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2011/12/03
私にとって、デッサンは言語でも絵画でもない現実をとらえることであります。言葉は現実に根を持ち文のルールに従い何らかの世界を描くものであり、絵画は同様に現実に根を持ち二次元のルールに従って何らかの世界を描くものであります。
創作である以上ほんとうの現実とは何らかの形で袂を分かつ部分と根のつながる部分とあります。現実と完全に一致する創作はありません。あるとしたらそれはたぶん芸術というより道具か物体か人生です。
創作の深化や、消滅しない創作活動に深いところでかかわるのがデッサンのたしなみです。単に木炭と木炭紙とパンと石膏像を使う時間がデッサンではありません。それは訓練すればいつどこでもできるようになります。また、絵が下手なのとデッサン力がないのとは似て非なるものです。
デッサンをするときに障害となるのが、表現とは無から有を生み出すという安易な思考です。勘違いしちゃいけない。無から有は生まれません。有から有が生まれるのです。有と有の境目に、0があると仮定できるだけです。
人間は生命です。あなたは0の神様から生まれたのですか。親から生まれたんでしょう。思想的に0の神様から生まれたと信じたい、無を信じる、もしくは啓示をうけたと勘違いする人がアーティストの素質があるんではないかなと思います。(辛辣でごめんなさい)
そこを勘違いしたままだと、どこかで壁にぶち当たります。
実際の努力というか、無から有を生み出すと誤解されがちなところは、たとえば数字で表すと限りなく自分をゼロ(死)に近づけていくのが表現者の追及であり挑戦であり危険なことであることです。表現を志す者がときに病気になるのは、ゼロと1の境をたどる途中でバランスを失いゼロに転がり落ちるからです。
また、黄金比が黄金比たるのは、割り切れないことであることも、参考までに書き加えておきましょう。
2011/11/26
デッサンの目的
・世界の正しい把握
…物質・物体のこと、非物体のこと、すべてのものへの造詣を深める(デッサンを始めると、物事の見え方について考え出すことが増えます。学問全体への興味も生まれます)
・観察(感性の開拓)
→かたち、色、質感、重量、におい、境界線など五感を使って感じられるものをていねいに観察し表す努力をするなかで
人間としての感性をさらに研ぎ澄ませたり、開拓することにつながる
・行動力・運動神経野のトレーニング
→トライ&エラーの繰り返し、成功への近道「行動と決断の繰り返し」の勇気を培う
→表現・具体的行動に関して美術やものづくりの分野における正しい自分の使い方を身につける
・美術、その先の新たな可能性へ
→デッサンからすべてのクリエイティブな開発へつながる部分がとても多い。
教わったことAをAやA''にして表すのでなく、
五感で自らが感じたことを自力で形にする力を養うことで
生きる意欲や、クリエイティブな力を創出することにつながる。
デッサンとその意義について、まとめたものがあまりに世の中に少ないと思ったので自分で草稿を書いてみました。まだ構想の段階で公開するのもお恥ずかしいですが。
デッサンが大事、ということがなんとなくわかっていながら、あるいは全然わかっていなくても、どこかで自分のデッサン力が引っ掛かっていること、多いですよね。なんでデッサンするんですか、という質問は、美大を目指す学生もときにぶちあたる壁のようです。
学校の先生も、あまりこの辺を言葉にして教えていないように思います。
(デッサンの時間と言いながら鉛筆とねりゴムと画用紙とモチーフと時間を与えて、ほったらかし!)
