揶白 (KF)

絵画

social
  • 3

    Fav 13
  • 9

    View 892,908
  • p

    Works 46

揶白 (KF)

m
r

揶白 (KF)

絵画

  • 3

    Fav 13
  • 9

    View 892,908
  • p

    Works 46
  • 他人をぱくりと頭から食べないように

     

     

    ショックな画像がある。

     

     

     

     

    自分の居場所じゃないから苦しいもので、

     

     

    それは場所を云うているのではなくて

     

     

    上でも下でも、

     

     

    上がったり降りたり、大変。

     

     

    頭を動かして

     

     

     

    自分に立ち返れると

     

     

    いづれもそれが上になる。

     

     

     

     

    魚には感情があるが、食べられる、 という概念がない為

     

    純粋でやさしい。

     

     

    「美味しい」と心が思うことが供養になる。

     

     

    自分を知らない人に押し渡す神経がわからない

     

    悪ぶって黙っていることも同じだ

     

     

    食べられるという概念のある人間に生まれたのなら、なにかされたらむかつきを

     

    抵抗のある感情を嫌でももっていなくてはならない

     

    それは感情とも違うけど、例えば怒りとは程遠いキモチだろう

     

     

     

     

     

     

    利用するほど手も足も退化して、

     

     

    優しくしてほしい、だとか

     

    生きてることの慎ましさがない

     

     

    星の光が、悪意を焼く

     

     

    あなたの輝きが、輝かないものをナメる

     

     

     

     

     

    自分で考えて欲しい。絶対に他人をぱくりと頭から食べてはいけない。

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • おもいすごし

    言葉が、「わたしの自慢できるもの」として成り立たないか?

     

    誰しもが色んな失念をかかえていて、

    愛なんてわすれてしまった。

    愛する気持ち、この気持ちっていうのが妄想に近くて、目線が上からだから

    自分が思うのなら良いが、人にたいして浮ついている。


    大変だから、「道」という言葉があって

    近くのものはちいさく見えるし

    遠くのものは大きく見える

    だからかんたんにものごともじぶんも流れていく


    新しい自分、一番の自分として、

    いつも人の知らないことをずっと求める

    大人についていくことが、

    未知なのである。

    うまいことをいくら言っても、人がそれを洗って考えるのだから、

    結果的に何も残らないでいる。

    云いづらいことも教養があれば言葉にするが、

    最初に自分の言葉を立てておく人は冷たいが、「大変」なことがわかるからだ。

    なんで言葉が立つかというと、欲や人間のだらしなさについて考えてるからだ。

    水も若干のストレスも精神にとっては優しく、自分が利口にいれるのに、

    嫌いといって、パタンと閉じる。

    本を読むのをやめる様に


    自分のドラマを読むのをやめて、どんどんつまらなくなってくる。


    優しいひとは目立たないし、スーツを来てものを喋らずみかけのくたびれたあんなんが

    はるかに大人だったりする。

    私は老人とともにして、その高さほどの事を学んだ。

    「道」はもっとそばにある。

    即ち、色々いいたいことを抱えているが空気的なことで押し黙ったりする。

    その間中が孤独だ。

    寂しさを感じながら木を模すように、

    考えることを諦めない。


    出来ることとして、間違えてしまったことは自分の中に迎えて直す。

    五を立てるまで、自分の間違いと付き合う。

    大きな夢に伴う「意味」は、このように作らないといけない。

    正直が、かならずではないが、

    その内面はそれでないとこう思う事すら出来ない。

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • 精神の労働

    2021/12/11

    神様の話

     

    過去として世間にそむくより、古いものとは自分が生まれる以前の先輩だから、じつは大切に思うべきではないか。

     

    「私の鏡」として、世界をかわいいかわいいと唱えながら持つ

     

    みよ、世界がこんなにコンパクトに!

