サカグチテツキヨ

グラフィックデザイナー

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大阪府

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サカグチテツキヨ

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  • 花形装飾活字を愛でる その78

    紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
    詳しくは
    http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
    お待ちしております。

    本題です。
    やっと此処で花形装飾活字登場です。
    デザインするという事ととシーンであるという事。
    この2つを花形装飾活字に委ねた場合の可能性とはなんなのでしょう。
    考え方としては、
    花形装飾活字をもう一度初めから考える方法。
    花形装飾活字という考え方を継承するという方法。
    花形装飾活字から時代性を考慮し発想する方法。
    花形装飾活字という研究材料としての在り方。
    花形装飾活字というモチーフという考え方。
    花形装飾活字が…。
    際限なく在りそうな感じですが、
    全てにおいて共通したものがあります。
    花形装飾活字であるという事です。
    当然といえば当然ですが、
    冗談でもなく真面目に書いてます。
    創造とは常に再現にありました。
    花形装飾活字でさえその例外ではありません。
    原点があって人の理解がある。
    以前にグラフィックデザインとは搾取であると書きました。
    それに加えてデザインとは汲み取るという事。
    デザインは再現でさえない。
    限定的なチョイスから生み出される美の共有。
    これがデザインの正体だ。
    だからこそシーンが必要なのだ。
    何故なら共有だから。
    現在のグラフィックデザインの不安定な感じは其処にある。
    のは、話が変わるからいいか。
    何故なら共有だからです。
    可能性でもあるのですね。
    つまりデザインとは可能性にこそある訳です。
    デザインをするという事は可能性を模索するという事。
    そして花形装飾活字に戻ります。
    デザインするという事ととシーンであるという事。
    この2つを花形装飾活字に委ねた場合の可能性とはなんなのでしょう。
    ずばり「花形装飾活字」を的にする訳です。
    あ、「花形装飾活字」が的になってもそろそろいい頃だよねって話。
    こんなに素晴らしいものをこのまま古びかせて捨て置く事はなかろうて。
    ただ花形装飾活字として扱ってしまうと失敗で、
    それに、
    花形装飾活字そのものを作る行為はデザインとは言えないのですよね。
    デザインが可能であってもシーンとは言えない。
    じゃあ、どうなのよ!?
    は続きは蓋を開けてからにしておきます。

  • 花形装飾活字を愛でる その77

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    単に花形装飾なら活字である必要がない訳で。
    ある一定量の同一の物質を作成する前提で計画されたもの。
    情報、インク、紙、目的、要素……そして印刷という概念。
    技術としての活字という仕組み。
    そう活字だった。
    写本なんて手間のかかる作業なんてやってらんないし、
    美しさと伝達性で圧倒的な正確性を得た。
    で、現在の単純化された印刷システム。
    もうこれは繰り返しですね。
    ここ1ヶ月は同じ事しか書いてない気がする。
    伝えたい事の全てはここに凝縮していてシーンな訳です。
    花形装飾活字という出来事はいったいなんだったのか。
    一言で言うと創意工夫の賜物なのでしょう。
    細かいのは抜きで、
    花形装飾活字の時点で活字による印刷は極まったのだと思います。
    既に新しい技術と平行にあったであろう状況の中で、
    ある程度「新しい技術」よりも確定的な技術として、
    多くの印刷を実現していた事でしょう。
    現在の日本でさえ、
    小さい印刷屋さんは主流の印刷術として、
    木版を活用した活版を利用しています。
    「印刷」はたまた「いんさつ」とでも書きましょうか。
    そして、
    これらにはグラフィックデザイナーは関与していないという事です。
    グラフィックデザイナーが関与しなくとも印刷は可能なのです。
    印刷にとっての大きな失敗はグラフィックデザイナーの登場であったと考えています。
    グラフィックデザインの台頭で印刷は衰退しました。
    グラフックデザインと印刷。
    あたかもグラフィックデザインが印刷のようなイメージです。
    出来上がったものを刷るというのは、
    なんて贅沢な事なのでしょう。
    だって、
    出来上がってもいないのに、
    出来上がっているというイメージ。
    完成という着地点が印刷じゃないところにあって、
    前回の話でも、
    次の天王寺という構想があっての街という考え方。
    たまたま其処にあった天王寺という在り方。
    これは趣向の問題なのかもしんないが、
    それをデザインするという事。
    シーンであるという事。
    次こそやっと花形装飾活字が出てきます。

