揶白 (KF)

絵画

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揶白 (KF)

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    Works 46
  • 心を鍛える

    あなたの罪、いや罰

    美しさとバツ

    視界が別だから

    セカイはあなたを描く

    何で視界が別なの

     

    こう私がいる

     

    心は偉い

    馴染むものを追及する

    だから心を鍛える

     

     

    これが、南無妙法蓮経だ

     

    2021/08/12

     

     

     

    或る時 わたしは告白をした
    諸々の美しさよ
    心の良い人
    君はわたしを信じてわかりなさい
    誠の言葉や
    もう一度云ふ
    君はわたしを信じてわかりなさい
    誠の言葉や

     

    此時、美しさと人と弥勒が一人と、白佛と、
    祖の一ツの願望が有り
    わたしは信じ
    此時、祖は知る
    菩薩(美しさ)を止まらず知った
    「私は此れを言う。」
    「あなたは此れを聞く。」
    愛の秘密や神の力は、
    すべてが世のものであり
    阿修羅に及ぶ
    此の富から釈迦が遠からず道場を開いてる 心に

     

    良い心の人
    以来わたしは実に成仏した
    量が無い辺が無い、星くずの那由多
    君も五億の星の那由多
    於城で繰り広がる三千大世界

    戯れ
    小さなことは彼も何も云わない
    東の五億の星の那由多
    冱て城の下にみみっちい塵が有り
    あなた 微塵切りにして

     

    良い心の人 この心がわかったとして
    これが世界や
    校をはかって 思推して何が得か
    それをわかり 言葉を発した弥勒などをこそ知りなさい
    白いひとの言葉は
    「この世界には量がない辺がない 計算されないことの
    そこで知る事が 量がない辺がない
    ああ、心に無い事は私にない 」
    思察が不能で ツクらないことを厳かに知れる
    わたしは住む

     

    先人の事は
    あなたの世界で
    量がなく辺がない

     

    美しさ
    良い心の人
    今わたしは灯りを

     

    釈迦牟二仏は宣言する
    「この世界は若く 小さい 」


    ふつつかなものを蓋にし塵にする言葉

    わたしも一つのの塵になった

     

    以来わたしは成仏した

     

    そこの人 過ぎるで
    千億の星

     

    自に従い 来たる

     

    住むこの娑婆の世界
    教えを設け
    およそ千億の星の那由多
    城は 変わらず

     

    良い心の人
    わたしは 佛に燃えて
    言を復す

     

     

    わたしの所に来て
    わたしの目を使い
    信じる等を云う
    根は鈍く 所々応じて
    自説を少々する
    同じ名で
    彼が喜ばしいのは大小で
    再び現れ 同じ間違いをする
    「ねはん」に入れて下さい
    種々を方便し 微妙な宝を説明できない

     

    良い心の人
    如来は人を見てきた
    小さな心で

     

    「徳の薄い重病人」

     

    わたしは少なく心
    以来わたしは成仏した

     

    久方の若い人に方便し
    人が人に教えた
    佛の道に入らしめ
    君は話をし

     

    良い心の人
    如来は演じて
    皆 衆を脱させ
    私のこと
    あなたのこと
    私の身
    他の身
    己の身をしめし
    他の身をしめし
    己の事をしめし
    他の事をしめし
    皆 ウソは吐かず
    如来は知って
    見てて
    三つの世界
    三界の顔を示した

     

    有りて無い現実

     

    若い魂を退け
    若い魂を出した
    世に有らず
    滅びのたびに及ぶ
    実に有らず
    虚に有らず
    私に有らず
    異ならず
    あなたはこれを汲む事に
    如来の明見があり
    貸し借りは有りて無い

     

    人の所に
    たねだね性(しょう)が有り
    たねだね欲が違い
    たねだね行が違い
    たねだね億え、感じる事が違い

     

    この生が命ずる
    この諸々の善い芽を 少しの因縁と
    言葉で 宇宙のたねを教える

     

    遠く久しく

     

