揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 芸術という言葉は早い

     

    人生上がる、と考えていたが靄が晴れて下り道のその行きが光るのを見る。自信という言葉が新しく、それなりに辛い思いをしていた自分は忘れてしまう。一番辛かったのは小学校だったと、それを思い出す。

     

     

     

     

    一面は、南方熊楠の植物園のような草木だ。この海で、大学時代の友達と泳ぎ、浮き輪やビートバンで浮かんで、目が合うと笑いあっていた。大学は、大人の考えをするところ。想像は夢と心で解読する。人は人と手を取り合い道を上るが、頂点からの行き方がわからず朦朧としていた。私が地図を持ってるので、充てにすると良い。

     

     

     

     

     

     

     

    こちら私から幽霊が発生しているのではなく、現実を捨てて遊び過ぎて肉体から浮いたひとを良く視ることがある。分かりやすく言ってこういうことだ。

     

    大体はすぐ上がり戻ったり守られるが、いろんな色、ものに埋まった幽霊だが、ぽつん、と残るひとがいる。そういったひとは釈迦に呼ばれもう戻らない。

     

     

    後に、過ぎ去って穏やかになりました。よりも、一緒の方が良いだろうと今日道を歩いていて思った。

     

     

     

     

     

     

     

     

    大学中退後、絵画を上達する為に一人っきりで籠り続けた結果、自分は頭がぼーっとするだけだった。

     

     

     

    それで、ほぼ二十年後自分が考えるのは、

     

    製作をする日々、その場の製作だ。製作にたいしての成功よりも、ただ何か作りたい、と言う自分のような者のために、

    日々を繰り返す、そうやって生きていくことを考える。完成品という現物がないけど過程があり、身体を動かすことで心が広がり、語ることが出来るなら良いと思うのだ。こういう風に油が伸びる様な、それが仲間でもなく、成長する大人の製作仲間。語ることが出来たら、間に似たような物があり、同一感、同一視するような人でも個に目を動かすことが出来る。

     

    現物より過程、そういった枠を考えている。線か手前にはっきりあると感覚にゆとりが出来、人の存在する緊張感は張り布に馴染んでいる。よって場を求める。

     

     

     

    そういった場は佇み方を知ってる者に伺う。私はバイトを定着させなければ、精神もいそがしくガレージ代を払えない。一安心出来たら、あの日から止まった自分の活動の続行することが叶う。

     

     

     

     

     

     

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  • 助ける

     

     

     

     

     

     

     

    初心者の構え、八方、十方(四方のこと)

     

     

     

    それを通すのが、私の役目。

     

     

    それが他に送られるのを見届けるのが私の役目。

     

    自分と一緒じゃない、と言わなあかわん。

     

     

    君は、まだ開いてない、見えるのは、

     

    眉間の目のヒント。

     

    生活の中や自分の想像で、研がなきゃ意味ない。

     

     

     

     

     

     

     

    何かある時代だ、しかしこのような距離の大きさをまじまじ実感するのは初めてだが、何かある時代は、今までもあったのを街から見ていた。巨大な遺跡や古代遺産の考えを想像することに、今や、噂や、移動する光、通過する光、物との一体、これらは、街時代は、街時代のテンプレートがカラフルな下敷やそんな道具のように思い浮かぶ。伝え、祈り、理解、好きな光の知識こそ身につける。水も、火も、闇も、岩や石も、これらは光。光、それは霊なるもの。そこに埃がたつからだろう。風があり、向かってそれを闇だと分かれば木が生える。

     

     

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  • 「美味しそう」について

    他に比べて狭い為、風が必要だから、良く物を入れかえることで利器の継続を叶えている。

     

     

    今は見回りに良い物が少ない、こういった視点がある。

     

     

     

    風を回すその為に物を立てる店舗も、ZARA等見分けられる。

     

     

     

     

     

    私はこういった利器が楽しく、

     

     

    物事の現物がないが計算は回っている。様子が「美味しそうだ」と感じるか違うかで、仕上がりは変わる。対象を美味しそう、と感じた人が美味しそうに表現するわけで、何を感じていたのか、それを思い出すのは、働くという善に、このためにひつような術道である。

     

     

     

    美味しそうなものを、ここに置く。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    服が好きでペラペラになりたいくらい好きだ、

     

     

     

    そう言ったら、

     