  • 花形装飾活字を愛でる その76

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    なんだろうこの現状。
    そして天王寺は終わった。
    あの阿倍野の奇跡は根こそぎ無くなった。
    「代わりのもの」は出来上がりつつあったけれど、
    あの奇跡はもう無い。
    同じ料理店でも味は変わってしまったし(''あの名店のあの変わりようは…)、
    あの路地へ入り込んでいく怪しさも、
    資金の無い人は確実に止めざるえない状況になった。
    これで地震で崩れる心配は無くなったし、
    すっかりマンションが建って綺麗になるのは時間の問題のようです。
    昔を知っている人は愕然とすると思う。
    だって本当に何も無くなってしまった。
    そこまでやっちゃうかと思った。
    残った場所もいずれは一掃されちゃんだろうね。
    もうね、
    これもね、
    話は違っていないのです。
    なにやってんだか。
    こんなにも同じ場所に人が密集しているのに、
    わざわざ人に会いに行かなくてはいけない。
    だいたい近所付き合いなんてパターンが決まっていて…、
    ってこれは違うか。
    たかが知れている。
    どうせ優秀なやつらの行き場所なんて一定だし、
    そういう仕組みの中でやっている。
    気付いた頃には中年で、
    もしくは歳が行き過ぎてて抜け出せないか、
    すっかり居場所になってしまっているか。
    若い頃に気付いたとしても、
    潰されるか諦めるかのどっちかだ。
    と、
    これは極端な話。
    そして全てはグラフィックデザインに照らしあわした内容です。
    別に社会だとか思想の話でもないです。
    単にここで新しい花形装飾活字を作ったからといって限定的であるのは明白なのです。
    なによりも難しい事はシーンとして機能するかどうかという事にあると思います。
    まあ、ほんのささやかな収入もあればなあ。
    所詮、
    突然作ったとしても、
    その活動を続けなければ終わるのが関の山。
    続けなくても続く活動にしなくてはならない。
    つまり「花形装飾活字」的であると思います。
    目的の無い存在がある目的の助長になるようなもの。
    そしてそれがシーンであれば、
    なおよろしい訳です。
    あ、グラフィックデザインですよ。あくまで。
    まだ続きそうです。

  • 花形装飾活字を愛でる その75

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    はてさて。
    なんか否定論ばかりになってしまいました。
    そういうのんばっかり書いてても仕方ないですね。
    1つの方向としては、
    ミニマムに進むのが手っ取り早いと思います。
    中島英樹もなんかのインタビューで書いてますが、
    経済を後押しされたグラフィックデザインを良しとする、
    もしくは、評価される事にある一定の温度差を感じるらしい。
    うん。まったくの同意です。
    だからといって、
    経済とグラフィックデザインを完全に切り離して考えるのも違う気がするし、
    個人的には1つの指標としては絶対に必要なシーンだとも考えています。
    そこにタッチしないのはリアルタイムが感じられなくなるし、
    そうなると、
    グラフィックデザイナーとしては終わりだと思う。
    画家であるってなら(現代アートはちょっと事情が違う?)別ですが。
    これについては中島英樹も同じような事をインタビューに答えていたように記憶しています。
    もし、
    付け加えるなら、
    グラフィックデザインとは手段であり、
    その手段を経済という名の社会が利用するのに最適だったという事でしょうか。
    あのバウハウスに則って言うなら、
    美術、芸術の技術が社会との繋がりを促す為の手段がデザインなのでしょう。
    その中でミニマムで進むのが手っ取り早いというのが答えなのです。
    グラフィックデザインが自発的であり続けるのは難しいと考えられます。
    一定の条件では可能な気がしますが、
    それを永続するというのには疑問があります。
    グラフィックデザインは素は印刷にある事を考えると、
    前回に書いたとおり、
    グラフィックデザインの技能は「搾取」する事にあります。
    という事は、
    グラフィックデザインの肝は技ではなく「知」という事にもなるのです。
    いかに知っているかがグラフィックデザイナーである事の、
    最大の条件であるように思います。
    コップと皿の例は良く聞くし、
    このログにも何回も出てますが、
    それさえもやはり、
    認識であり「知」である事は間違いなさそうです。
    そこに「要素」というのが潜り込む事で、
    グラフィックデザイン、もしくはデザインが成立しちゃうのは、
    別の話なので置いといて、
    グラフィックデザイナーは知らない事を恥ずべくです。
    知る行為をあるコンプレックスの塊ような、
    画家が絵を描くのを日常にするように、
    グラフィックデザイナーは無意識でいる日常を恥じなければなりません。
    と、
    またまた脱線するので、
    そういう経緯において「花形装飾活字」があった訳です。
    んでミニマム。
    ギターを1本作るのに、
    畳6枚くらいの木版が必要で、
    1本をマジで作ろうと思ったら2年の作業だぜって教えられて、
    今じゃ大量生産になっちゃって、
    生涯の1本に出会うなんて楽器屋が無くなったなあというのを話ながら、
    そういえば現在の日本で箪笥の肥しになってるギターって何本あるんやろう的な流れになって、
    あのギブソンが日本には3000本は肥しになってるんじゃないだろうかとか。
    実は日本で一番弾かれてるのはモリスなんじゃないの?とか。
    いやいや、実はモリスも捨てたもんじゃないが、
    マーティンの凄さに愕然(値段にも…)とするだけでとか、
    フェンダージャパンの仕上げの甘さにビビッタりとか。
    なんだかんだいって、
    ろくに弾けもせずに、
    美術的骨董価値で飾ってるやつらが一番悪だぜってなもんで、
    その影で世の中学生やら高校生は安価な音の出ない弾きにくいギターで我慢してるんだぜという流れで、
    結局は、それはなんでかっていうと、
    カルチャーとして根付いてないもんやから、
    売ったらそこまでよ主義というか、
    買ったもののメンテとかリペアとか改造とか、
    結局は1つのシーンにしか渡せないジレンマがあって、
    自分のわからないところで作業されてて、
    買う前の事とか、
    任した後の事とか、
    そういうのがどうもわからないで当然みたいな。
    だから名前とかブランドとかで信用するしかなくって、
    いつの間にかそういう事になっちゃってたんだろうなあという話。
    ボクも、
    今の会話をしてた人と会う時までは実際そうやったしね。
    そういうのがバックグラウンドが身近にあって知ってる人やからこそ、
    ものを愛する事が出来るのだと思うのですよ。
    単にポンと出てきて完成だけを知っていて、
    その他は任せてしまったところで、
    生涯の一本のギターとは言えないわけです。
    実は、
    この話は脱線してません。
    次こそは花形装飾活字が出てきます。きっと。

