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2025/02/04
コロナは古くから苦と定められ、どんな物か経験的に知ることを考えられる先祖がわざと受け入れることで、これは地球が新陳代謝をする悪いものを排出する運動にたいして早く集めるために2体ほど同空間に集めることを知らない時代から、考えごとや人、相手の人が不透明になってしまうことで物事を遅らせた。その中に、元々細長いその居場所や出現は、人間としたこと、世間通いのある、とこの最もたる見解の有る霊的な想像。これが、客観的にどうかも悲しさもイメージ出来るだろう。遺伝子もただ地球で生きるための喝声や応援である様な防止の図で、血といわれる大切さがただの水とも言われ、実感は親子も、相手との付き合いの長さや縁を“地”といい「ち」と書き、「血」はちと読む。血縁とは関係ない、といったら神秘的な言葉や夢もすんなり解決する。その知識へ歩む歩数には裏切られることがない、そういう風に無駄がない、という極力とした惑星の性格だ、と考えて下さい。
上に天霊がすっぽりコロナに乗って包まれた、私の大学生活には、蟲ーは一回も「おらず」、光と議題が犇めいたときに初めて浮き出された、問題なく暮らしていたかと言われればそうではない。自分はこうだ、と客観的に下げて思うのがしんからだった。コロナは冥界やあの世「お化け」でしか現れたことのない姿だ、この事である。笑い合った光の奥の本人の大霊や魅力的な誰かは実在する。現実は、安心してプラトニックに恋愛して暮らしていたけど幽霊体験でもある、蟲ーをマイナスと知識し理性的な憧れを満たす、蟲ーを想像の位置より自分の内面的な“セカイ”の方に足した緊張感でしか現せない幻というとこまでに消耗しきった透明感あるこの幽的なセカイ感が凄く好きな自己の特徴や長所、自意識もしっかり持っている。海王星のようなブルーはブルーでも冷やかしのような心の温度で自分も何もされなかったら、心から落ち着いて深い光の侍行をしている…。
⋯じゃあ、何で悲しみは膨らんでいったの? 正しくは、日常的でもないとは、気分から無意識的に簡単に外部に送り出していたことと、次の日は忘れていたこと。しっかりする日に現れて立ち直れないほど酷く崩してくること。人のそれぞれ思いは他が為で、世間体的にどこも口を閉じ、私も、浪士を決めてコロナを人だ人のかたちなのだと認識の命綱をしっかり括るのは、お化けだと高い無意識ではわかっても自分は話しもわからずただ仇討ちを目指して、その道徳のことばこそ見当たらなくても「正しさ」はわかった。夜中、真夜中、この日は夜明け前、明暗的にぐっと暗みが増す。海が造られる想像のするオーロラ夢、明るい癒やしに感謝し、茶色のような港に浮かぶ龍の死体に法華の微笑みをあらわし、冥王星や神の、という。慈悲、それ以上の星々の交差するスクエア。
下記すべて、天霊の真田先生。これは、武士道。侍は、元々刀を抜かないと決める格好。せやから、何かあったかを告げ怖いのを「天誅でござる」という。
大澤悠
フォト、グラフィック、絵画、イラスト、プリント
7
兵庫県川西市
0
social
3
1
9
248,353
p
129
Works
なぜモノクロに目がむかないのか
2009/06/09
「哺乳類の体は色彩的にみてとても貧弱なものにすぎない。みんな潜在的な色盲なのだ。
けれど、しかし不思議なことに、人間は化粧をしたり、色鮮やかな衣服を身にまとうことで、もう一度、鳥や熱帯魚や昆虫のように豊かな色彩の世界をとりもどそうとする。
人間に至って、哺乳類ははじめて、鳥や蛇やとかげや昆虫や魚たちが楽しんでいるような色彩の世界の歓びをとりもどすことができた。」中沢新一
漫画が好きで短編をいくつか描いたのは、もう3年以上まえのことだった。
この感覚とは、熱中している当時は気づきもしなかったが、今思いかえせば、天田草太やAlbert Brecciaおとこのこが憧れる漫画家になりたくて、その一心にはじまったが、しかしながらそれ以上の進展は望めそうにもないことに絶望していた。
