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2010/01/20
第3身体は部屋。家。街。環境。そして地球。
地の神々の身体に、つながっていきます。
第3身体は、自然法則と人間がきめた法則に支配される場。
ここで、私は、はじめて本格的な制限を受ける。
英語でlawと書くと、これは、自然法則にもなれば、法律の意味にもなる。
日本語では、このふたつを一語で表す言葉はないみたいです。
100mはいくらがんばっても10秒そこそこだし、フィギュアスケートで5回転は無理。
人類の先端にも、こんな制限がかかってます。
宇宙は、たぶんだめでしょう。宇宙は、人の場じゃない。
第3身体の限界は、地球……ですね。
でも、私自身は、地球を越えて宇宙にいける。
なぜならば……私というものは、第1身体でも、第2身体でもないし、むろん第3身体でもないから。
第1身体も、第2身体も、第3身体の法則が入ってきて、かなり縛られてます。
物理法則。身体の内側に服を着ることはできない。
人間法則。街中を、裸であるいては、いけません。
1、2、3。
全部の身体がきちんと調和すると……
それは、「天国」とよばれるのかもしれません。
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2010/01/19
人の皮膚は、電気を帯びたようになっていて、なんだか第2身体の受容領域を形成しているみたいです。
蝋人形なんかが、いくらよくできていてもわかるのは、皮膚表面が、この第2身体の受容領域になっていないからかもしれません。
第2身体の受容領域は、つねにある閾値以上に活性化されていて、第2身体を欲している。
人の皮膚は、服に飢えている……
それは、ちょうど、内臓表面領域が、食物に飢えているように。
自分にピッタリの服を着ると、なんか安心できるのは……皮膚が服を得て、お腹一杯になるから?
アニメに出てくるモビル・スーツなんかも服、第2身体の一種ですね。
パイロットは、服を着ている感覚で、巨大なロボットを操る。
エヴァンゲリオンなんかだと、服よりももっと密着して、第1身体と溶け合っている感じになりますね(実際、溶けちゃったシーンもあったし)
人の皮膚の第2身体の受容領域は、あんまり甘くみれないな……と思います。
人は、実は、この部分でも考える。というか
脳で考えるより、もっと ぴちっ としたことを考えるのは、実は
この部分ではありませんでしょうか。
なにに ぴちっ とするのか……といえば
それは、まわりの世界に。
世界にぴちっとつながっていく働きは、実は、この部分にあるんじゃないかと
さえ、思います。
ここは……じつにアブナイ場で
緊密な自我領域とパブリックの交差する場でもあり
自分が、世界の中で、自分であることを保証する場
でもある。
ここに、大きく
私たちは、自分の名前を書く。
でも、その名は……
自分さえ知らない名
だったかも、しれません。
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2010/01/18
旨いものは、人から、言葉を奪う。
昔、テレビで、旨いもの食べ歩きのリポーターの方が、語っていた。
ある番組で、海辺で漁師さんからとれたての蟹をごちそうになった。
彼は、「ウマイ」と言った。
その瞬間、漁師さん、
「あっ、今日の蟹はダメだ。」と。
漁師さんいわく、本当に旨いときは、だれもなんにもいわない。
ただ黙々と、食べるんだよ、と。
そのリポーターさんによると、そのとき……
あまりに旨すぎて、なんの言葉も出なかった。
でも、リポーターという職業柄、なんかいわなきゃ
ということで、「ウマイ」と言った。
ホントは、ものもいわずに、ただ喰いたかったとか。
旨い!は、人の第1身体と世界を、直結させるんでしょうか。
がぶっとやった瞬間……もうなにも要らない。
おそらく、その「絵」だけで、充分に伝わったんでしょうね。
吉本隆明の本に……
ずっと山奥に暮らして、一度も海を見たことのない人が
はじめて海に出て
「海だ」
という……とある。
言語にとって、美とはなにか。
第2身体でない言語。
それは、やっぱり「美」なのかもしれない。
言葉を脱いで、裸でくらそう。
それは、結局絶対無理な話なんだけど……
服を脱いで、裸になることはできても
言葉を脱いで、裸になることはできません。
でも、それをやる言葉ってものがある。
隆明さんは、そんなことがいいたいのかも。
「美」がそこにあるのなら……
やっぱり、それを求めたい、ものです。
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2010/01/17
言葉。
言葉もときどき、人の第2身体になるのかもしれない。
人は、言葉をまとって、自然界に生活している。
人の身体はすべすべだから、衣服をまといます。
ほかの動物にはない、存在の仕方です。
裸で街を歩いたら、どうなるか……
昔、パフォーマンスでやりましたが……そのときの感覚は、不思議だけれど、言葉を失った感覚ととてもよく似ていました。
言葉を失ったことがないから、そういうのも変だけれど……
言葉と服は、実は、同じものなんじゃないか。
そう、思います。
お風呂やさんで裸になっても、そういう感覚にはなりません。
でも、街中で裸になると……
やっぱりものすごく頼りない……なにか裸で世界に投げ出されている感覚(あたりまえですが)。
人は、裸が自然ではなく、服を着ている方が、実は自然なんだと思います。
人のあり方と言葉というものがどうしても切り離せないように。
人は、第1身体と世界をへだてる「なにか」が要る。
それが……実は、人の本質的な存在の仕方だと思います。
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2010/01/16
イレズミやピアス、割礼なんかは、1.5というよりははるかに1に近い。回復不能という点を考えると、0.9とか0.8くらいの世界かもしれない。
893さんのユビツメなんか、0.7くらいの感じかな?
