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Comment小学3年のときにピチレモンを毎月購読。
小学校4年のときにドラゴンクエスト3
小学校4年のときに短大のときに太平洋戦争に関係する政治番組のコメンテータによく登場した右翼の小林よしのりの原作のおぼっちゃまくん。
小学校5年からはレモンを毎月購読
小学校5年のとき夜中並んでこうにゅうしたドラゴンクエスト4
小学校4年のときに笑うセールスマン。旅行先で父に本屋で漫画をかっていもらいました
これは小学校5年のときにドラクエ4をよなかじゅうやりねむれなくなったときにその当時の夜の報道番組のニュース番組でもアニメが放映さていました。
中学1年からはジュニーやMCシスターを毎月購読。
中学1年のときはNOKKO。レベッカのボーカリストから単身でニューヨークでダンスなどとやるミュージシャン。その当時の晴海でおこなわれたコンサートがすきです。
中学2年からはキューティを毎月購読。これは下北沢系のサブカルファッションやミュージックで当時芝浦のゴールドというクラブに遊びにいくこたちのサブカルファッション雑誌でした。当時はからすで岡崎京子の漫画が連載されていました。現在蜷川実花と一緒に仕事をしている漫画家です。りぼんやマーガレットのようなダサい女子のオタク漫画や小学生向けの絵でもないようの漫画ではありません。中学2年の当時からいまの蜷川実花のクールジャパン系のおしゃれなイラストとおしゃれな内容をモチーフした漫画です。サブカル文化の代表作です。
キューティはわたしが21歳くらいのときにパリのデザイナーが日本の原宿のファッションスタイルのようそをパリコレにいれていました。その時にパリのデザイナーが参考していたのがキューティというファッション雑誌です。
中学3年からはファインを毎月購読。
髪の毛を茶髪にして日焼けして青色のアイシャドウにピンクの口紅をつけてLAファッションをしていました。静岡駅のパルシェの上の方の階いクレヨラというLAファッションの店がありわたいはそこで洋服をかっています。
同時にアルバローザというブランドがはやりましたがわたしはすきではありません。クレヨラがすきでした。
次のとしに安室奈美恵がでてきました。ダンスファッションのまえにサーフファッションがはやりました。渋谷109のラブボートがすごいヒットしたのが翌年です。わたしのような日焼けして茶髪で青色のアイシャドウとピンクのリップをつけてそのころからファインがすごい売れるようになりサーフィンやボディ―ボ―トなどが流行るきっかけとなりました。日焼けサロンがはやりました。渋谷の女子高校生はみなこのようなスタイルになりました。
その後はアムラーのダンス系のファッションが主流になりました。エゴイストやその後はササビーズなどです。
中学3年のときに電気グルーヴ。小室哲也にも一目おかれるサンプリング専門のテクノミュージシャンです。
16歳のときにスラムダンクの漫画。コミケの同人誌がすきでした。サザンクロス東京の京極薫の大ファンでした。彼女は太陽のマーク?だかの洋服をだかベルトのもののジャンニベルサーチの洋服だかベルトをつけてクラブ(たしかヴェルファーレ)にいったりしているようです。彼女のサインもらいにいったらシャネルのピンクのボーリングバッグがありました。私が始めて実物のものをみました。すごくかわいくてわたしも21歳のときにやっと中古でかいました。
18歳から23歳まで
クラシック音楽のCDを毎週静岡市立図書館にかりにいきました。かなり頻繁にです。一週間に2回いくこともありました。23歳まで頻繁に図書館でCDはかりにいきました。23歳からすみやでCDをかうようになりました。
