揶白 (KF)

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揶白 (KF)

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  • もう一つのムー

    ムーと互角だと噂されるムーがいる。

     

    厶・ムーとか、

    ふくよかなムー

     

    と呼ばれる。

    神の悪いとき

    人がムーに挫ける時。

    神の悪いとき、という言葉を頂いた。こんな言葉をどう思うだろうか?本来の明るい自分のリズムでいよう。それをアウトプットし、覚えていよう。私も、ムーを見たり自分を直したりジグザグに角を立てながら歩いている。隙間は作ってもらってるのに誰かがきつく入り込んで来る。

     

     

    想像力は、良いほうに届くのだ。

     

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  • cloudyという福音

    心は病気しない、と聞いたことがある。

     

    精神世界でも何でも、みんなと一緒にいれるのは勿体ないくらい嬉しいことだが、昨日は、おじいちゃんの意向でムーで精神に傷が付くことを学んだ。みんなひぃひぃ文句を言いながら、山の頂上では、野次(やちょう)が飛んでいた。

    まず、精神に傷が付くとも最近初めて聞いた話で、「みんなの心の中」では、色んな人の想像で治しているが、現に骨折した感覚だと知ったのは大きい。

     

     

    精神病とはめちゃくちゃ恥ずかしい事で、周りの理解ある人も、ない人も、それが辛いことを知り人は人で勝手に学んで行くんだと思う。

    周りに理解されなかったらされなかったで客観性にたいしての自力の気持ちは変わらないから。

     

    「精神病」と聞いて言葉負けせず、自分自身の目と闘い見つめる暇とする。

     

    絶対、ぷぅ~んと蝶々を飛ばしたいのを仕舞って耐えて、ムーが狙う噂が49日じゃないんだから3日我慢してね。

     

     

    心は心で揉み合うと活性して治る。生々しい近所付き合いなどから、無理に強い隔離をするのではなく、人を信じるを忘れないで、そんなことを深い緑に綴る様に考えていく。何にもない平和とは、何かちょっとある事かも知れない。

     

     

    総合して、心は、病気しない。精神は、傷が付く。

     

     

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  • こんなに一緒、終わりじゃない。(書き直し)

    こんなに一緒、終わりじゃない私はいつでもおる。

    2022/06/25

     

    心到滅却

     

    こう書いたら、今ムーのことを沢山考えてるのにどこから見ても「タタリ」にしか見えない。

    祟りは、この漢字、字の通り「心が思う」と書く。人が思う事である。紙垂という神社にある角を織った白い紙の束を知っているだろうか?

    一人一人の人の抵抗力や相手間との普段の波、多少の憤りは、結局互いの為になる。

    神道的にも、人は、紙垂(しだ)を見てムーを考えるべきところまでがんばれたよ。

     

     

     

     

    お祓いでした。紙垂は、想像力も素敵だし、重ね合わせることで汚さずに済んだ心だってある。

     

    神が取られた角の数を睨んでる。

     

     

    私ら、の煮えたぎる心が静んだ。意味解るから。

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  • 悪いこともあれば良いこともある

     

    自分、自分、

     

     

    自分で書いたほうが飛躍が高いからだ

     

     

    人々に足りないのは客観性に興味を持つことだ

     

    かっこよくなりたい、そんな自分にもっと関心を抱いてやることだ

     

    人に相談することだ

     

    目を大きくしない努力が必要だ

     

    これこの中で戦える

     

    知識のある者が分けるとは民主、

     

    民主がこうあるんだと決まってる

     

    自分の位置くらいわかってる

     

    上を目指すばかりが

     

     

    立てる 高津

     

    飲む ガシ

     

     

     

    使われていることを私は喜びとしている

     

    武士に興味があるなら大国主がオススメだが、神様は他にもおる。八百万(やおよろず)とは人がそう思うから。

     

    フルーツを育てる、花を養う、何かを研ぐ、

     

    私は神じゃないからわからない

     

