揶白 (KF)

絵画

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揶白 (KF)

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    Works 46
  • 悪い心

     

     

    心に緑がふさふさ育ってる。

     

     

    悪い心は学校のつらさや孤独が、今の強さになっていることを思い出し、感謝を見直している。道徳ならある。

     

     

     

     

     

     

    心に私が見ることは、

     

     

    一日、時間をくれという。

     

     

    何かを失ってはみだしているのはわかる。

     

     

    どうしても自分は駄目だと悩んで落ちこんでいる人もいる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    話しかけてくる人に、そこで私は、

     

     

    「私は社会性はない民族やねん、あなたの家は国境があって外に向いてる。うちは外に行かない。社会感はない、社会性はある。

     

     

     

     

     

    過去こうしてしまった私を一日中聞いて下さい、すいません

     

     

     

    あなたは、神や仏とそれなのに言う

     

     

     

     

     

    わからない

     

     

     

    わからないのに教えなくちゃいけない

     

     

    わからないのに教えてやる

     

     

    わからないけど教える

     

     

    こう話すくらいには成長した。戦後から。

     

     

     

     

     

    島だから、良いことがあれば傷ついたことは流れて消える。

     

    村だから、外に出てみると村都会だから、田は、土と野菜を育む。食べて忘れる。

     

     

    あなたに「大変」なことは残ってる。

     

     

     


     

     

    分けるのに必要なことは、田では金か情けだ。

     

     

    じゃがいもやコーンも、無料のような明るい自家生産で同じものを食べ続ける。

     

     

    農薬は、初めから抵抗力を考えられることの老子を見る。

     

     

    初めて美味しそうに見える。

     

    判るのは、それをその姿で見ることがどこでも出来てない。

     

     

     

     

     

     

     

    問題を早送りせず、未来の世代に問題と光を

    伝える。自分を変えてはいけない。

     

     

     

     

    ゆっくりゆっくり苦しい生命を生きたい意志は、

     

     

     

    ラッキー、そう思える。

     

     

     

     

    業、秘密、理解、全てある。

     

     

     


    そんな人が多かったら。意志はもうわからない人も何とか助かる。

     

     

     

     

    新しい街文化の風を受けて、ニュアンスや物のディテールが判り、会話もままらなかった(??)対象の人や物に初めて触れた。

     

     

     

     

    寂しいのに、手離す。

     

     

    自分に何もなくなったときに、緑や木に目が行って、虫もわかって出て来るからそばにいる。

     

     

     

     

     

     

     

    「今」の自分しか先はみえない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    蟲ーなんて、初めて公民にされる時だ。何故なら、蟲ーがずっといないのは本当だから、

     

     

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  • 神ことば(ぼしゅう)

     

    好きなのに。好き、スキ、すき、隙、はたまた四拍手。どの言葉も聞きましょう、と唱えて歌い、猫になり、「わたし」が説くならわたしも説きましょう。教えたいという仏がいるによって神は「スキナノニ」このカタチを取る。仏がいるによって、きみとも話したいワタシが生じます。世間、それも一理ある。これぞ帰り道。いっく覚えてあなたの神と話してみませんか?

     

     

     

     

    わたし

     

    大屋彦と作るこのことば、どこかにある神ことばの選手権。

     

    世間を従じるのなら、世間に立つわたしはそれは「わたし」がまず立つステージなのだ。

     

     

    6ぼしゅう

     

     

     

     

    あめのうずめ、おおやびこ、さるたひこ、おおくにぬし、ぬし、神はまだいるぞ

     

     

     

    うんぬん、楽しいために苦しいがいる、苦しいそれがなんだかわかったか?

