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2012/01/20
先日、パッケージイラストのコンぺがあったので、
ボタニカルアート風の仕上がりのゆずの絵を描いていました。
ボタニカルアートって、日本でも広がりを見せているけれど、
私の知っているのはアンティーク市なんかで売ってる版画に彩色したものだったりするので、近年の日本の、わりとゆるやかな描写の植物画のイメージとはちょっと違うかもしれません。
でもそういうのが好きなんです。古いもの、というのではなくて、単純にいいもの。
私の思う「いいもの」、が、現代の作家よりも100年ほど前の時代に多いというだけですけれど。
だから、時々、自分の美意識に孤独を感じたりもします。
現代を反映させたいクライアントの要望に応えられなかったりするし・・・
でも、100年後にも残っているほどのものを作ろうと思ったのがそもそもこの道を志した始まりに思った目標だから、
理解されなくて苦しんでても、なんとかやって行こうと思います。
2011/12/21
熱い紅茶の美味しい季節になりました。
紅茶生活が板についてきたと思った秋深き頃からなぜか私の嗜好が紅茶から遠のいていて、
ハンプステッドの缶紅茶が、ダージリンもイングリッシュブレイクファストも半分あたりで止まっていたのですが・・・(その分コーヒー率が増えてもいたのですが・・・)
ながの東急の地下紅茶売り場でアッサムのいいのが手に入ったのをきっかけに再び勢いを盛り返しました。
相方の誕生日が12月初旬なのですが、今年はリクエストにお答えしてIpod nanoをプレゼントしました。
そうしたら、むこうはちょっと早いクリスマスプレゼントだといってKPM(ドイツ王立の窯)の手書き絵付けのデザートプレートを用意してくれていたのです。
ついでにミルクティ-に最適な、アッサムCTC(粒状)もつけて。
KPMは、私がその絵付けの職人技に対して、心から尊敬している窯です。
マイセンもロイヤルウースターもいいんだろうけど、私にとってはKPMがお手本のような気がするところがありまして。
聞くところによると、花を描くときは生の花を前に絵付けをしたとかで、なるほどですがそれにしても度肝を抜く描写力。一回きりの、しかも陶器に、どうやってこれだけの花びらの表現が出来たのか不思議だといつも思います。
また夜中に絵皿を眺めてふつふつと闘志を燃やすことになってしまいそう。
アッサムCTCですが、茶園はハルマリ。
これは薄めに淹れるとストレートでもいけます。今年の出来は少しこげ味みたいな独特の香ばしさがあります。
ミルクティーって、みなさんミルクを先に入れますか、後で入れますか?
これ議論の分かれるところらしいですよね。
相方は、スプーンを使うのが面倒だから+器を傷めないように=先に入れる、派だそうです。
一説には温度変化の具合でこちらのほうが美味しいと聞くことも。
私は、・・・今両方試してみています。どちらが美味しいか。
大事な器を使うときは、もちろん先に入れますが、なんとなく、あとから入れたほうが、ミルクの量が加減しやすいんですよね・・・
二杯目と三倍目では、ミルクの量を変えたくもなりますし、その具合って、紅茶を注いでからじゃないと実感がついてこないという。。。
習慣の問題かもしれませんが、私は大体、紅茶を少し注いでから、ミルクを入れてみて、また紅茶を注いで、調整しながらです。
多分私にとっての大事なポイントは、スプーン使うかどうかというより、最終的に美味しく飲める、微妙なミルクの濃度なのでしょうね。
いただいたKPMの絵付けの技術や精神性に少しでも近づけるように、日々の暮らしも制作も頑張ろうと思いを新たにしています。
2011/12/03
私にとって、デッサンは言語でも絵画でもない現実をとらえることであります。言葉は現実に根を持ち文のルールに従い何らかの世界を描くものであり、絵画は同様に現実に根を持ち二次元のルールに従って何らかの世界を描くものであります。
創作である以上ほんとうの現実とは何らかの形で袂を分かつ部分と根のつながる部分とあります。現実と完全に一致する創作はありません。あるとしたらそれはたぶん芸術というより道具か物体か人生です。
創作の深化や、消滅しない創作活動に深いところでかかわるのがデッサンのたしなみです。単に木炭と木炭紙とパンと石膏像を使う時間がデッサンではありません。それは訓練すればいつどこでもできるようになります。また、絵が下手なのとデッサン力がないのとは似て非なるものです。
デッサンをするときに障害となるのが、表現とは無から有を生み出すという安易な思考です。勘違いしちゃいけない。無から有は生まれません。有から有が生まれるのです。有と有の境目に、0があると仮定できるだけです。