    結構「私の表現」は上手く出来てると思うと、H&Mの方は言って下さった。

     

     

     

    体操のお兄さんの様だ。客観性とは、色んな深い理論がある。即ち、身の体操を、いつか向かう為の運動とは心思いの。思想は、また運動そのものと連結して、そういった運動から、こういう連なりの存在や、かつてのフェミニズム、イズムの理解を道びく。統合してこれら試みから、こちらが見ることの叶える歴史とは、

     

     

    歴史を観るには、優しい気持ちではない。いつでも厳しい方、それも程よい厳しさを選べる人になって欲しい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    食う、は、断りの力量そのものまでを養い、力量そのものであり、力量そのものの力を自慢する、その力量の程度に気付く実の食い終わりこそになかったひとは、食うのを止めるべきだ。人間だという定を失ったから、何かに頼る。勘定払え。1074306 難波 MIZUHO、この十分。そして、これからよその他人を使わず、ノートを使って欲しい。

     

     

     

     

     

     

    自分の歩みからは、何でも引き出せる。それは苦しみでも、渋みでも、同じ喜びだと思う。その回顧に、想像に、辛かったという自信、この丸を打つことで、器を作れる。幸せはこのように入る。

     

     

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  • 親と子

    子供を育てるのは大人で、

     

     

    自分で終わりじゃない、自分に終わりがないとする大人は、

     

     

     

    それ故、その為、言葉が大変だ。

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  • 功徳の得

    上から言いますが、

     

     

     

     

     

    物を楽しいことだけで済ます哀れは、それは誰でも目につきますが、それとは異なります。

     

     

    そう告げられる言葉を待てども、

     

     

     

    この人とは初めに無言の約束をしております。

     

    視点を曖昧にされました。

     

     

     

    名は、有言無益。

     

     

     

     

     

     

     

     

    若し、世界で心と心が出会うことが成り立つとします。

     

     

    その間に「信じること」が有って、

     

     

     

    諍いがここの心に、生じたものなのか、抜け落ちたものなのか、

     

     

     

    これで別れます。

     

     

     

     

     

    生じたものなら、自分の事として抱えて行けます。

     

     

     

     

     

     

    今、

     

     

    肉体的、精神的に強くなりたい、「お修行」は、一度は言葉の無を考えると思います。

     

     

    際に思い出される「修行」は違い、これは全体的な円満を指します。神道から発信されました。

     

     

     

     

    人は感覚が良いので、寺に災いがある時は向かいません。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    」       言葉を得るために我慢する。

     

     

     

     

     

    語らせる言葉の育てには我慢する。

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分に有るのは、

     

     

    理性とそれを考える心。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    心は、良いわるいではなく、それを超えた善の話しが法華経である。

     

     

     

    怒れるときに、笑う。

     

     

     

    これは、訓練だ。

     

     

    訓練は、訓練をする時間のあった者、なかった者、これらは等しい。それを注意深く躾る仏陀。

     

     

    菩薩の前提条件。

     

     

    「これ」が出来たら、易くそれに立てる。こうい(要)れる。

     

     

    それは存在し、

     

     

    私はこの間、「物」と思われて良い。

     

     

    詳しく知らないが、

     

     

    物事には静と動があり、

     

     

    無矛盾な物、物自体には、このうちで静が見つかる。

     

     

    こう言った言葉がある。「私は、「物」に縁深い。」

     

     

    この悟りから。

     

     

    始まる為。

     

     

    承諾している。

     

     

     

    この三つの項のうち、ど~れだ?

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    人でもつ、人で持つ。得て行くことの世界の間、それにおける世の間、この偉大な語にどこかに主語を見つけ出す事を秘める。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    思うのは、

     

    引手や背が必要だった時の際には、主体がどこにあるのかな、それを聞き得る姿や、聞きたい姿がある。輪と言うそうです。人の言葉を聞きたい姿たちに光の形があり、以て言葉で足りないときに輪があり、だから埴輪という、川文です。それなりの大きな語を現します。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自信を持て、は、自身その身で引き出せる言葉だが、

     

     

     

     

     

    苦集滅道は、本来ただ在る諸が集まる珍しいことの原因を「苦」だと言う。釈迦の現す仏世界に尽き、これを蟲と表すスケールを言った。

     

     

     

     

     

    こうした際には、「ご苦労様」位の掛詞に緊張感がある。

     