     

     

     

    例、考えるのが負担かもしれないぞ、自分としては思い出せないのがそれ程負担かもしれないぞ、そう、思い出せないのが。

     

     

     

     

     

    シャチもドルフィンと一緒に呼ぶ。警察のドルフィンスイム、ドルフィンサイレン、黒、このうつくしい色はこの好き、愛しさをその動物の客観性にまかせる。みをまかせる。海に。彼の補食は「わたし」と違うのだ。

     

    人間がそうしてはうけないように。稲荷とは神なのだ。

     

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  • 許されている

    私は音楽も映画も大切に観るが、霊となると霊として、

     

     

    「現地の人」というメタ態度で命を許されている。

     

     

    私にたいして、大霊からはその名の通り愛想を話される。文化性、その寄り添い、教え、が詰まっている。私を誉めているこの言葉は、

     

    一見を「メッセージ」と伝えると、読み解きやすいのだ。

     

    何もしてないのに押さ付けられる、愛想と言うそれは、馴染み深い文学ではないか。見えないことが見えないと見て見えないものが見える努力をした。その潔い使いっぱしりでぃという。

     

    ~数人潔い者有り、

     

     

     

    私がその潔いパシッ、パシッ、使いっぱしりだ。

     

     

     

     

    「お前は誰なんだ?」この演目より

     

     

     

     

     

     

    排水口の近くにプラスチックのパイプがある。程よい強度と断熱、古来の占いを真剣に見て学んでいる。人の清潔感よりも清潔そのものが必要だった。元々、人が難しいから和を感じることが、大きく、そう直感を受ける間は大きい故に引く、省くものが決まっていて、崩れないが前に立っていく人に影りがあるのはこの為か。知恵門という。組員そしきなど五とか、悟されると言う。名が名詞にかからないその自己の事態、このときの状態が「等」と付くんだよ。と、話していた。

     

    人間が何か感じ抱くそんな複雑さと変わって

     

    蟲ーは、簡単。

     

    もの、と捉えたらそれを考える時の矛盾、自己矛盾のストレスがなくなる。ものだ、という見方が正しいから。

     

    前世で何かする、何かすることが偶然か必然が、は何とも分からなくても、憎まれる悲しませることには、ずっと酷い気持ちで待つ。蟲ーは、細胞も言葉も誰も何もせず抜けている。そして排水口に自分で向かっている。地球にも調じりのバランスがある。悪いこととしても自分の暴力する受け手があるから、許している神もいる。善悪という言葉に触れていることが聖(ひじり)を感じる。

     

     

     

     

     

    法は、そんなことを昔から通している。厚みの意味がわかるのだ。南無妙法蓮華経の本が捨てれないというその声を解いていた。釈迦が蟲ーだったので意味不になっていた、だから題が蟲ー、ってこと。惑星に住んでいて見えない世界に疎い。

     

     

    見えないものを見えないというから見えないものを見た

     

    見えないものを見えないといから見えないものを見た

     

    睫毛の真近はノイズ

     

    睫毛の真近はノイズ

     

    南無

     

     

     

     

     

     

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  • 鴨が鳴くそのルール

    手も足も心も凍るような思い。わたしの心では悲しみだけが青く光っていた

     

    掃除をしていたら、木屑になった自分の気の姿をみた

     

     

    日で治るので心配はなかったがただ悲しかった

     

     

    その日が経って、いつも通っていた駅を降車して一日バイトに行った。京橋は大阪ビジネスパークのふもとにあって、大阪城から京橋と名が来るなら身に合ってて、足りない物を付けたなら面白い。

     

    沢山の光があったがわたしの心に映ったその1つの光の源光を、その辺の道で頭の中から取り出すことができた。もっといいたいことがあるが出て来ない。が、これはその光の編集した総てだろう。本があるとすると辺となる思想が違う。光に向かうために、それぞれが繋がり纏めて見る、とは、一ページ一ページが何の関連もなくこれを連続性といってわからないが理解する詩性。よって自然な物の繋がりや防音、数と体を分けて分離している。ゲンジツを密封して壁が少ない文章で置くこれは、無印ケースに分けて入れる小さな螺や木片の事。昔の文章はこんなふうな段取りが、その文章になる前の一瞬の捉えられる想像が存在していたのを古本屋で見た。これらこの夢を達成させるのはアルバイト。

     

     

     

    誰も何もつらいことを抱えさせないことがよくわかった。この意識が火星にいるようなカッカした細い心持ちは、感謝というそのものだけど、一人でどこかに行っても時間に帰らなければ、金銭は十円も手に入らない。時間は過ぎている、縮めたり仮に加えたりして直すことは出来る。感じていた元の形が、自分のものかどうかが、成長という記録が生まれ育ちよりも壇上なら十分だ。

