1万8000人の登録クリエイターからお気に入りの作家を検索することができます。
2008/09/30
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
続きましてパターンB。
これは前回と比較するとわかりやすいですね。
枠的な囲むという要素よりかは、
そういうのはスタンダートなものだけ揃えておいて、
「中心を取る」事をメインにチョイスしたラインナップなってます。
装飾もあっさりしていて、
どちらかというと、
その中心に添える情報に対してのアプローチを主に置いているようです。
とくに解説する事は前回に書いたので無いんですが、
パターンAとは違うという事と、
その固有のパターンは意図であって、
その目的であるという事、
で何よりも、
それは基本的なパターンであるという事です。
パターンにはいっぱいヒントが含まれていて、
自分独自のそのパターンを作り出す事へのきっかけであるというのは、
ふまえて考えていけば、
この装飾活字を自分のものにするきっかけになると思います。
2008/09/29
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
この装飾活字には、
4つのパターンが設定されています。
このエンスヘデ活字鋳造所シリーズ60は種類が多く、
その用途が自由であるがゆえに、
実際に使う場合、
その選択が非常に難しく、
好きに使うのが一番なのですが、
そのバランスを保つのは容易ではないと思います。
使う内に自分の上でのセットが出来上がっていくのですが、
それに至るまでには時間がかかりますし、
正直マンネリ化は避けられないでしょう。
そんな場合にはこのパターン設定は非常に役に立ちます。
予めバランスの保たれた装飾がチョイスされており、
なによりも選択の数が狭まる事で、
使用者の負担が軽減されますし、
これに対してアレンジを加える事が出来、
容易にそのオリジナリティを形成することも可能になります。
今回はそのパターンAをご紹介します。
凄くスタンダートです。
華やかさと整理性のウマイ具合をチョイスしています。
花形装飾活字の基本的部分を抑えた構成なので、
「枠」として使うのがいいように思います。
まずはこれで組んでおいて、
自分色に染めてみるのもいいかもしれません。
2008/09/26
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
モチーフを織り交ぜます。
とうとうここまできました。
今までのはこれに繋ぐためのプロローグでもあったのような感じです。
エンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字は、
装飾性よりも整理性に富んだもんであるのは重々書いて参りました。
で、組む事で初めてその美しさが発揮されるのですが、
もちろん単に組むだけでも素晴らしくなるのですが、
そこへモチーフという概念を持ち込むことで、
より美しくなります。
装飾そのものは無機質なものな上に、
装飾の形のバリエーションが豊富で、
どちらかというと枠に収まらない自由度の高さが覗えます。
それぞれが描く装飾に対するイメージの違いが、
組んだ完成形との違いを産むので、
使いこなせばこなすほどに、
そのオリジナリティが確保される事は間違いないでしょう。
これ程までのランダム性と、
使う側に予知させない装飾は、
おそらくこの版を制作した時点で計画されていたものであると考えられます。
本当に凄いのは、
これを作った人間です。
どれほどまでに、
印刷と向き合い装飾と向き合い、
本当の本当に全てに配慮し、
花形装飾活字への可能性に賭けていたのか等、
想像するだけでスゲー!!ってなります。
これほどまでに完成された花形装飾活字を見た事がないし、
これこそが花形装飾活字という名にふさわしいものなのでしょう。
それが、
モチーフを織り交ぜる事で、
その懐の深さを知り行く事で実感出来るかと思います。
2008/09/24
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