    良い心の人
    偬の本業は菩薩の道です
    その所に良い成りがあり
    今に蓋をされない
    しっかり上へ伸び
    今、滅びに有らず


    久しくここに若い佛が住み
    ここの世に薄徳の人がいる
    善の根を持たず
    貧しく下賤を漁り
    貧しく五欲を漁る
    不安を呼び
    見えない網の中で
    憶測をして居る
    如来を若く見て
    心は怠ってる
    故に難に遭い
    生が機能しない
    私の心を求め 敬い
    「如来」故
    方便を説明し
    比丘、繊細さの富を知る者のことを
    佛はここに その価値を学ぶ事も可能だけど
    いわゆる彼は薄徳であり
    千億の星の趣きを過ぎる
    佛を見た 佛を見ない
    こんな事で心を決め
    がさがさと音を立てる

     

    繊細な人
    如来は彼を見ただけで損をする
    衆生から切りはかり 自分を
    君の言葉を話す
    ここに彼は富を生き 難に遭う
    佛は、
    心を渇望させながら
    心に恋慕を抱くものだ
    良いものを使ひ
    故に如来がたれず 滅せず
    ここまで深く話さなければ森にまた迷う
    釈迦牟二佛の言葉は滅しない

     

    良い心の人
    所の佛、如来は皆宇宙 OK?
    人の為に 真実は虚に有らず
    良い言い方や比喩に依って
    人は知恵を争奪する

     

    明、明かるさを練習する
    その薬で病を治す


    その多くの人には子息が居て
    十歳、二十歳、乃至百歳に至るの
    有る縁を持って 遠い私の国に至る
    永劫回帰
    あなたの子が毒薬を飲み
    取り乱し 地面に寝転び
    この時その父が あの家に帰るのだ
    あなたが毒を飲み 本心を失い
    世間を失ったあのひ
    はるかの事を見て 父子は歓喜す
    手を合わせ 色々聞いて
    良い安穏に帰りなさい

     

    ある子は
    愚痴を、毒薬を、
    誤ってのみ、癒やしと救いを願ってみた
    さらにその寿命と


    子は父を見るから
    そこに苦悩が有り
    あらゆる教えを着て
    良い薬はないかと求める


    色と香りが良く、味の良い


    皆は既にそろってる


    それを投げ入れ 和合をしなさい
    天もそう飲んでいるから

     

    花はこの言を作制する
    色と香りが良く、味の良い
    事が足りて

    即、苦悩を除去する


    人をわずらわしいと思わない事で有る
    子の中で 失わず幸せ


    良い薬 色には好きが揃ってる
    病気の蓋を除き、癒す


    天は失ったが幸せ


    父がそれを何て云うか、様々を問い
    喜んで病いを治してくれる



    薄徳の人により毒気が深く入り込む
    これがまた心のために


    彼女の好きな色、

    香り、その薬であった


    わたしは美しいと云わない 父の意によって
    みんなは寝てる その所の毒の中で
    わたしは降伏しない

     

     


    わたしは今方便の富を設けました
    この薬を飲む事を
    すぐにそれを言葉にし あなたは富を知る


    わたしは現代、衰えて老いている
    死の時 ともえに至る
    この良い薬を 今留め わたしは取る

     

    憂いと愛を この星を教え作る
    他国に至り
    わたしが父となる時 星は死ぬ
    これらを、君が

     

    「あなたの父は、人は背を向け
    あなたは心に大きな憂いと悩みを抱くだろう
    それこそ私の念

     

    神ある人 自分を慈しみなさい
    古きは救い 護ってくれる
    今 私を捨てなさい
    遠くの 忌むべき他の国です
    自は狐となりころび
    古い侍は 常に悲しんで居ます
    心に至り 悟りなさい
    この色香美しい薬をすぐにとり
    みんなの魂を癒やしなさい
    神は聞きます」

     

    如来と人は 心に特に違いは有りません
    問うことに帰って来たのだ
    五体を使い、見た

     

    良い心の人 何言ってるのかわかりますね
    人が動き 有るのですよ
    研ぎ 磨いた歯で 説明していた


    こもうは罪でない 感じている
    佛の語で「私はあなた」というのがある
    以来私は成仏し
    量がなく 辺がない
    千億の星の那由多
    この城、人の為。
    富の滅ぶつど
    有りて無い現実を
    あなたの宇宙を説明し
    ウソと 妄と 出すぎたものを
    この拙い言葉で