    形さえあれば拘らない。

     

     

     

    未だに何の客観性を忘れようとしていない

     

    新たなこととは、受け入れて理解を深めるという道が見つかった。

     

    自分がいつも問題視し、周りが全然気にならないほど熱中しているのは「生きるうえでの疲労」。つまり、これからこいつをパートナーとして、長く付き合いたい。自身が自身の生薬になるまで。

     

    例えば神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、軍人の埴輪、万能の力としてあったのだが、足りないのは願いと、それをつかむ理性だろう。それぞれが今後二度と使えない筈だから、大事にしないと。たとえば歳を取るほど、センスは良くなって向上する。洋服に触った回数が高いからだ。よれよれになるかと思いきや、宝石を手に入れ美しい道士のアイテムになっているかもしれない。その条件は、真っすぐな心をもつ。真っすぐな心をもつとは、これに変化するのではない。むしろこれにむけて努力する。自分をあらゆる方向から。ピカピカになるまでその中にいる身として、楽しいから、許されているのだ。これらって、どんなストーリーなのだろう?気になる。
    誰が考えたのか知らないが漫画、フキダシ、アニメ、想像の、馴染む。「禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この決定にたいして私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、近所が通い合って親しかった、仲間が緊張していた、生贄がじつは昔から存在しない、古来を含め、美を感覚的には誰でも理解しているが、急に態度を変える。それとは見えないものが多く、捉えず言葉が空気になってしまうことが多い。神との闘いの中っていうのは何かいつもほんわかストーリーである。二年程前から世界文化遺産になった古墳は、仁徳天皇。私の地元の神社にも祀られている。「記憶力」。きおくの削除を要しているのは幽霊なる悪党のみ。これが、神でさえ騙される。

    「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かおうとする。気を取り戻すなかで禅を加えたい。

     

    精神が明るいこと

    それによって常に自身の見通しが利くこと

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • 大きなもの、小さなもの。

    出来ないひとを2年は待つこと。

     

     

    若い人を育てる大変さとはすべてがここにある。

     

    すぐにパタンと閉めて、起こり得るドラマもストーリーも綴らない。

     

     

    憧れや夢を考えた時、


    思ったより、自分が不安を感じて居る事に気付く。

    いつもは文学的に夢中で、そこの気持ちを、から逃げる事が出来たんだと思う。

    人は、緊張するが、関わることが不安なのではない。


    真実は時に、リアルでもないと、よく思っていたのだが、


    火が自分に灯った場合、太陽の方に向かうほうこそ

    その夢を叶える時間にリアルを感じる。

    現実的でないのは、自分がはげしい赤色を持っているのに、

    青、という(地球の物質として)少ない色、を自分に持って帰ってしまう

    がめつさが自分に存在するからだ。


    この感情!「私」の中の最も若い自分として

    嫌うこともなく、誰しもが陥る失敗について知者となるべきだ。

    子供に「ちゃんと」偉そうにする為に、答えるために。

    受け入れることなんだと思う。

    大人の背をみてもらえるように、ちゃんとした未来が自分に降りてくるように。

     

    人を愛すのが自分だからそう願えば、信じれる、信じている、と云った心が成り立つはずだ。



    叶えるのは月人(つきびと、かれし、あいて)ではない、

    夢とはきっといのちなのだ。

    好みとはきっといのちなのだ。



    自分の主体がずれていて、客観性が最近つかめなかったわけが、真のリアルを通して問題を噛む。

    問題は、

    白か黒のほかに色彩があって、

    解きにくい。



    自分を悪く思うことが、不安なのではなく、

    夢を見れなかった。

    自分の内部にある夢なら、夢について考えることと、

    希望として為すことが、

    「夢を叶える」という意味だ。


    夢は、叶えるものじゃなくて見るもの、だとは、

    現実ではない空(ゆめ)だからだ。

    なにがどうなんだろう? と想像を膨らませて居るときこそ、

    頬杖をついたたのしさほど、人間のリアルとしての佇まいが有る。

    絵を描くときはこのポーズが好き。

     

    めちゃくちゃ繊細な芸術は、わたしの様にぼろぼろでは絵画を仕上げることが出来ない。

     

    本当にショックで、リハビリとして歌を練習する前

     

    歌、絵画、恋人、皆取られた。とスサノオの歌を聴いて居る。歌手の方、聴こえるだろうか。









    問題を解消するために、質問をしなければいけない。其の為には、

    なにがわからないのかわかっていないといけない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    滑り防止に、

     

     身体(こころ)の動きにたいして忠実である能は、

     

    ヨガのようなもので、学しめることが、あらゆる苦しみにたいして働きかけるようになる。

     

    世阿弥は風姿花伝と云う美貌の書を書いた能楽師だが、

     

    まことの「花」は二十代では咲かない等とのことを記していて、

     

    年齢感覚のずれが、世間には存在する。

     

    つまり若さ、珍しさにたいしての

     

    憧れどまり。これが、一般的です。

     