     

     

     

     

     

    ある人の解答「法話をしてくれ。」

     

    私の質問「法話こそは、自分自身の足で勝ち得ますよう。」

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  • コメント欄新作成と過去記事

    ムーが持っているノ~ト…

    2023/06/30

     

    ニューワールド

    ということは全然夢じゃない。

     

    夢でも何でもなくて

     

     

    人の夢はいい加減。

     

     

    目標と夢は似てるけどちがう

     

     

    目標はずっと追い続けるけど

     

     

    夢と目標は違う

     

     

     

    夢は現実にしたあかん

     

    夢の職業につきました

     

    そういう人は、上を目指しています、ってなるやん

     

    大体、夢を職業にするけど

     

    趣味を夢にする人なんかおらんわけやんか

     

     

     

    現実にあったことがない

     

    いつかそうなりたい、でいいやん

     

     

    現実にあったあかん

     

     

    それは夢やから

     

     

     

    夢を見たとき高望みがあって、守りに入る

     

    夢はおっきいところにおいとかなあかん

     

     

    追い続けるんが夢やから

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント欄をやっと作成しました。トピックも好きに作成しお気軽に使用して下さい。

     

     

     

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  • 魔人ブー

     

    要マップ…重なる矢羽の物化決定。雑誌が欲しい。

     

    日刊飛躍「九月 粘りの鬼by尊不動」

     

     

     

     

    前に出たら前に出なければいけない。

     

    霊のかたちはそのまま現実だろうか?肉体に当てはまるのか?

     

     

    答えは、発生してる精神界、想像界、こうした有るから有るのだ、といった他意のない仏世界の仕切りの中、受け取った何かを、神仏と持ちざるをえない。重すぎるなど言ってられない。

     

     

     

     

     

     

    じゃ、どうしたら良いのか?までは許容されるが、すっぱく一人の魂の目的自体が「こんな自分を知って欲しい」じゃ拒否される。「伝えたい気持ち」から反れているからだ。

    この二つは似ているが非ず。

     

     

     

     かたちの話しをいくら発信しても、ろ過され肉体には戻らない。

     

     

    霊に形が有るとしたら、肉体が霊界に深い知識があるかどうかという限界を水平線は貫く。霊自体健全、とか健康であったから愛されたのだ。潔さも、人の縁を養い続ける。

     

     

     

     

     

    自分の前がどこかで変わる。頂点に向かえるとは向かった自分がいて、その間に、私を養った背景にたいしてまた下っていく時の、その堪え方に尽きる。ここまでが、力。山はくだりのほうが、エネルギーを使う。

     

    太陽をギリギリに躱してこそ、曲がれたカーブ、そこで得たスピードを持ち帰る。その技術の習得に神を目指すという心がある、というだけで、それをコツコツしている、現実の状況、霊視を授けるわけだ。

     

     

     

     

     

    時間という十方、そこに車がある、人がいる、をわかる八方、これを捉えるを備えて、はじめて霊になる。

     

     

    物が、もともと霊だからだ。力がなければ付着として振り落とされ、宿されない。幽霊ならば当然、埃や鴉にも宿れない。はじめて霊感と聞いた感覚は、何か気高い物を感じていないか。それが分かり認識したときに霊視している、となる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    前に出たら前に出なければいけない。自分に合わない感性で、こうなった。

     

     

     

     

     

     

    これは、魔人ブーの進化した姿だが子供の頃見たとき、恐怖していた。進化しないから平和だった、とかそれがアニメだから面白い、とか、その感覚でいったら、気持ち悪い進化は進化であらず恥ずかしく、平面的に錯誤するより留まりを自分は選んだということだ。飛び出る、奥行きを得るのは、上記の他に方法はない。欲が強ければ錯覚して中に入ってしまう。

     

     

    私は乱れた髪を整える。進化前のブーだ。

     

     

     

     

    只、錯覚を楽しむ、という無欲な技術もあるそうだ。

     

    「人を傷つけるより、自分が傷ついた方がましだ。」とアニメなら恥ずかしくてもそう思って逸れなければいけない。人の許し、自己成長、四方の重力と一体になり、回避する「解脱」という方法た。

     

     

    アニメか現実かがはっきりした、はっきりしたところに色彩が浮かびあがる。二つの物事の互いの引き立つ姿勢で私はいたい。

     

     

