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2010/02/11
世界は、そこにあるものではなく……
私が、世界に受け入れられることによって
そこに、つくられるものだと思います。
私の第3身体である「世界」は……
私の第1身体が、そこに受け入れられることによって
はじめてそこに、現われてくる。
私を受け入れない世界は、私にとっては無。
私を受け入れる世界が、私にとって、ある。
世界のどこも、知識として知っているだけでは「有る」にはならない。
そういう世界を「そこにある」と思ってしまうのは……
人間の脳に与えられた、おおいなる錯覚……なのでしょう。
渡り鳥や回遊魚にとって、世界はどう見えて、どうあるのだろうか。
自分の第1身体があるところ……彼らにとっては、やはりそこが世界。
なので……第1身体が動いていくにつれて、世界がそこに、つぎつぎとひらけてくる。
人間は……渡りのルートや回遊の道筋を考える。
でも、かれらにとっては、おそらくそういうものはない。
つぎつぎと開かれて、自分を受け入れてくれる世界……
やっぱり、彼らにとっては、それこそが「世界」なのでしょう。
目的地とかルートって考え方がない。
そういうものは、人の第1身体にとりつく第2身体……なのかもしれません。
おそらく……
地球上のいきものにおいて、人間だけにある第2身体(財産)。
これを介するから、人は、本当の第3身体のことがわからなくなる。
第2身体というものは、おそらくは人の脳のつくりだした複雑怪奇な妄想。
それが消えたら……消えることがあったら……
そのときはじめて「世界」は
私の前に、その本当の姿を現す……のでしょう。
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2010/02/10
リチャード・ロング。
山行水行……
だいぶ前に、世田谷区立美術館で見ました。
イギリスの現代美術家ですが、
まるで、日本の禅僧のようなイメージの方。
この人は、「地元の泥」で作品をつくる。
美術館の壁には、世田谷の泥が……
はかなくも美しい模様を、見る人に語りかけるように
描かれておりました。
マップの上に、自らが踏んだ地をしるした作品もあった。
うーん、これは、正直。
現代美術なんて、ひねた、こむずかしい……
と思うと、良い意味でうらぎられます。
ストレート。しかも気負わない。
淡々と……ただもくもくと
やるべきことだけを、きちんと納めていく……
これは、なんか、やっぱり「悟り」ですね。
月並みな言葉だけど。
私の第3身体は、なんだろう……
私の第3身体は、どうやって、そこに現われるのか……
そんなことを、考えさせられました。
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2010/02/09
私の第3身体は、私の第1身体が、のし歩いていく場として、形成される。
赤ん坊のころは、ベビー布団とかベビーベッドの範囲だけ。
それが次第に大きくなって、部屋全体になり、家全体になり、ついに外にでる。
もっとも、親に運ばれて着地した地点で、飛び地をつくりますが。
交通機関を使えるようになりますと、さらに範囲は広がります。
でも、交通機関に運ばれている区間は、はっきりいって「未踏」の地です。
飛行機なんかで海外にいく。
これはもう、はっきりと「点」攻略になる。
着いた先で、足で歩いたところだけが、自分の第3身体になります。
知り合いで、日本の海岸線の一周をやっている人がいます。
むろん、徒歩で。
のべつ歩いているわけにいかないので、前に終わったところからまたはじめる……ってやりかたですが。
彼は、こうして、日本の4つの島の海岸線を歩きとおしました。
さて、それがどうなの? ということなんですが……
歩いた領域が、彼の第3身体となった。
これは、実際に歩いたその人しかわからないことですね。
私の街。
かつて暮らしていた街は、県庁所在地で、そこそこの規模でした。
でも、私は、その街のほんの一部しか知らない。
一部しか、私の第3身体に、なっていません。
よく行ったところでも……
実際に歩いた道、入ったお店しかわからない。
あとは……ブラックボックス。
よく行ったお店でも……
やっぱり、まったく立ち入っていない空間もある。
うーん。
そうやって考えると……
私の第3身体って、やっぱり点座標なんでしょうかね。
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2010/02/08
独身者と花嫁の出会いは、それは、電気的接触。
一瞬、スパークがおこって、またすぐに無の世界……なのでしょうか。
花嫁の衣装は、独身者たちによって脱がされるためにある。
と同時に、花嫁は、衣装を脱がされる自分自身を、感じる。
花は、自分自身を見るために咲く。