     

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  • 般若心経

     

    霊感があれば「霊視」とステップアップするようだ。

     

    靱猿と言う言葉は、良い壷と悪いやつの見分けがつくまい、という。だから、専門用語だと思っていた。

     

    これを、良い壷と悪いもの、と書いたらどうだろう?判りやすくなる。

     

    霊視は、靱猿の出来ることが前提だ。靱猿は、能の演目だが、能は元から霊感。つまり、能は字が読めて、人を聞けて、初めて観れるからお高く良く、同時に目線も平行であるから拒絶がない。花が、そういう修行。そろりと歩く。壷を知り、猿を引っ掻いて、最後に靱猿、と言う靱も猿も「あれもこれも」の了解を背中にする。

     

    優しくする分、道の方向を指せる。

     

    細さが巨大だが、もうちょっと小振りだったと思う。如来には種類がある。菩薩に上下がある。

     

    戻すが、それが神の大きさ。

     

    小さなものを一つ足す、増やすことが題(タイトル)の秘密かもしれない。

     

    題を得る。

     

    何かを少し足すこと、工夫(クフ)。「成長」はこんなに強い実感を得るのだと驚愕している。縦字に横文字で夢が膨らみ、手延べの形だと思うほど膨張をもう少し自分自身で見たい。「想像」が成長しているのだった。やはり、「父」が激しく出迎えている。前に想像が嫌いだと仰ったのだ。行き違いを空に見る。父だと解るが、私はまだ父を知らない。

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  • 能面

    天祇(あまぎ)の天中、韓国の名のある神が、

     

    魂的に君は「難読」に興味があったのでは。

     

     

    と言語を授けて下さった。

     

     

     

    身を粉にしても、勉強で文殊を知っていていつも踏みしめている文殊の石畳。それは六角形で透き通る様に白く、中に輝く石が夕日にきらきらし、涙を流しながら心の疲れは飛んでいた。街が、何を持たなくても読める本だと気付いた。文殊は菩薩だ。読書は、どこの街風景でも出来るが、文化が思っているよりも豊富に敷かれていて、比較が枠取りになる場合もあるだろう。その時に、ああ、ここはこういう文化なのか、こういう神や霊がいらっしゃるんだ、と神仏との対話を諦めなければ身に付く。

     

     

     

    何も理解の出来ない感性から、死を夢にしても、お能があり、顔を持つとひたすら続くと知る花道は一つであり多岐なのである。

     

     

     

     

    私はだから、苦しいことも簡単なのだ。問題は、やはり、苦しみではなく神だ。自分が対話する以上話してくれる。

     

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  • 自分か神か分からない人にそれを分けてあげる。

     

     

    ここに書くが、自分か神か分からない人がいる。それに分けてあげる。と言ったら、研ぎが甘く進めるか、辛いままで人々に考えさせるか、速さと、考えるを、悩んだ神がここにもある。

     

    いっぴつで、自分か神かわからない人にそれを分けてあげる。こう言ったら、文明に店が建ち、「街」が芽生え、人の面に対応するをして来た人々の成果を感じる。悩みが洗練していて透明になり、早くなった。

     

     

    「戻る」と言う字はあり、この見通しによってやはり、客観性が大事だと全体を通している。

     

    客観視を強くしていた。

     

     

     

    人と人を繋ぐに大事な事を騒動で失ってる。

     

    オオヤマビコは、自分を木を養い土を大事にする。キノカグツチ、と名乗られ、この間の名前と実際の名前にある理解の大事さを持っている。

     

    今、閉じ込めている(ム)蟲ーは、現に騒動だがオオヤマビコは「タタリ」と思っていたから、勘違いをした人も大丈夫。

     

     

    成長が大事だ。神を、「誰だろう?」そう人が思っているのはご存じだろう。

     

     

    一番上に書いた、

     