人間は生命です。あなたは0の神様から生まれたのですか。親から生まれたんでしょう。思想的に0の神様から生まれたと信じたい、無を信じる、もしくは啓示をうけたと勘違いする人がアーティストの素質があるんではないかなと思います。(辛辣でごめんなさい)
そこを勘違いしたままだと、どこかで壁にぶち当たります。
実際の努力というか、無から有を生み出すと誤解されがちなところは、たとえば数字で表すと限りなく自分をゼロ(死)に近づけていくのが表現者の追及であり挑戦であり危険なことであることです。表現を志す者がときに病気になるのは、ゼロと1の境をたどる途中でバランスを失いゼロに転がり落ちるからです。
また、黄金比が黄金比たるのは、割り切れないことであることも、参考までに書き加えておきましょう。
2011/11/26
デッサンの目的
・世界の正しい把握
…物質・物体のこと、非物体のこと、すべてのものへの造詣を深める(デッサンを始めると、物事の見え方について考え出すことが増えます。学問全体への興味も生まれます)
・観察(感性の開拓)
→かたち、色、質感、重量、におい、境界線など五感を使って感じられるものをていねいに観察し表す努力をするなかで
人間としての感性をさらに研ぎ澄ませたり、開拓することにつながる
・行動力・運動神経野のトレーニング
→トライ&エラーの繰り返し、成功への近道「行動と決断の繰り返し」の勇気を培う
→表現・具体的行動に関して美術やものづくりの分野における正しい自分の使い方を身につける
・美術、その先の新たな可能性へ
→デッサンからすべてのクリエイティブな開発へつながる部分がとても多い。
教わったことAをAやA''にして表すのでなく、
五感で自らが感じたことを自力で形にする力を養うことで
生きる意欲や、クリエイティブな力を創出することにつながる。
デッサンとその意義について、まとめたものがあまりに世の中に少ないと思ったので自分で草稿を書いてみました。まだ構想の段階で公開するのもお恥ずかしいですが。
デッサンが大事、ということがなんとなくわかっていながら、あるいは全然わかっていなくても、どこかで自分のデッサン力が引っ掛かっていること、多いですよね。なんでデッサンするんですか、という質問は、美大を目指す学生もときにぶちあたる壁のようです。
学校の先生も、あまりこの辺を言葉にして教えていないように思います。
(デッサンの時間と言いながら鉛筆とねりゴムと画用紙とモチーフと時間を与えて、ほったらかし!)
わたしはデッサンのうまい人とうまくない人が出るのは才能の問題とは考えません。才能の問題となる部分は脳の未開拓や欠損、循環の障害などがある場合だろうと思います。それらも補助する工夫や方法を編み出すことで、カバーできますし、根本的に指導者の助言ひとつで伸びるものが伸びたり滞ったりするのが教育の怖さであり面白さと思います。
注意事項:デッサンがのってくると、真冬でもシャツ一枚で過ごせる方がいるほどです(実話)はっきり言ってスポーツみたいなもんです。座ってるだけで労を惜しみ体を使うことを嫌い何もしない人には絵は描けません。楽をしたいなら趣味と言っておけば指導者はあきらめて何も言わなくなりますが可能性もひどく縮小します。趣味に命を懸ける方は別ですが。
またハングリー精神にあこがれていても、栄養・水分不足には十分気を付けましょう。デッサンの修行中に倒れた人もいます(実話。つーか自分。)悪いものを食べていると、絵も悪くなってきます。飯よりかくことが好きでも、バランスの良いご飯をきちんと食べましょう。
個人的体験を少し書かせていただくと、私はデッサンにおける
三次元(現実、対象)→二次元(画用紙上)の翻訳につまづいてました。原因は、眼鏡が必要なほどだったのにあまり使ってなかったことで見ることに確信が持てなかったのと、私の自分自身に対する罪悪感が障害となっていたのでした。絵ははっきり言って、うそです。だって、紙って二次元だし、そこに3次元を表すなんて、考えてみればむちゃくちゃなこと。古典的な日本画の手法や漫画などなら二次元を展開し続けることで道が開ける場合がありますし、わたしは簡単な漫画的絵はかけましたが、西洋画法のデッサンはかなり高度なだましです。
もしかしたらわたしは日本的な感覚の持ち主だったといえるのかもしれませんが。
西洋画法の絵画技術に、魅力を感じていたのに抵抗感が強かったのです。
なので、肝心なところで強気になれませんでした。
心の弱さというか押しの弱さも一役買っています。
自分のいったん定めたはずのものを、根本から疑ってしまう(ぐらついてしまう、信じられない)心の癖が、絵画を成り立たせなくしていたのも事実です。それが病的であろうとなかろうと。。。
だから、指導者の教授は、私に彫刻でのデッサン(摸刻)をさせたときにうまくいったことで、ある手ごたえを感じたらしいです。