こんなことを、言った人がいた。
なるほど……と思うけれど、でも、論証はできない。
しかし、デュシャンの花嫁は、たしかに
自分自身を見るために装い……
そして、脱がされる自分自身を感じるために、脱がされる。
人の衣服は、いろんな面で、アンビバレンツです。
脱がされるために着る。
着ている自分を見る他人の目のために、着る。
その他人の目にのって、自分自身を見るために、着る。
こういう複雑怪奇なしつらえが、人にとっては
とてもおいしい心の食物になるので……
だから人は、なにも着けない第1身体で
生まれてくるのかもしれません……
人の第2身体は
自分と他人が、そこで切り結ぶ場であり……
また、自分と、他人を迂回した自分が
そこで、再び出会う場……でもある。
独身者たちによって衣服を脱がされる花嫁……
どう考えてもこれは
良くできている、一瞬の物語。
*写真は、東京大学にある「大ガラス東京ヴァージョン」
デュシャンのメモである「グリーンボックス」の解析によって、再制作された。
ただし、レプリカではなく、生前のデュシャンによって「ホンモノである」と烙印を押されたホンモノ。だそうです。
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2010/02/07
デュシャンの「花嫁」の原型は、よく知られているように、「階段を降りるヌード」と題された一連の作品なのでしょう。
「階段を降りるヌード」では、「ヌード」という言葉があるから、これは衣服をつけていない、第1身体そのものの状態だと思われます。
これに対し、「大ガラス」の花嫁は、独身者たちによって「裸にされた」とあるところから、第2身体、つまり衣服を脱がされた「ネイクド」の状態。
どちらも「裸」なのだけれど、ある意味、大きな落差がある。
ヌードデッサンなんかのときにも、モデルさんは、バスローブなんかをまとった状態で現れて、パッと脱ぎます。
ふつうに服を着ている状態から、一枚一枚脱いでいく……ということはやりません。
「階段を降りるヌード」は、デッサンのモデルさんのような状態だけれど、「大ガラス」の花嫁は、まさにストリップ・ショーそのものです。
独身者たちの制服の鎧の中に充満するガスの欲望が、花嫁の衣装を、一枚一枚はいでいく。
それは、まずは想像の中で……
ところが、この独身者たちの欲望に点火するのは、花嫁そのもの……。
花嫁は、そのことを、いったいどれだれ自覚的に知っているのだろうか。
たとえば最近の、街をゆく若い女性の服装は、過激です。
下着じゃないの?とか、ほとんどお尻の見えているジーンズとか……
彼女たちにとってみれば、それは、「かわいいー」とか「セクシー」とかのファッション用語領域にはいるものかもしれないけれど、男性の目は、やっぱりちがう。
男性は、独身者となるとき、自らを鎧で固めて、その内部には「欲望のガス」が、ふつふつとたまりはじめる。
デュシャンの独身者たちが、制服で身を固めているのは、わかる気がします。
独身者の気配を感じた花嫁は、花嫁自身の目とともに、独身者の目も、もちはじめる。
独身者のまなざしは単純明快で、「欲望のガス」そのものだけれど
花嫁の2重のまなざしは複雑で、その分だけ「快感」も大きいのかも。
うーん。これはやっぱり、オソロシイ作品だ……。
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2010/02/06
パイプを通って集められた独身者のガスは、7つの漏斗に導かれて、ここで凝縮されて液体になります。
そして……「眼科医の証人」と呼ばれる検眼表の図のようなところを垂直上昇して上の「花嫁」のゾーンへ。
独身者は、自らの観念の中で、「花嫁」の衣装を脱がす。
新婚の初夜
花婿は、花嫁の待つ部屋に入る。
そこは、まっくらです。
くらやみの中で……
花婿は花嫁の衣装を一つ一つ脱がせ
そして 最高の瞬間に至ります。
これは、必ず、暗闇の中で行われなければならない。
さながら、みあれする神のように……
独身者は、永久に「花婿」たりえないので
strippingを、頭の中で行います。
独身者の脳内には「欲望のガス」が充満し……
それは、多くの場合、みじめな結末となります。
でも、独身者は、めげない。
「欲望のガス」は
はきだされてもはきだされても
なぜか、どこからかわいてきて
独身者の脳内に、充満する。
人間の文明は……
このようにして、つくられてきたのかもしれません。
「欲望のガス」は
はたしてどこから、やってくるのか……
ガラスに封印された乾いた時空の中で
デュシャンの独身者たちは
いまもなお、欲望のガスをためてははき、ためてははき……
うむことなく、それをくりかえしています。
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2010/02/05
デュシャンの独身者たちは、なぜ制服を着ているのだろう?