     

     

     ひとりで持てないお礼があれば1074306 難波支店 Mizuhoこちらへ。メッセージの可否もご自由にどうぞ。

     

     

     

     

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  • 花びら

     

     

     

     

     

    天は知識、感触は地力

     

     

    知識だけでは体が凍る

     

    地力では回復力がある

     

    学べないもの、も有る

     

     

     

     

    心に感情が起こった時、

     

    心に感情を起こした時、

     

     

    視力だけを使う者は、悶え苦しんでいた

     

    心のないものは、死人だった

     

     

     

     

     

     

     

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  • 価値

    価値、教えのその時にはよく聞いたこの言葉がある。

     

     

     

     

    yeah yeah/aidonia

    この歌のタイトルは「いやや、いやや!」と言うこんな歌は、常に存在する。

     

    ジャマイカの曲をレゲエと言って、古来の言葉で抜陀薔薇と言う。その目が睨む空の実は、渡せるその時にしか出荷しない。それは、薔薇を持つわれら対象の価値よりも、われら音の受け手自身の身軽さや易くに懸かり、虹のようにいつの間にか表現される。価値は、話し手の方にある。受け手に古えからの光が突き刺さる。

     

     

     

     

    その時その時に出荷される様子はいつから?などは自分自身の興味の一つでしかないことを「イン ア ハート」と言い、クラブに行ったときにこれをすっぱく伝えられた。DJの兄ちゃんが「悪い音楽は、聞いてはい、け、な、い!」と教育する。

     

     

    人はリュックを背負い、出学しにクラブに向かう。現れているものそのものよりは店は本当に静かな箱々なのだ。これにアンダーグラウンドと言う思いが懸かっていてそれは南国の豊かな鳥のように判断を欠くし続けている。

    道端を渡り切る私は自分で見つける事の徳の、この可能性に注目して音楽を忘れていない。忘れることもないままで、未曾有の世界も知を育て、ただただ不増不減の成長に尽かせる。この具合、縦ノリに特化した私の身振りは、「横に揺れたあかんで!横ノリは悪い!ちゃらちゃらしたあかん!それはオカマや!追い出せ!SEY YOUUU!!!」と、DJの伝達を自分なりに学び守っているから、書く時にしゅっと書く。

     

     

     

    道が細く巻き付いた箱の風合いというのが、先なので、無闇に破ったら世間的な評判を落とす。しかし、裏を返せば、誰でも彼でも静かにそっとしてくれる優しい場所だ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分の言ってるのはこんなこのこにであった。

     

    目をやさしく思う、コンタクトの保護膜に。

     

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  • 出雲大社

    出雲大社の動画を見て、自分が込み入れない話があるのだ、と、心配を話しても大国主大神は問題自体を、受け入れてくれる。

     

     

    愛想の器、受け入れられるとは自分の闘魂に入るかどうかだ。

     

    私は、自分の闘魂にしっかり入るかどうかだ。こういう言葉を言います。

     

    器が違うのだから、妬きもちを焼かず、一番つまらない自分や、努力した自分、これら目の当たりにくい自分。それは、たった知らない自分の中、この奥に、未知があるんだ。世界中、一つだけ何かを知りたい、そう思った後に、目が、出会った。川で、空でも日でも、出会った。

     

     

     

    霊自体が形じゃないから、光だから、入っていける。もう一つ、光だから通過する、この浸透性の高い良い言い方もあるが、私の感動が人々に伝わるのは、前者の言い方だ。

     

    動きが最小限になるのは、その分周りの見渡しが利き、空いた時間に伝達のブレを抑える。身自身で踏み鳴らした嫌味が、砂利になって丸くなるには、まだ残心にも神経を尖らせ自身の心の動きから離れないのだ。続いた地の道が、わたしの足を歩きやすくする、ということだ、エッヘン。「後ろを、見ろ!」と、船使いは言っていたぞ。

     

     

     

    大社のある島根県は、その霊の方は私たちに何も言われない、言われることが全てじゃない事のように、

     

     

    わっと言わせて、落ち着かせる。

     

     

     

    そんなことを、食べたうどん屋や、コンビニや、毎日行き来をする心の通りから思い出すことが出来ているので、私はもっと心のままに生きることが、神とのタイマンだと言う事を、アマテラス、私は思う。この思う、と言う言葉を使っているのです。

     

     

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