岡田千夏

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京都府京都市

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岡田千夏

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岡田千夏

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  • イヌホウズキ

     去年までは、初夏の庭にいつのまにか膝の高さほどに生えたゴウシュウヤマゴボウが、夏にはあっという間に庭木の高さほどにまで成長して、秋には枯れ、やってきた母が、小さいうちに抜いておけば、こんなにごみにならなくて済むのにと言いながら片付けていたのだけれど、今年はもう根っこがなくなったのか、ヤマゴボウは生えてこなくて、代わりに、その近くから腰の高さほどの別の草が生えてきて、白い、可愛い小さな花をつけた。
     5つ、6つほどの花が一箇所に固まって咲いて、五枚の花びらが星の形に広がっているから、ナス科の植物なのだろうと思った。茎の先端から、次々に咲いていって、茎の根元の方の、花が枯れたあとには、小さな丸い緑色の実が、房みたいに生った。白い花は、午前中、可愛く精一杯に開いて、日が陰る午後には、花弁を閉じた。
     何の花なのか、わからないでいたのだけれど、ある日、実家に行ったときに、本棚の中から、「野に咲く花」という野草の図鑑を見つけた。科ごとに分類がしてあったので、ナス科のページを開いたら、庭の白い花の写真が「イヌホウズキ」という名前でそこに載っていた。別名は「ばかなす」で、茄子やほうずきとちがってちっとも役に立たないから、そんなふうな名前がついているらしかった。毒があるとも書いてあったけど、大量に食べなければ、なんともないようだった。
     図鑑の表紙をめくったら、そこに母の字で、父と私と弟が平成三年の誕生日に母に贈った、ということが書いてあった。そういえばそんなことがあったと思い出した。少し高めの本だったから、私と弟で、小遣いに見合った割合を出し合い、足りない分を父が補ったのだった。母がそうやって書き留めてくれていたのを見て、うれしかった。

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  • カルロ・ザウリ展

     風や波が大地に刻んでいく文様のようなうねりを切り取った碑。ひびの入った巨大な球体。ぐにゃりと曲がった不可解な物体。イタリア現代陶芸の巨匠、カルロ・ザウリの作品である。京都国立近代美術館に、カルロ・ザウリ展を見に行ってきた。
     展示の前半は、壺や大きな皿など、素人にも親しみやすい「普通の」形状をした陶器。普通といっても、巨匠の作品である。壺の洗練されたラインの美しさ、描かれたデザインの斬新さに惹かれた。まるで石臼のような形の壺。単純な形でありながら、水平から垂直へと緩やかに続く曲面には、凛とした美しい緊張感が感じられた。彼の色の出し方も素敵である。深みのある赤、鮮やかな青、そうかと思えば、春の霞みたいな、やさしい薄紅色。
     そんな彩り豊かな作品のあとに続く後半の展示は、抑えた色味の、巨大なオブジェの数々である。直線や弧でまとめられた形のはっきりした静的なものから、歪み、波打ち、うねる動的なもの。正直なところ、素人である私の理解を超えていて、よくわからなかったのだけれど、ザウリの手の中でさまざまに姿を変える土の塊の中から、芸術家の目は、ただの土の塊が、芸術的な美しさを帯びる一瞬をとらえ、作品として取り出しているのかもしれない、などと勝手に想像した。
     タイルの作品も素人には馴染みやすかった。陽気なイタリアのイメージとは違って、シックなものが多かった。こんなきれいなタイルが浴室やキッチンに使われていたら最高だろうな、なんて贅沢なことを考えながら、会場をあとにした。