    感情と理性の水切りをして、感情に沿うような理性を選択する。その力をこの神の所で磨いた。一つ一つに重い悩みがあるが

     

    情が芽生えてしまう、も抜きにして含めて私の技術の監修をしてくれたこの神。感謝。

     

     

     

    辛い、苦しいと思ってる時に人を理解する。

     

     

    オオクニが死の神の時、

     

    「あんなヤツ」が何かをすると解るその力は私にはない。しかし、「私」が必要だ、と解る所に人々はこんがらがった。

     

    理性力。オオクニの理性が正しいのか人々に理性があるからオオクニが立つのか、人の私は今はわからない。この所、「人の私」を神に「する」人は神じゃない。では、人の私を「見る」ことは人を神にする人は不可能。人が関係性を含んでそう書く場合、人が人と同値を持つから、その人のその時発する「言葉」主語が神なら「人でなくなる。」、関係性を含むが神の前提で、関係しなくなった「それ」は価値を意味する値からは抜ける。人でなくなる、の意味を指している人である私は、今、関係性と言う神を含む。言語を持ち、この時「人でなくなる」をもつ何かはいない、となる。言葉が元々、達成という性格を持つからだ。光、闇、この二つは言葉であり、「人でなくなる」を闇とも呼称はするが、言葉を持つ人が「人でなくなるそれ」に対して何かを決定しても良い、

     

    存在しない。

     

     

    と、自がはじめて成功させる。これを仏と言い、現実の型がなく芸術に昇華され、これを保持する事を伝える。

     

     

     

     

     

     

     

    自分が神か人か分からない人に言ってあげるのは苦しいが、それをやっていく。「人でなくなる」人でない何かではなく、人に、私はあなたが辛いと話したその上で「やって行こうよ」を言える、この為に重力や抵抗も、言葉がある。

     

     

     

     

     

    タケル系の人は「前に一定」と言え持つ神から、その力強い才能がある。名前を別する神がいて、人のそれぞれがそこの才能どまりで、芽を養い、自己成長に関して、「誰ですか?」と曖昧に人に伝えるが、それを神に聞いて自分を広げる。

    タケハヤがここにいた。

     

     

     

    感情が心と離れず、伴わせる力を養えば困難や愛は育てる事が可能。ここに仏道の意味がある。

     

     

     

    私はスサノオの激しい力で負傷。癒す時間を。大丈夫かな?と不安になる事も人に出てくる。

     

     

     

     

     

     

    メッセージ

    「そんなに傷つけていないのを関心して素直に離れてもらえたら、これは人と人がそんなには知り合いじゃないから。安心は、「知れ」とは言っていないと聞こえるから。聞こえるか?を問う「声聞世界」は茶道に親しい。仏道の派生を神から。

     

    隣に華道があり、仏道の道行きが各違う。私は、茶道と華道を同時にする事の理屈までは解らない。

     

     

     

    「迷いがあっても」

    神の前で答えがブレる。答えたら次はこうなろう。迷いを解決する自分。

     

     

     

     

     

     

    大事なのは、白比べが「皆」と言う言葉に進化した。漢字になった。

     

     

     

     

     

     

    アマテラスの前で、「新しく話せる言語」を作りたい。

     

     

     

     

     

     

     

    山、という字を持つ神を二柱見ている。オオヤマツミノカミとオオヤマクイノカミ。オオヤマクイノカミは控えている。格のある山と格のない山があるが、人にはわからない。人間にはわからない、人間を人と言うか人間と言うか、念が立つ、言葉が立つ、ここが為に怖れる。この怖れは解らない故に立つ。

    見ないことをいくら説明してイメージを伝えても理解に到達しない。「見る」とは目だけでないからだ。

     

     

    自分を知る嬉しい感情と、理解の喜び、この二つは重なるが違う。

     

    約束が互いを指すのに、それに気付けない。だから偶然を適用します。

     

     

    そう言う時必然は生まれ、「偶然」よりも優先されます。

     

    互いに異なる議題があり、理性を打ち出す。

     

    健康じゃないと山に登れない。

     

     

    本当はそうじゃないのに、こう思って仮に動く事はあるが、

     