3次元→3次元ならうまくいくんだ!と。
私はそれをヒントに、自分の絵画方法を少し修正してみました。
絵は好きだし、続けたかったので。
一つの処方箋は、無理やりにでも自分を信じきること。描いている支持体が二次元であるという思考上の誘惑を、いったん忘れる集中力の頂点へ自分を持っていくこと。これのコツは、かいてる時に、観察8割、描くの2割くらいで進めることです。一気に仕上げるときは割とうまくいきます。体力が至らないと、失敗します。途中で邪魔が入ったりすると、くじけやすいです。
これを継続できればまっとうなデッサンもできるかもしれない。
でも体力と強じんな精神力がないと続きません。
もう一つの処方箋は、二次元→二次元とすることです。
立体を平面に立体的に再現する方法は、基本的に二つしかないといいます。
遠近法と、写真(機械を使って落とし込む)です。
この後者、写真を利用してみることにしたのです。
絵と写真の双方のしくみの理解がないと、写真を使うことは、多くのミスをもたらします。実際私もたくさん失敗しています。写真のトレース、と言ったりすると簡単そうですが、それで絵的によいかどうか、とか生きた線が描けるかどうかということになると、ほとんどの場合難しいです。みんな、「写真」を描いてしまうからです。
コツは、写真に入り込んで読み込むことで、目の前にそれがあるような段階まで自分を持って行き、一定以上まで来たところで現実の絵画技術とつなげて、描き出すこと。
写真に、とことんだまされることをしてみたという感じ。脱魂みたいな感じ。自分の立ち位置を忘れられるだけ忘れてしまった感じ。でも絵画的なつじつまは保っている。それはそれで結構な労力です。もしかしたらだますより難しかったかもしれない(汗)これも途中で邪魔が入ると危うくなります。良いところは、だます感覚が薄れる。機械に肩代わりしてもらうので罪悪感と対峙しなくて済みます。線の表現に集中できる。でも、かわりに、ショートカットしているような罪悪感というか、自分の力で自分を立たせていないような不全感は残ります。しかし、義肢と考えれば仕方ないかもしれません。
子供のころのクロッキーや絵やデッサンで、私は自分がもっと自分を信じて描けたのを感じていました。そこに立ち戻りたくて、その幸せ感を忘れられなくて、絵を進路に選び続けてきたようなものです。
対象の観察中に、対人不安におびえることもなければ、自動思考や妄想に邪魔され悩まされることもありませんでした。自己否定から、観察そのものや描く自体にブレーキがかかることもありませんでした。
今も、修行の最中です。
たとえば脳の病気で、回復が不可能かもしれなくても、子供のころ、あるいは学生時代の一時、たどり着いた幸せな絵の描き方をもう一度体験したい。というか思い出したい。そこを起点に、様々な可能性が呼び起こせるはずなのです。という一念で。馬鹿の一念ですが、そこら辺の探求が、私のいまも一番したいことであり今まで一番したいことであったのです。(だから、入院したのも、不幸じゃなくて、したいことであったのです)
私は子供のころ、デッサンの中に真実とつながる地点を見ていました。
大人になって、それは嘘だ、という幻聴的な言い回しが生じ、自分の考えと混ざって、嘘をつくことが絵には必要、という考えが生まれてしまったのかもしれない。それは正しくとも言葉のあやなのです。それで罪悪感を感じて、ブレーキになってしまったとしたら、やはりそれは思い込みや病気のなせる業といえるかもしれません。いろいろ書きましたが、今考えるとそんなところに結論が落ち着きます。
2011/11/16
シャープペンシルを変えてみた。
でも、あまりこだわっていなくて、今までのも使っている。新しいのがいつの間にか、バッグのメモ用に格下げ(?)されてることもある。
何本か具合のいいのがあると精神的に落ち着く、という感じであって、
この一本がないと仕事が始まらない、というタイプの人間じゃないのかもしれない。
結局、何を使っても、重要なのはその一本を選んだというところではなくて、
心身のコンディションが出来を左右することが多いからなのです。
コンディションには様々ある。
ゴルフなどと一緒なのかな。
時間的な制約、
お天気、
体調、(ご飯のおいしさにはじまる感覚の冴えとか、風邪気味、とか、精神の波の調子とか)
体の動き、(運動神経の冴え)
集中力の発揮の具合、
事前準備ができているかどうか(取材とかイメージトレーニングとか)
思い出し力(過去の集大成の技術がその一点にくるかどうか)
狙いの理解と集中(その作品で何を伝えるかの把握がどれほどできてるか)
上げ始めたら、一冊本ができてしまいそう。
我慢のゴルフ、という言葉をある方からいただいたことがあります。
いつかばきゅーんととびぬけてホールインワンするイメージを抱きながら、
