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    Works 225
  • 0地点にダイブ!

    2011/07/13

    maro日記

    何だか大丈夫でいたかった自分がいて、
    それでも、やっぱりそれを保つことができない自分もいる。
    いい人でいたかったし、
    いいところだけ見せたかった。
    そんな中での葛藤というか…

    いや、それほどのことではないのかもしれない。
    気にしなかったらすぎていくこと。

    それでも私は、今何もなかったことにしようとしている。


    これは日記。だから、何かを求めているわけではないことを
    言っておく。ちょっとワケも分からないことだろう。


    私はずっと以前に書かせていただいたブログの
    かいじゅう君を今押さえることが
    できないでいる。

    仕事場でのこと…かいじゅう君を何の気無しにつつかれたのだ。
    もちろん相手はわかっちゃいない。
    それでいい。
    私は昨日おととい、2日間休んだ。
    私は以前も一度そのせいで仕事を休んでいる。


    そんな自分をコントロールすることのできない自分を
    情けないと思いつつ、
    その気持ちからの逃げ出しを測ることにする。


    なにも仕事を辞めるわけじゃない。
    何も変えるわけじゃない。


    ただ、私はもう、
    『ちゃんとした自分』じゃなく、
    もとの『情けない自分』に…


    0地点にダイブ!!

  • マルナゲ

    2011/07/12

    maro日記

    私はすべてを投げ出したくなるときがある。

    実際投げ出したこともある。
    結局また始めなくちゃいけないんだけれど。

    本当にすべて。
    以前の話で言えば、付き合っていた人であったり、
    今やりかけていること、
    やらなくちゃいけないこと、
    考えなくちゃいけないこと…


    これは全然堕落した私で、
    何も自分の思いがあるわけでもなく、
    無責任にも、疲れてしまって逃げ出すのだ。

    そんなときみんながすごくイキイキして感じ、
    私は床に突っ伏す。


    私は頑張れない。

  • やるせない

    2011/07/12

    maro日記

    自分の頭で考えたいと思う。

    誰かが何かを言う。その人の立場が強い立場だったり、
    上の立場だったりすると、その人に合わせざるを得ない。
    特に仕事なんかでは…

    わざわざ火種になるほど分かってもらう価値のある場所じゃない。
    でも、それが他の人に牙むくとき、
    私は良心が傷むからその中には入りたくないと思う。
    だから最近では始めからあまり入り込むことをやめた。


    でも過去に、正直やむを得ないこともあった。
    自分に向くと厄介だから、
    そいつに加担したのだ。
    そして、標的の悪いところを
    見つけ、報告する。
    不思議なことだ。
    私はいいことをしているような錯覚に陥る。
    私も含めみんなのいいわけはこう。
    『直接言ったらかわいそうだから言わない。
    でもそのままだと周りの迷惑になるから心配だ。
    あいつはわかっていない、甘い。』
    社会ってこんなもんか…
    これは何も私のいたそのバイト先だけじゃない。
    いや、私が働いたバイト先は数知れず。
    でも、これはいつもつきまとうのだ。
    ちなみに上の標的はその主犯格に取り入って
    ことなきを得た。

    おかいしいのは集団であることや
    発言権があるような立場のやつがいることで、
    すべてが正当化される。
    そして、その集団は標的を、
    安全な位置から批評し、傷つけるが、
    それがまるでテレビの中の出来事のように
    罪悪感は薄れる。
    『心配だ』という言葉に守られ、
    そのやり取りを楽しんでいる。


    これは普通のこと。
    だから、仕方のないこと。
    もちろんちゃんとしているところも
    あるのだろうけれど、ほとんどそれは望めない。
    社会は学校以上にたちが悪い。
    それがいつの間にか空気のように、
    存在することが当たり前になりすぎて、
    わざわざ気にしてる方がおかしいみたいな、
    そんな感覚になってくる。

    このスパイラルにうまく乗れる人は
    やっていけるんだろうと思う。
    うまく自分に向かないようにうまく立ち回る。


    それが世の中。仕方がない。
    でもそれって、なんかやるせない。

    だから私は一人でロボタ開発所なのだ。

  • ありがとうの気持ちを込めて…

    2011/07/11

    maro日記

    ブログして、コメントやり取りするのって、
    なんかすごいですね!!