線を意識してみましょう。
今までは、
版そのものの曲線や直線への記述はしていましたが。
今回は、全体を見通しての線を意識してみましょう。
これについては、
意識するかしないかで、
いわゆるウマク組めるか組めないかが決まってきます。
全ての版の「内部(外側ではない)」には線が敷かれていて、
そこには直線と曲線が設定されています。
これらを利用する事で罫線を使用する事なく、
同じ効果を得る事が出来ます。
曲線も設定されているので、
罫線よりも柔らかく、
そして何よりも言わずもがな装飾が素晴らしいという具合です。
2008/09/22
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
現在における印刷価値の低下はめまぐるしいものがある。
名刺で言えば某所にて無料で印刷出来るのが有名ですが、
平均で1000円くらい出してしまえば、
自分の情報が入ったオーダーメイドな印刷物が出来るのである。
おかげで、
誰もが印刷物に対して手軽に触れる事が出来るようになった一方で、
街頭ではチラシが配られ捨てられている。
事態は深刻なのだ。
このまま印刷物はゴミのような扱いをされ続けてしまうのでしょうか。
部屋を見渡せば印刷物が目に入らない事はない。
街に出ても印刷物に出会わない日があればめずらしいくらいだ。
ここまで印刷の技術が普及しているのに、
このようなお粗末な状況が続いていいものでしょうか。
個人的な活動として、
「千代紙な名刺」というのがある。
これはまさに今の印刷物ゴミ扱いに対する抵抗なのです。
横暴にもこの名刺は100枚で1万円を越える価格になっている。
市場の平均価格の10倍程の値を設定している。
が、
これについては、
デザイン料、図案のコスト等は一切関わらせていない。
あくまで印刷で発生するコストのみを計算した価格にしているからで、
デザイン主体ではなく印刷そのものの価値を元に戻す為の、
新しい提案、
印刷主体の印刷物、
当然と言えば当然なのだが、
先ほども書いたが、
それが出来ていない現在へのささやかな抵抗なのだ。
「千代紙な名刺」は、
プロセスカラーによる疑似フルカラーではなく、
印刷技術者が1色ずつ色を混ぜて、
1色毎の版(網点ではない)を作り、
これまた1色ずつ刷るという、
なんともシルクスクリーンのような、
リトグラフの延長線上のような、
なんとも昔なやり方で印刷をしている。
というか、
関わって貰っている印刷所が、
「それしか出来ない」事情があるからで、
現在の最新設備を導入してしまった印刷所に依頼すると、
おそらく4倍くらいの値が付いてしまうところを、
この価格でやってくれるのだから有り難い話である。
勘違いしてはいけないが、
グラフィックデザイナーが関わっていない印刷所なんてザラなのだ。
本来、
印刷所にはグラフィックデザイナーは不要である、
というのが自説なのだが、
どうもやはりグラフィックデザインと印刷は密接関係にあり、
デザインされたものが印刷されるという、
固定概念は簡単には拭えそうにないのもまた事実であると思います。
重要なのは、
印刷が主体でありグラフィックデザインは、
それを計画する役割であるという事。
グラフィックデザイナーは、
印刷の在り方を熟知し、
印刷する側が印刷に集中出来るように、
出来る限りの配慮をしなければならない。
だって色を作るのは印刷所の人やし、
実際に色乗せるんも印刷所の人だもの。
その事を忘れないとして、
グラフィックデザイナーが出来る作業はなんなのでしょう。
もし、
今、印刷よりもグラフィックデザイナーの方が偉い事になっているのなら、
それはやはり改めるべきです。
もし、
グラフィックデザイナーにとってコミュニケーションが重要なのであれば、やはりそれも改めるべきだと思います。
デザインは人と関わる事で成立する作業ですが、
人に媚びるべきではないと思います。
現在は、
クライアント→グラフィックデザイナー(営業は抜きで、そんなの書いてたらキリがない)→印刷所でしょうか。
何故こんなに印刷の価値が下がったのか、
その原因はまさしくここにあります。
コストの削減、コンピュータによる制御が直接的な原因ですが、