  • 花形装飾活字を愛でる その74

    紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
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    「花形装飾活字」的な印刷発想のシーン展開について、とその可能性について。
    最初に明言しておきたいのは「的」であるという事。
    「花形装飾活字」そのもののシーンの回帰を狙うものではなく、
    印刷という発想、もしくはイメージ、アイデンティティに対する、
    シーンの展開、そして可能性について触れていけたらと思います。

    最近、
    個人がやたらに印刷にこだわっているように思います。
    というのも、
    残念ながら
    こだわった印刷ではなく、
    「印刷にこだわっている」のです。
    まるで病のように、
    印刷でのカンプを望みます。
    もしくは、
    コンピュータで作る事を望んでいます。
    それがあたかも神話のように語られます。
    正しさを追い求める日本人の性とも言っていいような気がします。
    この願望の強さは異常であるとも言えます。
    例えばこうです。
    ある要望では「手書き風で」「筆文字風で」という注文が多い。
    この矛盾、わかりますでしょうか。
    なんとも不思議な事を言っているのです。
    これが現実です。
    印刷という技術がキチンと使う側に伝わっていない。わかっていないでもいいか。
    残念です。
    有り得ない。

    そもそも印刷の領域とはなにか。
    印刷は万能ではない。
    グラフィックデザイナーもまた万能ではない。
    何が出来るかからの発想がしにくくなっているのも、
    また現実です。
    その要因を挙げ始めたらキリがない。
    紙でさえ、
    選択の幅が広がったのは最近である。
    その自由を選択する事の出来る、
    そんなパイプの持っているデザイナーもまた少ない。
    重要なのは印刷とは「搾取」であるという事。
    気味の良い搾取のウマイのがグラフィックデザイナーとも言う。
    知らない人達が知っている人にモノを頼んでいるのに、
    何故こんなにもウマク事が運ばないのだろう。
    やはり要因は挙げたらキリがない。

    実に不思議な状況だと思う。
    質の良い印刷が出来るようになった。
    いろんな紙が選ぶ事が出来て加工も自由に出来るようになった。
    グラフィックデザイナーの質も向上し一般的な認知が向上した。
    受け手もそれを求めるようになった。
    が、
    ここまでの状況を作り出しておきながら噛み合っていない。
    何故かシーンが1つに偏ってしまっている。
    こんなのはこの文章で書いてもしょうがないけれど、
    ある1つのアイデンティティから抜け出せない現状が今であるとも。
    これ以上先はテーマと違ってくるので書かないでおきます。
    つまり、
    目的としての意識が印刷を必要とするシーンであるなら、
    その目的とするシーンがあまりにも一遍通りであるがゆえに、
    どうにもこうにも、
    印刷というシーンが狭まってしまっているように感じずにはいられないのだ。

    作る側とて、
    その底辺の在り方を喋る場合に、
    明らかにあるアイデンティティを基礎にしているが為に、
    どうも着地点が見つけれてないのではないかな。
    もしくは、
    底辺そのものの在りどころを語る場合に、
    なにやらその元が無い状況あるのは不幸というべきか、
    今の現状を語る上で凄く重要です。
    委ねるシーンの一定論でしかない事が、
    今の印刷をとりまく人との関わりにも影響をしているのだと考えています。
    続く。

  • 千代紙な名刺の新図案を追加しました。

    2008/11/11

    お知らせ

    ぐったり…。
    ホント今回は大変でした…。

    http://www.seiko-do.net/online_shop/name_card/

    当分はこれでオイラは、
    千代紙な名刺とは少し離れてしまいますが、
    企画は続いていくと思いますのでどうぞよろしくお願いします。
    さあて、やっとこれで次の事に取り掛かれます。
    次なにやるかは言えませんが、
    なんといっても千代紙な名刺でも5年前の計画ですから、
    それぐらいのバネがあるものと期待してて損はないと思います。
    とりあえず、
    新図案、覗いてやってくださいませ。

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