     

     

    ことばが迂闊に、何かに引っ掛かったまま冷えて、重苦しい何かのこの目の川に浮く過ちのものから、その死体から、私は十円が私の家に見えてきた。

     

    派遣の登録に外に行くが、仕事はない、と言われた。星を願う五分一杯の気持ちで、二分三分を取るいつもの階段だった。これを私はすてきな石段だと思っている。重力に力を込めて降りる。霊感とは全て自分で知っていく高いものだが、トンネルにライトを当てる様に、まず聞いてくれたので言った持病の統合失調の寛解は、まず、神木というのがあって、髙い木もあるし、低い木もある、自分がわかって、自分に出来ることはありますかを親に聞ける。それを、まず受け入れる。解決を狙った素晴らしい身ごとのダンジョンは、今巷に溢れている。

     

     

     

     

     

     

     

     

    「わたし」という一円、わたしという十円の留め金で、恐らく膨大な書物から、頼もしく学んでいる。

     

     

    わたしとして対照化出来た考えが留め金の発想や作りが自身にあるから仏は話してくれない。

     

     

     

     

     

     

    色んな恋愛があるのだろう、と

     

     

    「「もう離さない!」はムリだった、つづく」

     

    町人が買う架空の本、

     

     

    一旦自分にたいしてクッションを敷いてあげる、これをメタといって、空や間取りの大きさをその大きさに切り取る声なのだ。こんなに自意識と闘ってる。

     

     

     

     

     

    私は、街歩きしやすいTシャツの販売など色々を待ち遠しくしている。

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  • 価値

    人はみなりじゃない、この言葉を見出だし

     

    楽しいと思うもの自体に間違いがないことと問題、二つを両方並べて、やって来たことの正しさがわかる。

     

     

     

     

    仏に目が許される。見比べることの、

     

     

    自分の行為の全貌である。

     

     

     

    この間には、「わたしの悩み」が抽出したようにそう言える一人の心、治まった、納まった、修まった言葉、こういった静寂なものに辿り着いた。

    文になった。

     

    抽象化、という一つの方法論そのものなのだ。これが誰でも出来るという事は、やや精通していない。

     

     

     

     

    この調子で、

     

    儲ける、儲かる、が代わる。

     

     

    言葉の掛かりの主語に定義が在る。先に生まれた神から、それを知りに行く生魂(いくたま)の道がある。

     

     

    東京と大阪を見ても、精神自体をとするか、精神上のものをとするか、

     

    また対象とする言葉が、画にあるのか数にあれのかをいってもそこに蝶がいることには変わりがない

     

     

    文性の違いから儲け方が違う

     

    ちょっと貧しい時、

     

    金額を、気ままに為りに合わせる

     

    縁起に角をつけたまま、

     

     

    夜には、

     

    「バッドbad」という人の良い、誇りがあるとどちらかと意味する美しい英語を主観にしてこれを思う。性欲を求める行動が、売春に値の高さがある人と、体を売る、この言い方がバッドな人や、どう言い方自身がバッドな人や、悪しさがバッドな人これらは、ワルイヒトとは異なり有る。この時分かった時、薔薇のようにb

    ad

    の字だけを残す価値観がある。

     

    「価値」がそもそも仏道にしか発生しないのは、言葉だからだ。だから、「両」のしたに容量があり、そのねだんの上に値段と書くことが、出来るのだ。 

     

     

     

    ワルイヒトは、対面にして下だから下だ、みさげて怒らなくてもいいんだよ、と、説かれる両の壇上は、何と資本論。

     

     

    これを理解している態度を、「了見」があるとかないとかを冒頭にして始めにコミュニケーションしていたのが、江戸時代。会話の成立は、体的や歌やお経で長く流し向かう平城~室町よりも初めてに差し掛かっていた。街の出現から月光のような自意識にたいしての闘いが今にひたすら続いている。自分が対決する相手がアニメの美少女、といったら、大和がわかるだろうか。

     