この当時は料理ブックも頻繁に借りに図書館にいきました。19歳くらいにハーブブームでハーブの栽培をしました。たくさんのハーブをそだてましたが冬をこせるのはローズマリーだけなのですぐに栽培やめました。バジルは雨に濡れるとすぐにだめになります。冬は部屋の中でミントの栽培はしました。ミントティをつくるたあです。
1996年からシュプールを毎月購読していました。たまにエルをかったこともあります。今は大衆雑誌のスプリングは当時はジルスチュアートを海外のインポートブランドをとりあつかうおしゃれなファッションフォトもある雑誌でした。毎月購入していました。当時はヴォーグ日本もマダムフィガロジャポンもハーバスバザ―もザギンザもヌメロ東京もありません。モードェモードの購入もたしかこのときからやっています。パリコレやミラノコレクションやニューヨークコレクションのものです。ケーブルテレビでパリコレはミラノコレクションをみていました。テレビ東京のファッションニュースもたしかすこしみちていました。
アニメの少女革命ウテナ。とくにウテナのJAシーザーの曲と歌詞がすきでした。
21歳のあたり。
大量のお菓子のレシピ本を買いお菓子をよくつくりました。
22歳からは谷島屋呉服町支店で洋書のパンやお菓子のレシピ集に購入をしました。かなりかいました。都内にもでむいてかいにいきました。ピエールエルメのフランス語のスイーツのレシピ本もです。当時修院でフランス語をならっていました。その関係でピエールエルメのフランス語のレシピの洋書もかいました。
23歳からは中古ブックでヴォーグの購入などたくさんのファッション雑誌を中古でもみにいきました。当時はヴォーグ日本とハーパスバザーは毎月かっていました。その他はエルがマダムフィガロジャポンは頻繁にかっていました。もちろんJJなどもです。ミニもかっていました。英和でミニがすごくはやっていたからかってみました。
このあたりからすみやでクラシック音楽のCDを毎月かっています大学院を修了するときまで毎月です。佐藤さんがわたしのことをしっています。23歳からは学割1000円でAOIのホールでピアノのリサイタルによくいきました。一番前の横の席なら会員でなくてもとることができます。N響のコンサートもききにいきました。グランシップでです。
大学院から洋雑誌をかなりかっています。紀伊国屋書店のネットや地元の本屋や定期購読などです。取り置きではサブ―ルという南プロバンスのグルメ雑誌。ヴォーグパリやミラノやwマガジンやその他紀伊国屋書店のネットからマイナーなモード雑誌です。ヌメロパリは定期購読で一冊千円でかいました。
料理雑誌はエルアド二チェフのこれからエルアターブルなどもよくかいました。かなり高額4600円するな専門雑誌も買った記憶があります。料理雑誌は大衆誌の売り場はいません。いつも料理研究科のコーナーです。オレンジページはかったことがありません。レタスクラブもです。エッセイは高校生のダイエットにいい低カロリーメニューがのっているものをかっただけです。
かなりきにいったいるのが1999年のアンアンの料理雑誌です。みたことのない調味料やスパイだらけでした。その後同じものを谷島屋で注文しました。たしか結婚するためにもっていくためです。当時レシピを姉のコミケ仲間がいえにきたときにつくるとおどろいていました。ほかにもタラゴンのピラフをだしたことがあります。わたしがフレンチのハーブのタラゴンがすごくすきだからです。当時はなかなかかうことができませでした。
2007年の作品;
creatorsbank.com/ouji_37/works...
動画バージョン
vimeo.com/323997134
2008年の作品;文化庁メディア芸術祭のコンテストの応募
creatorsbank.com/ouji_37/works...
動画作品
vimeo.com/324927621
その他の作品。
creatorsbank.com/ouji_37/works...