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  • 画狂人・葛飾北斎展

     京都高島屋のグランドホールに、葛飾北斎展を見に行った。
     「赤富士」の名で知られる「富嶽三十六景 凱風快晴」や、北斎といえばこの荒波というほどに有名な「神奈川沖波裏」なども展示されていて、とくに「神奈川沖波裏」は、さほど大きな画面でないにもかかわらず、うねった大波が押し寄せてくるような迫力があった。
     版画の浮世絵師として知られる北斎だけれど、肉筆画にも傑出した作品が多い。以前、日経の日曜版で、北斎の肉筆画が特集されていて、そのときはじめて見たのだけれど、他のどの画人にもない独特な雰囲気があって、切ったスイカの上に置いた半紙に透ける赤い色など、惹き込まれるように新聞のそのページを切り取って残しておいた。
     今回の展覧会にも肉筆画が幾点か出ていた。たとえば、雲間から現れる龍を描いた「雲竜頭」。雲の黒が濃い。82歳のときの作品とは思えないような力強さがある。
     北斎は90歳まで生きた。北斎の時代で90歳といえば、大変な長寿である。しかも、ただ生きたのではない。絵を描き続け、精進し続けた。その証拠に、90歳の時点で画風が改まっている。晩年は、浮世を描いた版画からは遠ざかり、動植物などを画材とした肉筆画に力を注いだ。北斎自身は、さらに長生きして、100歳以降で自己の画風を完成させ、絵画世界を改革することを目指していたのだという。
     さまざまな画号を持つ北斎だけれど、その最後の画号が「画狂老人卍」で、晩年に描かれた鶴や虎の肉筆画には、「画狂老人卍筆」というサインが入っている。

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  • 猫の風呂遊び

     暖かいあいだは、入浴はシャワーで済ませていたけれど、だいぶ秋も深まって寒くなってきたから、しばらく前からはお風呂にお湯をためている。
     前にも一度書いたけれど、みゆちゃんはお風呂に入るのが好きだ。もちろん、湯船に入るわけではなくて、浴室に入って来るだけだけれど、人がお風呂に入っていると、浴室のドアの向こうで黙ってうずくまっているのが、すりガラス越しに白い塊になって見える。そうなると、入れてあげないわけにも行かず、ドアを少し開けてやると、その隙間からそっと入ってきて、まずは、浴槽の縁に前足を慎重にのせて、人間が入っている湯船とはいかなるものぞと、くんくんしたりのぞいたりしている。
     手桶に浅くお湯を入れてやると、ちょっと飲んでから、首をかしげて水面をじっと見つめている。いったい何を観察しているのかと思ったら、にゅうと前足を出してお湯の中に差し入れ、手桶の底をつんつんつついている。たぶん、お風呂マットの模様かなにかが、手桶の半透明のプラスチックに透けて見えるのが気になるのだろうと思う。手をすっぽりお湯の中につけてしまうものだから、肉球のあいだにまでお湯がしみて、手桶から出した手を大きくパーに開いて一生懸命舐めている。なのに、また浸ける。また舐める。
     面白いから見ていたけれどきりがなくて、こちらもいい加減のぼせてきたから、マットにお湯をざあと流したら、みゆちゃんは足についた水滴を飛ばしながら、浴室の外に出て行った。

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  • クロちゃんの大往生

     クロちゃんという猫がいた。本当の名前はなんというのか知らないけれど、みんなクロちゃんと呼んでいた。山沿いの小道に並んだ家々のどれかがクロちゃんのうちで、クロちゃんはいつもそのあたりで寝そべったり毛繕いをしたりしていた。
     クロちゃんは中くらいの大きさの黒猫で、洋猫の血が混じっているのか、鼻は平たく、短足で、毛は長くてふさふさしていた。黄色い目がちょっとこわいような印象を与えるのだけれど、ものすごく人懐っこい、可愛らしい性格であった。人が来ると、擦り寄っていって、撫でられたり抱っこされたりして、ごろごろと喉を鳴らしている。だから、小道を通る猫好きな人は、みんなクロちゃんのところで寄り道した。さんざんクロちゃんと遊んで、じゃあまたね、と帰りかけると、道の向こうから自転車でやってきたおばさんが、わざわざ自転車を止め、「クロちゃーん」と呼びながら駆け寄ってきたこともあった。また、クロちゃんと遊ぼうと思って小道を通ったら、すでに先客が寝転がったクロちゃんのお腹をさすっていたこともあった。
     そのクロちゃんだけれど、姿が見えなくなってずいぶん経ち、もう死んでしまったのかしら、あの道はときどき車も通るから、と思っていたら、その後のクロちゃん情報を、最近になって父が近所の人から聞いてきた。
     やっぱり死んでいたのにはちがいないのだけれど、なんと、クロちゃんは20年も生きたらしい。ある日、屋根の上で寝ているのかと思ったら、死んでいたという。きっと、眠るように静かに息を引き取ったのにちがいない。クロちゃんの、大往生である。