目の前の具体的な一つ一つを丁寧にかさねていくこと。
私のやりたいことを、フォーカスしてみると、NPO的な?方向性があるような気がほんのりするのですが、もうちょっとはっきりするまで、掘り進んでみたい。
作品の展開に関しても、もうちょっと、掘り返してみたい。
見えてくるものがありますように。
もちろんお仕事は、これまで以上に丁寧にやらせていただきますね。
お待ちしています。
2011/11/16
2008年ごろから、時々、うちの両親とか父の仲間が菜種を作って、
搾って、油にしています。
蓼科の陶芸工房「蓼科クラフトヴィレッジ」で800円で販売しています。
品切れのことが多く申し訳ないのですが、
今年もまた、搾れましたので、私の自作のラベルを貼り付けて、行ってらっしゃい〜
アーモンドのような香りがする年もあれば、
くせのない年もあり・・・
休耕田を利用して、お花を眺め、
愛情をこめて一生懸命作っているのですが、
ばらつきがあってすみません。
今年は菜種っぽい香りが濃厚な仕上がりです。
父が種をまき、母が夏を迎える暑い時期の早朝に取り入れをしました。
とうみにかけて殻を吹き飛ばし、美麻村で絞ってもらっています。
ラベルデザインのリニューアルは、また次のチャンスに、ということになりました。
2011/11/12
祖父を描いた絵を祖父母宅の年賀状にする予定だったのですが、
祖父の反対により、描き直しとなりましたので、あらためて笠取峠の頂上から浅間山を望む図にしてみました。こんどはOK出ました。
年賀状って、目上の方にも出すし、自分の対人における精神状態の反映でもあるんですよね。客観性がなければそれなりになるし、かしこまっていればそういう風になるし。自分自身の登場が礼を失する、という先達のご意見にはひとつ勉強になったといいますか、人生経験の違いを感じたといいますか。同じ人間のもてる感覚としてある種、納得するところもありました。こういうわきまえを持っている方って、ほんと少なくなっているんじゃないかって思いました。いや、じぶんが持っていないだけかな?考えされられます。
そういえばよく、他人の観点から眺めると、ということを私はやるのですが、
そこが私の長所であり短所、かつ脆弱なところでもあります。
だって、他人の立場に立ったまま自分のとこに戻れなくなってしまう人間ですから・・・あぶないしこわいですよね。モデルにする人をまちがえるとたいへんですし。
ポジションを固めたほうがいい、とある方に助言されたことはそこらへんで、
自分の守るべき範囲をきっちり定めないと、結局流されて何もなくなりますし対人関係にもひびが入りますよ、という忠告なのだと思います。
じぶんでも心に重りをつけて、とイメージしたりするのですが、すぐふわふわしてしまいます。自分の作品の評価に関してさえ、自分の立場を見失いがちになったりします。そこが崩れると、作家としてはやっていけないですよね。
ほんとうはどうしたらいいのか、わかりません。少ない人間だけの環境に身を置いて、静かに暮らすべきなのかもしれません。
ある方に好評を博した作品も、ほかのある方にとっては何の意味もないことがあります。
幻想的な作品しかり、写実的な作品しかり、
また、作品としていい、というのと、イラストレーションとして使用する媒体によりいい、というのとの違いもあります。
そういうさまざまに翻弄されて、自分を見失いがちになる、
その危ういところに自分は立っている気がしてなりません。
自分からやること、そのなかからしか答えは見いだせないのかもしれません。
言われなくてもすすんでやりたいこと、
あと何年生きられるかわかりませんが、寿命がくるまでは少しずつ衰えながらも自発的に体を動かせるはずなのですから、しかも平均まではあと40年くらいはある。その体を使ってやりたいこと、
考えると生きてゆくことがわくわくすること、
そんなポジションに照準を合わせることを、、まずはその地点を明確にして未来を思い描くこと、難しいですがそこからはじめたいと思っています。
12年前、大学を中退したとき、私は何のビジョンも持てませんでした。
しがみつくものがほしかったために次なる進路へ進みましたが、それは私のいまの責任感のなさや人間的な問題点と密接に結びついている気がします。
根本へ戻りたいために、絵をかき、文を書き、自己分析にのめり、どうにか歩いてきましたが、またここで根本に戻ることを意識する段階に来ています。
自分の使命と感じていることを。
自分の生きている理由として、人類に貢献したかったことが、本当はなんだったのかを。
うまれたとき、まず最初に感じたこと。
生まれてこの方、どんなことに心を動かされてきたか。
重い記憶のふたを、えいやっとずり動かしながら、
もういちど自分の生きる意味にフォーカス。
すべての人に意味は、あるんです。思い出しにくいだけで。