    道があると思うから神道は出来る

     

     

     

    「歩き方なら知っている」

     

    負けずに自分の歩き方をする

     

     

     

     

    ワンポイントアドバイス

     

    模倣をするのは良し。自分の書き方を学ぶ。どうせ自分に戻るからだ。

     

     

    街に出ること

     

     

    目を斜め45度下、自分が修行者だという抵抗、つまり楽を感じる

     

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  • ムーが怖い

    この記事を常にトップにします。新しい記事はこの下にあります。

     

    幽霊カテゴリ(ムーの正体)https://creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=101760

     

    心致滅却(ムーパラダイス)https://creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=103985

     

     

    神木について、幽霊について。

     

    前にこれを書いたが書き加える。ムーを幽霊と思っていた頃。

     

     

     

     

     

     

    幽霊と対峙する苦行の結果、ランナーズハイのように事実上人より疲れなくなった。

     

     

    だからって、幽霊さえ何か教えてくれているのだと崇められたらたまらない。

     

    何故なら私に苦行を施したのは、神仏なのだ。

     

    マイナスがプラスになることではない。

     

     

     

    楽しい妖怪も有るが、精崩れである。嫌な妖怪は、こんな風な堕天使や、ものを考える悪人とも違う。楽しい妖怪がよく嫌な妖怪と間違われる。それとその嫌な妖怪が善や美だと間違われる。

    幽霊(yuurei)の形状は一定してこうである。

     

     

    みて分かる通り霊格が低い。目が一個で顔のど真ん中にある、舌を出して居て、「なめてんのか」と私は怒りたくなる。キャスパーに似ているが、別のものなので混同しないように。古くから人も拝んであげたり、鎮静に祀ったり、土下座したり、全てを尽くした結果が、今。

     

     

     

     

     

     

     

    何かしても強くなる、かばっても罰を被る。拝んでも復活する。

     

    この嫌な妖怪と言っていたのがが何と有名な「幽霊」だ。ただ霊はそれぞれ違った光があり歩くんだ。だが幽霊は、足がない。もとが人で生きてる間自分で食った。それも本性だったからそうなった。精か神かと勘違いさせたこともある。この幽霊とはなんと最下層であり、誰にも気付かない所を自分で作り率先して悪いことをやった。一回じゃない。それ故に、逆に人が神を語る為の素材となる為今置かれて居る。これは、運ばれているのじゃ。人だったのなら一縷は良いとこがある、と思うのだがそれが本当にない、なくすのが噂の幽霊なのじゃ。

     

    昔の歌に、「カタカムナ」というひめ言葉のものがある。

     

    ひめは姫とも読むし、秘めているとも読む。

     

     

    そこに書いてある種類に、

     

    ミスマルノタマ (身分に寝転ぶ)

    ウマシ タカカム(一度は人に褒められるが鷹をかむ)

    アシカヒヒコ(名も知らない)

    トコロチマタノ(ちまちまとアリバイをつくる)

     

    つづいて後に「トキオカシ」と書かれているがオカシは奥床しいという良い意味で、トキとは飛ぶ者という言葉。だから、「私は、しっかり妬いています!」自分は姫だと言葉を沿えられている。

     

    タカヒムスヒ、カムヒムスヒ、これは神の名だが音感の違い、聞いた感覚の違いが幽霊とでは大きい。

     

    何か小さな負があって、

     

     

    哀しみや、人のわけで攻撃してくるなら、有るが、

     

    幽霊はその行動を繰り返す。何故か?をとても私は気にした。

     

     

    神と違うのは、名前の波長が弱い。

     

    口裂け女など、整形で失敗し立ち往生してしまったというまだ実感がある。幽霊は何して生きていたんだろう?