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  • どんぐりの穴

     たいした話題でもないけれど、どんぐりの続報である。
     10個余りのどんぐりを入れてテーブルの上に置いておいた紙コップを息子がうっかり倒してしまい、テーブルの向こう側に、どんぐりが散らばったままになっていた。拾って紙コップに戻すと、側面に前はなかった大きな穴の開いているどんぐりが一つ。しかも、軽くて、中身が詰まっていない。振ると、かたこと音がする。
     どうやら、入っていた幼虫が、穴を開けて出てきたらしい。そのあたりを調べてみたけれど、ぷりぷり太って出てきたはずの白い幼虫の姿は見えない。いったいどこへ行ったのやら。
     ゾウムシの幼虫は、どんぐりから出ると、自然界の場合、土の中にもぐって蛹になり、次の春、成虫となって出てくるという。
     部屋のどこかで白い幼虫にばったり遭遇するのは御免である。けれど、このままそっとどこかにうまく隠れて蛹になるのだったらいい。来年の春、象みたいなユーモラスな姿になって、ひょっこり姿を現してくれたら、それはそれで愉快である。

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  • いわさきちひろ展

     子供を描くのは難しい。少なくとも、私にとってはそうである。息子が眠っているときとか、ミニカー遊びに没頭しているときなんかに、ちょっとスケッチしてみようと思っても、どうもうまくいかない。子供特有の可愛らしさが、ちっとも表せないのである。
     だから、素人の私が言うのもおかしいけれど、いわさきちひろはすごいと思う。ちひろの絵は、子供たちの可愛さそのものだ。その「いわさきちひろ展〜未来につなぐ、やさしさのきずな」を、ジェイアール京都伊勢丹の美術館「えき」に見に行ってきた。赤いカーネーションの花を手に、お母さんに抱きつく子供、雪の中を走る女の子、遊具で遊ぶ子供たち。鋭い観察眼の持ち主だと思う。淡い色彩とやさしい線が、子供たちの動きや表情を、的確にとらえている。惹かれたのは、赤ちゃんのシリーズで、ぷくぷくした手を重ね合わせていたり、寝転んで足を上げていたり、私の息子もちょっと前までこんな風だったと思い出す。
     デッサンの作品も興味深かった。ちひろのやわらかな水彩画からは想像できないような、くっきりとしたインクの線で描かれたアトリエの自画像など、ちひろが自分の絵を模索する過程を見るようであった。
     たくさんの絵本を手がけている絵本作家でもある。子供の頃に読んだ、メーテルリンクの「青い鳥」の絵本。その原画も展示されていて、青い鳥の幻想的な絵が、ちひろによるものだったことを知った。
     全部見終わって、心が癒され、軽くなった。