どれもやったことがないからわかりませんが……オソロシイ世界です。
面白いことに、数値が1に近づけば近づくほど、精神、ココロに与える影響は、深く、大きなものとなる。
数値が2に近づけば、精神やココロに与えるダメージは、小さくなります。
人の範囲というものは……皮膚や消化管内壁をめぐるあいまい領域を常に出入りしていて、実は、人のココロというものも、そこはかとなくそのあたりを漂っているものなのかもしれません。
私が私であること……は、実は、この境界領域の問題なのかもしれない。
そこに……イレズミやピアスみたいな過激なものから髪型や服、ファッション、ギア、バイクや車みたいなものが混在して、私が私であることを「つくっている」。
この「私領域」を一歩、内側に入ると、そこはもう、私自身にもわからない、闇の世界です。
あるいは……この「私領域」から離れていくと、そこには公、パブリックのせ界がひろがっている……
テレパシーやフレンドリ、はたまたハームフル、傷つけあいみたいなものは、この境界領域に懸かってくる現象……ここで、私は、私でないものと交わり、また敵対し……ここは、「自我形成」に、まことに大きな影響をもってくる領域であると思います。
私が、私であること。私とはなんなのか……
それは、ブルトンのいうとおり、私がなにに「懸かられて」いるのか……そのことそのものなのかもしれません。
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2010/01/15
「テレパシーは触覚である。」
これは、有名なUFOコンタクティ、ジョージ・アダムスキのお言葉。
ここを読んだとき、はっとしました。
テレパシーというと、物理的手段を介さずに思念を届けられる超能力……
なので、なんとなく、離れたところでも電話も無線もなしに通信できる便利な能力……と、思っていた。
ところが、彼によると、テレパシーは、接触、コンタクトの感覚なんだそうで。
なるほど……と思っちゃいました。
「懸かってくる」といいます。
『君が、どんな人物であるのか。それは、君が、なにに懸かられているかをみればわかる。』
アンドレ・ブルトンの『ナジャ』に、こんな文章があったと思います。
能では、シテ方に、亡霊や生霊が「懸かってくる」ことが多いけれど……舞台を見ていますと、ときどき本当に「懸かっている」と感じることがある。
日常普通にも、これは見られることで……たとえば、仲が良い恋人さんたちが街を歩いている様子を見ると……「互いに互いが、懸かっている」と感じられることもある。
第2身体を考えるとき、この「懸かっている」ということは、おそらくキモになることなんではないかと思います。
道端に停めてある車……それが、突然ブレーキランプが点灯してエンジンがかかり、方向指示灯が点滅して動き出す。
車は人に「懸かられた。」
人は車のことを第2身体と思っているかもしれないが……外側からみるとそれは逆転していて、人が車の第2身体として懸かり、車を動かす……
人が車の中に入っちゃうと、車が動いているみたいで不気味……
そういう意味で、オープンカーは、人がちゃんと見える分、健全ですね。
人は、他人の第2身体となってしまうこともある。
オーケストラの指揮者なんかだと、百人くらいの人にいっぺんに「懸かる」必要があるので大変。
軍隊の指揮官なんかでも、そうでしょう。
馬に乗る人は、人馬一体。
どちらがどちらの第2身体なのか……
ケンタウルスの図像を見ていると、そんな感じもします。
バイクに乗る人を、ケンタウルス風に描いたら、さまになるのかな?
私は、乗ったことがないからわかりませんが……
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2010/01/14
第1.5身体
第1身体と第2身体の境界領域。
ここには、爪や体毛、角質層なんかが入ってきます。
内臓系では粘膜なんかもそうなのかな?