     

    こうした要は「諸霊」と有るものではなく、

     

     

    足のない幽霊を、見定める。

     

     

    古い言葉で「キツネ」と言って、

     

     

    神の前にいる稲荷との大きな違いとして、稲荷はこれを見てきた精や仏眼に起因がある。

     

     

    幽霊の起因が、若さや、「軽さ」として

     

     

    ただちょっと昔から嫌がることを(過剰に)やっていた人だ。恩人を食べることに疑問がない。それは自分視点かもしれないが、こいつは何と、人のかっこいい姿を「自分」として思っても、まさかの思い込みを覚ますことがない。そういう死ぬほど小さな事で、大変なのは、それらの悪を必ずある時に誰もが見てるまえにしちゃうから聞いてもただ疲れる。人は、ダイイングメッセージとしてそのままその人に表現され、人目に映る。

     

    幽霊のその不安感や、見えない攻撃なども、今自分が思える人の優しさそれだけにたいしては小さな事だから自分が悪いのだと許してきた。だか、これら幽霊にみる魅力とはほぼ全部が他の魂のものである、幽霊が装い、装いを続ける為に隠した(これを食うと言う)人及び神の魅力がこの幽霊、妖怪に前面に出ているのある。ではなんで装うのかであるが、観察していると深い意味が本人たちになく、心の大小思うなら思うでその先にある人の価値観が皆無でものごとの理解さえ出来なかったのだ。湧いた感情の何もかもは、幽霊その人の不安や、見えない攻撃など、今自分が思う人の優しさそれだけにたいしての優しさ、その上でのこと。

     

     

     

     

     

     

    「幽霊」の出現として、元気がなく波長の低いことが理由だとよく云われるが、彼らがいつも神の近辺にいる理由が上記に有り怒りを買っているとして、私の、近くにいる理由として、神木が私にあり、それが二酸化炭素のようにしてポイントだけを吸い取る。神木が私にあり、では何で有るのが木だと気付いたのか?

    これもまた霊媒についての師が言って自分の力では解読が出来ないから、おかしく聞こえるんだろう。ムー(幽霊)がいてもいなくても、まったく解読出来ない。ムーがいなかったら少しはわかった。神木だと、こうはっきり言えていないだろうか。


    木であるからに時を良く持っているので、現れるのがいまそのここという場所だ。

     


    我らが語ることの出来ない「神」を我らに、人に語らせる手立てとしても、神木は祀られている。

     

     

    「幽霊」を憎んで何かしたら、幽霊の気が満ちるのだ、

     

     

    庇っても罰を被る、拝んでも同じことをする。鎮静のように祀っても復活する。

     

     

    感情が必要だと思うが何をどこへ充てたらいいのか、考えなければならない。

     

    幽霊をまず止めなければいけない。そこの向上心にムーは一切関係してない。

     

    悪意であるので、またそれは完全に人であり自を食う。

     

    よって、幽霊って怖いんだなぁと思う。

     

     

     

     

     

     

     

     

    不思議な話だが、

     

    人も霊界に及ぶのは、わずかもがな神の仕業。

     

     

    災いにたいして人として辛かったが、経験して神から話された希望や痕跡とも云えるのだ。

     

     

    どうにか一つに。

     


     

     

     

     


    この「幽霊」故に日本人にとって、長らく神の存在が危ぶまれたのだった。

     

    我々が知って居て、噂があるのは、鬼神ばかりで名を誰も知らない状態。


    ひょんなときに、愛は繋がれて

     

    こうも新しく物語となって立ち現れ、完全を感慨深く思うばかりだが

     

     

    間違っていけないのは、決して人間は神でないのだから、

     

    色んな人に憎まれ過ぎた場合、なくなってしまうのはまた自然浄化に思う。それほど感情ってやつが精神的で感謝のものだから。

     

     

    これが、子供か孫に子供くらいの、

     

     

    それくらいのスパンの話だと若く思うのをもっと大人はどう思われるだろうか?