性別の枠に閉ざされた、おとこのこの憧憬の感覚。そこには黒やシロや灰色のトーンにかぎっては、道端の道路標識の程度に理解され、本を開いたとたん目線はもっとも注目すべきキャラクターの絵と、コマの内にあるフキダシをのぞむようにできている。こうしたことの繰り返しであった。漫画とは印刷されているメディアの、その紙の質などはとくに筆記するに値しないことは今でもそうである。
色彩の実感のない当時の私のやりたいことの方が、いまよりももっとアートをしていたといえるだろう。単純ないち、に、いち、に、と足をはこぶ行進曲のようにして、乏しい調子にしてみると、なぜかもっともっと身をまかせれるようになるのだ。
そうして生まれたモノクロのまんがの面々は、身体の輝きや色彩感覚の豊かさということになると、他のメディアアートのものに自慢できるような豊かさはもっていなかった。
町ではみんなテレビやインターネットや雑誌などによって色彩感覚はもはや取り戻されているといっても過言ではないだろう。豊かな色彩感覚をとりもどした生活を送るなかにいて、その言葉通りの生活をするために私は印刷を選んだ。
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山の者供
2009/06/08
裏山街道の入り口は実は四箇所ある。石切り場のほうから二箇所、まったく反対側に一箇所これはすぐに行き止まり、そして三角棟の裏から一箇所である。
どの道も例外なく踏み込んだ途端に回れ右で引き返したくなる。日のあたらない鬱蒼とした藪を両脇にしてその姿は獣道となる一歩寸前。頭を枝葉の輪に突っ込み、ごそごその藪を挟む細い道は肩幅しかない。駆け上がろうにも腕に飛び出した枝が引っかかり、ではゆっくりと登ろうにも一挙一足にやはり突飛した枝葉が行く手を阻んでいる。もう一歩も足が動かない程の疲労感のなかでは、もはや登山の爽快感など微塵もなく、日陰に閉ざされた行く先にみえるのは恐怖と絶望とドラえもんのオブジェである。
これがこの大学の裏山である。さらに「イノシシ取りの罠」とは暗喩やコピーなどではなく実際に街道に設置してあるのを見ることも触ることもできる。これは間違ってもふんずけてしまわないように迂回しなければならない。餌はどうやら米ヌカのようだ。市によっては猿に懸賞金を(1万弱)かけているところもあるが、シシなどは役所に許可をもらえば鍋に、刺身に、焼肉にして食うのが通例だろう。ちなみにその日にとれたシシは臭みもなく美味であるが、二日以後はもう生臭い。
鬱蒼とした雰囲気で、湿気が多く、日陰でアンダーになって足元が暗い。まるで気分も暗くする魔法のようだ。しかし、この闇の魔法が功を相してか、ここでは採集できる数々の光り輝くものがあるのだ。
秋に、梅雨に、なってくると裏山ではキノコがむくむくと大きくなる。落ち葉のカーペットはふわふわしていて、そこには動物でもなく植物でもない、菌糸類の世界が奇妙な傘を集合さして群生している。
アカハツ(食)、
ヤマドリタケ(食)、
ミヤマアワイグチ?(食)、
クリイロイグチモドキ、
ドクベニタケ、
アカモミタケ(食)、
アカヤマドリ{/リンク(食)}、
ウスヒラタケ(食べようと相談するも教師に止められる)、
オニイグチモドキ(超不気味でも食)、
ホコリタケ、
キノコの数は枚挙にいとまがない。山ではじめてキノコを採集してもすぐには食べないで、詳しい人に必ず聞かなければならない。しかし過去に痛い目にあった人ほど懐疑的な意見で断念せざる終えないことが多い。そのときはキノコを見分けるのと同時に、現在志向の考え方を持つ人も見分ましょう。
キノコについてはこちら
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町会費
2009/05/31
を滞納している。立て替えてくれた長老の住まいは花屋敷ではないが、
数々の草花を造園して今時のころになると満開のサボテンが数えて5鉢。