    色界と云って、未だにその精神が「目」にあること。

     

    眼、精神とは、その土地の感覚であるから、自分たちは能も文化も触れて大事にしないと。

     

    古文の読み方について、いつか書きたい。

     

    また、これを「くさくならない様に、埃っぽくならないように」持つ、持ち方が、

     

    研磨、磨いていくものとなります。

     

     

     

     

     

     

     

     

    「大きなもの、小さなもの。」

     

    切なく吟だけで、きみは満足して

    そのあとほったらかされること





    私は歌がすきだ。歌っていると全然疲れない。自分で歌詞などを手掛け、

    将来は街シンガーに為って、巷のクラブで軽快に

    らいぶが出来たらすてきだと思う。

    しかし目にものの世界であり、確定できるものが今ないので

    言うことすら辛い、

    人よりやる気がある。




    私は「夢を見る」資格はある。

    それについてやる気がある、というだけで

    資格の条件を満たしている。




    今付いたり消えたりしてるが、「火」と成ったこの気持が私には「色」にしか見えず。

    限りなく透明だ。と、云うそんな歌を作りながら、

    時間なんて過ぎていくだろう。



    だから、来い、というよりは、


    来てみろ。


    音楽から、正しめと己を、という曲を聴く。





    大きなものとは、遠いもの。

    小さなものとは、近いもの。


    大きなものには重力があって、

    吸われないように、猫がトラックをめがけるように。

    認識して注意していれば、理解が出来てきます。

    とらわれないように、

    自分や、自分の経験がおもしになる。



    「祖」は、祖のすることは、今生きてる自分たちがこれを考えるのに関係がない。

    百年、千年、

    釈迦族とは、末法に生まれて来る約束をする、

     

    大きなものにたいしては、それなりに夢を叶えていかないと

    それでありがとう、と云う言葉も一苦労する。

    私はもう少し丁寧に書いてみたい。

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • 平和

     


    底抜けに明るい気持とは、

    私の風にいつも、重い石があって、

    重石は、わざと置いていたのではなく、

    ただ置かれていたことです。

    それらは正しかったのですが、

    間違っていた理由が「存在しないもの」、として最近思い出されて、

    ですから誰も語れず、きまずさをうたいます。



    考えてみれば、「霊、人間の霊」とも異なった、ゆうれいの存在が私には新しく、新輝として、

    「悪さをする」ところが、人と違いどんなものだろうと思う視点で。

    知れば、不幸が原因でもないからマリアよりもずっと不思議な卑しさ。

    醜悪、という言葉は美しい。このことを日ごろ考えて居て、

    自分のテーマでもあるから、整理して幽霊などに割り当てれず、何か重なってしまう想像。







    同時に真逆である大蛇や、精霊の美しさをみるので、

    仏のきっかけが、何であったのかは、

    私は、国法の字のすばらしさに愛着をもち、

    要は「全員が文化的に生きなければ。全員が平和を求めなければ。」


    だから、「私」は

    いままでのことを、起こり得た

    私の知ってる災いとして

    軽く、美しさと呼びます。












    飲まれないで生きてるのだから、儚さがないというか、

    散らない不気味な花の様にも思う。政治は精神にたいして無知だから占いをおこなう。


    遊びが在るのに知らないと、質を云われると、

    それが高さではなく、崇高なものではなく、自分の生活におく上下の知識なら

    「顔」も単なる使い捨てのものとなるだろう。

    物静かに、捨て身の覚悟を当然として、世に継ぐような

    室町の次は、幕府をちゃんとまたいで戦国時代。戦いと云っても、内面は「計画」や「設計」なのだ。

    かつて一度もなかった三百年の平和(えどじだい)を作ってしまった。

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • アニメについて

    2021/12/10

    メモ

    もともと霊媒とは「苦しみ」が、人生のもっともテーマなのだ。

     

    超人、仙道、そう云うことを目指すから、人間とは違う。

     

    僧侶にはなりたくない(至って男性的で合わない)から、気品というものが丸々ない。

     

    人間がその修行をみたら、ショックを受ける事であるが、

     

    「あの人」よばわりで構わない。失礼。

     

     

     

    最近、如来や、菩薩、太秦、こう云った言葉が、自分で探して見つけていくものだと知った。

     

    ヒップホップの曲でたまに見かける。意味を云って述べていいか分からないが、

     

    僧だからと云って仏に興味が有るとは限らず、むしろ強い修行者とは、「龍」など精霊と結びつく。

     