棺
9つの異なる制服とお仕着せの鋳型を包み込む9つのカヴァー
だそうですが。
独身者たちの内部は「欲望のガス」で満たされる。
「制服の鋳型」は、この「欲望のガス」をかたちに保っておく耐圧容器。
つまり、独身者たちは、いかめしい制服の中がからっぽ。
ただ、「欲望のガス」が充満している。
要するに、デュシャンの独身者たちは、第1身体を持っていない。
というか、単なるガス。
そのかわり、超強力な鋳型の耐圧容器の第2身体がある。
なんともみじめで、かわいそうなお話です。
独身者 bachelorの語源は、月桂樹の実 baccalaureatus(ラテン語)だそうで、フランス語の「バカロレア」もここから来ているとか。
要するに、学問を修めた人に与えられる栄誉の照合でしたが……
(バチェラー・オブ・アーツなんていいますよね)
それはさておき
独身者たちの体内で充満したガスは、それぞれの独身者の頭についている細いパイプをつたって送られます。
このパイプのかたち……
これ、無造作にぴゅぴゅっと描かれているようですが、実は定規でひいている。
デュシャンが、自分で独自につくった定規です。
ストッパジュ・エタロン
停止原基
デュシャンは、1mの長さのひもを1mの高さから3回落下させてそのかたちを写し取り、3種の定規をつくった。(これそのものも作品になっている)
独身者の頭のパイプのかたちは、この停止原基の形状で、1種類が3セットで合計9本なのだそうです。(透視画法で描いてます)
この間、DVDで「ヘルボーイ・ゴールデンアーミー」という映画を見ていたら、やっぱり「ガス男」が出てきました。
全身を宇宙服みたいなのに包んでいるが、中に入っているのはガス。
やっぱり、こういうイメージになるんでしょうか……
デュシャンの独身者たちのガスのゆくえは……
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2010/02/04
昔、「全身を、顔にしよう!」という運動をやっている人がいた。
一種の健康運動でした。
顔は、冬でも露出していて平気。
全身の皮膚を顔のように強くすれば健康になる……
ということで、真冬にパンツ一丁で、テレビに出ておられました。
でも……
やっぱり顔と、ほかのところの皮膚はちがうと思う。
からだには、服が必要です。
人の皮膚は、生得的に第2身体を求めている。
人は、なぜ服を着るのか……
たしかに、動物のうちで、服を着るのは人間だけです。
寒いから。
羞恥心。
ファッション。
いろんな説明は、つく。
でも、みんな、ものたりない。
心から納得できる説明は、きいたことがありません。
「人はなぜ服を着るか」
このワードで検索すると、一発目に次の答が。
「人はなぜ服を着るか、それは裸になるためである。これが正しい。」
うーん。おっしゃるとおりかもしれません。
NUDE(裸)とNAKED(裸にされた)はちがう。
これは、たしかにそのとおりだと思います。
NAKEDに近い意味で、STRIPPEDというのもある。
The Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even
(彼女をめぐる独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも)
マルセル・デュシャンの代表作、通称「大ガラス」の正式名称です。
デュシャンは一生「性」の問題にこだわり続けた作家。
この代表作の「意味」は、いまだに解明されず……
花嫁は、今もなお、瞬間瞬間に、独身者たちによって脱がされつづけている。
ルネサンス絵画のイコノロジーでよく登場する「聖愛」と「俗愛」。
裸の女性と服を着た女性が、同じ画面に描かれている。
はたしてどちらが「聖愛」で、どちらが「俗愛」なのか。
で、一般の予想を裏切ることの好きな解説者が、たいていこういいます。
「一般の予想を裏切って、裸の方が聖愛、服を着ている方が俗愛なのです。」
で、みんなびっくり(したふりを)して、でもなぜか妙に納得したりします。