過ぎたる頃にはすぼんで首を折り散る花弁、枯るるは支払いともどもに。
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そら
2009/05/30
制作のための撮影と趣味の撮影がごちゃごちゃにアップ。
こっちは趣味。
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いまだ
2009/05/26
日記に掲載しているものはすべて私の作品だが、
デジタル入力/出力された合成物である。
これをデジタルモンスターという。
しかしながら、どの作品も未だ試作程度・・・。
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リテイクです。
2009/05/25
前回と同じくこちらも芸大写真のうちの一人。
この方そのときの写真が魅力的で、
さらにフジフィルムのクラッセを持っていたのでつい声をかけました。
いいイメージが出るとすぐパチリと撮影。
前回のホソク
重複していますが・・・
透明な層が重なって、奥行きを喪失する際にはちょうど印画紙にアクリル板ガラス板の圧着に似ている。私はこの点をモチーフにし、そして光学的キメラのイメージによる光の偶像を再現している。
疑問をもたれるだろうが、印刷物にしろ画用紙に絵にしろ、フラットとはそれ以上奥行きが生まれないため、実はこのアクリル板圧着の感覚は、奥行きが「喪失」しているのだ。こうした点に着眼した地点からかかげたモチーフは「光」である。具体的にわたしたちの目に注ぐ大量の光を念頭に、油彩画とテレビを見比べてみた。
一見かけはなれたこの油彩がとテレビとの共通点とは、透明層をみつめるのだ。油彩がの方は最も奥からの反射してくる光をみている。しかし頭を振りながら両眼視差で絵までの距離を感ようと試み、実にそれらの距離感覚の知性化はだまされてしまい、あたかもフラットなポートレイトが本当にそこにいるような感覚に追い込まれていく。まさに前方の間合いが失われているメディアに古典的西洋芸術派は注目ていたのだ。
この油絵の点、物体を透層や透明な塊で包みこんだもの、それから得られる感じ方と、液晶などの発行するモニターを見つめる感じかたとの、これらの視認での比較をまずは投じた。
それらの結果次第では、発行するモニター画面と典型的古典絵画との、これら二つに関連する項目、有り得ないように思われるが共感する光の性質、これらに期待したが、しかしそれは、まあまあ。そんなことはなかったのだ。実際には前者が減光混色で視覚7万色以上、後者は屈折または乱反射と加法混色でありこれらはまったく異なるものであったのだ。
そういったわけで「光」をモチーフにするとはいったものの、油彩画を感じる正体が透明な層によるものだという、別な話になっていきいる。正確には「光学」と暮らす人々をモチーフにしているのだろう。うまく説明できないが、とにかく絵を作りたいと思う一心は未だ憧れとトラウマの胸中か。再認識スタートを切るために、こうした外的な助力(デジタル入力/出力)によって内面を変えていこうとしたのに。
話を元に戻し、そのうち主な調査のなかでいつも不思議に思っていたのだが、神話寓話民間伝承なんでもかんでも伝えられてきた物語の文化のなかに、このような「光」自体が明確な偶像になった事実には未だ通じていないことである。透明な光とはスペクトルではあるがもっともらしいイメージは何色だろうか。論理的にはわかっていても、
電球クン、あるいは漏電クンみたいなイラストは電力関係のキャラクター、あるいは街中の呼びかけポスターに実在する。がしかしどれもぜんぜんかわいくない。つまり「電気」あるいは「生活電気」など高い認識へ掲示しているのだろう。これがなんだか怒りっぽい感じの表情にみえてならないのだ。
雷のマークやデザインというのが、近づくと危険、または警告の標識にとりはやされ、一方「光」であふれていくさいは奇跡、光臨、天国、悦超、神、昇竜、巨大な存在感、幻覚体験などは、効果の程度は非常に大きな影響を与えるものの、奇跡シーンを照らし出す強烈なムード後光であり、形にならない。