    仏陀は、「悟る」と書く。

     

    一方、釈迦無二仏を「どのように呼んでもいい」らしい。

     

    守ってもらうなら、お仏壇に手を合わせる。理論はないが、精霊としての決まりがあったのだ。

     

     

    「こうして仏陀は如来を許し、世間(よのなか)から追い出した」

    エメラルドさんと云う詩人の方がいるが、
    一行一行が人々のものであり、一行一行は離れている。感じる行の言葉を軸に、自分の連想する事や思いを、応答するように綴る。とそれがロープになり、連絡網になり、詩が筏(いかだ)のようになり、川なのか海なのか、旅立てるように設計されてる。
    息をするように漕いで行く。

    「行路難、行路難。」

    何事も最初だけはくらく、笑われている時間は長いだろう。
    稼ぎ手(武力)と作り手(粘土等)は普段別だが、役割を互いに負担をするくらいの関わりとして今を感じている。

     

     

     

    詩を読書してる時、その人は詩人なのである。

     

     

     

     

     

    「アート」

    アートはそれが思想であり顔がない。ブランド性がない。そう云ったものがない。


    梅ラボさんの作品とは、御本人の言葉である、これは死体らしい。
    死体とは何か?
    では、生物とは何か?

    モダン的な、即ち理想を一回作って、それをみんなで壊して分割し、作って行こうと云う、既存のものを突破するデザイン、詩についての「死」である。

    一コンピューターの能力が今まで見たこともないようなものをつくる。

    「パソコン」が制作の現場になった。
    パソコン上の空間が制作の現場になった。
    こういった無形のものから、プリント、即ち現在をする、そうして事物になる前の段階でパソコンで作っちゃおう、というわけである。絵に起こす為に、(「絵画」とは、単純に絵になる、とか、詩的だとか、神ががるとかそういう意味だと思ってる。)レイヤーを敷く、メディウムの事にレイヤーと言っているが、半紙を重ねて、平面的に働きかける。光を表現するには奥行きのほかに透明度を身をもって高める。
    アニメーションのキャラなどの顔は、あれは人間の顔から色々省略した線が見られる。髪はともかく、造形するとかいったものではなく、わたしたちの自然体が美しいと云えよう。)自分の内で塗り重ねたその圧力が光る西洋の油絵とは異なりつつ、「私が私になる」といった意味で他者から同意されるだろう。
    私の地元は大阪であるが、思想的に力まない事が善しとされ、観る人を見返す、「こうこうこういうことをする」「それをする」んじゃなくてあれも出来てこれも出来ると云うのが柱(はしら)である。
    それを裏切っているようで、非常に負い目がある。
    描いた少女を切って分裂させて、組み立てる。「パソコン」の怖ろしさを臨む。それがキメラである。キメラにせよ、学問は、あらゆる脅威から前向きに道徳へと昇華させる。人のアート性より信じたい所だ。

     

     

    身の回りで触るものが数年で変わってしまった。ペン、本、テスト、新聞紙、から携帯、プリンターなどのメディア自体を手にする機会が増えた。
    感受性とは、
    持ち運びの出来る画像、
    技術的な面の変化、
    それに対しての変化はおそれるにしろ、客観性を失わず。

    絵に印刷プリントをそのまま使用する、
    持ち運びの出来る画像、技術的な面の変化、新しい技法。
     

     


    精神的になるという意味で肉体的な事柄の逃御がなされる。
    ギリシャの彫刻など、見ていたら所によっては受け入られたのかも知れない。例えばもし、神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、近代にも伝わる軍人の埴輪、万能の力としてある、としたら二度と使えないはずで、その中にいる身として、楽しいから、許されているのだ。これって、どんなストーリーなのだろう?めちゃくちゃ気になる。
    誰が考えたのか知らないが漫画、フキダシ、アニメ、想像の、馴染む。「禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この決定にたいして私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、幕府の整頓された考えより、近所が親しかった、仲間が緊張していた古来を含めているし、何よりアートを感覚的は誰でも理解しているのである。

    「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かいたい。気を取り戻すなかで禅を加えたい。

     

     

     

     

     

     