「服」という観点からこれを考えてみると(邪道ですが)
裸の場合、これ以上脱ぐことはできない。「ヌード」です。
でも、服を着ていれば、脱がせられる♪♪「ネイクド」だ。
事象は静止しているのではなく、動く心、心のわずかな動きの中に……
エロティシズムというものは、ある。
ほとんど萌芽。「萌え」という美しい日本語が、ぴったりです。
人は、なぜ服を着るのか……
全身が顔になってしまったら
とてもつまらない世界に、なります。
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2010/02/03
私のファッションは、めちゃめちゃ……らしい。
コーディネイトがなってない……みたいです。
でも、世の中には、私以上にファッション感覚が狂っている人もいる。
ある日、電車で……
私の向かいに、中年男性が座っていた。
この人の着ているものの色の組み合わせは、かなり変でした。
ヴィヴィッドのオレンジ色というかヴァーミリオンが主体のシャツに、鮮やかなきみどり色の上着で、目がおかしくなる。
やだなあ……と思っても、向かいだから、つい目に入ります。
すると、この男!
ポケットからたばこを出して、吸いはじめた。
むろん、全車両禁煙の電車です。
混んでいる……というほどではないが、この、あまりの非常識。
要するに……ちょっとアタマのおかしな人だったみたいです。
ファッションが狂っていると、アタマも変。
ということになると、私もちょっと変。
ということになるかも。
ですが。
やっぱり、第2身体としてのファッションは
かなり、その人の心の中を、反映するもののようです。
その時代にはふつうのファッションでも
ちがう時代からみれば、大丈夫ですか?
というのもある。
たとえば、ルネサンス時代のヨーロッパの男性の下半身。
第1身体の形状を、くっきりはっきり描出する
あの、白い、ぴちぴちの
タイツ……(といって、いいのかな?)
あれって、かなり恥ずかしいと
思いますが……
当時は、イキで、
カッコよかったんですかね。
まあ、ダイエットせねば!
という気分にはなる
服装。だけど。
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2010/02/02
第1身体の最大の娯楽は、やっぱり銭湯
ではないかと。私は、思います。
家の狭い風呂じゃなくて、広い湯船につかれる。
これが温泉、露天風呂だと、なんにもいうことはありません。
お風呂代って、ふしぎなことに、だいたいコーヒー一杯のお値段といつもおんなじなんですよね。
今、銭湯でもスーパー銭湯でも、だいたい400円前後。
コーヒー代は、もうちょっと高いかな?でも450円くらい?
(地域によってちがうかもしれません)
コーヒーは、口の娯楽だけれど、銭湯は全身娯楽。
どっちか!といわれれば……やっぱり銭湯を選んじゃいますね。
コーヒーは、家でも飲めるし。
昔、街中に住んでいたころ、夕方近くになると、いつも風呂オケもって、近くの銭湯に出かけた。
途中に「かしわや」さんがあったので、ムネ肉一枚買う。
(帰りがけだと、閉まっちゃてるんで)
銭湯につくと、おじさんに頼んで、ムネ肉を飲物クーラーに預かってもらいます。
ここで……たっぷり一時間半をすごす。
風呂上りのいい気分で、ムネ肉をうけとって(ときどき忘れる)帰路。
とちゅうに、けっこう大きな本屋さんがあって、そこでまた立ち読み一時間。
ときどきは、買います(少女マンガの単行本が多かった。ときどき水木しげる)
で、家につくと、ムネ肉を焼いて食う。
買ってきたマンガを読みながら……ときにビールをやりながら……
食べたら寝ます。
至福の生活……でした。
今はもう、その銭湯はありません。
かなり高齢のおばあちゃんがやっていたかしわやも、とうにない。
私の図書館だった本屋さんも……ありません。
街は、どんどん変わっていきます。
私の、第1身体の思い出をのせて……
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