    そうじゃないのに、かもしれないで動く人は壁がない。それだけで良い。母でも人で、神にそういう霊なら動かしてあげて欲しいと願う。

     

     

    一緒にいる必要はないと理解をしたところで、更に、動きを取り戻すには壁が要る。

     

     

     

    本当への道は思いが必要。スサノオは思いの神。

     

     

    だから、関わりがなくても理解を打ち出す。これが、理性を打ち出す事で早くなった。

    思いの理性は困難だ。

     

     

     

    思い違いがあり、挽回するのに「芽」を育てている。この理性を神に課せ、スサノオに言うと、オオクニに伝わる。

     

     

     

     

     

     

     

    オオクニが、オオヤマビコをとっくにはとうに知っていることも解るのに、

     

     

    私は自分の切り上げどころも知ってるのに、悔しい。

     

     

     

     

     

     

    守護霊は魂が別だとよく解る。生きてるを捉え、肉体の死生、二つ理解があってそのまま二つと数え元論とする理解は、死生観を失う。死んでも生きても「解らないけれども解ることは魂に関わり、関わる限り

    責任(いちにん→菩薩)を見つける。

    見える大きさによって、位などの中に違いを映すのは、理解を嫌いは嫌いで理解を終えることに損はないが、理解を止めたら理解の課題が終了しない。論題が、神の場合。約束は、理解してしまった自分の責任で、約束が出来なかった辛くはないだろう。憧れた先人の言葉だが、私はこの色々ある狭間で「心」を信じるしかなくなってきた時代から来ました。諸霊も、心に光る物があったらどうぞお許し下さい。守護にはっきり話しかけているのは、霊的な成長をしている最中という証。感じ取れること、が光そのものとして実際の死からは私は遠い。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    カナヤマビコを理解出来ない男性神と私は思うが、ここで男性神とあり同時に思い出すのが女神として、「存在」の確かは女神が「ひめ」と表記され、「ひめる」と言う言葉は、人間無性の事だから。身体性は、無垢なその客観と意思であるがツクヨミの奥にそのナキサワメノカミイザナミがいる。客観性が正されると、人の二者間における有性というエラーは消え、土も土でしっかり陸に向かって歩こうとするだろう。今、地球の霊を視ている。「視」はその間いちいち努力を起こす結果であり光と名付く。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • これからの約束事

     

    長い目で冷ややかな方かピンと立つこともある。

     

    私は前世で書きたくもない詩を無理やり書かされていた、とリーディングした。それがこんな風に話せる人になることだってあるから面白い。ゆだねてしまう方がいつもの心地良い気持ち。

     

     

    オオクニはと、話す。過去はこの間関係ない。

     

     

    私は自分が悔しい思いをした過去に気づいた。

     

    それが何かを見つけられなかった自分が許せない。

     

     

    それが~自分が悔しい、と言う人も言う。

     

     

     

    物事の受けとめ手が他人でなく自分だと、自分でやっていく分、その世界になって来る。

     

     

     

     

     

     

    ☆あの娘、あの人が、落とし穴にはまりませんように。そんな願いを込めている。

     

     

     

    痛いが、二度と関われない人もいる。そう聞こえる、とそう言ってるは違う。この言葉に主語が理解の時、対自他を見つけ出し、「間」を発見する、新しい空間の事。

     

    自分と誰かが、関連をやめ問題がなくなる場合、

     

    激しい感情がそこにあったとして、自然体だから回る。こっちも「わかる」んだ。自然体でいいんだ。だから、自分の小さな言葉に気づいて欲しい。探し出せないで文句を言う。

     

     

     

     

     

     

     

     

    一、理解が追いつかないほど難しい。良い道だと思う。何かわからないけど、「ふん、」と聞き、「ふん、」を自分に入れる。これが、君の理解が広がる道。

     

     

    一、目が変わった時に色を変えるな。私は色で目を変えてない。例えば、人を前に自分の言い方が一番文句が少ない。色は変えて良い。見えるようになりたい、見たい、と聞く。道は概念として皆で作る。今は光を得なくても小さな言葉と言う自分に興味を持つうちに、「オリジナル」を伴え始め出すもの。まだ早くて良い。