    〈進化〉
    着目するのは、
    人間がアニメーションに似ると云う事態である。

    人間の、空いた2つの鼻の穴、ふさふさの眉毛、身体、肌色の貧しい感覚。こんな怪しい顔面に対して、すっきりと省略された漫画のキャラクター。豊かな色彩感覚と、洗練された髪型と体の光。私たちが見てきた数々の理想の像、美しさのキャプチャで有るが、つまり人はその絵やストーリーにたいしても理想を叶えるべくして叶えて居る。光(信仰、彼女の胸)の残像としての自己への帰依と、輪郭の眼差し。この線が見た、この線が撫でた光の形。
    (それを表現するのは藝術で有るが、時代に揉まれてプレッシャーが樽んで思い出せない手触りが多い事がかゆくて、かきむしっている。)

     


    人間の〈理性〉が、カルチャーを、この天地を、加える事にたいして、再びアニメ(無声の、モノクロの)に近付く。
    自分を包んでいた希望を受け止め、乗り越えようとしている。越えることは、経験して来た客観性、影のある自分としての、希望の祈り方が正しいかである。


    眼前のアニメ、すなわち理想的な「私」から、自己が巻かれることの無い身体の光と、精神力。なりたくてなりたくてしょうがなかった。今私が生で見る太陽たちの慎と恭しさ、然りで有る。

     

    恐らく、「理性とは何か?」が、自由のパスワードだろう。

     

    それが、歌や踊りだったりするのかもしれないのだ。

     

    現代アニメと着物のオートクチュールと、液晶でも有機ELでもまだまだ箱の中での出来事で有る。私の欲しい3Dの実感とは、飛び出るアニメとは、一体愛についての見返りか、それでもささやかに希望を持ったままでいる。

     

    ただ他人が、自分と同じ自由度を持っているかどうか、ということで、コロナ禍に読みまくった詩を理解しているが、実際があっても、孤独や寂しさはそのままで、なぜなら誰と会っても自分が変わらないからだ。そのうち、いったん激しい心の消耗だと思ってあきらめた。

     

    しかし、性たるものは、閃いて、プライドをもって発言しなければ。私は言い訳を全部抱いている。

     

    何事もその日その日で感覚的に対応している。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    アニメは、それ以上踏み込んではいけない想像で、

     

    母です。

     

    アニメとは何かも過去書いてますし、

     

    語るのに、様々な高度があって、認識や自覚できれば美しいです。

     

    自覚は、それ以上動かないということです。

     

    火に手を入れ、経験の中の。

     

    自分の低所をおさえることで、

     

    自分が高いと知り、

     

    この為に天が存在し、無限に遊べるのです。

     

    ペンギンがいて、私はやさしさをやり直すのです。

     

     

     

     

    もういちどアニメの考察

    2021/08/22

     

    日記・ブログ

     

    これらは大学時代、アニメに今よりは触れてた時代に考えて居たことを書いている。

     

    考える素材として何かと広く扱って欲しい。

     

     

    物心ついたときから「夢」を無意識的に養ってきた。

     

    ストーリーはフィクションであるが、自分が内面から見て居る輝きは虚構ではないし、

     

    何でも新たな3Dへ展開させないのは、「次元」が高度な精神だから、グラフィックより手書きのほうが受け続けたりもするように、

     

    自然と私たちは平面から浮かんで抱かれ続ける。

     

    さらに、アニメの正体や、性格が、「漫画」だったのだというのを、後から知った。

    ジャンプ、名探偵コナンの単行本は、精製されていて

    強さを感じた、自分より背の高い「もの」であった。何やら輝いていた。

    自分の歳が成長して、かっこいいキャラに慣れたのではなく、人間生活をしていくうちに打ち砕かれ夢をやすっていくうちに母(アニメーション)からは距離を置いて、引きこもった。周りについていけなくなった。

     

     

     

     

    「線描」や「表情」の精度が、アニメが漫画より落ちることを

    白抜きされてるように思う、空虚である、

    それは現実だが、それが自分の方でアニメではないといった事も有る。

    「物」の重量的なものは忘れる事が無いのだ。

    他にステッカーやレコード、これらの

    神、詩の母、マザー、

    「彼女、アニメ」を見つめつづける。

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • lady

    2021/12/10

     最も格式的な麗の有る事こそに、人は落ちて好まれるが、空に落ちること、青に落ちる事、何か光に吸い込まれてしまう事、私はそれを下品だと思います。「失せること」を、
    何が何でも夢の様で虚しかったのだが、
    そのままで良いとも思って居た。私の若い虚無も生きて居るうちに身を尽くすだろうと思って居た。
    人の云う現実は足りて居ないものです。リアルと云うのは、再び言い直せばもっと夢が有り人間らしく可笑しいものだ、と思うのです。たとえそれが幸不幸でも、
    水でも何でも、自然なら、それに対峙出来て居る現実はやはり考えながら躊躇しながら、発見した喜びが止まらないのです。

