山本 薫(やまもと・かおり)

イラストレーター

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長野県上田市

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http://www.kaorisi.com/
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    Works 36

山本 薫(やまもと・かおり)

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山本 薫(やまもと・かおり)

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  • フランス リヨン駅

    2012/02/22

    活動記録

    最近ペンでひたすら描いています。
    これが何かの力につながるか、どうか、わからないけれど
    楽しくて仕方ないのかもしれない、いつになく意欲が止まらないのです。
    一日一枚、ツイッターにアップしていますので、続く限りはやってみたいと思います。

    仕上がりの善し悪しに一喜一憂するつらさについて、信頼する医師に話したところ、
    大事なことですもんね、と同意はされたものの、
    それで生きるか死ぬかまで考えますというくだりには苦笑されてしまいました。
    私の作品はひとつひとつ考え抜いて緻密に仕上げるので、そういうクオリティを維持しながら量産というのはスタイルを決めてしまって大量生産するイラストとは違って
    ちょっと大変だと思いますよ、と言われました。


    ささっと書くものと、緻密に仕上げるものとあることについて問われ、
    その時の体力と時間の余りでできる最大限を計算していると、そうなってしまうと思い至りました。

    時間の縛りを気にせず、あすに持ち越すつもりでいつか大作とか傑作を仕上げてみたいものだと思います。



    昨日、ホームページを一新して更新しました。

    http://www.geocities.jp/kaorisi_atelier/

    だいぶ見やすくなったと思います。
    まだ余計なものがちらほらしてはいますが・・

    どうぞご覧ください。




    ペン画はフランス、リヨン駅。

    いつか訪れたい場所です。

  • ペン画について考える

    2012/02/19

    作品更新

    学生時代に、デッサンをしていて、「面で捉えろ」と盛んに言われたことがある。
    その後日本画の歴史を大学で学んだとき、線の重要性について示唆され、
    社会に出てからは余計に、流行りもあろうけれど、線ということがとりざたされるような気がする。

    私はずっと、面と線、どっちに進むべきか悩んできた。

    面を意識して描くようになって、ある一点を越えた時から、
    私の中では面と線の境目がよくわからなくなった。
    そう、それは言語であり、実際描くのは身体なのかもしれない。
    当時シャープペンで描いた線のみによる面表現の自画像が、金字塔となるかどうか。

    私の絵は時々退化したり、進んだりするけれど、それはたぶんその不安定さを克服するのが私の命題であるからだろう、絵についてだけじゃなくて、日常生活のさまざまなことすべてにおいて。コミュニケーションだって。
    心のコントロールは、私の一生の課題なのかも知れない。

    線と面を考えることが、だいぶ楽しくなってくるのがペンで描くことである。
    私はそのどちらに進むかわからないギリギリのラインで、そのつど選択や試行錯誤を繰り返して、言語を超えた境地にたどり着こうとしているような気がする。
    日常的にはたどり着けないから、毎度ノイローゼみたいな不安感を抱えながらもワクワクもして性懲りもなく練習に向かう。

    そのうち、不安から解放されたら、大きな時間のかかるしごともできるだろうか。

    わたしの線の独特のゆらぎは、そのどちらにも進めないでいる、
    優柔不断で柔らかすぎる心そのものの反映のような気がする。
    もしかしたら、それ自体も評価の対象となることがあるかもしれないけれど。

  • 公募に思う

    2012/02/01

    制作

    このところイラストや絵画の公募を見てもちっとも燃えないのは、
    自分が変化したせいか社会が変化したせいか賞金が足りないのかバカ高い参加費(を求めざるを得ない文化)がバカバカしいのかそのどれでもないのかどれでもあるのか、と思っていたけれど、

    むろん社会情勢の影響もあろうけれど、
    公募情報を見たときに、若いときなら何らかのチャンス、と思っていたものが、今はその母体の理念とか、意義なんかに透けて見える意図をやっとわかるようになって、自分のようなものが参加する意味があると思えたら参加する、というスタンスに変わっているのだと気づいた。

    華やかなステージは素敵だけれど、そのあとそこにいたものがどういう人生をじっさいに歩んでいくか、そこにいなかったものがどういう人生を歩んでいくか、審査員はどれほどの人でその後どうなるか、観客席の人はどうなっていくか、のほうが、興味を持てることになっている。

    私は運良くKFSの学内コンテストで二回も賞と仕事を頂いたし、
    社会に自分を放り出したあとすぐに、絵で賞金をいただく機会に恵まれた。
    ファインアートの分野から足を踏み外して苦しんでいた自分にとって、
    それは神様のご褒美と勇気づけだったのかもしれない、と今は思う。

    いま、自分の作品を絵画として扱ってくださるギャラリーが二つあって、
    折があれば仕事を承れる体制も多少は整っている。
    10年前の自分が、なりたいなあと思っていた姿と、ぴったりではなくても、少しは似ている感じになっている。

    それでいながら、いま、(今に始まった話ではないかもしれないけれど)
    心の中ではいつも、これでいいのか?これでいいのか?と不安を抱えていて、これからの展開をどうしていったらいいのか、考えあぐねている。

    イメージの枯渇のような状況(あるいはそれ自体、妄想や懸念かもしれない)になりながら、
    鉱脈をたづねて、掘ったり休んだり。あまり活動的とは言えない。
    線が心を「すべる」モチーフの共通点を探ったり、苦手なことを発見したり、ようやく何年もこんなことを繰り返して、うっすらととっかかりの輪郭が見えたような、いやまだまだ・・・なような。

    辛抱強くお付き合いいただいている皆様、本当にありがとうございます。


    そんななか、ひとつ面白い公募の誕生を目にしました。
    「<a href="http://www.tosho-sekkei.gr.jp/tokyosouga/" target="_blank">東京装画賞</a>」

    インスピレーションを言語に求めるやり方は、古来からの常套といいますが。
    私は昔から本を読むのが好きで、文を書くのも好きだった。
    本という存在のそのものが好き。電子書籍でなく紙の本が好き。

    占い師に、あなたは本を書くとものすごく人気が出るでしょう、と言われてから、
    いつか本に関わりたいなあとおもいながら、
    病気をしてから、文章の構成や組立など思考を要する作業にひどく障害が残ってしまって、なかなか自分でうまく組み立てられないし、読むことも難しくなってしまっているのだけれど。

    読みたい書きたい意欲だけはある。
    同じ意欲を持った作家の芸術を汲み取れるかどうか、わからないけれど、
    そして自分のようなちょっとかたわな創作活動をする者がどれほどの絵をかけるかわからないけれど、可能ならば挑戦してみたいと思えた公募だった。

    そうでなくても、文学作品をモチーフに装画(もしくは絵)を描くというアプローチにはどことなく肌がしっくりするというか惹かれるものがある。


    問題となるのが、画像加工ソフトの扱い。
    イラストレーターがうまく使えないんです。

    もし、今回の公募にあたり、私の装画とコラボしてデザインワークをしてみたい、という奇特な方がおられましたら、ぜひご連絡ください。

    賞金が取れたら、山分けしましょう(とれたらね)(笑)

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