おおまかにいえばつまり、光とは単なるエネルギーである。受け取る側にすれば、まさに情報のカオスである大量のビット数を、光学機器スキャナやカメラなどを入力として、構図、ピント、そのた創造的意図によって収めたり、スポット光で的を当てたりと、大量のランダム光の「情報を知性化」をするのみが現状である。
しかしすでに我々はこの眩しい光を日常ですんなりと理解できてしまっている。ここからさらに人体の驚くべきメカニズムを紹介しよう。
わたしたしが見ているものは、頭に伝えるために、実は目で情報を十分に知性化されている。
十分に知性化された情報については、最新のメカニズムでは眼球でまずランダムビット情報を「知性化」してわかりやすくし、そして大脳に送り出している。われわれ人は外界から皮膚、目、鼻、口などを通して大脳へ伝わる道筋をなしているが、そのうちの目は、なんとそれ自体で情報を整理したりするメカニズムを持っているのだ。さすが眼球。人体で唯一、頭蓋骨から脳が外へ出ちゃっている眼球。カタツムリの角みたいに、よっぽっど外界のことを知りたがっているのだろう。目がビヨーん飛び出ているヒトの絵は人類の進化をもろに想像してやまない。
創造的源泉であるこの自然宇宙光闇などは、むちゃくちゃなカオス情報であり、それらを「知性化」することによって作品となっていくメカニズムは芸術的本質と似ているが、脱構築したりする現代美術と非なるものであるため妙なところもあるが、カウンターカルチャーが「情報破壊」だとしたらまさに的中の行為ではないか。
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リテイク
2009/05/16
同居別部屋に工芸大学写真の卒展が。
場合良くなり私のデジカメで被写体にさせてもらい絵を起こしたのがこのF4号リテイクというシリーズ。
こちら被写体のK氏の容貌にかかっている幾筋の波は、カメラで比較的容易に撮影できるブレ一種だ。一つながりに筋上の光芒が頭上から体内へ降り注いでいく写真と一体になった合成物を表している。
光にまつわる性質をテーマとしてそれをモチーフにするために一通りの光学機器を配備しての意欲作に順次とりかかっている。
私のモチーフは「光」である。まず、油彩画とテレビを見比べてみた。
このような物体を透層や透明な塊で包みこんだものそれから得られる感じ方と、液晶などの発行するモニターを見つめる感じかたとの、これらの視認に前傾の姿勢でのぞんだ。
それらの結果次第では、発行する画面と典型的古典絵画との、これら二つに関連する項目、有り得ないように思われるが共感する光の性質、これらに期待したが、ままままま。実際には前者が減光混色で視覚7万色以上、後者は屈折または乱反射と加法混色でありこれらはまったく異なるものであったのだ。
主な調査のなかでいつも不思議に思っていたのだが、神話寓話民間伝承なんでもかんでも伝えられてきた物語の文化のなかに、このような光自体が明確な偶像になった事実には未だ通じていないことである。
「光」をキャラクターイラストにしようとする難題を掲げるのは、それが触れることが困難であるのにも関わらず、テレビの混色ノイズによって実に容易に視覚化しているからである。つまり目の前にご馳走を並べてあるのに決して手が届かない、この感覚はアニキャラに萌えたことがある人にはわかってもらえるのではないだろうか。
光が現れる時のさまざまなエモーションが起こっており、また激しい脳波の振幅ではあるだろうが、それでも実態は見えてこず、っていうのは神々に伴った後光や、奇跡の瞬間に伴うまた後光、トランス内部での友人体感のときには光に包まれた不思議な舞台でまた、などど現れては神秘的なことでもその場の雰囲気を残していく。
