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2009/06/09
「哺乳類の体は色彩的にみてとても貧弱なものにすぎない。みんな潜在的な色盲なのだ。
けれど、しかし不思議なことに、人間は化粧をしたり、色鮮やかな衣服を身にまとうことで、もう一度、鳥や熱帯魚や昆虫のように豊かな色彩の世界をとりもどそうとする。
人間に至って、哺乳類ははじめて、鳥や蛇やとかげや昆虫や魚たちが楽しんでいるような色彩の世界の歓びをとりもどすことができた。」中沢新一
漫画が好きで短編をいくつか描いたのは、もう3年以上まえのことだった。
この感覚とは、熱中している当時は気づきもしなかったが、今思いかえせば、天田草太やAlbert Brecciaおとこのこが憧れる漫画家になりたくて、その一心にはじまったが、しかしながらそれ以上の進展は望めそうにもないことに絶望していた。
性別の枠に閉ざされた、おとこのこの憧憬の感覚。そこには黒やシロや灰色のトーンにかぎっては、道端の道路標識の程度に理解され、本を開いたとたん目線はもっとも注目すべきキャラクターの絵と、コマの内にあるフキダシをのぞむようにできている。こうしたことの繰り返しであった。漫画とは印刷されているメディアの、その紙の質などはとくに筆記するに値しないことは今でもそうである。
色彩の実感のない当時の私のやりたいことの方が、いまよりももっとアートをしていたといえるだろう。単純ないち、に、いち、に、と足をはこぶ行進曲のようにして、乏しい調子にしてみると、なぜかもっともっと身をまかせれるようになるのだ。
そうして生まれたモノクロのまんがの面々は、身体の輝きや色彩感覚の豊かさということになると、他のメディアアートのものに自慢できるような豊かさはもっていなかった。
町ではみんなテレビやインターネットや雑誌などによって色彩感覚はもはや取り戻されているといっても過言ではないだろう。豊かな色彩感覚をとりもどした生活を送るなかにいて、その言葉通りの生活をするために私は印刷を選んだ。
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2009/06/08
裏山街道の入り口は実は四箇所ある。石切り場のほうから二箇所、まったく反対側に一箇所これはすぐに行き止まり、そして三角棟の裏から一箇所である。
どの道も例外なく踏み込んだ途端に回れ右で引き返したくなる。日のあたらない鬱蒼とした藪を両脇にしてその姿は獣道となる一歩寸前。頭を枝葉の輪に突っ込み、ごそごその藪を挟む細い道は肩幅しかない。駆け上がろうにも腕に飛び出した枝が引っかかり、ではゆっくりと登ろうにも一挙一足にやはり突飛した枝葉が行く手を阻んでいる。もう一歩も足が動かない程の疲労感のなかでは、もはや登山の爽快感など微塵もなく、日陰に閉ざされた行く先にみえるのは恐怖と絶望とドラえもんのオブジェである。
これがこの大学の裏山である。さらに「イノシシ取りの罠」とは暗喩やコピーなどではなく実際に街道に設置してあるのを見ることも触ることもできる。これは間違ってもふんずけてしまわないように迂回しなければならない。餌はどうやら米ヌカのようだ。市によっては猿に懸賞金を(1万弱)かけているところもあるが、シシなどは役所に許可をもらえば鍋に、刺身に、焼肉にして食うのが通例だろう。ちなみにその日にとれたシシは臭みもなく美味であるが、二日以後はもう生臭い。
鬱蒼とした雰囲気で、湿気が多く、日陰でアンダーになって足元が暗い。まるで気分も暗くする魔法のようだ。しかし、この闇の魔法が功を相してか、ここでは採集できる数々の光り輝くものがあるのだ。
秋に、梅雨に、なってくると裏山ではキノコがむくむくと大きくなる。落ち葉のカーペットはふわふわしていて、そこには動物でもなく植物でもない、菌糸類の世界が奇妙な傘を集合さして群生している。
アカハツ(食)、
ヤマドリタケ(食)、
ミヤマアワイグチ?(食)、
クリイロイグチモドキ、
ドクベニタケ、
アカモミタケ(食)、
アカヤマドリ{/リンク(食)}、
ウスヒラタケ(食べようと相談するも教師に止められる)、
オニイグチモドキ(超不気味でも食)、
ホコリタケ、
キノコの数は枚挙にいとまがない。山ではじめてキノコを採集してもすぐには食べないで、詳しい人に必ず聞かなければならない。しかし過去に痛い目にあった人ほど懐疑的な意見で断念せざる終えないことが多い。そのときはキノコを見分けるのと同時に、現在志向の考え方を持つ人も見分ましょう。
キノコについてはこちら