たぶんすぐれた占い師などは、それが見えるんだろうな。
ちょっと隠遁して考えてきたい気分です(笑)
2011/11/06
毎年、両親の年賀状に使う絵を描かせてもらっているのですが、
一昨年から、母方の祖父母宅にも頼まれて、オリジナルのものを作らせていただいています。
両親を描いた絵は、ホームページの「内村の里・点景」にまとめてありますので、ご興味の方はご覧ください。
祖父母宅のは、牛だったりねこやなぎだったり、うさぎだったり、生物的なものが多かったので、あえてまとめずにおりましたが、来年の絵はついにおじいちゃんが登場することになりました。
軽トラの上で、柿をとる祖父。93歳。
これに色を付けて、文字と住所を相談して入れて、年賀状にする予定です。
思えばPCがあるから、こんなことが可能になった。
PCを作った人に、感謝。それを広めた人、私に使い方を教えてくれた人にも。
PCを買えるお金をあたえていただいた方々にも、感謝。
私に絵を教えてくださった方にも。絵を描ける時間を与えてくれている周囲の方々にも。
画材や環境にも。
感謝の思いで日々過ごせることの幸せを、最近ことに痛感しています。
私の絵のいくつかは自分の研究目的とか、ありがたいお金のために、などと言っていることもありますが、ほんとうはほとんどが純粋な「ありがとう」、の代弁かもしれません。
生きていることに感謝。
2011/10/29
ニューヨークでこの秋開催される、
20人の若手日本人アーティストin ニューヨーク展2011
Sprout - Emerging Japanese Artists in NY Exhibition
第一期 11月10日〜16日
に私の作品一点をポートフォリオとともに展示します。
{リンク:http://www.artrates.net/20y2011.html
}詳細はこちらのページに。
どうぞよろしくお願いいたします。
お近くにお立ち寄りの際はぜひご覧くださいませ。
すべての作品の売上20パーセントは東北の義援金となります。
(展示作品は画像のものではありません。後程写真をUPします!)
ポートフォリオは経歴とともに英語で作成しました。
日本語訳をご参考のため以下に記載します。
----------------------
1.空間における、静物または動植物といった目の前の個体の
「美」を探求することが彼女の作品のテーマである。
2.物質をとりまくみえないものや、ものの存在の深い意味を読み取ろうとすることで形や構図を生み出す。
彼女はこれを「モチーフとの対話」と呼ぶ。
これは目に見える空間を超え、宇宙を含む世界全体のしくみの一部を担う「個体」に瞑想を馳せることである。
この手法は、寂しさや孤独を感じることが多かった幼少時代の思いを埋め、
根本から揺らぎやすい自らの精神的な特質をプラスに生かそうとするものである。
3.「モチーフとの対話」により生み出された構図をつくるため、まずトレースやスケッチブックにペンやシャープペンで描き、
それらをPCに取り込み再構成する。丁寧な観察による特異の繊細な線表現を駆使することで、モチーフに対するやさしく内省的なまなざし、
また機知に富んだ幻想的な解釈を表現する。
線の表現力をより豊かにするため手漉きの竹紙の使用も試みている。
目の前の空間に宇宙のしくみを感じながら、物理学的な視点も含めた世界とその空間に存在する物体・非物体、すべての「美」を伝えることが
彼女が作品を作るうえでの使命と捉えていることである。
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今後の活動や展開を考えるうえで自らをみつめなおすことは本当によいことでした。
何が必要で、何が必要でないのか。自分の生き方を決めた時に感じていて、今も根っこのほうにある、使命となることがなんなのか。
自分の生き方を決めた17の秋のあのときに、自分の感じることを、
自分が最も大切に感じることを表現して人類に貢献したいと思った閃きというか決意を思い出し、
その方針が見えにくくなっていたことに気づき、掘り返し、今後の軌道を定めてゆくことを、今自分の中で行っています。
まだ霧の中ではありますが、
これから私の本当の仕事が始まるのかもしれない、
そんな思いがしています。
2011/10/15
http://www.unisonas.com/pictures/pictures/mypage.php?member_id=152
上記サイト、ユニゾナス・ピクチャーズでデータ販売を始めました。ポートフォリオとしてもご覧下さい。お気に入りがありましたら是非どうぞ。もしサイン入りがお入用でしたらお聞かせ下さい。オリジナルプリント扱いでこれよりは値段高めの有償ですがお送りするなどできると思います。