    価値からは、愛については冷静さを習う。今日の総体的にこういう元の考えを人間性に携わって考える、性が立つ、そして出来た。

     

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  • ほんまはそうや

    もともと、霊界は癒しの空間だ。

     

    きらきら光り、力なりに優しく自由に出来るとこだ。

     

    悪化性が流行ったが、悪化表現、悪意は力からは剥がれ落ちる。

     

     

    力がないんだ。

     

     

     

     

    たった右左を間違わなければ、

     

    癒しの空間、とカッコのある言葉をさらに啓蒙していた筈のやつは

    、そこで笑ってた筈だ

     

     

    制する力には、力がないといけない。

     

    人を黙らせる、人が鎮静する、人が安らぐ、これは、どういった意味だったけか、

     

    自分を砕いても言うことをして来た。

     

     

     

     

    そのあと、よく大きく感じるが、例えば自分を吸いとったり自分を取り込むような奴にそんな大きさは存在出来ないのが理屈だ。

     

    心は、霊界だ。すぐに自己を見つめて、自己領域に迫る程の

    鈍さを冷静に告げる。

     

     

     

     

     

    これが、「ホンマハ・ソーヤ」の冒険である。

     

    私もその修行と取り組みを続けなければいけない。

     

     

     

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  • 古代神の憧憬

    元の気、空気に触れず、元の気、空気で避けて、

     

     

    神のときこそ、これを出来る限り守る。自分からする神の見栄えが良くなる。

     

     

     

    今ここに、題目の「蟲ー」がいる限り。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    だから、蟲ーの事故は、自分が悪いならともかく、出来るだけ気にしなくて良いよ!

     

     

    謝らなくて良いよ!

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    通称「ご先祖」がこう言われ、仰る。

     

     

     

     

    良い人を殴り付け影から嘲笑う、そんなやつと思われたらどうする

     

     

    「無償の愛を試している私」とはただ事じゃない

     

     

     

    愛という時点で、

     

     

     

    横滑りを防ぐ。

     

     

     

     

    横滑る奴にこそ、単に横滑りを防ぐと言うのではなく、横に滑る奴を防ぐ、と、人に目を合わせて、人に言ってやれ。

     

     

     

    「愛なんて何の役に立つんだ?」そう言って聞けるのは、古代神だけだ。私が今「ジブンそれなりに頑張った」というときに、「自分をそう言う風にいうのは失礼だ」と告げるあの、

     

     

     

    冷たくされても、聞きたい。

     

     

     

     

    こうだったんだと、

     

    腹にする、腹に解ることが大切なんだ、この上さらにそれ以外を持って、持ちすぎて霊界まではみ出るヒトの目には人はもういないだろう。しかも、何もわからない程遅らかっているだろう。

     

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  • 直していくことに寛解という

     

    寛解は、解りとか悟りへの興味とか

     

    幻聴は、聞かなくていい

     

    有色の幻聴、無音の幻聴、幻聴は蟲ー、

     

    幻聴が在る、この無の意味まで高めよう

     

    時々、助けてくれる「声」は専門的なことじゃない

     

    「声」になるには許可がいる

     

    許可は、よく神仏と話し合いある日、その形が解る。従ってカタチに表記されない。わかりやすく伝え現すことは研究中出来る。

     

    悟りは仏のだから、仏が霊であることから霊界などヒントになる

     

    客観性と自意識が大事だから、失敗すると痛い。3日耐える、自己で反省する気持ちで、直してほしい。実際頭に怪我した人は、頭は心だから癒して強く心に揉み合うことでは治ったからそうしてほしい。抽象的に聞くが意外に、頭は心だから、想像とは形豊かに、手のひら、目、(わたしの記憶、たいせつな気持ち)から溢れている。自分のたいせつな気持ちに傷の付いた人は、自分のじっさいの頭上に話し、謝る日課が良い。

     

    心は「アタマ」という肉体視より上部なので、また次元性に包まれ、ヒトや蟲ーには見えない、こういって守りがある。心が特徴的に広いと、困った霊を龍が運んで一時的に入っている

     

