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京都造形芸術大学

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京都府京都市左京区
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  • 京都観光客になってみる

    今は京都に住んでいるのにもかかわらず、京都の有名なお寺にさえもまだあまり行っていないという悲しい現実。いつでも行けるからという危険な安心感。


    今日は幼少からの友人と、どっぷり京都観光をしてきました。
    とりあえず迷子になりました。

    なんで碁盤の目で迷うかな…。
    京都の七不思議…。……。


    今日はかなりの有名どころを観光客気分で楽しんできました。
    茶団子買ってきました。桜団子も素敵でした。梅こぶ茶も買いました。佃煮も買いました。…しぶい。


    チョコ八ツ橋が美味でした。
    個人的にはチョコバナナ八ツ橋はおいしいと思うのですが、周囲の人には大変不評でした。邪道でもいいじゃないか。おいしいのだもの。

    他にも季節限定でさまざまな味が発売されたりしています。ラムネ味やあんず、いちご、さつまいもなどなど…。



    私が京都はすごいと感じるところは、良い意味で保守的な挑戦者であるところです。
    伝統という古き良き文化、または重い鎖のようなものをいつまでも守り続けているにもかかわらず、それを壊す勇気が感じられる。伝統を時代に合わせて崩さないのに壊すことができる力がある。チョコバナナ八ツ橋を販売しているのも本家家元さんで最初は驚きました。(悪く言えば崩すのは中途半端、壊すのは斬新さを出すという個人的イメージ)


    商店街で目にする手ぬぐいも今ではさまざまなモダンな柄が販売され、アーティストたちとのコラボ作品も数多く店頭に並んでいます。ただ物を包むだけでなく、手ぬぐいの可能性を広げるようなアイディアが続々と出されていて、見る度に驚かされます。



    なにがいいたいのかというと、


          ああ、すごいな京都って。



    ということです。



    いくら言葉を上手く並べて表現してみても、「すごい」という単語にすら敵わないこともある。人間の複雑な思考回路とやらも細分化されない大きな枠こそ感情が宿っているのかもしれない。


    以前「言葉はあくまでも手段であり目的ではない。想いを表現するのに沈黙が適しているのならば私は沈黙という手段を使う」というような考え方をされている詩人の話を聞いたとき、想いを表現するときにデザインをしないことが適しているのならば、私はデザインしないことができるかどうかについて考えたことがある。思うにそれは非常に怖いことなのではないだろうか。私にはまだ勇気がなくて、自分の未熟さを痛感させられる。


    けれども私の感動としては「すごい」というのは大きな感情の変化。
    時に煩わしくもある感情の上をいくもの。


    細部まで考えて考えて詰めていくことも大切だけれどもたまには大きな分岐点で留めておくのも悪くないな、という今日の気分。



    うん。相変わらずの文脈のつながりの悪さ。
    (´・ω・`)花火が五つも六つも上がっていると評された中学生の作文から成長していないのね。

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