空丸

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  • 第1身体のこと・11

    幼稚園のころ……
    キリスト教の幼稚園だったので、クリスマスにはイエス生誕の劇がありました。
    年長のこどもたちが、イエスやマリアに扮して、ベツレヘムの一夜を……

    私は、年少だったのでしょう、ただ見ているだけでしたが
    天使の役の子が、舞台に出てきました。
    天使には、羽があります。
    その子も、背中に、みごとな羽をつけていた。
    そのとき……

    「ああ、かわいそう。あの子は、もう一生あの羽をつけたまま……」
    そう、思った。

    こどもだったので、手術で本当に羽を植えつけられた!
    と、思ったのですね。

    でも、そのとき……
    なにか、えもいわれぬ快感が、全身を走った。
    うーん……
    こどものころからヘンタイだった……といわれても、もんくはいえません。

    人体改造は、オソロシイ。

    西洋バロック期には、カストラートという、去勢された男性歌手が……
    たしかにボーイソプラノは、女声にはないものがある……とはいえ
    よくやります。

    ボディピアスとか刺青とか……
    オソロシイ世界です。

    でも、昔の中国では纏足に宦官に……
    ユダヤでは、割礼。
    どこの民族かしらないけれど、首にいくつもの輪っかをはめて伸ばしたり、下唇に巨大な円盤をはめたり……
    よくやるなあ……と。

    第1身体の改造は、オソロシイ。

    ここまでして、第1身体を改造したい……というのは、いったいなんなんだろう?

    ふしぎです。

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  • 第1身体のこと・10

    私の第1身体は、DNAからできています。
    DNAは、チミン、グアニン、アデニン、シトシンの4つの塩基からなっている。
    これは、私の身体だけではなくて、この地球上のいきものはすべてそうです。
    これって……考えてみると、とても不思議なことじゃないでしょうか。

    昔、こどものころに読んだ本。
    「人がブタを食べても、なぜ人はブタにならないのか?」
    というのがありました。

    こどもにこんなことをきくなんて、ずいぶん変わった著者だなあ……と
    こどもごごろに、思った。

    消化・吸収……は、不思議です。

    地上の生命が、みな4つの塩基を基本にしている……ということがなかったら……
    いきものが、他のいきものの身体を食べるということは、なかったかもしれない。

    塩基が共通していなかったら……
    「消化」は、食べたものを、もっとばらばらにしないといけない
    ということには、ならないだろうか?

    生物学に詳しくないのでわかりませんが……
    そんな気がします。

    生命の基本は、秩序です。

    やっぱり昔読んだ本に、生命のはじまりは「粘土」だと、書いてあった。
    これって……土くれから生まれたアダムを思わせますが……
    著者によると、粘土の中には、いのちのはじまりの秩序があるそうです。

    でも……粘土の秩序は、4つの塩基の秩序とは別物です。
    だから……人は、粘土を食べては生きられない。
    鉱物は、消化できません。

    ミネラルなのか……
    でも、基本的には、他の生物の身体を食って、生き、生長する。
    ようするに、DNAをばらして、自分のDNAに組み替える作業と考えていいのかな……


    さて、わがやでは、もうすぐばんごはんです。
    他の生物の身体を……
    いただきまーす!

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  • 第1身体のこと・9

    私が、自分の第1身体を意識したのは、いつからだったろうか……

    いつのまにか、ここに、ありました。

    意識しなくなるのは、いつごろからでしょうか……。

    でも、今でも、一秒一秒、意識しているわけではない。
    というか……意識しているときの方が、少ないのかもしれません。

    寒い!と思うのは、私の身体が寒いのか、それともまわりの空気が寒いのか?
    りんこが赤い。
    これは、やっぱりりんごが赤いのであって、私の目(の一部)が赤い
    ということは、あまり、考えられません。

    視覚と暑い寒いでは、なぜこんな違いがあるんだろう……

    昔、父の友人で、不思議なことをいう人がいた。

    電車に乗っていて、自分の気分が暗く、ふさいでくると、お天気もどんより曇ってきて、景色も暗くなってくる。
    自分の気分が明るく、楽しくなってくると、空も晴れ、景色も明るくなる。
    この方は、結局精神病……ということで、入院されましたが。

    感覚、気分、そしてそれらを意識すること……
    これは、考えてみると不思議です。

    感覚には、必ず、価値観がともなっている。
    純粋にして客観的な感覚……というのは、あんまりないように思います。

    見るもの、聞くもの、そして感じるもの……
    すべてが、快不快の価値観に支配されている。

    人の感覚は、最初から、強力なバイアスがかかった状態で、やってきます。
    いいなあ……とか、やだなあ……とか。
    そして、すぐに反応してしまう。

    絵を見たり、音楽を聞いたりするときも、やっぱりそう。
    「それが、どんなものであるか」を知る前に、好悪、快不快の感覚が、きます。

    これって、幸せなことなのか、不幸せなことなのか……
    「客観的」って、ホントは、どういうことなんでしょう??