     

     

     

     手の中は、勘定をする事に趣が有る。
    魔法を大きく包めるでも無い、ただ「人は人だぞ。」と云う事。これを「愛」とした愛を、決して大きくも小さくも無い此だが。
    釈迦无二佛が何をするかと云うと、金色(こんじき)が奪った愛たちに、こうしてもう一度色彩を与えること。
    髑髏の指輪が何を数えるかと云うと、
    女が、男が、恥ぢらいを持ってして尚生まれ、垂れる、零れる花びらの魂として、私が純粋で醜き心の中を揺れる間。如来は男も女もそれ程、端た無いという事なのですが、
    それは何度も、何度も、鏡を見る。女の怠慢はゆるされている。
    女は綿毛の様に一切して選ばず、選べず、男の唇のままに進むではないか。
    花言葉や歴史的名言、疑い、何を信じて居ようが、女に取って男だけが御宗教とうつくしい事で有る。そのうえに、仏が居らっしゃる。わけがわからなくなるほどに恋をして居る。

     

     

     


     女として、光に身が辛く真っ黒に焦げそうな事が、この先も無限と云っていい程有る。
    太陽がいくらでも幾許有る様に、見た目の美人は行く所有る。そのたびに黙祷をして自己と云う点において立ち返らなければいけない。
    誰も知らぬ、私だけの人生を立てる事。 楽しめるようになれれば恐れはなく、自分だけの加工されない魅力は、これは苦しみが生むのだから、
    先ず花を花と見なすこと、悩む自分に才があること、常に何かを感じて居る事、繊細に為る事、が、人の至極万能で有ります。そうして男は花として前に立つ事です。どちらでもない、欲のない星も有り、眩いのだ。

     

     

     


     女に限っては、生まれたのなら低俗で有る事を意識しなさい。
    嫉妬は、その対象が女の最大の恐怖で有り、自分でも大変みじめで、攪乱される心を持つのです。
    そのときは、自分なりの真向うで、彼女を綺麗だと認めて口を開いて話しかける勇気を持つ事です。美は後天的なもので花の美しさだとか、気高さはここでこそ養われ、
    人間として有る唯一の性を自分が育てる気で居ないといけません。女と女が珍しく話すうちに、自己の霊格が上がって、依って、その恋が、決して男と認識し得ないひとと見抜き、
    嫌悪とは真逆であるゆき先についてを学す。
    何故なら、人間は性を持つ限り、情けが有ろうが、お金を持とうが、成功しても、初恋などににたいしては馬の様に扱われるばかりです。
    まして憧れとは病いなのですから、ペンを取りこの気持とついに仲良くしなければならないのに、花期を逃す女が何と多い。
    自分からふつふつ沸いてくる感情と友達になった時、あなたの新しい感性は咲く事が出来ます。その花弁に自分を休ませるから豊かなのです。
    理性を学び、その胸を養う。電光の様な美しい青年、それが本当に居るのかはわからないけど、が、あたかも天の川、ほくろ座、ニューヨーク、こな雪、
    「君」と云うものそう述べて、女は、走ってついていきなさい。

     

     

    天の川、ほくろ座、ニューヨーク、こな雪、そう健康的に口にする毎日で、女たちは走って。

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • 繰り返し

    街のレゲエおじさん

    2021/11/06

     

    日記・ブログ

    アンダーソングをご存じですか?

     

    「好き」から外れると、安直に「死」とディスられ、

     

    それを信じ込んで、阿修羅に転落してそれっきり。

     

     

     

    マッチ売りの少女のような細い精神で、レゲエを語る。

     

    冬のときも過ぎ恋をしだす頃は、歳の三十半。

     

    音楽と云えば、最近は思想に寄って色んな事を浮かべ、

     

    第二の人生として、あらゆるライブに足を運ぶ。

     

    生命よりもまんまと音楽ジャンル自身にプライドを委託しラクをしている、詩性のない大きなスピーカーがを少し移動させたい。

     

     

     

    目に一番身近なのが、キリスト教であったり、白人主義の文化だ。

     

    これは仏教よりも親しい。

     