原因そのものの始点はここなのです。
比較的新しいオフセット印刷は置いといて、
そもそも活版印刷主流であったが故に、
印刷所は版の購入に余念がありませんでした。
その中には装飾版もあったでしょう。
賞状に代表されるような、
職人技的なものもあったはずです。
そのそもそもな当時は、
こうであったはずです。
クライアント→印刷所←活字鋳造所(グラフィックデザイナー?)。
いろんなパターンがあったにせよ、
その全ては印刷所に集中していた時代がありました。
何が違うのでしょうか、
大きく変わった1つの要因があるように思います。
それはやはりグラフィックデザイナーの登場でしょう。
その始めの代表格は日本では竹久夢二が有名です。
彼の残した仕事は数知れず。
そうなのです。
多分この頃から印刷所ではなく、
竹久夢二が残した事になっています。
活字版が主流の時代は、
鋳造所として資料が残されています。
個人がクローズアップされるのは大抵は、
作家性が高まった事にあり、
印刷に対する芸術性の高まりを意味しています。
ある意識の高いグラフィックデザイナーが計画した事に、
印刷所が協力する構図が、
グラフィックデザインの登場により敷かれた訳です
その中で注目はグラフィックデザイナーに注がれます。
そこで、
特定のグラフィックデザイナーに頼みたいという願望がクライアントに芽生えます。
それまでは印刷所に予め準備されていた装飾を、
どのように決めていたかは想像するしかないのですが、
今の古い印刷所の仕事ぶりを参考にすると、
クライアントの指示通りの文面で印刷所の方の配慮の文字組の元で、
用意された装飾を選んでみたり、
形式に乗っ取る(賞状等)形で取り決めていたのでしょう。
これは大きな変動です。
グラフィックデザイナーというフィルターが入る事で、
印刷所は影を潜め始めます。
で、今の状況です。
その過程がどうであれ、
グラフィックデザインという表面的な価値だけが掬い取られ、
最近ではグラフなんていう印刷所が頑張っていますが、
そのグラフィックデザインの能力は正直なところ、
印刷よりになりすぎていて高いとはいえません。
むしろそれを楽しんでいるという意味では評価は出来ますが、
可能性として不十分であると感じます。
あくまで印刷所がグラフィックデザインの事を意識した台頭であり、
その質を最大限にまで高めた結果なだけで、
結局はグラフィックデザインが主体になっている事に違いはないのでしょう(個人的には好きです)。
そうそう、
グラフィックデザインという表面的な価値だけが掬い取られ、
デザインが神のような扱いを受けてますが、
もういいじゃん、
なんだかねそういう考え方は時代遅れで古いんです。
だからといって懐古主義なノスタルジーになる事を強要するもんじゃありません。
ここでやっと花形装飾活字。
これは印刷に対してどういう事だったのでしょう。
以前にも、
とくに今回のものについては、
凄くグラフィックデザイン的であるというのは書きました。
ここからは個人的な見解(ずっとそうか)です。
グラフィックデザイナーはあまりにも自由に振る舞いすぎたのかもしれません。
そして、これを書いた時点で、
いえいえ、いろんな制限で動いているよ、
という意見が多数出そうですが、
いえいえ、それは大きな勘違いだと思います。
都合を合わせる事と配慮をする事は違うのです。
クライアントはいろんな都合を背負い、
大きな気負いで一般的には代理店に依頼し、
代理店は結果が出るものを要望し、
いろんな負の板挟みにグラフィックデザイナーは置かれて、
その掃きだめを印刷所(印刷物の場合)に押し込めているのです。
あえてアカンように書きましたが、
もちろん良いようにも書けます。
が、
それは「仕事」もしくは「職業意識」をメインに置いた場合でしょう。
その場合には全てが正当化され正しい事になってしまうのです。
あ、あ、
あくまで否定じゃないよ。
状況を見ての判断です。
どんな風に議論して勝ったとしても、
印刷物がつまんない事になっていて、
ゴミみたいに扱われている事には違いないからね。
その部分です。
以前にこうも書きました。
この花形装飾活字が多く配布される事で、
その価値が下がる事を恐れている、