神経が通っていないから、ちょん切られても痛くありません。
でも、あるとないではかなり違います。
爪も不思議だけど、体毛も不思議ですね。
獣ではほぼ全身にはえる体毛が、人間では局所的です。
髪の毛もアンダーヘアも、そして成人男ではヒゲなんかも、物理的であると同時に精神にも大きな影響を持っています。
マニュキアやったりネイル・アートに凝る人にとっては、爪も精神的ギアになる。
粘膜なんかだと、かなり物理的に、細菌やウィルスとの攻防戦が行われる場所です。
性感帯の粘膜は、精神にも大きな影響を持ってますし……。
お化粧なんかも、実はかなりこの境界領域に入ると思う。
整形なんかになると、相当程度第1身体に食いこんできますし。
下着なんかは、分類的には第2身体だけれど、実は、この境界領域と考えた方がいい場合が多い。
昔の日本人男性はふんどしでしたが、ああいう食いこみ型下着は、もろに第1.5身体になると思う。
女性のTバックなんかもそうですね。
ラテン系の国では、Tバックのことを「タンガ」と呼ぶとききましたが……
この言葉は、元はラテン語のtangere「接触する」というところからきていると思う。
「さわる下着」で、まさにピッタリのネーミングです。
noli me tangere.我に触れるなかれ。
イエス・キリストの復活した姿を最初に見たのは、マグダラのマリア。
墓の前に立つイエスに触れようとした瞬間、このお言葉。
マリアは、既に人の子ではないイエスの境界領域に入ろうとした。
SFなんかでよく出てくる「なんとかバリア」も、やっぱりこの第1.5身体になると思う。
スター・ウォーズなんかでは、「フォース」といってますが、これは正確にいうと「フォース・フィールド」、力場のことなのでしょう。
剣道なんかやっている人には、果し合いのたびに実感されるこの不思議な第1.5身体の場。
フォース・フィールドは、物質的なものではないので、その到達距離は無限大にもなる。
作家の埴谷雄高は、「念速」でしたか、人の思念の速さは光速をはるかに上回り……私がアンドロメダ星雲のことを考えたとたん、私の思念はアンドロメダに届く、といいました。
思念も第1.5身体だとしたら……
宇宙って、不思議ですね。
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2010/01/13
昔、オカルト本に、おかしなことが書いてありました。
超能力を持った祈祷師がいて、死んだ人の霊を呼び寄せるのだとか。
その人の場合、お得意さんは、息子や旦那さんを戦争で亡くした遺族。
南方戦線なんかで戦死して……死んだときの状況もわからない。遺族にとっては、ぜひとも知りたい。
で、祈祷師が人形をもってきます。
その人形を前に祈ると、人形がむっくりと……
起きあがって走り出し、突然ばったり倒れる。
「ああ、息子はこんなふうにして死んだんだ……」
遺族の方々は、心から納得して胸のつかえがすうーっとなくなる。
ということなのだそうです。
この話を読んで、思いました。
この祈祷師さん、死んだ人を再生できるんじゃ?
人形に、霊を入れて動かせるんだったら……
死んだばかりの人の前で祈れば、死体に霊が入ってやっぱり動くはず。
人形も死体も、モノには変わりがない。
とすれば……
こういう場合、それを「生き返った」といえるんだろうか??
肉体は自分の肉体だし、霊も自分の霊だし。
自分の霊が自分の肉体に入って自分の肉体を動かす。
これって、生きているときとどう違うんだろう……
第2身体は、けっこうわかりやすいですよね。
車を停めて、車から出る。
また車に乗って、走らせる。
明解です。
第1身体では、なぜ難しいのか……。
そもそも、第1身体に「乗る」って、どういうことなんだろう??
日々乗って、運転してるんですが……
わからないなあ……
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2010/01/12
第1身体は、モノの世界に属しているから、私にとっては「謎」です。
一応、思い通りには動くんだけれど……ときどき、だめです。
年をとると、この「だめ」が、けっこう増えてまいります……
ロボットのアシモくんなんかの動きを見ていると、ホント、だれか中に入っているみたいです。
でも、だれもいない……
アシモくんは、 第1身体のカタマリみたいなもの。
「ソフトが入っている」という言い方で、いいのかなあ……
映画『2001年宇宙の旅』のHAL。
彼の第1身体は、宇宙船ディスカバリー号そのものでした。
彼にとって、人間は、自分の第1身体に侵入してきた寄生虫みたいなもの??
今、地球上を覆っているネット。
この第1身体は、なんでしょう?
分散する無数の端末、そしてこんぐらかったケーブル……
全貌がだれにもわからないままに
よくわからない不思議な第1身体は、増殖し続けている……
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2010/01/11
旅行なんかに行くとします。
知らないところへ行って、知らないものを見て、知らないものを食べる。
海外なんかにいくと、知らない言葉を聞いたりする……
実感!……と思っちゃいます。
でも、まてよ……
と、ここで、大きな疑問。
どこに行っても、私は私の第1身体の中にいるではないか……
どこにいっても、私は、私の第1身体から出ることができない。
旅行といっても、ケージに閉じこめられて行ってるようなもんです。
さて、このケージから出たら……世の中、どんなふうに見えるもんなのでしょう。
アストラル・プロジェクション、幽体離脱はオカルトです。
あれって、抜け出しているように見えて、やっぱりひきずっていると思います。
あれでは、私は満足できないなあ……
裸眼……という言葉がある。
メガネもコンタクトも付けないで見る。
でも、眼球自体が、とっても精巧な光学装置だ。
裸視……ということになれば、この光学装置自体を外す必要があるのか……
そうすると、世界はどのように「見える」のでしょうか?
いやいや、実は、視覚は脳で構成されているんだ……
そうすると、脳も外す必要がある。
裸思……ということになるのでしょうか……
魂というものがあるとするなら、それも外す。
裸魂のその先?裸在??
そのとき、私はなにになるんだろう???
第1身体が世界に関係する以上、なにか、世界に対して責任があるのかもしれませんね。
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