    めちゃくちゃ真剣に、
    よくわからない私の話を聞いてくれて、
    ちゃんと考えを言ってくれる。
    始めは否定されるのが怖かったりしてたんですが、
    わかっていただける人もいるし、
    考え方が違っても、わざわざ私に直球を投げて下さって、
    私はまた投げ返す。そうして、近づくというか、
    相手の考えていることを考えるというか…

    だから、私のブログのコメント欄、
    一つのブログより長いんじゃないか位の
    やり取りをしてて、なんか感動です。
    だから、ちょっと長いかなあ…
    って心配される方もいますが、
    そんな方は私のコメントの長さ、
    他の方の文章の長さを見たら
    安心できると思います(笑)

    私の意見は通らないだろうと、
    正直思っていたんです。
    もちろん私なりの思いもあるし、
    それに対してちゃんと理解もしているんだけれど、
    『正論』からは外れていることが多いというか…

    感情の部分を大切にすることを
    内容も理解しようとせずに、
    甘い考えというレッテルをはる方が
    今まで生活してきてすごく多かったので、
    真っ正面から聞いて下さるみなさんには
    本当に感謝しています。

    そう考えると、こう色眼鏡で見ない人もたくさん
    いるというか…
    ちょっと人と違う行動、人と違う考え方、
    人と違う…例えば病気を持っているなんてことがあったとしても、
    全然関係なく、1人の人として、
    1意見としてやり取りできることが、
    私にとって本当に嬉しいです。

    私が間違っていたり、
    おかしいこと言っているなと思うことは
    あると思いますが、
    このブログ、コメントでは付き合っていただく方向で
    よろしくお願い言いいたします。

    コメントのやり取りは主にアメーバブログの方でやってます。
    よかったら見てみて下さい。http://ameblo.jp/m-dasenka/

  • 優しいということ

    2011/07/11

    maro日記

    優しいということを考える。
    私にとってだ。
    それも、すごく仲のいい人、家族、友達、恋人…
    そういうものに対して。


    私は以前、今以上に精神的にしんどかったから、
    誰かに助けてほしいと思っていた。
    例え誰にも関わりたくない!と思っていたとしても、
    それは、
    『どうせ関わっても誰もわかってくれないじゃないか!』
    ということで、わかってほしい、
    自分の気持ちを受け止めてほしい、
    という気持ちはもちろんあるし、
    やっぱり助けてほしいのだ。


    私は以前考えていたことがある。
    たとえ話みたいなものだ。
    ちょっとイメージしてみてほしい。


    私は庭付きの家の中にいる。
    そして、外に私を助けようと
    してくれている人がいるとする。
    その人は叫ぶ。
    『大丈夫?』
    私は『しんどい。』

    そんなとき、もしその人が本当に私にとっての
    優さを持っていたらどうしてほしいか?
    1.そっとしておく
    2.庭に入る

    もちろん2だ。
    たぶん知り合いくらいの立場なら、
    1だ。入ってきてくれても、
    その人はきっと最後まで
    この気持ちに付き合うことはできないから。

    さて、庭に入り叫ぶ。
    庭の外から相談もうける。
    話はもちろんつかない。
    だって、中にいる私がしんどいのは、
    何かがあったことということよりも、
    もうそう感じてしまっていて、
    しんどいに取り憑かれているから。

    でも外にいる人は、原因や対処法を探して
    解決できると思っているから、
    話してもムダだと思って、そこで帰る。
    特に自称優しさに自信のある人は。

    もちろんすべてではないけれど、
    自称優しさに自信のある人は、
    相手に対して何があっても怒らない。
    いつも笑っていて、相手に気も使う。
    そんな人が多いように思う。



    話を戻そう。
    庭と家の中というこの距離感が縮まらないことが
    私は多かった。家族も恋人も…
    そして庭から家に入らないことが、
    優しさだと思っている人が多いように思う。
    家に入ったら傷つけてしまうから…と。

    でも、家に入って傷つくのはその人も一緒。
    家に入って中にいる私がしんどくて、
    その人を拒絶するかもしれない。
    その人に当たってしまうかもしれない。