それを防ぐために条件を設置させていただいていると。
これは間違えないでくださいね。
この花形装飾活字を神のように崇めての事ではなく、
愛してはいるけれど、
例えば、
凄い装飾された高価なギターを飾っているだけで、
傷つけただけでアカンような文化にだけはしたくないという意味です。
まじで今回のこの花形装飾活字は素晴らしいものです。
だからこそ使って欲しいんです。
使ってその価値を実感出来るチャンスを多くの方が掴む事を願っています。
と、それは置いといて、
花形装飾活字はグラフィックデザイナーにとって、
印刷の事を考える良いきっかけになるでしょう。
今、
全てではないのにしろ、
多くのグラフィックデザイナーと呼ばれている人達が、
どれだけ職能だけを惹け散らかし、
全然その役割を果たしていない、
勘違いしたグラフィックデザイナーさんであるかがわかると思います。
その認識を正すではないですね、
ええと、
見直す時期に来ている事は確かであると言えます。
気付かない人は気付かないでしょうが、
もしも、
気付く人が増えた時には、
印刷の価値が高まるのではないのでしょうか。
それは凄く期待しています。
うーん、やっぱり書けば書くほど伝わらない気がしてきたぞ。
やっぱりダメですね、まとまらないや。
これは文章にしてはダメです。
やっとここまで文章出来るに至ったとい言うのが近いですが、
説明出来るまでには至ってないという事でしょう。
説明出来ない事はこれからの活動で証明していければと思いますが、
というのは前から書いてますが、
ダメだったなんて大恥だけはかかないようにしなくては。
ココロから置いておきたいと思う、
紙に刷られた印刷物。
それを実現した「千代紙な名刺」(印刷見本無料ですのでお気軽に)。
もっと根本的に追求し始める為の一手である、
今回の「花形装飾活字」の配布。
そして次からやろうとしているたくさんの事。
やればやるほど、
増えれば増えるほど、
印刷の価値が高まっていきます。
そしてグラフィックデザインの可能性。
今近くにある印刷物を手にとって確かめて欲しい。
うん、まとまらない。
書くんじゃなかったけど、まあいいや。
2008/09/19
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
もっともポピュラーな使い方。
埋める、です。
紙面をある一定のパターンで埋める事で、
思いもよらない効果が発生します。
単に模様を作る動作なのですが、
密度や手法を細かに変化させることで、
いろいろなイメージを楽しむ事が出来ます。
四角で抜く事で文字を入れれますし、
その際のサイズや、
模様と抜けた部分との比率によっては、
情報そのものを囲う要素と、
それを埋める要素との加減で、
まったく違った見栄えになります。
1つ注意しなければならないのは、
その装飾の選定です。
紙面のサイズや情報の量のバランスをキチンと捉え、
装飾の魅力と情報の伝達の一番良い具合を見つける事が重要です。
また、
紙面のサイズと装飾を配する場合のバランスにも気を配るべきです。
基本は中心を保つ事にあります。
情報が入る事で、
抜いたり配置しない箇所がある場合に、
紙面に対して見え隠れする部分がどの部分にあたるのかは、
ただ並べるのではなく、
バランスを意識した配置をした方がより美しくなります。
2008/09/18
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
流れを考えます。
これまでの事をフル活用した上で、
これについても気を使ってみましょう。
版にはそれぞれがそれぞれに役割とイメージがあります。
花形装飾活字は造形を知る旅でもあります。
その造形を知る事で、
自ずとその装飾の特性を知る事が出来ます。
その特性を知る事で、
自分だけの使い方もまた容易になります。
それについては、
ずっと書き及んでますが、
いろいろ繋げて楽しんでみましょう。
繋いだ時に、
どうも繋がらないものもあれば、
バッチリ繋がるものもあります。
それは版の形を知り、
そのイメージを知る事で、
自然な流れに気を使った組み方が出来ますので、
是非、いろいろ試してみてください。