    江戸時代は300年の平和を誇る。天下が、侍が既に実現していた世界が、自分より先の方なら、

     

    政治の起こる以前だった平安時代とは古今和歌からして更新的に常に新しく、その頃に中国から何とか取り入れた概念さえ

     

    まだまだ謎が絶えない文化で、もともと神の信仰であったのだ。

     

    仏壇に対して「教え」の主語が、いつも冒頭に語られないで私たちは長い事困っていた。

     

    私の世代は、戦後の昭和から「魔法使いサリーちゃん」など

     

    ストレスフリーのやさしい夢を見て、僧侶のようにしても俗で有る事からは離れないで、人間関係を自然と脱構築している。

     

    それが啓蒙をした時、他者を「かわいくないけど、良いやつ」とか、

     

    本当に啓蒙を実現して理解している。

     

     

    「心臓」と云うタイトルで、何の利益も無いような頭の上の雲、海外のそんな文章を絶対に「自分」「教養」とせず、

     

    捗りとは、あらゆる、娯楽ではないが紅茶とか孤独とか、一定の夢を継続する高度の、維持だ。

     

    臨んでいるのは、「遠くは、捗っているんだな」と祖国の空から。

     

    たったそれだけの、何もしない毎日が、尊いと思います。

     

     

    「勝利」と云う言葉をもった瞬間は、たちまち終わる。

     

    ある「美しいかも知れない」形がある、人間の次元の、この場合精神的に有らずという意味で、

     

    存在さえしない、とも云える。

     

    人には表と裏が在って、多いひとはすぐに裏に逃げ込んで他人の解釈をなし、

     

    上辺(表)の上辺を固くしている。

     

     

    一般的に声に出来ない言葉が有る。

     

    「あいりー」

     

    「しぐなる」

     

    「わんらぶ」

     

     

    好きだ、楽しい、ポジティブとは生命についての語り手である。

     

    「プラス」だとは、然り「死」とじかにして、線を引くことでもある。

     

    しかし議題が、「この様に何としてもぶらすだ」と云うような高い事でも有るから、

     

    こうとは、イメージ(絵)の持つ力や、ことばを理解する客観性の賢さについて

     

    「人間的」に織りなされる格調が、人の沈黙と、絵自身の気高さを歌うからだ。

     

    日本として、それらが暗いのは「私」自身の成長が遅滞しているからだ、と

     

    男(セレクター)を睨んでいる。

     

    「心臓」から来る他人の笑顔にたいして、「好き」しか無い自分とは?

     

    あさはかな、と云われぐの音も出ないことの、問題とは、「同じような」宗教、祈り、それらの客観的な説明の欠落において、

     

    心細いのである。

     

    電車に乗る事もなく、社会と自分の落差に凹む街のレゲエおじさんの心臓が導いた

     

    これら大和言葉というのは、

     

    突拍子もなく「説明が必要だ!」等云っているのではなく、説明文を考えてるだけでも、

     

    色んな事を一人で学んでしまうことなのだ。

     

     

    この「オイ・テカ・ナイデ」を割って、何らか生きながらえることは

     

    古来からすると、ナイスと云う事で、この一番高いもっともな美しさを明かしていたい。

     

    一方、侍の「死」の想像とは、

     

    昔なら昔今なら今と時の全てにおいて、うつくしく皆をこらえたいがそうもいかない、

     

    殺して、エゴとして転落出来る「幸せ」等は、あんまり立ち登ってしまった美学だから、もう

     

    ないのだよ、と発言するのは皆自分。

     

    最初から美については、完全に忠義と生命なのだ。

     

     

     

    「概念」について、土日も平日でも大きな想像をする。

     

    のちに、文化か文明かさえ知らない歴史を感じたあとで、咀嚼した自分は…?