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  • 猫とドクガ

     今年は、庭の山茶花の木にチャドクガの幼虫が発生した。葉っぱの上に、数十匹がびっしりと仲良く並んでいる黄色と黒の毛虫で、この毛虫の毒針毛が肌につくと、非常に激しいかゆみの症状が出るらしい。毛虫本体だけでなく、抜け殻に残った毒針も効力が長く持続するそうなので厄介だ。前に勤めていたところの駐輪場に山茶花の木があって、そこにもチャドクガの毛虫がいたらしく、同僚の腕が大変なことになった。たまたま敏感性だったのかもしれないけれど、腕が一面、肩にいたるまで赤い湿疹に覆われて、「こんなになっちゃったんですけど」と腕をまくって見せられた私もびっくりした。チャドクガの毒針毛がもしついた場合には、ガムテープをくっつけて取り除くのがいいらしい。
     そのチャドクガがいっぱいついている山茶花の木の下で、みゆちゃんは平気そうに座っていた。毛虫に刺されないかしらと心配したが、とくに、どこかがかゆくてかきむしっているような様子もない。猫は体を毛に覆われているから、大丈夫なのかしらと思った。
     先の同僚は、毛虫の木には近づかなかったといっていたので、もしかしたら毒のついた抜け殻が風に飛ばされて付着したのかもしれなかった。抜け殻が風に乗って、庭に干している洗濯物についてはかなわないので、山茶花の毛虫と、毛虫が食べたあとの葉にくっついていた抜け殻は、あらかた除去したのだけれど、やっぱり完璧にというわけにはいかないので、そのうちの何匹かは成虫になった。それが、ときどき庭をひらひらと弱々しく飛んでいる。チャドクガというのは厄介な虫で、卵から成虫まで、すべての段階で毒針を持つらしい。自治体のホームページなんかを見ると、毒針が飛び散らないよう、慎重に処分しましょう、というようなことが書いてあるので、庭を飛んでいるチャドクガと思しき蛾がこっちに飛んで来たらいやだなと思ってみていたら、庭に出ていたみゆちゃんが、あっというまに猫パンチを繰り出して、殺してしまった。猫パンチをした前足の肉球は、毛に覆われていない地肌である。みゆちゃんの手がかゆくなったらどうしようと思ったけれど、やっぱりなんともないようである。あんなに柔らかい肉球なのに、蛾の毒針は刺さらないのか、不思議である。

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  • どんぐりの中のぷにぷにした幼虫

     どんぐりを拾うと、ときどき、中に虫が入っていることがある。だいぶ前のこと、どこかで拾ってきたどんぐりを、小物入れのトレイの中に置いておいたら、なぜか、トレイの底に茶色い粉が散らばるようになって、それでもあまり気にしないで放っておいたら、ある日、入れていたキーホルダーのチェーンなどと一緒に、トレイの隅っこにぷりぷり太った白い幼虫が寝転がっているのを発見して、驚いた。茶色い粉は糞で、もともとどんぐりの中に入っていた幼虫が、中の実を食べて大きくなり、殻に穴をあけて出てきたのである。ゾウムシの幼虫らしい。親のゾウムシは、どんぐりに小さな穴を開けて卵を産みつける。堅い殻に包まれた中身はすべて食べ物。ゾウムシの幼虫にとって、どんぐりの中はこれ以上ないほどの快適空間だろう。
     今回拾ってきたどんぐりにも、なんとなく穴の開いているように見えるのがある。紙コップの中に入れて置いているのだけれど、茶色い粉が落ちてやしないか、ときどき注意して見ている。

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  • どんぐり拾い

     どんぐりの帽子とか座布団とかいわれているものは、「殻斗」と呼ぶそうだけれど、植物園の雑木林に、がさがさしたクヌギの大きな殻斗が落ちているのを見つけた。拾ってみると、殻だけで中身はない。近くに落ちているだろうと思ってあたりをよく見ると、立派なクヌギの木があって、地面には一面、どんぐりの座布団が落ちている。ところが奇妙なことに、殻ばっかりで、肝心のどんぐりがちっとも見当たらないのである。地面を眺めつくして、やっと見つけたと思ったら、つぶれてしまっているものや、土に埋もれて芽を伸ばしはじめているものなどばかり。
     この不思議な現象に、思い当たる節は、先週植物園に来たときにいた、そろいの赤い帽子をかぶった幼稚園児たち。遠足シーズンだから、そういう子供たちが、毎日のように植物園にやってくるのだろう。大きなクヌギのどんぐりは、子供たちにとって宝物だ。みんなして、クヌギの木の下で一心不乱にどんぐりを集めたのではないかと思う。
     子供に限らず、私もクヌギのどんぐりが大好きだから、目を凝らして、落ち葉の下や閉じた殻の中を調べて、ようやく10個ほどのどんぐりを集めた。それにしても、殻ばかりが無数に散らばった地面は、なんとなく異様な雰囲気がした。人海戦術というのは、馬鹿に出来ない方法である。

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