サイトはずっと前からアップしてたのに、公開設定にしてなかったことに気付いて昨日変更しました。ごゆっくりご覧下さい。
最近、NY展示の準備としてステートメント(解説文)作りに没頭しています。
翻訳家さんが英語圏向けのアーティスト・ステートメントに必要なおきまりの事柄を教えてくださったので、それをもとに文を作り直してみました。さらにサイズ等いれる場合もありますがこれは省略可らしいし私もコンセプト的なこだわりはなく製作法からサイズが大体計り知れる技法なので、文字数制限を鑑み割愛しました。
あちらでは、なるべく具体的で、ステートメントから作品が想像できる様な文を作るみたいです。自分で自分のこと他人のように説明するって日本的な感覚からは奇妙だし難しいですね。
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風景、幻想、植物、静物、動物、などをモチーフとしながら、特異の繊細な線表現を駆使し、
やさしく内省的でときに機知に富んだ解釈を見せる形や構図を作り出している。
静物的モチーフとの対話は、幼いころより寂しさや孤独を感じることが多く
物質と対話し物質をとりまくみえないものや、ものの存在の深い意味を読み取ろうとしてきた特質のあらわれでもある。
作品はトレースやスケッチブック上にペンやシャープペンで描いたものを、PCに取り込み再構成したもので、
印刷後にさらに手を加えたりすることもある。手漉きの竹紙(和紙)へのプリントも試みている。
モチーフとの深い対話により構図や解釈を得ることはシャーマニズムの脱魂とも似ていると感じる。
(「塊茎」はカバラの「生命の樹」に類似するとも指摘された)
物理学的な視点も含めた世界と美の探求が制作姿勢の根本にある。
目の前の空間に宇宙のしくみが宿る瞑想に従い制作することを使命と捉えており、
人類の幸福にも文化の発展にもつながる確信を持てる制作を目指している。
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何だかどうしても抽象的になりがちです。
もうちょっと練ってみようかどうしようか、
もう時間もあまりないので最大限頑張ってこれ以上できないとこまでいったら、
翻訳依頼しないと。。
今日、翻訳された経歴をいただきました。
Kaori Yamamoto
Born: Nagano, Japan in 1977
Awards:
2002 Bronze Award
WHO Kobe Centre’s Global Image Contest
Publications:
2007 Monthly Magazine “Shokuhin-kougyou (Food Industry).”
Korin Publishing. Tokyo.
Cover and index illustrations and through the year 2007
2005 Monthly Magazine “Shoku no Kagaku (Science of Food).”
Korin Publishing. Tokyo.
Cover illustrations through the year 2005
Professional Experience:
Designed and created illustrations for restaurant advertising, stamps,
greeting cards, food packages, and magazine covers.
Solo Exhibitions:
2011 Tateshina Craft Village, Nagano, Japan
2006 Seidenstrassen, Nagano, Japan
Group Exhibitions:
2011 Art Imagine Gallery, Tokyo, Japan
2010 Duo Exhibition with a Japanese photographer, Naoki Fujisawa
Tateshina Craft Village, Nagano, Japan
2008 Mireya Gallery, Tokyo, Japan
Duo Exhibition with a Japanese photographer, Naoki
Fujisawa
Pottery Studio Tosenbo, Nagano, Japan
Education:
Ibaraki University, College of Education, The Art and Culture Course
April 1997 March 2000
英語で正式に説明されると、ぴりっとします。
翻訳依頼してよかったし、展示のお話をいただけてよかったです。