     

     

    一、人が、怖い顔をしている時は我慢して引く。恐い顔をしている時は叩いて起こす。

     

     

    一、嘘はない、と豪語する。ジェネレーション化した、世代、でもないので客観を重んじればそんな言葉は言えない。華、飛脚が高ければ着地する用意があり言えるが、華でなければ花が落ちるからだ。

     

     

    一、もしもの時に語ってもらいたい。

     

     

    一、わからないときは緩やかに今を信じる。

     

     

    (ちょっとむりしてよかった)

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 呪いに打ち勝つ

    呪いの、その怖くなさは、そういったより込み入るような趣向を自分から離すはずがないのが土地霊や白仏であり、迂闊な過ちとはその才能も感性も低いことを指し、もし呪われていたら、そう感じとることや感じとれたことを武器に直に、お札ならお札、悪い魔術ならなんかそれをイメージして自身の温かい手を当てる視線とはそういった術の全てを知る神。「私はこうしたい」を話すと悪いことをしている人ではなく、神と目が合う。魔術は魔術の、お札にはお札の、それを尽くした大霊はどこにでもいる。彼に温かい自分の希望を話すと、その間傷められた総ては変える。上には上がいるのである。

     

     

     

     

    普通、神や大霊の方に興味を持つが、魔術も白魔術の方が好きであったやん。

    誰かわからない。親しまないから誰かわからない。話したこともないのだもの。

     

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  • 妙法を抱える

    靱猿という能の演目がある。靱は良い壺のこと、靱と猿の話、つまり良い事と要は駄目なヒトの二つである。これを何とか見分ける特訓は猛烈。そのうちに、何と神仏の感覚を学びとる。経典の最後には、無上道を得よ、速くは即すぐに成就仏心、一日にならないことばかりだが、頑張って行こう。

     

     

    成就仏心、とここで祈らせていただく。

     

     

     

     

     

    一、課題

     

     

     

    師だ。師を呼び出したのは、

     

     

    「誰か?」

     

     

     

     

    妙法蓮華経 如来寿量本

     

     

    随所応度   蟲蟲自説

     

    今日いまはこういった読み方をする、

     

    「ところどころ応じて嘘を発する。」

     

     

    この幽霊トコロチマタノを使って学習する。

     

     

     

    良いと思ってやり込んでも、白比べになり気細く、バランスの良さが失われている。

    人は可能性のあることに対してやってみようとする。みんな、ベストをしようとしてる。しようと思う、それは許されている。

    人間にたいして何で惑ったり恐がったりするのか、嫌だなと考える。そういう世界だ。

     

     

    負けるな!

     

     

     

     

     

     

     

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  • 妙法

     

    如是我聞

     

     

     

    私は聞いた!!

     

    如是とは、にょぜ、これ、このこと、ぜ、だぜ。にょは枕語、間。なんじ。つまり、客観性や衣の大切を表現する。

     

     

    これが、妙法序品第一(経典、妙法蓮華経)

     

     

     

     

    いくら、私がそこに活躍している仏弟子です、のような言葉を今ここに前置きを何を書いても、その疑問はずっと続くだろう。私がそこに活躍している仏弟子のような者です。夢と愛を受け継ぎ、渡し、自分自身を自分で研ぎます。「わかってる自分」が自我という語と伝え気の抜けすぎたひかりものから光の方、もとある場所あたりに風を渡します。言葉としては、「疑問にたいして曲がれる角について形とした鉄を前に置く人が、前向きをほどこします。」金伽羅童子は、鉄作りに関係があるのかも。。

     

     

     

     

    回りの速い人は土が良い。検索するのも易いだろう。勉強量もいつも通り。何故なら陸こそは歩き続けてそれを養える。声聞縁覚界と言う霊界では陸の人が時々足がない、と言っていた。でも、「足があるわけない」と言って襲いかかってきたときは、激しく怒った。一方海は、潮気があるが、気を大事にしないと感謝の表現が潮に負けてしまう。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    写真の様に、思い浮かぶ漫画や空想をその霊の間に思う事も出来る。