     

     

     

    幽霊について、今は「文化的」とさえ思って居る。もしそう言ったら、

     

     

    喜んですっかり忘れてしまいそうになる、

     

     

    「明るい、」とは彼らのことを決して云えないで有ったことを。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    「カタカムナ」

     

    ひふみ(天皇)は善い人

     

    回りて巡る、虚しいことや、事件。

     

    人は、人間は、海の末、海の広がりを知りなさい。

     

    形は咲く。

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  • 私の透明なキバ

    「私の透明なキバ」

     

    ・作り方

     

    親や周りの躾を受け、これを棒にしたら考えることを止めたナーバスな言葉を吹き出せる心を自分に聞くことが出来る。思考が回る。自信がつく。

     

    という事だ。

     

     

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  • 倭国

    倭国は、古来の中国人が呼称した「日本」の名前だったんですね。
    弥生時代、紀元前150年倭人が漢の王朝に朝貢してる。
    七世紀まで、日本でも「倭国」と称され続けた。
    二世紀に日本で紛争が起きる「倭国大乱」
    それを卑弥呼が王になり鎮める、
    これは不思議ですが、そんなこともあるっちゃあるでしょうね。
    ちなみに邪馬台国は九州にあったとコテは考えます。
    大阪人からすると九州は豪酒、豪快など花があって、王朝は、いいな、どんなんやったんかなと思う。ずっと歴史の長い所だから、雲間に降りて筆をついやすのだ。
    それから古墳時代(大和時代)とほぼ同時代が七世紀まであって、
    飛鳥時代およそ700年頃、難波京があると言われているが囲って本当は奈良より最も以前の最初だ。
    大阪もまた大和朝廷のくだりがあり、邪馬台国の噂があるが、このことだったと思う。九州の花をつまらないとそれぞれ思うのはまた大和朝廷のせいなのだ。自分たちを称えるこのスピードとしては、いまでもよく感じている大和は、滅んだけれど、踏ん張ったのがずっと今に残る。道頓堀はよそに行く海などに繋がっておらず、貝や魚は街を歩いているのだ。川はUターンして住之江の工場に旋回し、海遊館の簪を一等付けて、翡翠の湖だけを呑む。阿呆も同然、だかこの気の確かさ。しかし自分の「死」を笑い、しっしっしっ、と言って詩に強い。対して王朝は苦労と云うよりは、


    男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
    その風俗は淫らではない。
    男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
    着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
    稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
    牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
    兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#弓の種類参照)矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
    土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
    家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
    人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
    倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
    特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
    集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
    敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
    長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
    身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
    女は慎み深く嫉妬しない。
    盗みは無く、訴訟も少ない。
    法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
    宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

     

     

     

     

     

    このように洗練されていたから凄いのだ。つまり、仲間、家族、自分たちの理想を行っていた。

     

     

     

     


    自分たちの理想をもうやっていた「ハイカルチャー」とはここにあるもの、自然体な自分と一体なのだ。密接に生きていたから犯行も「盗み」までで「殺人」の考えがなく、私が木を走り毎日生きているとしたら広大な自然に包まれた運動神経や直感は、私たちは理解出来ない、祖に近づく為にこの足から頭を柔らかくしなくちゃ話が出来ない。どちらかを選んでいては自分が本来展開していた思考の勉強が取れていないから動けない。
    大阪の古い文献には、「酷摘み」という難しい言葉があって、自分にたいして一つの不幸を担ぐ、という意味。
    「上方」は気が優しく、温厚だ。
    その抵抗として気を強く持たなければ潰れやすい。黄、黒、黄、黒、繰り返すうちに偏ったバランスが直った所も多い。

     

     

    私は字に惹かれて古書をよく読むのだが、
    江戸時代とかだいぶ、筆で書かれた古いものだが俊越なのは、自己日記と計算を足して合わせ、お洒落に書いていて慣れているのである。漢字が躍々してて綺麗。
    秀吉の大阪城の蔵には書物が何万冊も貯蔵されてあったらしいが、見ず知らずの人に焼かれた。

     

     

     

     

