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    あれこれと

    2009/06/12

     

    活動記録

    日に一枚。帰宅すると印刷しよう、ときめてプリンタを回しはじめる。
    ミッキーの電話器がさまざまな加工をほどこされて4枚刷り上がり、
    次にガラスに閉じた金魚のアクセを透明度に変化をつけ4枚プリントをする。

    印刷が私に与える影響とはどのようなものか量りしれない。
    先程日に1枚をプリントすると言ったばかりなのに、おおきくこえて15枚ほど過多に刷ってしまい、そうするちに朝の4時になってしまう。大変な発見をしてしまった。無茶苦茶楽しいのである。

    「技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる」 W-J.オング (『声の文化と文字の文化』)

    印刷も書くことも、ことばも、もともとは声の文化によって本質的には聴覚の音素だったそうだ。つまり、演説や対話が最も人々に理解され、説得するものであった。これとはうってかわって、活版の印刷がはじまった約1600年から現在まで、技術となじみはじめて生活に深く内面化した生活の我々の意識とは、音から視覚空間へとおおきな革変のなかに未だいる。こうした卓見をまとめたオングは印刷が意識に及ぼした影響のについても紹介してある。

    「印刷はプロテスタントの宗教革命を実現し、カトリックの宗教的慣行を方向転換させた」「近代資本主義の発展」「全地球の探査を実現」「家庭生活と政治を変えた」「かつてなかったほどの知識を広める」 などなど。

    さて後読感としては「宗教的慣行を方向転換させる」インクジェットのプリンタが
    我が家にあることを実感するばかりだ。

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