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  • 第1身体のこと・8

    人の第1身体は、川面に映る月のよう。

    月影の水は、たえまなく流れ入り、出ていくけれど
    月は、月のかたちをたもっている。

    今、私を構成している物資は、数年後にはほとんど残っていないでしょう。
    でも、私は私
    で、ありつづけます。

    水面の月影の、きわの部分……
    ここは、とても微妙だと思います。

    川面に波がたつと、月影のきれいなかたちはくずれていく。
    波がおさまると、また、きれいな月のかたちが現われる。

    水面の月影は、それを見ている人がいなかったら、果たしてそこにあるのだろうか……
    月影が、月影自身を見ているのか……
    はたまた、天空の月が、水面に映るおのれの影を、見ているのか……

    私は、私自身が「ある」と思っているけれど、それは、私が、私自身を「見ている」からなのか……
    他から分別された「私」というものは、いったいどこに、成立しているのだろうか?

    猫なんかだと、人間ほどには自分というものを、くっきりと見ていないのかもしれない。
    人が猫を見るとき、その境界ははっきりとしている。
    それは、しずかな水面にくっきり影を映す満月のように。

    でも、猫が、自分自身や他の猫をみるとき
    はたしてそのように、はっきりくっきりしているんだろうか……

    小さな虫や、魚や、さらにプランクトンみたいになちゃうと、どうなんでしょう。

    生命には、「免疫機構」があって、他から自身を守ります。

    身体によそものが入ってくると、区別して、白血球を動員してこれを殺します。

    でも……
    これは、白血球という「自己」にとっては、少なくとも自分のためにならない自殺行為だ。
    白血球自身が自分を守る免疫機構……こういうものは、ないのだろうか……

    満月が雲に隠れると、水面の月影も、消えてしまいます。

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  • 第1身体のこと・7

    私の第1身体は、私にとって、闇です。
    自分の背中さえ、見えません。

    顔も……鏡をつかわないとだめ。
    他の人のほうが、よっぽど私の第1身体を、よく見ていると思います。

    内側は……
    これはほんとうにブラックボックスです。
    腹が痛いとか、頭が痛いとか……
    ときどき不気味な信号を送ってくる。

    百億光年先の星の光も、見える。
    でも、自分の中は、見えない。

    私は、私の、どこにいるんだろう?

    統覚……の問題なのかな?とも、思います。

    コンピュータのHALは、自分をディスカバリ号のどこにいると感じていたのか。
    地球全体をおおうインターネットに「意識」というものがあるのなら、その「意識」は、自分がどこにいると感じているのだろう?

    人の感覚は、なぜ「外向き」主体に、成り立っているのでしょう?

    目が、くるんと内側を向いて、自分の中を見る、というふうになってないのは、なぜなのか?
    まあ、まっくらだから、発光装置も必要かもしれません。

    目が、くるんと裏返っている人をみかけたら……
    「ああ、あの方は、今ご自分の中を見ておられるんですよ」
    なんてね。

    一日に何回か、時間をきめて
    みんなが目を裏返して自分の内側を見る。
    そういう内省的な国……
    もうちょっと、みな、お利口に暮らせるのかも?
    オソロシイ気もするけど。

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  • 第3身体のこと・6

    人の第3身体は、パブリックにかかわる。
    ここが、いちばんやっかいなところだと思います。

    第3身体の、いちばんの特性は、<共有>ということでしょう。
    他の人と、また他の生命と、そして地球上の山や川やすべてのものと
    共有する。これが、第3身体の顕著な特徴。

    実は、完全に個人のものと思われている第1身体からして、<共有>です。

    自分の身体の中にいる細菌たちとの共有……そればかりでなく、自分の身体の細胞一つ一つが生命体であると考えると、彼らとの共有……

    第1身体に入ってくるさまざまなものは、かつては別の生命体であったし……第1身体から出て行くものも、やがて他の生命体となる……

    こうやってみると、いちばん<個的所有>のしばりがきついのは、実は第2身体……ということになるのかもしれません。

    昔、スウェーデンだかどっかで、共産主義のコミューンがあって、共産主義思想を徹底しようとした。
    そこではなんと、歯ブラシまで共有していたそうな。

    いくら<私有財産の否定>といっても、歯ブラシの共有まではなあ……というのがふつうの感想だと思います。
    でも、車くらいになれば……会社の車なんか共有が前提だし、最近では、1台の車を複数の人でシェアする試みもあるそうですね。

