アトリエタリエス

グラフィックデザイナー

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アトリエタリエス http://aceartacademy.net/tlis/
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  • 切り取られた感覚

    携帯音楽プレーヤーで音楽を聴く。耳からは音が入ってくる。

    しかし例えばそこが電車の中なら、目に入ってくるものは音楽じゃない。目に入ってくるのは、人であり、電灯であり、窓であり、車内灯の明かりだ。肌で感じるのは、車内の熱気や空調設備の風。耳から音楽は入ってくるが、実際に感じているリズムは、列車が枕木を通過するリズムだ。

    香水をつける。花の香り。しかし、そこに花はない。風にそよぐ茎の音もない。上を見上げてみても、色彩が映える空がない。

    画集を見る。それは小さな点の集まりだ。部屋に灯っているのは、蛍光灯の灯り。画廊の凛とした空気もない。遠く離れて見ることもできない。鑑賞の邪魔をする、様々な生活の音。

    感覚が分断されている。ダンスミュージックをかけながら、身体が動かないとはどういうことだ。ジャズを聴いて、なぜスウィングできないのか。そのくせ、音楽を語る。知識と理論をひけらかす。頭と感覚が分離している。

  • 花火の「間」が作り出す美しさ、それこそが、日本文化の特質である。

    次々と打ち上げられる花火。大勢の人込みの中で感じる溜息と歓声に囲まれて、真暗な夜空を見上げ、我々はそれを鑑賞する。

    花火は暗い夜空をキャンバスとし、明るく空を彩る花火とのコントラストによって美しさが成立している。しかし、我々は花火が空に打ち上がらない「間」も同時に鑑賞し、その美しさをよりいっそう際立たせているのだ。

    次に打ち上げられる花火を期待しているその瞬間、そこに満ちる静寂のリズムは絶妙な間合いで設定され、「期待と余韻の間」「光と歓声の彩り」がリズミカルに連鎖することにより、打ち上がった花火は、なお一層美しいものに彩られるのである。

    そして全ての花火が打ち上げられた時、凛と張りつめる空気が「余韻の間」となって夜空にたなびき、花火大会は美しいままで「終わり」の時を迎えることになるのだ。

  • イーゼルの向こう

    イーゼルのこちら側。それが、私の居場所だ。

    凛と張り詰めた空気。空気を震わせるのは、紙をこする音。鉛筆が触れ合う、乾いた音。それだけ。私は微動だにせず、一定の時間、ただの人形であり続ける。動作、という、動物に許された最大の価値をかなぐり捨て、じっと無機物のようにあり続ける。

    私は、描かれている。イーゼルが、描く者と描かれる者との間に隔たりを作る。真白な空白を、画家は自分の想いで埋めていく。

    時には優しく。時には大胆に。イーゼルの向こう側の画家が変わる度に、違った私が記録されていく。炭素の粉と、紙。ただそれだけで、様々な私がそこに現れる。

    私はたった一人だが、残される私はたったひとつではない。様々な紙に、キャンバスに、残された様々な私がどこかで生きていく。

    イーゼルのこちら側。たった一人の私から、様々な私が巣立っていく。そんな私の居場所。

  • 喫茶店R

    神田神保町。久しぶりに、大通りを外れて裏路地に入ってみた。大通りの喧噪を外れた止まったような空気の中で、いつもあるはずのものがなかった。

    喫茶店R。常に私の中で「神保町」の一部を成す、なくてはならない存在。胸騒ぎ。走りたいような気持ち。閉まったガラス戸。その向こうにはもう誰もいない。

    数年前から、再開発が進んでいる地域である。事実、なくなってしまった店鋪も多数あり、代わりに新しい店舗が入っている。

    しかし、それはあの街には相応しいものではない。新しい店舗のほとんどは、大資本によって店舗数を拡大する大手企業の支店だ。そんな店舗なら、どこにあっても同じだ。別に、神保町になくてはならないものではない。

    どこにでもある置き換え可能なものが、どんどん置き換え不可能なものを食い潰している。私の知っている神保町は、もう、記憶の中にしかなくなってしまった。

  • 誰もいない早朝、街の電柱の根元に積まれたゴミ袋の上で、小さな黒い影が振り向く。

    鴉。

    優しい朝の光、けだるい空気の澱みに停滞した街で、強靱な爪をアスファルトに叩き付け、無数の黒い影が廃棄物の山から山へと、面倒臭そうに飛び回っている。彼らは、いつだって我が物顔で、基本的には、人間を嘲っているのだ。

    人間は欲望のおもむくまま様々なものを作り出し、それに飽きてしまう。私達はそれをゴミ呼び、袋をかぶせ、パンパンに膨らませて捨ててしまう。ゴミには、人間の欲望がそのまま記録されている。しかし鴉は、人間がもはや見向きもしなくなった記録に、生命の最も根源的な意味を見い出し、それを食する。