2008/09/15
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
番外編です。
今現在、
印刷または出力と呼ばれる技法は多岐に渡っています。
そしてその全てに共通(特殊な一部を除く)して言える事は、
コンピュータを介してるという事。
この現状は発展的に言えば、
その作業をスムーズにし、
日本人特有の職人イズムを沸き立たせるに充分であったと思います。
作業の単純化、分担化。
中でもレーザープリンタは大きな開発でした。
コンピュータを介し、
組版でも写植でもない、
タイムログを無くしたアウトプットによる確認。
これは革命であり、
イメージがすぐに形になるというのは、
グラフィックデザイナーへの負担が激減します。
誰もがコンピュータに触れる事が出来、
ソフトウェアも安価なもの、
高価なものでも少し頑張れば手に入るようになりました。
作業は簡略化され、
誰もがグラフィックデザインに触れ、
文字や書体を操り写真やイラストで飾る時代が来ました。
が、
肝心の技能は上がったと言えるでしょうか。
問題は手間を省ききった結果が今を圧巻している事にあります。
何故、
その部分が簡単になり便利になったのか、
それさえ汲み取らずに制作しているのが実際なのでしょう。
それはアマやプロに関わらず、
ほとんどがそのような状況であると断言します。
グラフィックデザイナーとしての価値を、
職業意識でしか維持出来ない事に疑問は感じないのでしょうか。
イメージばかりが先行してはいないでしょうか。
もう一度フォーマットから見直すべきです。
そして、
花形装飾活字程のフォーマットを、
コンピュータで作る事は尋常ではありません。
今回の場合は既にあるものを復刻したに過ぎませんが、
もしこれを今、現在に照らし合わせ現在のものとして、
新たに作る場合に、
「コンピュータ」は非常に役に立つと思います。
それを利用する可能性は、
わざわざ鉛や銀で、版を彫るよりも格段に上なのです。
写真という可能性はコンピュータで語られてきました。
これこそが現在におけるもっともポピュラーで新しい技法なのでしょう。
ですが、
それも限界に近づいているのではないのでしょうか。
なにかこう次の新しい一手が必要なのではと考えています。
印刷とグラフィックデザインについて探る事は重要な事でなのです。
忘れてはなりません。
グラフィックデザインの可能性はイメージを構築する事ではなく、
情報を伝える手段の可能性なのです。
そのエッセンスの新しい発想こそが、
優れたグラフィックデザインであると言えると思います。
その中で、
今は最高にいい環境であると思いませんか?
しかも、しかもですよ。
そのフォーマットを容易試せる状況が、
ネットという道具の元であるというのは奇跡です。
そろそろ、
一度原点に戻って、
本気でグラフィックデザインについて考えてみませんか?
花形装飾活字はそのきっかけになる事は間違いないでしょう。
2008/09/13
紹介しておりますエンスヘデ活字シリーズ60の花形装飾活字のアウトライン化したデータ差し上げます。
詳しくは
http://www.fengfeeldesign.org/をご覧ください。
お待ちしております。
ずらしましょう。
行儀よく正しく並べるのが正当ですが、
少し発想を変えて、
同じ版でも少しのズレを与えて配置する事で、
違ったイメージと変化を得る事が出来ます。
複数の版とパズルのように組み合わせる事も出来、
汎用的であるとも言えます。
注意点としては、
ずらすという事は整理性を欠くという事でもありますので、
この手法を利用する場合には、
予めの前準備をキチンと行う事が大切です。
乱用しすぎると崩れすぎますし、
少なすぎても違和感のみが先行するでしょう。
程よいさじ加減を覚える事も重要です。
2008/09/12
ここのところ写真を撮っていても、
最近の警察の一件やその他もろもろ大変な目にあって、
どうも撮影する時の罪悪感に苛まれていました。
実は9月に入って一度もシャッターを押していません。
恐怖さえある。覚悟はあるが怖さまる。
カメラさえ持って外へ出かけていない。
けれど、