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2009/05/31
を滞納している。立て替えてくれた長老の住まいは花屋敷ではないが、
数々の草花を造園して今時のころになると満開のサボテンが数えて5鉢。
過ぎたる頃にはすぼんで首を折り散る花弁、枯るるは支払いともどもに。
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2009/05/30
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2009/05/26
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2009/05/25
前回と同じくこちらも東京工芸大写真のうちの一人。
この方そのときの写真が魅力的で、
さらにフジフィルムのクラッセを持っていたのでつい声をかけました。
いいイメージが出るとすぐパチリと撮影。
前回のホソク
重複していますが・・・
透明な層が重なって、奥行きを喪失する際にはちょうど印画紙にアクリル板ガラス板の圧着に似ている。私はこの点をモチーフにし、そして光学的キメラのイメージによる光の偶像を再現している。
疑問をもたれるだろうが、印刷物にしろ画用紙に絵にしろ、フラットとはそれ以上奥行きが生まれないため、実はこのアクリル板圧着の感覚は、奥行きが「喪失」しているのだ。こうした点に着眼した地点からかかげたモチーフは「光」である。具体的にわたしたちの目に注ぐ大量の光を念頭に、油彩画とテレビを見比べてみた。
一見かけはなれたこの油彩がとテレビとの共通点とは、透明層をみつめるのだ。油彩がの方は最も奥からの反射してくる光をみている。しかし頭を振りながら両眼視差で絵までの距離を感ようと試み、実にそれらの距離感覚の知性化はだまされてしまい、あたかもフラットなポートレイトが本当にそこにいるような感覚に追い込まれていく。まさに前方の間合いが失われているメディアに古典的西洋芸術派は注目ていたのだ。
この油絵の点、物体を透層や透明な塊で包みこんだもの、それから得られる感じ方と、液晶などの発行するモニターを見つめる感じかたとの、これらの視認での比較をまずは投じた。
それらの結果次第では、発行するモニター画面と典型的古典絵画との、これら二つに関連する項目、有り得ないように思われるが共感する光の性質、これらに期待したが、しかしそれは、まあまあ。そんなことはなかったのだ。実際には前者が減光混色で視覚7万色以上、後者は屈折または乱反射と加法混色でありこれらはまったく異なるものであったのだ。
そういったわけで「光」をモチーフにするとはいったものの、油彩画を感じる正体が透明な層によるものだという、別な話になっていきいる。正確には「光学」と暮らす人々をモチーフにしているのだろう。うまく説明できないが、とにかく絵を作りたいと思う一心は未だ憧れとトラウマの胸中か。再認識スタートを切るために、こうした外的な助力(デジタル入力/出力)によって内面を変えていこうとしたのに。
話を元に戻し、そのうち主な調査のなかでいつも不思議に思っていたのだが、神話寓話民間伝承なんでもかんでも伝えられてきた物語の文化のなかに、このような「光」自体が明確な偶像になった事実には未だ通じていないことである。透明な光とはスペクトルではあるがもっともらしいイメージは何色だろうか。論理的にはわかっていても、
電球クン、あるいは漏電クンみたいなイラストは電力関係のキャラクター、あるいは街中の呼びかけポスターに実在する。がしかしどれもぜんぜんかわいくない。つまり「電気」あるいは「生活電気」など高い認識へ掲示しているのだろう。これがなんだか怒りっぽい感じの表情にみえてならないのだ。
雷のマークやデザインというのが、近づくと危険、または警告の標識にとりはやされ、一方「光」であふれていくさいは奇跡、光臨、天国、悦超、神、昇竜、巨大な存在感、幻覚体験などは、効果の程度は非常に大きな影響を与えるものの、奇跡シーンを照らし出す強烈なムード後光であり、形にならない。
おおまかにいえばつまり、光とは単なるエネルギーである。受け取る側にすれば、まさに情報のカオスである大量のビット数を、光学機器スキャナやカメラなどを入力として、構図、ピント、そのた創造的意図によって収めたり、スポット光で的を当てたりと、大量のランダム光の「情報を知性化」をするのみが現状である。
しかしすでに我々はこの眩しい光を日常ですんなりと理解できてしまっている。ここからさらに人体の驚くべきメカニズムを紹介しよう。