こうのような感じる光を、テレビ上で効果として撮影した光のカットを合成するれていくの光源と同列に見なされ見過ごされるのも近いだろう。私たちは非日常的な奇跡体験の数以上に、大量の発行する光源を見つめ続けている。
万古にあらず近代での不思議な夢体験の例としてはアインシュタインが電線の中を電子とともに泳ぐ夢想にふけった感覚も、光を認識する人類の発見ではなかろうか。私の前にはもうすぐそばまで光がありもう少しで手で掴めそうな気さえする。
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2025/02/04
弥勒菩薩を方位、貫禄と思い神前へ
フランス人聞いて下さい、あなたの目的へ広く早く向かえますよう、ものごとを正しめられて下さいね
アッテル⋯聞いている気がする、と思ったら聞いている
もっと地球の惑星視点の長さを見て、いつかのいつか、大きな文明で笑いながら答え合わせする和気藹々さを楽しさと遥かな風を思い、肩を緩めて自分から雑事を追い払い少しでも運命を良く、たとえ何であっても、いまを生きる時自分の潔さ良さを心と神と歓迎し、滋養をしっかり摂る、単調な日々の繰り返しにも自分を見つけ、後方にも気を付ける心配りを養う、この鍛えをこれからも継続する、身体へ感謝し、自神に他よりもただ直すことだけを覚えさせ、昼夜月日など体感的に感じ取れる文性を身とも磨く。
一つ、捕まれた他が、私からも他過ぎる。地性舐めんなと、地性が人間には怖いからだ。身体脱出と逸脱は手間がはっきり違うから欠いた文から身体性も失くなる。夢だ、夢だ文脈だとどんな価格で幾個ゆっても、国から追い出される。自然のでかい波長を身で捉えたら自のグラウンディングに留めて帰って集中して鍛錬してほしい。
自転の回転から追い出されて肉体から丸々浮いたものは、何で誘われてるのか。“私らへん”では等さもない、煙が立つほど変で、そこから、その辺から、変な災いがはじまっている。その原因のくっ付きをすっかり取り除きたい、移動して欲しい。努力の数と豊かさを勘違いするのは、努力の数、その事物が人と繋がって輝くから美味そうな感覚で、豊かさは最近その修行を友に出来る空念の仲間(と思う)が、物凄く遥かでいつか人間に変わるという希望の相違なさ。
「空行」へ空想に見て未来的に平和をゆう⋯相がこの二つは重なって応えられる文なりで良い⋯思ったよりもずっと理性的に考えた極楽浄土、阿弥陀仏は、ことばを理性で難なく超えること
精神的世界で
そう思ったらこうだ、は
=善いことを願うからである
喜び、がバージョンを上げたのは、空虚にならないことそれが現代人の課題として、理解一円、身の軽さを自らに課せ、身近な明日にエネルギーを分け与える為に歴代、ずっと盲点だった人間の「注意」を得て貰いたいです。得たい。過去の理解が優秀だったから今がある。という“これから”の受け皿や新しい理解の為の器、これが真の前方である。
空想を、勉強の数程して、丸みを帯び理性に向かった時に能力的になる。地理天候が身を包む、それ以上は分からない。初めからモラル意識そのもののみである。自意識を残せたゆとりである。広くなったメディア文化の良い悪いをくぐり抜けた知性とは、「無」もわかりやすい道徳であった。伸びが良い。これさえ守れば、これさえはっきりさせれば、億劫がなくなる。これをしっかり考えている。力の着想は、瓦という一つという大切な、また手から作る、物の大きな構造。物に向かってこうした理解の馴染みに普遍もある。これは土着性や自身の郷土への関心か仕易く、感謝を覚える時、あなたの心も弾けて回りだすだろう。文化は普段、自分の空気を包んでいる物だから自分のことを知るからだよ。私は光と語るので自分自身にいま邪も付くが前回話した力が力の為、事実上何かしら取り除けれ、ただ人間が人間の道を生きやすくと願うばかりだ。現実世界にいる時しか、守護霊という良き先祖や大霊に会えない、これが不思議な文脈である。それが思うよか遥かに気高い考えをしている。こちらから、向こうに向かっても自分レベルを映される、遠目で見ると「あなたのこと」からお話しされている!