わたしはデッサンのうまい人とうまくない人が出るのは才能の問題とは考えません。才能の問題となる部分は脳の未開拓や欠損、循環の障害などがある場合だろうと思います。それらも補助する工夫や方法を編み出すことで、カバーできますし、根本的に指導者の助言ひとつで伸びるものが伸びたり滞ったりするのが教育の怖さであり面白さと思います。
注意事項:デッサンがのってくると、真冬でもシャツ一枚で過ごせる方がいるほどです(実話)はっきり言ってスポーツみたいなもんです。座ってるだけで労を惜しみ体を使うことを嫌い何もしない人には絵は描けません。楽をしたいなら趣味と言っておけば指導者はあきらめて何も言わなくなりますが可能性もひどく縮小します。趣味に命を懸ける方は別ですが。
またハングリー精神にあこがれていても、栄養・水分不足には十分気を付けましょう。デッサンの修行中に倒れた人もいます(実話。つーか自分。)悪いものを食べていると、絵も悪くなってきます。飯よりかくことが好きでも、バランスの良いご飯をきちんと食べましょう。
個人的体験を少し書かせていただくと、私はデッサンにおける
三次元(現実、対象)→二次元(画用紙上)の翻訳につまづいてました。原因は、眼鏡が必要なほどだったのにあまり使ってなかったことで見ることに確信が持てなかったのと、私の自分自身に対する罪悪感が障害となっていたのでした。絵ははっきり言って、うそです。だって、紙って二次元だし、そこに3次元を表すなんて、考えてみればむちゃくちゃなこと。古典的な日本画の手法や漫画などなら二次元を展開し続けることで道が開ける場合がありますし、わたしは簡単な漫画的絵はかけましたが、西洋画法のデッサンはかなり高度なだましです。
もしかしたらわたしは日本的な感覚の持ち主だったといえるのかもしれませんが。
西洋画法の絵画技術に、魅力を感じていたのに抵抗感が強かったのです。
なので、肝心なところで強気になれませんでした。
心の弱さというか押しの弱さも一役買っています。
自分のいったん定めたはずのものを、根本から疑ってしまう(ぐらついてしまう、信じられない)心の癖が、絵画を成り立たせなくしていたのも事実です。それが病的であろうとなかろうと。。。
だから、指導者の教授は、私に彫刻でのデッサン(摸刻)をさせたときにうまくいったことで、ある手ごたえを感じたらしいです。
3次元→3次元ならうまくいくんだ!と。
私はそれをヒントに、自分の絵画方法を少し修正してみました。
絵は好きだし、続けたかったので。
一つの処方箋は、無理やりにでも自分を信じきること。描いている支持体が二次元であるという思考上の誘惑を、いったん忘れる集中力の頂点へ自分を持っていくこと。これのコツは、かいてる時に、観察8割、描くの2割くらいで進めることです。一気に仕上げるときは割とうまくいきます。体力が至らないと、失敗します。途中で邪魔が入ったりすると、くじけやすいです。
これを継続できればまっとうなデッサンもできるかもしれない。
でも体力と強じんな精神力がないと続きません。
もう一つの処方箋は、二次元→二次元とすることです。
立体を平面に立体的に再現する方法は、基本的に二つしかないといいます。
遠近法と、写真(機械を使って落とし込む)です。
この後者、写真を利用してみることにしたのです。
絵と写真の双方のしくみの理解がないと、写真を使うことは、多くのミスをもたらします。実際私もたくさん失敗しています。写真のトレース、と言ったりすると簡単そうですが、それで絵的によいかどうか、とか生きた線が描けるかどうかということになると、ほとんどの場合難しいです。みんな、「写真」を描いてしまうからです。
コツは、写真に入り込んで読み込むことで、目の前にそれがあるような段階まで自分を持って行き、一定以上まで来たところで現実の絵画技術とつなげて、描き出すこと。
写真に、とことんだまされることをしてみたという感じ。脱魂みたいな感じ。自分の立ち位置を忘れられるだけ忘れてしまった感じ。でも絵画的なつじつまは保っている。それはそれで結構な労力です。もしかしたらだますより難しかったかもしれない(汗)これも途中で邪魔が入ると危うくなります。良いところは、だます感覚が薄れる。機械に肩代わりしてもらうので罪悪感と対峙しなくて済みます。線の表現に集中できる。でも、かわりに、ショートカットしているような罪悪感というか、自分の力で自分を立たせていないような不全感は残ります。しかし、義肢と考えれば仕方ないかもしれません。
子供のころのクロッキーや絵やデッサンで、私は自分がもっと自分を信じて描けたのを感じていました。そこに立ち戻りたくて、その幸せ感を忘れられなくて、絵を進路に選び続けてきたようなものです。
対象の観察中に、対人不安におびえることもなければ、自動思考や妄想に邪魔され悩まされることもありませんでした。自己否定から、観察そのものや描く自体にブレーキがかかることもありませんでした。
今も、修行の最中です。
たとえば脳の病気で、回復が不可能かもしれなくても、子供のころ、あるいは学生時代の一時、たどり着いた幸せな絵の描き方をもう一度体験したい。というか思い出したい。そこを起点に、様々な可能性が呼び起こせるはずなのです。という一念で。馬鹿の一念ですが、そこら辺の探求が、私のいまも一番したいことであり今まで一番したいことであったのです。(だから、入院したのも、不幸じゃなくて、したいことであったのです)
私は子供のころ、デッサンの中に真実とつながる地点を見ていました。
大人になって、それは嘘だ、という幻聴的な言い回しが生じ、自分の考えと混ざって、嘘をつくことが絵には必要、という考えが生まれてしまったのかもしれない。それは正しくとも言葉のあやなのです。それで罪悪感を感じて、ブレーキになってしまったとしたら、やはりそれは思い込みや病気のなせる業といえるかもしれません。いろいろ書きましたが、今考えるとそんなところに結論が落ち着きます。