    たまに気を食うようなやつがある。おそなえ物を食うとか想像する、備えている、備えとも書く。墓を荒らす→何か人目から隠す過ちごとがある、ヤサシイかお。この認識が大事。

     

     

    神に力を告げなかった、もしくは蟲ーのような障害があって告げられなかったのか、このことから、今に伝え遅れを感じている。大穴牟遅、大国主の「もうひとつの名前」として伝説がある。

     

    何で、こんなに祈りと神像イメージを誘導出来る程しっかりした所が、硬いのだろう?と思った。世間的ゆとりも必ずある、心を味方と思って、自分のを開いて行く、人間に向かう。街町で、あり余った程の力が暴走して歩くようなイメージは不安、こう意味したんだ。

     

    半月が、カラッポの窪みに嵌まってムーンライトが光るように「声」になる。驚いて口が開く。心を味方と思って人間に開いて行く、落ち着いて出来ることが2れしかない。私の半月の石は「大穴牟遅、力が開いて伝わっていく。言葉になった」これ。

     

     

     

     

    今、思い出したけど、

     

     

    何かがあって、30年後出会い、創建するのに50年の年表を歴史館から見たことがある。

     

     

     

     

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  • 神の木と、高木と低木「わたしに出来ることありますか?」

    神話の名画があって、

     

     

    名画が語るに「アダムとイブを目にして、人間が人間としてこう与えられているのだよ、

     

    同じように、気張って伝えようとしたよね、(それ)と考える

     

     

     

    それ以外の緊張感ぎいらない」

     

     

     

     

    こんなところに届かせようと考えた古代人の、賢さの平気を感じとると、唖然と阿をなくす。

     

     

    工業都市、美しい仕組みや螺自体を心の中に感じても

     

    心が光るほどちゃんとしたことは、ちゃんとした自分じゃないといけない、この意味は、

     

     

     

    ちゃんとした自分じゃないと、対象に目が会わなくなる

     

     

     

    学問、これがそうだと言葉を続けるには一人では繋がらない、届かない

     

     

     

     

     

     

     

    技の素材となったものを、教科でいうなら恋愛

     

     

     

     

    それが恋愛だとは解らない、

     

     

     

     

    未だに解らない

     

     

     

     

    解らない、とかろうじていえる

     

     

     

    考えが限られている

     

     

     

     

     

    ずっと悩んで考えて、その中からこれだけ教えてあげよう、と伝えてくれてる

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    魚もにくしさを覚えている

     

     

     

    その目は信用がある

     

     

     

    魚という自我で、人間が考えている

     

     

     

    ひらひらしたひれはなくなったけど

     

     

     

    その川にずっといて、寓話を聞きながら

     

     

     

     

    自分が動物だった時の神様と、

     

     

     

     

    形の変わったわたしとは

     

     

     

     

    川神に、「そいつを殴ってください」といっても、

     

     

    といっても死人に「口」無し、といって

     

     

    自分がそうしないといけない

     

     

     

    ひらひらしたヒレがじぶんじゃない、とわかったあとそこに日々が続いていく感じ

     

    昔とかわらない

     

     

     

     

     

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  • 心の冷たさはやさしさでは変わらない

    一回、一回、左右確認後の大声はどこでもお勧め感がある。

     

     

     

     

    自分に風を吹かすのも、人の存在が自分を変える。

     

     

     

     

     

    人が、自分のために役立つのではなく、

     

     

     

     

     

    自分一人が、人のために生きている

     

     

     

     

     

     

    反省をすることのピースが、

     

     

     

     

     

    理想から、足りないのではなく、

     

     

     

     

     

    自分一人、というものが足りない

     

     

     

    を、教えてくれる

     

     

     

     

    言葉がするする出てくる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    心の冷たさは、その土が水かもしれない雨かもしれない。少なくとも心を主語にしている。それに苦闘したこともある。

     

    冷たい水は人を柔らかくして、バランスを思い出させる。

     

    しかし主題は、心でも何でもないものの蟲ーだ。

     

     

     

    私は、私の心に侍。それは、鳥かも知れない。更に水分の多い黒い岩場の鳥ならば、肉体としても主題が違い、話すことはここに昇る人間にない。

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