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2025/02/04
自我のはなし
仏間=仏→お葬式→やさしさ→鏡→「死界」だ、は「空(くうそう、くう、理解できる、そらである)」に統たるから、ごねても無意識的にはわかりやすくより変わらずにいれるだろう
さらに即ち夢であるから、「壁、間、物、空、愛しています。壁、間、物、空を愛して下さい」を唱えることを忘れない→グローバル化
仏→(その光や領域や空間の)ボス、仏は間隔を持つから、間隔を持ってる人間も仏こその無や、空気にたいして辺や壁が見当たる。それを守れば守るほど彫れる=明るさがわかるから、大丈夫か!と思う
自分の最も高いことを理解するには、
自分の最も低いことを愛す
これが、上の「行」で、
=「悟性」は、力
携帯を見て休んでいるのを見ても、
仕事から帰って来た、と
人間の「厚み」が、自分にあると思い出せたら
仏間(死界)を掴もう
と、方法は引き出され自ずと用があり、こういう状態を「如来」如は「主、なんじ」、来は「くる」。ここで、仏格が、人間の想像とは違ったのだ、と知る。
あるのである、と自身へ割砕く精神のちからは、
自我を見つけ、十方へ広がる自己の広がりを
ただ纏められるようになり深めたり高めたりするだけ
言ったら容易いが、時間が必要
「コロナや悪霊」
時点が発生するとき、自分が通り越したってゆうこちらから見ると一次元、を見る、境涯が存在するのかな
人に迷惑かけないと現に思う自分、嫌がられることを避ける存在、それを表現して「思い」が自分に組み込まれ小さな一歩を毎日すると重力にたいして強くなる
「どこでも」とは、誰も見ていないところにこそ勝気がある。このために精神→精神の流れは、肉体的力量を全く除いた好きな自分の思考が正しさが、正しいほど強度は深まり信じるこころとは、目標の「安心して生きるその為にすること」が、初めて論を前へすすめるように。方向の痛く大切を感慨して思う。
「どこにたいしても」「何であっても」理解出来る自分の器を無駄にしてはいけない
べと付けのアッテルだが、・感覚へのことばとは別のことを全然いってることばかりで、神前で雲とかかれた仏前で、耳澄ましを練習するのも・自分を視覚的に自分を見れると本当に思っていて(民族的に身付けた力でそう人間の感覚で死界だよ先にいい、湖や川辺なら地球の裏側ともわかりやすく夢や気にしない無心の気持ちの養いがスムーズ)・まんが日本昔ばなしに私は見れる国の感じがわからなくて舐めている→文明的に無心の中でスマホを使って示してあげる…その神様も自身や自身の好意的さがわかりやすい
断る力も自分で養う、肉体という重みを存在させれない精神は弱い、肉体の中には命があり、そこにも重みがある。だから、弱い強いは自分を覆う惑星からしても一歩広いところにある。即ち、精神性
為に、いったん悟りの自分をきっかり反省し、自他ともつかない意識感覚への動きしかなく譬喩表現の大きな丈で裁きと全ての文性を讃えても神前で見てて、と下位しい気持ちを知っていると言うからには、そして自己の悟りの通り人を裁けず思う通りに見ずとも勝手に避けるのだという事の全てである。事態に応じて自分の“学んでいる”この手と思い、信じることを悩んで、動作としても両手を空に翳し天日干しするように固めれば、極端に不安を失う。自分の客観的視点ほど自分こそときっかり思う分は変に至らないと分かるし、それで十分で、心の中などまでは神も庇いともなって優しくしてくれるだろうと、心の中などでは何してても役には立ってるという考えもユニークである…「守護を持つ」言葉の意味は自分から守りを掴み掛かるこうである
もう一つは、自分を問われるひもあるから考え尽くしても良いと、備えることを、暗雲を解く中ようやく出来る地もあるのだ。理屈側は、自分が、怖いと思う自分は、自分が、怖いと思わない。こうでない筈はない、である。怖い、これが良いか、悪いか。この勇気のところに、英気に思い悩む姿もある。