     

    成長が楽しみである。

     

    白人のひとと同等に「尊敬」をするには、自己のルーツに興味持つわけで、

     

    自己が問われるとは、影を探索し、光を象ることの様で、

     

    「私」への、他者(海外人)の初めての出現とともに、断りを語る。

     

    自分は…、と地と血とソウル。平和だったよ、何にも無かった。

     

     

     

     

     

    三木道三を全部うたい、ファイヤーボールが巷を平らげる姿を見て、ミンミをの曲を血肉にし、リョーザスカイウォーカーの古いリリックに教えてもらい、

     

    その時代のメジャーウエポンさん等の歌でこの上なくリラックスするのが、ジャーだ、と自己完結。

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • 私のツイッター

    ツイート

    新しいツイートを表示

    会話

    リツイート済み

    YouTube Japan

     

    @YouTubeJapan

    誰かの物語が、きっと日本の明日をつくる原動力になっている。日本全国 YouTube 101 組のクリエイターたちの物語を公開。#YouTube101のストーリー

    0:04

    youtube.com

    「YouTube 101 のストーリー」 公開中

    午前1:00 · 2021年11月30日·Twitter for Advertisers

    4

    件のリツイート

    2

    件の引用ツイート

    42

    件のいいね

     

    ツイート

    新しいツイートを表示

    会話

    てんま鱗子(揶白)

    @ikeda82100

    この浪漫主義は、にも、やはり人間の夢に於いては弱く前提とした啓蒙も世に苦しめられる。しかし、その様な老人有ってこそ、「反省」が今でも続けられるので有る。そのことは敢えて空っぽなこれら詩が抒情や優しさをより大きく寛容しようとする。

    引用ツイート

    浪曼派bot(壱)

    @roumanha

    · 11月29日

    人間の精神を何らかの形で豊かにし、悲しいものにもする心の美的生活は、回想かないしは予想の中にあると私は思つてきた。吾々が現実主義を排し、浪曼主義をいひ、歴史を尊ぶのは、さういふところからである。 風景観について/保田與重郎

    午後11:30 · 2021年11月29日·Twitter Web App

     

     

     

    ツイート

    新しいツイートを表示

    会話

    てんま鱗子(揶白)

    @ikeda82100

    それら文学観が広くは通じなかったのもまた歴然とした理由が有るのを、分かっとる。 読み手が、バカと云うのが其れでなく、それら書物や詩には信用が全く無いからだ。 三島も太宰もほかに騎士も不良で、 川魚の様なすべきスタイルをキープして、生活を駆け上がろうとする突拍子のない詩的な性格を

    午後11:40 · 2021年11月29日·Twitter Web App

     

     

     

    ツイート

    新しいツイートを表示

    会話

    てんま鱗子(揶白)

    @ikeda82100

    優しさによって、あるいは文脈にひそむ運命によって、貫いて 破壊をしなかった。紙上のルールの中でこそ燃える様な、凝固した、破壊をしない芸術の美しさは珍しいが、 最低限、自分を一貫しようとする努力にたいしては、心を奪われるうちに自分に関係する物事の裏切りは行われるので有る。

     

     

     

    ツイート

    新しいツイートを表示

    会話

    てんま鱗子(揶白)

    @ikeda82100

    東京の春風とかが、わりと特殊なのだと学んだ。

    午後11:56 · 2021年11月29日·Twitter Web App

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
  • 幻想とラーメン

    最初の方にドクロ人とは、現主人公(ヒーロー)で有るが、

     

     

    数々は人のドラマティックが生んだ幻で、

     

     

    幻想とは、幻想が美しく、

     

     

     

    主人公は、人の心の代弁者で有り、中はからに違いない。

     

     

     

    まったく余計だぜ。

     

     

     

     

    才能には仏が宿るが、仏の勝手で、

     

    人間性とは関係がないから、面々としないものが人間で、

     

    この複雑さがもっとも宇宙らしくて、それは雲も煙突も銀河を目に宿すものだから、狂喜して止まない。

     

    そいつを太陽のパーツとして、ダルシムさながら「無題」とする。

     

    したが、その瞬間疲れて寝てしまう今。

     

     

     

    寂しさを感じて居る。ただこの感情が深くて、

     

     

    「明日」にたいしても自由を思って、ブログを書いて居たらすっかり明るくなった。

     

     

     

     

    「きみの感じて居る寂しさと、俺の感じてる寂しさは違う。」と誰かに云われた事が有る。

     

     

    私は最初から立ち上がって居たのだ、と、伝わることも分かる。

     

     

     

    わけは知らないが、あっちをこっちに置き続けるような人に幻想などを古いものを託してしまうと、いつまでも伸びる

     

    麺が、大蛇のように人を食らうではないか。

     

    私は何もしないが、今後はずっと登場しない。

     

    色んなところにおろおろしながら自分を祝う。本当に「リアル」だ。

     

     

     

     

     

    Comment

    • ログインするとコメントを投稿できます。

      投稿
prev December 2021年 next
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
RSS
k
k