    電車やバスまでくると……「公共交通」という名が示すとおり、共有が前提の世界です。

    第1身体の極限には、「財産」に関係のない本質的な「共有」があり、第2身体は、「財産」に深くかかわって、第3身体に近づくほど「共有」の度合いが高くなる。

    個人商店なんかだと、まったくその人の会社ですが……有限会社、株式会社とすすむにしたがって「共有」度合いは高まります。
    株式会社でもあまりにでかくなると、もうこれはほとんど「公共」で、つぶれかけてもつぶせない。国が、財政援助までやります。

    ところが……第3身体の規模がさらに大きくなって、「地球全体」にまで及ぶと……今度はまた、「財産」観念との結合が薄まってきます。

    地球全体……ということは、当然人間だけじゃなくて他の生命や地球自体のことも考えなくちゃならないので、「人間」にだけ通用する「財産」ルールが通らなくなります。

    ここで……「環境」となってしまった第3身体は、奇妙なことに、くるりと反転して、第1身体に直結してしまう。
    「環境」を考えるとき……やっぱり、みな、「自分の身体」を、どうしてもその中心にもってきます。
    これは、無意識的に……でも。

    環境問題は、なぜか、「自分が生き残る」とか「自分が気持ちよく暮らしたい」ということに、直結してしまう。
    とくに、日本では、その傾向が強いみたいです。

    ヨーロッパ的な考え方だと、環境問題はあくまでパブリックとしての第3身体の極限形態と考えるから、アプローチは非常に合理的でシステマチックな印象がある。
    ところが……日本においては、もともとパブリックとしての第3身体的な考え方が希薄だから、「環境」が「自分の身体」に直結してしまうのかもしれません。

    いずれにせよ、第3身体が極限までいって地球規模になりますと、ここで、「人間のルール」は通用しなくなるので……
    人間が、合理的に考えられる道も、ここで終わると思います。

    この洗剤は、使用後に分解されるから地球にやさしいよ。

    そんなことをいう人もいたりしますが……
    じゃあ、その洗剤が、ホントに地球にやさしいか?
    これを、どこまでも追っかけて徹底検証するのは不可能です。

    そもそも「地球にやさしい」って、どういうこと?
    どの範囲までを「やさしい」とするの?

    人が、第3身体のことをわかるのは、せいぜい自分が住み、暮らす範囲だと思います。
    それ以上は、想像や論理がはいってきて、わかってない部分を勝手につないでしまう。
    そういう勝手な論理ばかりが乱立して、いつのまにか「実感」のない世界に迷いこみ、すべてがわからなくなってしまう。

    第3身体のことは、第1身体の声に聞く。
    それが、今できる、いちばん確実な方法なんじゃないかな?
    と、思いますが。

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  • 第3身体のこと・5

    第3身体の上限が地球になること。
    これは、ふしぎだが、ほんとうのことだと思います。

    私たちは、地球の上を、歩く。
    まっすぐ歩いているつもりでも、曲がっています。
    地球の表面が、丸いから。

    まっすぐどこまでもいくと、結局、出発地点にもどってくる。
    まあ、海は船で渡るとして。

    地球の周りを一周4万kmとすると、1km歩くごとに、地球の中心から測って0.009度ずつ傾く計算になる。
    10kmで0.09度、100kmで0.9度、つまり約1度です。

    名古屋−東京間を約300kmとしますと、この傾きは2.7度。
    これは、けっして小さな数字ではありません。

    名古屋の人は東京の人に対して、東京の人は名古屋の人に対して、それぞれ3度近く傾きながら暮らしていることになります。

    惑星地球の重力場は、このようにすべてを曲げて、あらゆるものをその表面に貼りつけて、囲いこんでいます。

    この力に対抗するには……
    地球の中心に対して垂直方向のベクトルを持たねばならない。
    そして、この垂直ベクトルだけが、地球上に存在する唯一の<直線>となります。

    まっすぐな建物も、まっすぐな道も……
    実は、すべて曲がっている。
    垂直に上昇するエレベータだけが……実は、本当のまっすぐ。

    地球上の生命は、むろん人間も含めて、すべてこの<測地力>(ジオデジック・フォース)の影響を受けている。
    人の第3神体も、やっぱりこの力の影響を受けて曲がり……それは、地球表面をぐるりと取りまいて、完結します。

    ジェームズ・タレルの作品で……
    水平方向の窓が一切なく、垂直方向、天井にだけ開口部があるのは……
    人の第3神体を、通常の水平に曲がっていく力から遮断して、本当の直線、つまり天空に延びていく垂直力にゆだねようとする試み……