断る力だ色々ゆってみても結局想念は丸々精神だから、帰結は済んでいて、何が怖れかをしっかりさせ、悪いひとを嫌う機械かと思えるような神の溝しか存在しない、「正気」に我を知り自分に帰る
覚えてるが、ことば的に忘れている最中だ、が多いいま
「思い」も神で、それ自体、自分にしっかり育っているから孤独の中に人間も存在するものである
神に委託しても、ともに、それだから大丈夫。そのもっと知れない遥かにたいして追いつく自分のことだから大丈夫
心が折れるように落ち込む、落ち込みが一日寝たら治る
引っ掛けられてふらついても、自分の生活は変わらない
「そのひと」は、最終的に自分を捨てる…
捨てられたくない一前向き
そういうつもりじゃない一一番強い
=優しくするって意識はもう決まってる
太陽系に沿って生き、意識という太陽を、分別理解から意志ほどに高める
→安全性を理解の趣味ほどで確認するくらいの事
悪いことが、世の中の出来もの、デキゴトで、離れたいときに離れられるそうあるべきリズムベース中心の逸れる感覚は詩的軸を含有したままで、こういった精神界まで追われたら「善」しか記憶に出来ないことが判るから、その他は全部悪なんだ!と思えると解った。例え人間の気配を察知しても「僕は視覚的な精神発達ではない」とも歯切れが悪いときも、「無心の勉強をしています」と最後まで伝えることの出来る言葉の威力に浸っても人間の心の枠からはみ出ないでいる、客観性を重んじを自ら自分に課せる態度は、受けて来た「躾」を思い出せ、今日も頑張りましょう、といえたら、理想に沿っておりこの実行は、ストレスを忘れられる。悪的に心は愚か発達はなしでなく、派生している間とも思える心の中は等しい仏界で、悪魔な責め苦は全て神が妖精的に話しかけていて、それは優しさだから、優しくなかったらおかしい、異変だと話し込むのだ。この間に、どのような自分との関わりか?を知ることをお務めとゆってもいいし、益々セカイ、空間は精神だから、神、司りの存在を理解して深めるのは良い。客観性なこころがあれば薔薇画のようにそう捉えれ、向上がどうしても上からみる下、下から見る下になく、庭でジャンプを20回、30回すると何となく元気になると判るようにこういった無を出来るかが、やさしさなのか、強さなのか、理性なのか、と多方面を鍾乳洞の出来る如くの雫の一日一日である。
南無阿弥陀仏の念仏も、過去は精神文脈的に許されない存在を尚且つ普遍として善をいうという自己に耐えることたが、「仏」は、あらゆることばを乗り越え、超えていく強さをいつも話し、「一人」のわたしとは他者であり物の鏡である=自我と歩み、「わたし」というときにはまた違わないわたしは一つを思い、足りないことを直しに一日一日を互いにかけ、遥かでもこう思う為には、今の離絶したひも
今日邪(よこしま)として祓える迦楼羅(あいしゅう)、人間が砕くことの出来た悲しみっていうコトバとして人物キャラクターというほどの蟲ーやコロナの塊から、神と平行した現実では、こころの憎しみという塊が砕けて平坦になった田を嬉しくし、新しい田の発生した「生」に從う、前者と同じ意志で、あたかも自然的な山からはずっと下ってしまったが丸い猫のようにしても地球上の発展を身から始める、こうした哲学的な自由が「森」の様にある現実を受け止めるには、地における前後関係を知っていることだ。自分の文化性がその地の古来を関心的に見て、知識をもって繋がり方をわきまえか携えかしているか。いま前者との違いは惑星が客観的に強い視覚作用が起こり、何を以てかはまだまだこれから理解するのだろう自分の思考を諦めず、道と大神で理知的にゆう「耐性」については、何かに耐えるは、しのぶ(忍、偲)ことと同じで、あたふたしない広く強い心を指す。地球という現実から、身の事態を大事と、捉えられる広大さを楽しみにする地のようにスローに生きる心と仕事などで無心に養う内外面性も、木と樹に生きれば整うはず。忍耐は、古くから美徳である。