    それでも中に入って話を聞き、
    抱きしめてくれるような人
    が優しいと感じるのだ。
    いや、行動としての話ではなくて、
    精神的な話なので、私が言っているのは、
    実際に抱きしめる…というよりも、その人のココロをだ。
    そういう考え方の話…

    だからもちろん、恋人同士でなくても、
    同性の友達同士でも、家族でも、仕事仲間でも、
    そんな人が私にとっての『優しい』だ。

    だから私も、自分にとって大切な人であるならば、
    そんな優しさを持ちたいと思っている。

  • 好きなものは好き

    2011/07/10

    maro日記

    人に自分の弱さを普通に言えるのはカッコいいと思う。
    自分の好きなものを周りの目を気にしないで好きだと言えることは、
    カッコいいと思う。
    自分の自信のない部分を隠さないことはカッコいいと思う。
    主張しなくても自分の考えは前にでる。

    昔私は今以上に周りの評価を気にしていた。
    無意識に…

    小さい頃、聖闘士星矢ってアニメがやっていて、
    私は大好きだった。でも親は男の子の見るもんだ…と言っていたので、
    好きだとは言えなかった。

    私はテストでいい点を取ること、
    マンガを読まないで本を読むこと、
    身なりをキチッとしてチャラチャラしないこと、
    そういうことが大人受けすることを知っていた。
    そして、それが正しいことだと思ってきた。

    でも、そうしているうちに、ほとんどのことを、
    周りの目を通してしか見られなくなった。

    例えば本を読む。
    純粋におもしろいかどうかじゃなく、
    『これはおもしろいんだ』
    とちょっと上の人から言われたら、
    『おもしろく感じなきゃいけないんだ!』
    と思って、おもしろいと思い込んでいたりした。

    私には私の意見はないし、
    大人に従順。自分の服の好みも、
    母が『これいいね!』って言ってくれそうなのを選んだ。
    自分の好きなものはなく、人の好きだと思ったものを
    好きだと思い込む…
    まあ、本当に全部が全部ではないんだろうけど。

    それがだんだん自分でもわかってくる。
    私は何が好きなのかわからない。
    それでもそれを認めたくない自分もいた。
    私はできる。
    人よりも上。
    そんな考えが、本当に自然に私の中にあった。


    でも、本当は違うのだ。
    そして、自分を知らないということは
    すごくもったいないし、
    楽しくない。私はもう楽しいと思い込むのは嫌なんだ。

    私は私自身で私の好きなことを知り、
    それを人と違っても隠さない。
    恥ずかしいことじゃない。
    そして、堂々としておく。


    私は自分の弱さを隠したり、
    逆に前に押し出したり、
    そんな無理をしないで
    自然にいつものように抱えておく。

    そしてワハハと笑うのだ。

  • 走る。歩く。立ち止まり、また走る。

    2011/07/10

    maro日記

    もう、本当すべてのこと。

    一回立ち止まったとき、多分走り始めるまでがとても難しい。
    でも、いろんな事情をかかえ、そしてもう一度スタートする。
    走りはじめたらこっちのもんだ!…なんて言いたいところだけれど、
    なかなかそういうわけにもいかない。


    ゴールは一体どこなんだ?


    周りはものすごいスピードで走り抜けているような、
    そんな気がして不安になってしまうから、
    私は目を閉じることにした。
    私は私だけを見て、私だけのゴールを目指して走る。

    立ち止まったり、後ずさりしたり、前に何とか1歩踏み出してみたり。

    全然ゴールとは違う方向を向いているかもしれない…
    このゴール自体、私の求めているものなのか…
    まだ見ぬゴールを考えると不安もこみ上げてくる。
    息もだんだん切れてくる。
    始めのやる気も何が何だかわからない。
    こんなことして、何になるんだ?
    どうせ、私には無理なんだ。

    …いろいろ私の頭をよぎっていく。


    それでも、なんとか前に進む。
    『さあ、目を開けてみよう!』


    周りは周りで悪戦苦闘。
    それぞれのゴールもスピードもバラバラで、
    比べることはできない。
    そんな事実が、やっと私を解放する。


    そんな私、思い切って後ろを振り返ってみると
    あのスタートをきった位置はもう見えない。
    どれくらい進んだのか、どれくらいで着くのか、
    果たしてゴールは存在するのか、
    全部不明。誰も知らない。


    ただ、この進んできた道のりは、
    確かに私のものなのだ。

  • デッドボールを投げつける!