    上方文学は、難波京後の平城京にムーと悪いやつらがいて、中臣鎌足(リーゼントを囃す様に帽子の丈か一番長い、不良のトップとして、ヤンキーとタイマンする)が打ち砕いた。ほほんとした平安時代(貴族社会)になり、歌も万葉集ものから意見箱になったり、意見箱であるから意見もあった、その意見に意見もあってこれぞのほほんとした鎌倉時代(手出し無用の武家文化)の夕映えとなった。その孫が室町時代で、しゃんとして頭を隠す、しゃんとして帽子を与えてくれる、しゃん、しゃん、としてたらこの夜更けは、戦国時代、そろりそろりと面を被って素通りの、捕まらないようにくるっと袖を立て、吉と出るか凶と出るかぶっそうな所。真っ直ぐ進めば、漆黒の江戸時代。三百年の平和はお手のもの。あかん、波、あかん、波、刀はあかん、と帆を立てグッパイを言った「誠」だね。明治時代、清少納言の色気さ大日本帝国。ツギハギのある、「私」の生まれた「町」だぜ。誰も人なんて忘れていない、あるのは思想、ドイツ曼荼羅宇宙の端から制覇する。と、思って何さ、ある筈のない戦争時代だ。菩薩も精神をお隠しになったんだ。をな、ある筈がないんだ平気でしていた馬鹿が。嗚呼!これムーだね。パラリラパラリラの尾っぽより、大正なんて言えねぇが、言えねぇから間違いだ、不正解だ。不正解から生まれてどこ来るんだ昭和時代。あっち行けくそばばあ!

     

     

    良い匂いの文具にこの心恋に落ちたことがある。【悲しみ】とは「私だけのことと違う事」である。自分ばっかり言えない心の響きが「かなしみ」として鳴る言葉になる。
    難波京のその頃、私はどうしていたかと前世なるものの思いを巡らす。
    その頃いないよ、と霊媒師のおばちゃんが云うてたが、なんか動物とかでおりませんでした?とごねて、「かもしれないね、原子はここにあったやろうね。」
    虫かも、蟻か蝶々だったのかもしれない。悪い虫で蜘蛛に食われていたのかしら。

     

     

     

    小枝を積んで、二宮金次郎。松明(たいまつ)を知り、車の速度を加速させる今の人。

     

     

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  • 九州

    九州には都があって、正統なことからこれを考えます。

     

     

    蟻 昨日気の良い所と話し、私どもが死の町の出身であること、良い所に行きたいと考えながら脱出を試みているうちに文章(し)を連ねながらお腹一杯になる一生のこと。あと、私たちを殺した僅かな犯人たちと暮らして修羅場を毎日感じています。誠の名前を雲中と言います。雲の折に公正してくれればという天の祈りもまた天神に天秤などありませんから人もまた人。故に己が下している間に何かせい。

     

     

    蝶 満足していて明るいカラーで表すことが出来る。こういう風に言ってしまった時、蟻は苦痛を持たせるが、蝶は飛べなくなる、、と思いきや蟻にもなる事が出来る。くるくるの触覚が(精神的な)権力であり、識ることで翅を大きく広げている。

     

     

    蟻は、風に強く

    蝶は、風を楽しむ

     

    風は、欲がなく軽いから適当に飛んできて欲がないから服の切り返しが早い。梅ラボさんはそれを応用してパターンを繋げた人。

     

    歌は、私たちは笑います、という事です。可、可、欠、と書いて古いものですが、何の実りを伝えたいのです。

     

    お洒落をするでも、好きなことをしなければ述べ手になれない。

     

     

     

    見かける私は大体この姿

     

     

     

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  • 言葉を人に手渡したいです

    言葉をより良い形で伝えたい。縁が何かとか、それよりも縁を養うをその有るなし慎ましさや、

     

    今日話していて、私に教えてもらいたい人はおる。とはっきり思い出し、日々、日も夜もない角が落ちた世界では、インスピが起きないから、「縁」がある皆あるとして葉先で意向をぱっぱ変えることなく自分の最も良い形をさぐろうと呼びかけ合った。要は、もともとをもっと伸ばす。