恋心も、演劇的こころも、情や気持ちも、川神を地蔵としたら冷めきった部分は、もうその川は現に生きておらず守神や氏神であるべき姿を現〇されている。月に一回宝塚に行くのが夢、それ以外は働いてくたくた。「塚」を、昔の〇何もないところの・こうした前文を心に思って、そのごみ捨て場。こういった時は、一瞬であった直感の語感が冴え渡る。貝や乾いたサンゴ、白浜の様に思えるそんなわくわくする想念で一杯だ。骨も死生観が理知的にはっきりあったろう、そこに草原にいまの自分の人間関係と同じような思いのまま、さらに時間をもって生きていた。世間は壁のない世界で陶器を作ったり、ただ食べ物が、小麦粉と木の実を焼いただけのクッキーと草木に等しく気高くあり、その描ける想像のまま恋愛も理性的にする。イメージすると、想像ががらりと変わったし、この神が「自分」にいる時は決まって理性的なときで、恋心をそのまま理性と一語で話された縄文時代の言葉である。知ると、哲学(なやむ、が直訳とする)の想像がずっとずっと遥かから続いている。原始人のキャライメージは、古代神が、悪人の精神態度の様子から設定的に捕まえるという。敬意は、“自分”なら、他者を愛してあげることを知るや、客観性=主体の奥深い大切な羅列を考えることの、この心の能動だ。自分も祖もその安心を得るが、供養といい、「道」そのものの役つとめや楽しさは誰しも意欲する、常に未知の言葉なんだよ。君もわたしも。
技能楽のように話されるお地蔵さんのお顔
草原や石段、寒さなど環境的に意識意思の設けが高所の太陽系スタートや、予め備わる神的理解の自分の違い、から、平安は“お墓”、“神社”を見てとってもここからは神界なんだな、と理解的不思議を楽しむことを興味を抱いてアニメの奥へと。“連れて行かれる”ときは、力のあるときで、思い込みと理解がまだ弱い場合は、悪ではなく神、善にたいして「近づけますよう〜」と、力を緩め、祈るのも自分を覆う土地霊と意義が似るから良い。実際母の光から「夢を見る」と話したお地蔵さんのそれは技能楽に長い姿は、対面的に遠いだろう。振って知らんぷりした時に人霊を下敷きにしていたら、あっちの神はやさしいけどこっちの神に厳しく思われ、あっちの神こっちの神という想像を自ら濃ゆめて作り、不自然さや別れを割ることから、「普遍、変わらないもの」を履き違える。龍でも精神昇龍から表すなら、天狗の龍、鳥の龍、龍の龍、神の龍とか。神の龍から、神の神、神の一つを己の目に現す「菩薩」という技法に高まる。そしてこの「わたし」、この人間という一言は技法の習得に益々努める、天下り(あまくだり)である。「時間」にたいして冷めていませんか?という相手の誰がの見通しのしっかり着くこの質問、解の合致を、…何という言葉か知らないが、鉄火、鉄火巻き、祝いや周回、この祈り、阿吽の織り綴じ、その歴史、対角的な狛犬から神を示唆し、一部始終の心を自分なりに配り、了解をにわかに頂く。自分なり、というところに普段の生活においての間隔、その感想(感性)を組み込み活かす。自らも個性の「一人(いちにん)」を養う。
過去の概念(時計を「物」として純粋にみてみる)
過去はかわらない
過去がなければ今がない
今の自分は過去が作ってる
風は過去から吹く
→純にみる、を、純粋にみる、といい前提に心を入れる推察から、固く正しい答えを早く〇作っている。これも心、心のままに表す。道法で定番だから、当たった悪い抵抗や打撃が多い。何故なら、如何に最小限の動き、その特化した修行生活を行っている人は多く、向上心も上昇意欲も高く、応援する気持ちも強いからだ。その題が、美学であるという場合、それを知る文学や時の流れを思うとしても、それを障害を受ける思いの是非は、思いによって成り立つ。誰彼構わず平等という支点を間逃れられない時に出会う精神は、平等の定価が傾きにあるというそのもの、言葉自体の高度と同じからしか語れない。
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