    ここで、人は、どのような<感覚の変化>に
    とらえられるのでしょうか。

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  • 第3身体のこと・4

    第3身体の最小範囲は自分の部屋。
    これに対し、最大範囲は、惑星地球。

    以前、カプセルホテルにとまったことがありますが、これはつらかった。
    スペースの狭さもありますが……なにより、カプセルのぐっと内向きに収縮してくるベクトルが、第3身体的にあんまりよくない。
    で、サウナに行くと……大勢の人がいるにもかかわらず、ホッとしました。

    テントなんかも狭いんだけど、カプセルホテルのような、あの圧迫される感じはありません。
    薄い布一枚で、環境に開かれている。
    風や温度、光なんかを感じられる。
    寒かったりするけれど……だいじなことではないかと思います。

    第3身体というのは、やっぱり環境への連続感覚が大切なんではないでしょうか。
    この空気は、地球の裏側までつながっている……
    この海は、どこまでもいける……
    そういう感覚かなと思います。

    窓に、精巧な大型モニタを取り付けて外の景色をそのまま映し出す。
    見えるものは同じでも……やっぱり、それはちがうのでしょう。

    ジェームズ・タレルの、天井が抜けて空が見える部屋。
    私は入ったことがない。どんな感じなんだろう……

    この作品の特異なところは……水平方向の環境が一切見えず、天空だけが切り取られて見えるというところだと思います。

    第3身体の最大範囲である「環境」を完全ブロックして、第3身体を超える、第4身体とでもいうべき天空・宇宙を直接に見せる。
    ここで、人は、惑星地球を「離れる」感覚を体験するのだろうか……

    人は不思議で、この惑星地球を「離れる」ということを考えることが、できるのです。

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  • 第3身体のこと・3

    第2身体と第3身体のいちばん大きな違いは、

    第2身体 → 動産
    第3身体 → 不動産

    ということだと思います。

    服や装身具や車なんかは本人と共に移動可能だけれど、家や土地なんかは、携帯できません。
    キャンピングカーなんかだと、微妙なところですが……(やっぱり第2身体でしょう)

    楽器なんかでも、この観点から考えると、ヴァイオリンやフルートや三味線、尺八のたぐいは完全に第2身体。
    これに対し、ピアノなんかになると、けっこう第3身体ぽい(2.5身体?グレン・グールドのピアノなんかは第2身体で、どこの演奏会でも自分のスタインウェイを運んだ)

    パイプオルガンなんかになっちゃうと、これはもう完全に第3身体ですね……(不動産に分類されるのかどうかはしりませんが、おそらくそうなんでしょう。動かせないもん)

    これに対し、第1身体は……

    第1身体 → そもそも財産ではない
    第2、3身体 → 財産(動産、不動産)

    ということだと思います。

    アンクルトムの中に出てくる黒人奴隷が、雨が降るといつも帽子を脱いで上着の中にしまう。

    帽子をかぶってればぬれないのに……と思って訊ねると、
    「身体は主人のものだが、帽子は自分のものだから」

    このくだりが印象に残っています。

    現代ではむろん、人の身体はだれの財産でもありませんね。

    著作権は、かなりうまくこの状態を反映している。

    著作権は
    売買できる「著作財産権」と
    売買できず、作者と一体の「著作人格権」
    この両方で構成されている。

    著作財産権は第2身体的であり……
    著作人格権は、第1身体的です。

    この考え方を敷衍していきますと……
    第3身体に対応できる、「著作環境権」みたいなものも、必要なのかなあ……

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  • 第3身体のこと・2

    人には、どれだけの空間が要るか。

    満員電車では、ゼロです。
    ゼロでも、限られた時間なら、耐えられるってことです。

    昔、こどものころ……大金持ちのトイレの広さについて、考えました。
    6畳くらい?いやもっと?
    いくらなんでも100畳200畳はないかな……
    ということで、浮かんできたのが……
    広大な部屋の中央に、便器がひとつ。(なぜか和式)
    高い、たかい天井から、水洗の紐が垂れている……

    こんなトイレで用をたすって、どんな気分だろう?

    第3身体としての家は、複雑です。

    知り合いの建築家で、トイレは、家全体のいちばんいいところに置く
    という人がいた。
    実際に設計した模型も見せてくれた。
    でも、彼は、お客のいない、いわゆるペーパー建築家だった。

    もう一人、知り合いの建築家の話。
    お客さんに頼まれて、住宅を設計。
    その彼が、ぼやいていた。
    「施主さえいなければなあ……」
    一瞬、マジ?と思ったが、顔を見ると本気でした。

    家は、住む人のもの。
    良い建築家を 選びましょう。

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