それに負け時と良い機会だと、
今まで撮ってきた写真を作品としてまとめる作業をする一方で、
図書館に出向き、
特に肖像権と人格権、プライバシーの権利について調べる事に徹底しました。
文章による裏付けと、
それを踏まえたキチンとしたスタイルで撮影する事で、
少しでもその罪悪感を軽減したい気持ちと、
そういう場合にキチンと知識を得ている事で、警察の一件しかり、
アマチュア写真家が臆病にならないように、
牽引的な活動、
如いてはこの文章を公開する事で、
実はこうであるという勇気になれば、
今、自分自身への間違いである行為かもしれない写真を、
もう一度、あの時の感動を奮い立たせるカンフル剤になればと考えています。
まず、
調べていて分かったのは、
多くの人が大きな勘違いのまま、
肖像権と人格権(財産権も)、プライバシーの権利を認識しているという事でした。
現在でのスナップ写真の撮りづらさは、
それが一番大きいように思います。
同時に、
日本での「表現の自由」の効力無さ、地位の低さにも驚かされました。
そういう事も含めて書いていきます。
肖像権の実体は、
日本国憲法第十三条「幸福追求権」の下で保護される権利であるという事です。
そして重要なのはこれについて法律上では具体的に明記されていないという事、
例えば、写真にクローズアップするなら、
写真の中の被写体が、
その写真が公開される事で問題、不利益が生じた場合に、
被写体は肖像権を行使して撮影者に写真の公開の取り下げを請求(賠償金も)出来るというもの。
その時点で裁判が行われ一件ずつの争いにて決着を付けるのが、
今の現状のようです。
ポイントは撮影時に肖像権を犯していないし、
同時に公開しても不利益が生じなければ肖像権を犯していないという事です。
世間一般的に、
同意を得るべきだという意見は、
その前準備であり、
もしもの場合に備えた撮影者側の防御策であるにすぎないのです。
それがあたかも許可を得ないと撮ってはいけないという勘違いに発展しているように思います。
では、
肖像権が法律で明記がされていないのに、
何故、裁判で争う事が出来るのか、
これについてはわかりやすい文章がありました。
以下転載です。
「肖像権には二つの顔があり、人格権の一部として
の権利の側面と、肖像を提供することが対価を得る
財産権の側面とである。人格権は、前述した憲法上の
根拠を持つと言われている。
憲法13条、幸福追求権は基本的人権の一つであり、
その性格は人格権とされている。みずから一般人か有
名人かを問わず、人は誰でも突然断りも無く他人から
写真を撮られたり、自分の過去の写真が勝手に他人の
目にさらされるなどという精神的苦痛を受けることな
く平穏な日々の生活を送ることは、プライバシー権と
同様に法的に保護されなければならない「人格的利益」
の一つと考えられている。」
という事です。
つまり、
「表現の自由」と「幸福追求権」との摩擦が起こっていて、
同時に肖像権との混同が行われる結果になります。
プライバシーを侵害する事(つまり人格権)は、
多くの事例で法的に保護されており、
これもまた肖像権を構成する1つになっているようです。
ここで取り上げなくてはいけないのは、
撮影をする行為そのものが、
肖像権、人格権、財産権、プライバシーの権利のコンビネーションのおかげで、
被写体は完璧に守られ、
撮影の行為は事実上の規制を受けているという事になります。
そして、
多くの人が口を揃えてこう言います。
「ルールを守ろうね。」
「許可を取ろうね。」
「一言言ってよね。」
同意を得た撮影が合法であり、
じゃあ同意を得ない撮影が違法なのでしょうか。
もしも「表現の自由」と「幸福追求権」が隣合わせならば、
撮影者側も配慮すると同時に被写体になる側も、
「表現の自由」も意識して撮影者と接するべきだとも思います。
一般的な視点に合わせて書くとこういう事になるのでしょう。
しかし、
肖像権に関して言えば、
撮影の時点でそれが脅かせるというのは、
いささか急ぎすぎのようであり、
知らないどこかで不利益を生じる心配も、
実際なとこ想像しすぎの考えすぎのように思えてなりません。
これまで多くの人を交えたスナップ写真を撮ってきました。