     

     

     

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  • これからの注意掲示板※

     

    自分の事のまして人の事のその先は見えるわけないと覚えて置く

     

    通路は控える

     

    自我に自意識を収める(手のひらと手のひら両手を合わせてしあわせ)

     

    縁を考える

     

    今関係のないものを見ない

     

     

     

     

    ・まいご

    犬と自分の切なさを沿わす

     

     

     

    ・ひつような手がかり

    私に悪さをしたの誰?仏であっても話してみるわ、という自分の意気込み、いつでも即実践

     

     

     

     

     

    霊は傷を癒す。

     

    霊で誰かに会っても気を使ってはいけない。

     

    何かを自分に言う霊に出会ったら、それを見ているのも神仏だから、忍耐強く相談。

     

    霊は「ふぅ」と息をつく潔さのこと。

     

    無ぢから。

     

    体に戻ったら体。

     

     

     

     

     

     

     

     

    霊は、自身追及し、たにんの物を「ものとして理解しない」。取らず、気を流して、特に潔く、諦め、オーラを保つこと。これにより綺麗になる。

     

    霊活動をして、二十歳未満に間違われる事二件。

     

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  • 間を思い出す

    「誰が」を考えないのは、霊を尊ぶからだ。

     

    ただ心のそこに自分が幽霊ではない霊で、形に制限があること、このこういった形、形がないを重んじ霊の意志を達成すること。そこに思い、意思の上達がある。課題だ。その中で、幽霊になっても自分は諦められないんだ~という霊があれば、神仏にその方の道案内を願うのだ。道徳を得た昨今も、ぎりぎりまで微笑みをしている。啓蒙という。

     

    新規なことばを、誰が治めてくれても良い。誰が治めてもよい、これをモラルと言うんじゃないかな。控えて霊的に有るを力づく。心が心。つよさでもない大霊の頼り。誰もよそに目を向いていない。

     

    コツは、苦いとこでピーマンや直で野菜を噛み、これはグラウディングと言うが気持ちを留める事だ。二度とはない自分を広げてあげる。知らないことが、存在していく様子は無限大の世界を、、少し感じるだけで、あとは安心して自身は内面と会話出来る。(ム)蟲ーが有る(おる)こと、未知を知ること、二つが有る(ある)からだ。一、天地、二、光と輝き、三、過去がなくては今は成立しない、次に未来、この「別の二つ」という想像、即ちセンタリング。主体と客観的もそうである。いらないことを自分から振り落とす! 自になる特訓に消えてもまだ見ぬ明日は必ず有る!

     

    伝統密教は力のこもった仮止めの印象がある。

     

    何か霊を話すにそそうのない言葉は開発されないか、と思った時に思い出す。

     

    考える流れは暗いほうや罪を指すが、案内のように山を指していた。山から想起するのは、感触的というか、実質のある経験。

     

     

    心に映る漫画には、背景がなくひたすら登場人物だけがあって、そういったコマがずっと続いていた。必要なものが感触的な山という、感触的に捉えられるという道なりに、背景がどんどん描き加えられ、淋しさや空いた穴を埋められる。そんなイメージ。

     

     

    こう、それを示すのが「漫画」だということに私は感動している。

     

     

     

     

     

    好きなことをするのは難しい。好きなことを聞くのも難しい。好きも嫌いも、それ以前に駄目なことがある。嫌いと駄目は違う。駄目を、とても優しく告げるこんなに綺麗な日から、

     

     

    「言葉」と、「感情」を抱え、これからも歩いて行く。

     

     

    この様に完結していて、漫画で解決出来る我が世界の一つ。自分が、世界を知らないから目を失えない!

     

     

    神仏に相談し続ければ、間違いは直る。

     

     

     

    世界に悪いことか起こってると思う人も、実はあんまりしっくりきていない。悪夢を視る、といった心からの霊視という「言葉」では解決するだろうか。

     

     

    「解決して行く!!」主語はわからないが、そんな声援をあげたい。

     

    遅れたとかろから始める。ここで皆は腕が本当に鳴っているんだよ。

     

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