     

     

    そう思うと何かの悪い縁で普通のブスではない人をもっと伸ばす!となる。

     

    「もと」があって、今がある。このもとを信じるのだ。もとを信じる気持ちを強ければどうだろう、何が足りなくてどこに動けるのかがわかって来る。出来ない自分として現れるのも自由だし、そこから達成に向かう思考が作れる。

     

    来世があるなら、この人と同じように顔面的には自分も真っ平らに生まれたい。自分の意向を通すばかりでなく全体の人がもうちょっと天に近づけるならと思うと何億年もかかる、釈迦が完成していない事の説明になっています。

     

    こんなものを見た。エウロパという木星の衛星である。

    私やあなたの、ムーに付けられた傷ににていないだろうか。「あなたは私を知っています」とか、「どうしたの?〜」とか思い、見て癒やされる。

     

    未来を小さく見るのか、未来が小さい大きいではなく自分と同じように見ないのか。小学校で揉ませないのか。傷付いた時にただそばに沿っていないのか。悪いと思わない孤独の自分や、考えを「教え」てあげたいと思わないのか。子供に次世代があると考えたら、自分が母子、父子の追憶の中で、親はもっと自分で良いんじゃないかな。自分だけで、白っぽく纏める必要はないゾ。

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  • 愛について

    力について

     

    結果、神に近いところに住んでいたかも知れない。この私、伝達クンと、聞いた人がそう日々考え邁進したら過ごす誤差だけになる。

     

    私の飛脚が神がかっている。これだけで、いくら菩薩をはかってみても私と実際に会ってみて「仲」の現にあるうちは偉さが必ず計れないように、菩薩をはかる、特異な試みが在ったのはあんたであるとなる。飛脚を持っても格調は人として初めから失っていることなる。仏道にして「我、一国の王」と説くことばがあるのである。一国とは、私の精神、私の体、のようなこと。ここで、何でも分解してしまうような狂気の「閉廷」を目的にすることと示しがついた。

     

    示しがついた「私」という養うべき社会語とともに有りて無い「心の中」を輝かせる。心の中、ここに内的外的として外部的客観性が丸っ切り無い。開けているようで全く疎外もしてるし拒絶もある。心の内には客観性が有る、心の内とはつまり自分の友達や「家族」には何でも話すのである。人の心自身をコンサートホールにしようなどとする自分の願望ごみごみ未消化の呪いのたまもの生モノは、力ずくに押されてぺしゃんこになり見るが、覚えとけよとなる。何も「私」は浄化レーベルではないのだ。何の心も繋がらないめちゃくちゃ他人は、一億年先もこのままだと諦めて納得した。

     

    愛について

     

    優しくなりたい心と言葉の関係とかつまり芸術を学んで、かゆいところに手が届くようになった。何の変哲もない普通の人だ。美意識はともかく。

    だから、詩語としては「自分を神だと言うには早い」とある。人に親切に出来た事は、一片にあるが、私を含めてしたいかしたくないではそうしたい人がいる。私は、この為に自分の正直にたいして緊張している。

     

    仏道的天才なのだと思う。芸術では自分は秀才が良い所だとわかる。芸術(ことばのこと)をそれを真面目に学んでいたことで花開いたんだ、と伝えることがある。こう言ってみて、自分の大きさが確かめれた!

     

    生きてる間は、ムーを「止まったもの」とまで意識が向くように自分の心を動かせればいいのか、と思います。

     

    あなたの見たもの魂が、体あってこそなので自然です。飛行せず、知らない人について行かず躾を守り、震えるときに震えて、感動すべきことに感動している高さです。

     

    ムーがいる中で、悪い人(普通の悪い人じゃなくて、何の思念もないのに嫌なことばかりしてくるようなわざと)には別に怒らず元のキャラクターへ。

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