他にもたくさん撮られた方もいるでしょう。
ボクの場合、
話しかけずに撮るというスタイルを貫き通しています。
場合には話しかけて撮る場合もありますが、
一貫して話し掛けずに瞬時に撮る手法を採用しています。
そこで気付くのは半々だと言う事です。
レンズを向けて大概は撮られたかそうでないかわからないくらいに、
瞬時に撮るのですが、
時々は早く気付く人がいて、
中にはニッコリ笑ったり照れたりピースしてくれたりする人がいます。
いい具合にレンズを見てくれる人がいて、
いい具合に話しかけてくれる方もいらっしゃいます。
逆に凄く嫌がる人もいて、
顔を隠したり怖いくらいに文句を言うてきたり、
今回のプライバシーがどうとか肖像権がどうとか言ったり、
多いのは「何勝手に撮っとんじゃい。」と言ったり、
警察の人はファックユーです。
殆どは無関心で過ぎ去っていく場合なのですが、
反応する人は半々なのです。
これは意識の問題だと考えています。
ボクは1つの解決方法を求めます。
それは正しき写真家の数が増える事です。
悪意に満ちた撮影ではなく、
心の底から写真を愛し撮影している人の数が、
被写体と真剣に向きあう写真家が、
圧倒的に増えればイメージは少しでも改善するはずなのです。
そして出来ればそれを公開するところまでは認めて欲しい。
正しき公開の数が増えれば、
撮影者とっても被写体にとってもプラスになると思うのです。
訴えるなら、その時点で訴えてください。
それが肖像権の本来のあり方であり、
肖像権を盾に撮られる事そのものを悪にするべきではないのです。
そういうのをキチンとやっていけば、
ほんまにアカンものに対してアカンといえるようになるんではないでしょうか。
人格権、財産権、プライバシーの権利ついても、
守られている側がキチンと認識をして、
考えなくてはいけないと思います。
もしも、これらを意識して写真の撮影というものに接するならば、
同時に被写体側にも配慮が必要だと思います。
それを懸念するという事は、
撮影を規制するという事につながります。
あまりにも、
この問題については、
撮影者側ばかりが気を使って配慮しているのに、
撮られる側の意識が低い場合が多いように思います。
どのような場合に人格権に触れ、
どのような場合に財産権に触れ、
どのような場合にプライバシーの権利に触れるのか、
撮影する側は中には無礼なヤツもいますが(ボク?)、
恐ろしく気を使って配慮しているのが現状であって、
権利を被写体側が意図するのであれば、
その撮影がマズイ事を撮影者に伝える努力をすべきです。
被写体側も意識的に考えて撮影者側に伝えないといけないと思います。
もちろんそれは撮影者側が配慮しているという前提のものでもあります。
なんだかまとまらなくなってきましたが、
どうも、
写真における肖像権とは撮影する事で、
犯すものではないらしいというのが分かりました。
それを無許可で公開する事も違法ではなく、
それがその被写体に不利益になり、
被写体本人から取り下げ請求がきたら応じなアカン訳ですな。
ていうかそんな写真は無しでしょ、
そんなの普通は撮らないよね。
ただ、
撮影するという行為でアカン可能性が高いのは、
人格権と財産権を織り交ぜた、プライバシーの権利の複合体が、
それを規制する形になっているようですがな。
けど、
実際問題、
知らない人の家に勝手に上がりこんで写真を撮るのは変である。
これはアカンでしょう。
企業の秘密研究室で盗み撮りするのもアカンし、
ましてやラーメンの秘密スープレシピを盗み撮りはいかんのでしょう。
盗んでますからね財産権を脅かしちゃってる訳で、
最初のやつなんて人の家に勝手に上がってるからなあ…、
スゲーマズイ気がする、プライバシーの権利やら人格権の前に不法侵入やがな。
なんかアカン人が増えて、過敏なり過ぎてて、
それに写真家が巻き込まれた形になるのかもしれんねえ。
ボクのスタイルの場合はモロにそれ引っかかる訳ね。
それに最近の写真作家に気付くのは、
それを意識してか、
海外に逃げたり、
風景に逃げたり、
どうもファインダー的に逃げてる写真が増えてるなあという印象なのです。
梅佳代はそこらへんウマクやってんのやろね。