    鴉には、人間にはもはや見えないモノが、見えている。

    だからこそ我々は彼らを追い払う。そしてまた我々は、今日もゴミを捨てるはめになる。

  • 落ち葉になる一瞬

    晩秋。樹々の葉が赤や黄色に染まる。来るべき冬に備え、樹々は染まった木の葉を落とし、地面を色とりどりの絨毯に染め上げる。

    落ち葉は、最初から落ち葉だったわけではない。最初は枝に宿された単なる葉として生まれ、そこで成長を重ねていく。春に芽吹き、夏に盛り、秋に色づき、そして、冬を向かえようとするまさにその時、落ち葉となって冬の当来を告げるのだ。

    枝から落ちる、その一瞬。ほんの一瞬の時間が、ただの葉を「落ち葉」に変える。ただの葉は、落ち葉という名を与えられ、樹ではなく、土を肥やすという新しい任務を帯びて、地面に到達する。私達はそれを踏み付け、落ち葉はだんだんと土と一体化し、バクテリアという微細な生物によって、土に還元されていく。

    今も私の頭上では、さまざまな枝が、至る所で落ち葉という瞬間の連続を、気紛れに生み出し続けている。

  • 威厳

    大きく、どっしりと。すいかはそう育てられてきた。いっぱいの太陽を浴び、十分に水を吸い、自らの果肉に瑞々しさを蓄えながら。

    収穫され、店頭に並べられても、大きく、どっしり。他のどの果物も差し置いて、すいかはその威容と存在感を、辺りに見せつける。

    一人の少女の手に取られるまでは。

    網に入れられ、少女に浜辺へ運ばれたすいか。網から出され、照りつける太陽の下に置かれ、そのままじっと待ち続けた。無慈悲な棒切れによって、叩きつけられるように破壊されるまでは。

    ぱっくりと割られ、真っ赤な果肉が剥き出しになった。

    すいかは恥をかいた。大きく、どっしり。どうせ割られてしまうのなら、そんなものが、何の役に立つというのだろう。剥き出しの果肉。無秩序に散乱した、赤い果肉と黒い種。

    無防備になったすいかは、棒切れの衝撃のままに、真っ白な砂の上でふるふると震えた。

  • ざらついた記憶

    真っ白で綺麗なお皿が、恥をかいた。

    洗われたばかりの、純白のお皿。水滴が布巾で拭われ、ピカピカに磨かれて、料理が乗せられるのを、棚の奥で神妙に待っている。

    そのはずだった。

    しかしお皿が取り出された時、既に別の深皿に、キュウリとレタスの緑、トマトの赤、パプリカの黄色が、華やかに盛り付けられていた。つやつやの色。瑞々しく、新鮮に。

    取り出されたお皿は、期待した。自身の純白の上に色鮮やかな、別の料理が盛り付けられることを。ぴかぴかの白が、料理の色を際立たせ、さらにおいしく美しく、食べる人を魅了することを。

    裏返された。そこから全てが、狂いだした。

    蓋。ただの蓋。純白の皿は裏返され、極彩色のサラダにかぶせられた。剥き出しになった、かすれた小さな真ん中の円。艶やかな純白の裏側に、そんな荒れ切ったザラザラの面を剥き出しにして。

  • 化かし合い

    修正液。文字を書き損じた時に、上から塗り重ねて間違いを正すもの。しかし、修正液にはもう一つ、秘められた役割がある。

    それは、紙の嘘を、暴くこと。

    紙は白。文字は黒。ほとんどの場合、人はそう思って、紙に文字を書き続けている。しかし、それは大いなる欺瞞なのである。

    紙は決して、白くない。その中には微妙な濃淡があるし、決して白とは言えないような紙も多く存在する。それを白と思い込むのは、文字の黒とのコントラストがあるからである。

    だから修正液は、大半の紙よりも純白であることを要求される。修正液自身の欺瞞。ただ覆い隠しただけで、決して「修正」できていないことを感じさせないくらいの純白を。

    今日もどこかで、嘘の吐き合いが繰り広げられている。紙と文字と修正液。重ね合い、だまし合いの記録が今日も、残されていく。

  • 文字列の繋がり

     「メルアド、教えてくれる?」

    コミュニケーションとは、そうやって取るものだと、ずっと思ってきた。いつでも相手に繋がっていられるように、とりあえず携帯電話のメールアドレスを聞いておく。そうすれば、私と相手はいつでも繋がっていられる。なにかあったら、すぐメールすればいい。小さな機械の中に、私と、知人友人達との繋がりが、文字列の形式で集約されている。

    ずっと、そう思っていた。

    しかし、携帯電話は、いつからかずっと私に嘘をついていた。いくら送信しても、メールはすぐに戻ってきてしまう。その時、初めて気付いたのだ。携帯電話が繋げていたのは、私とあの人ではなかった。

    繋がっていたのは、無邪気な思い込みのまま生活を続けていた無知な私と、もう存在しなくなった抜け殻のようなあの人のメールアドレスという、無意味な文字列のデータだったのである。

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