わたしたしが見ているものは、頭に伝えるために、実は目で情報を十分に知性化されている。
十分に知性化された情報については、最新のメカニズムでは眼球でまずランダムビット情報を「知性化」してわかりやすくし、そして大脳に送り出している。われわれ人は外界から皮膚、目、鼻、口などを通して大脳へ伝わる道筋をなしているが、そのうちの目は、なんとそれ自体で情報を整理したりするメカニズムを持っているのだ。さすが眼球。人体で唯一、頭蓋骨から脳が外へ出ちゃっている眼球。カタツムリの角みたいに、よっぽっど外界のことを知りたがっているのだろう。目がビヨーん飛び出ているヒトの絵は人類の進化をもろに想像してやまない。
創造的源泉であるこの自然宇宙光闇などは、むちゃくちゃなカオス情報であり、それらを「知性化」することによって作品となっていくメカニズムは芸術的本質と似ているが、脱構築したりする現代美術と非なるものであるため妙なところもあるが、カウンターカルチャーが「情報破壊」だとしたらまさに的中の行為ではないか。
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2009/05/16
以前にCASOでグループ展をした際、同居別部屋には東京工芸大学写真の卒展が。
場合良くなり私のデジカメで被写体にさせてもらい絵を起こしたのがこのF4号リテイクというシリーズ。
こちら被写体のK氏の容貌にかかっている幾筋の波は、カメラで比較的容易に撮影できるブレ一種だ。一つながりに筋上の光芒が頭上から体内へ降り注いでいく写真と一体になった合成物を表している。
光にまつわる性質をテーマとしてそれをモチーフにするために一通りの光学機器を配備しての意欲作に順次とりかかっている。
私のモチーフは「光」である。まず、油彩画とテレビを見比べてみた。
このような物体を透層や透明な塊で包みこんだものそれから得られる感じ方と、液晶などの発行するモニターを見つめる感じかたとの、これらの視認に前傾の姿勢でのぞんだ。
それらの結果次第では、発行する画面と典型的古典絵画との、これら二つに関連する項目、有り得ないように思われるが共感する光の性質、これらに期待したが、ままままま。実際には前者が減光混色で視覚7万色以上、後者は屈折または乱反射と加法混色でありこれらはまったく異なるものであったのだ。
主な調査のなかでいつも不思議に思っていたのだが、神話寓話民間伝承なんでもかんでも伝えられてきた物語の文化のなかに、このような光自体が明確な偶像になった事実には未だ通じていないことである。
「光」をキャラクターイラストにしようとする難題を掲げるのは、それが触れることが困難であるのにも関わらず、テレビの混色ノイズによって実に容易に視覚化しているからである。つまり目の前にご馳走を並べてあるのに決して手が届かない、この感覚はアニキャラに萌えたことがある人にはわかってもらえるのではないだろうか。
光が現れる時のさまざまなエモーションが起こっており、また激しい脳波の振幅ではあるだろうが、それでも実態は見えてこず、っていうのは神々に伴った後光や、奇跡の瞬間に伴うまた後光、トランス内部での友人体感のときには光に包まれた不思議な舞台でまた、などど現れては神秘的なことでもその場の雰囲気を残していく。
こうのような感じる光を、テレビ上で効果として撮影した光のカットを合成するれていくの光源と同列に見なされ見過ごされるのも近いだろう。私たちは非日常的な奇跡体験の数以上に、大量の発行する光源を見つめ続けている。
万古にあらず近代での不思議な夢体験の例としてはアインシュタインが電線の中を電子とともに泳ぐ夢想にふけった感覚も、光を認識する人類の発見ではなかろうか。私の前にはもうすぐそばまで光がありもう少しで手で掴めそうな気さえする。
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2009/05/15
記事は今しばらく省略して画像データを掲載します。
この作品の裏面はこちらから見れます。
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2009/05/12
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2009/04/20
ハチミツぷーさん(100円均一の)の面持ちならぬやつれよう。
続またまた写真をアップしました。
(海遊館)
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