    2011/07/09

    maro日記

    例えば、絵を描いているとする。

    とてもきれいな絵。
    でも何か物足りない、これが完成ではないと感じたとき、
    失敗覚悟で付け足す、塗る、元の絵を壊す。
    そうすると、出来上がりはとても不細工でも、
    きれいな絵には足りなかった何かが現れる。


    例えば、大切な誰か。
    自分の言いたいことをなかなかわかってもらえない。
    これ以上言っても不愉快に思われるだけだということ、
    難しくてわかってもらえないことはわかっている。
    だけど、私は言葉を出す、当てる…何とかわかってほしくて。
    そうすると、相手が不愉快でも、
    何か伝えたいこと、本気だということが相手に伝わる。


    もちろんこれはいいこととは言えない。
    すごくわかっている。
    大切なものは大切にするべきだ。
    ただ、すごく大事なものや人ほど、
    ぶつけたくなる自分がいる。

    いや、ぶつかっても変わらないかもしれないし、
    もっと悪くなってしまう可能性の方が大きいかもしれない。

    だけど、グチャグチャに塗ってしまいたいとか、
    言い争いになってメチャクチャになってしまいたいとか、
    そういうことではなくて、
    もっと深く…ということだ。

    その先で出会えることが、
    私にとってすごくいい!と言えるものであり、
    本当の安心感を得られる何かな気がしてならない。


    そんな私は、デッドッボールを投げ続けるのだ。

  • まさかの帰り道

    はい!私は今家に帰り、シャワーを浴びました。
    『似顔絵描き中止!!』
    雨は降ってません。


    私には2つの大きな傷がある。
    これはどんなに理由をつけても、
    納得することも受け入れることもできない。

    1つはKの死。
    そしてもう一つはアンチな父との関係。

    この『もう一つの方』はすべて終わったと思っていた。
    それが今日の朝、蒸し返されたのだ。
    そんなこんなで、今家なのだ。

  • ボクはこいつが好きなんだ

    2011/07/08

    maro日記

    まずお知らせ!
    明日7月9日土曜、昼頃から17時くらいまで
    京都三条京阪駅前にて
    似顔絵をお描きします!

      写真フレーム付¥1000
    B5サイズフレーム付¥3000




    人を評価する表現はすごくたくさんある。

    キレイ、かわいい、カッコいい、ステキ、
    好き、良い、すごい、頭良い、偉い…

    特に競技やコンテストなんかだと、
    優勝、金賞…

    いろんな評価がつく。
    みなさんはそんな言葉を言われるのが一番嬉しいだろうか?



    例えば私の身近な焼き物をやっている人は、
    『すごい!』が好きみたい。


    私は『好き』とか『いい!』が一番嬉しい。
    万人の評価じゃなくて、その人個人の評価だから。
    それに、絵の技術的な善し悪しは私自信あまりわからないし…

    何の基準もなく、ただ好きと思ってくれていることが、
    私にとっては一番。
    その人の正直な思いが、その絵の価値までも上げていく。
    その人にとって、いろんな絵の中で、
    すごく気に入っていること、
    それは、評論家が評価することと
    私にとっては変わらないように思う。
    持ち主であるその人が、
    評論家であろうがなかろうがどちらでもいいことだ。


    いや、絵で食べていこうとか思うのならば、
    やっぱりある程度の裏づけがあった方がいいんだろうけれど。


    売れるとやっぱり嬉しいけれど、例えば似顔絵を描くにしても、
    『似顔絵描いてほしくて…誰でも良かったんだけど…』
    と100人来るよりも、
    『あなたの絵が良かったから引き返してきちゃった!』
    って言ってくれる人が1人いる方が、私はすごく嬉しい。
    実際そういう人が来るとものすごく嬉しかったし、
    路上で描いていると、結構いる。


    需要と供給を全く無視したこの考え方、
    一人くらいいてもアリでしょ?!

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