新田育代の好き漫画
by 静岡市葵区の新田育代のビジネスイソップ物語
小学3年のときにピチレモンを毎月購読。
小学校4年のときにドラゴンクエスト3
小学校4年のときに短大のときに太平洋戦争に関係する政治番組のコメンテータによく登場した右翼の小林よしのりの原作のおぼっちゃまくん。
小学校5年からはレモンを毎月購読
小学校5年のとき夜中並んでこうにゅうしたドラゴンクエスト4
小学校4年のときに笑うセールスマン。旅行先で父に本屋で漫画をかっていもらいました
これは小学校5年のときにドラクエ4をよなかじゅうやりねむれなくなったときにその当時の夜の報道番組のニュース番組でもアニメが放映さていました。
中学1年からはジュニーやMCシスターを毎月購読。
中学1年のときはNOKKO。レベッカのボーカリストから単身でニューヨークでダンスなどとやるミュージシャン。その当時の晴海でおこなわれたコンサートがすきです。
中学2年からはキューティを毎月購読。これは下北沢系のサブカルファッションやミュージックで当時芝浦のゴールドというクラブに遊びにいくこたちのサブカルファッション雑誌でした。当時はからすで岡崎京子の漫画が連載されていました。現在蜷川実花と一緒に仕事をしている漫画家です。りぼんやマーガレットのようなダサい女子のオタク漫画や小学生向けの絵でもないようの漫画ではありません。中学2年の当時からいまの蜷川実花のクールジャパン系のおしゃれなイラストとおしゃれな内容をモチーフした漫画です。サブカル文化の代表作です。
キューティはわたしが21歳くらいのときにパリのデザイナーが日本の原宿のファッションスタイルのようそをパリコレにいれていました。その時にパリのデザイナーが参考していたのがキューティというファッション雑誌です。
中学3年からはファインを毎月購読。
髪の毛を茶髪にして日焼けして青色のアイシャドウにピンクの口紅をつけてLAファッションをしていました。静岡駅のパルシェの上の方の階いクレヨラというLAファッションの店がありわたいはそこで洋服をかっています。
同時にアルバローザというブランドがはやりましたがわたしはすきではありません。クレヨラがすきでした。
次のとしに安室奈美恵がでてきました。ダンスファッションのまえにサーフファッションがはやりました。渋谷109のラブボートがすごいヒットしたのが翌年です。わたしのような日焼けして茶髪で青色のアイシャドウとピンクのリップをつけてそのころからファインがすごい売れるようになりサーフィンやボディ―ボ―トなどが流行るきっかけとなりました。日焼けサロンがはやりました。渋谷の女子高校生はみなこのようなスタイルになりました。
その後はアムラーのダンス系のファッションが主流になりました。エゴイストやその後はササビーズなどです。
中学3年のときに電気グルーヴ。小室哲也にも一目おかれるサンプリング専門のテクノミュージシャンです。
16歳のときにスラムダンクの漫画。コミケの同人誌がすきでした。サザンクロス東京の京極薫の大ファンでした。彼女は太陽のマーク?だかの洋服をだかベルトのもののジャンニベルサーチの洋服だかベルトをつけてクラブ(たしかヴェルファーレ)にいったりしているようです。彼女のサインもらいにいったらシャネルのピンクのボーリングバッグがありました。私が始めて実物のものをみました。すごくかわいくてわたしも21歳のときにやっと中古でかいました。
18歳から23歳まで
クラシック音楽のCDを毎週静岡市立図書館にかりにいきました。かなり頻繁にです。一週間に2回いくこともありました。23歳まで頻繁に図書館でCDはかりにいきました。23歳からすみやでCDをかうようになりました。
この当時は料理ブックも頻繁に借りに図書館にいきました。19歳くらいにハーブブームでハーブの栽培をしました。たくさんのハーブをそだてましたが冬をこせるのはローズマリーだけなのですぐに栽培やめました。バジルは雨に濡れるとすぐにだめになります。冬は部屋の中でミントの栽培はしました。ミントティをつくるたあです。
1996年からシュプールを毎月購読していました。たまにエルをかったこともあります。今は大衆雑誌のスプリングは当時はジルスチュアートを海外のインポートブランドをとりあつかうおしゃれなファッションフォトもある雑誌でした。毎月購入していました。当時はヴォーグ日本もマダムフィガロジャポンもハーバスバザ―もザギンザもヌメロ東京もありません。モードェモードの購入もたしかこのときからやっています。パリコレやミラノコレクションやニューヨークコレクションのものです。ケーブルテレビでパリコレはミラノコレクションをみていました。テレビ東京のファッションニュースもたしかすこしみちていました。
アニメの少女革命ウテナ。とくにウテナのJAシーザーの曲と歌詞がすきでした。
21歳のあたり。
大量のお菓子のレシピ本を買いお菓子をよくつくりました。
22歳からは谷島屋呉服町支店で洋書のパンやお菓子のレシピ集に購入をしました。かなりかいました。都内にもでむいてかいにいきました。ピエールエルメのフランス語のスイーツのレシピ本もです。当時修院でフランス語をならっていました。その関係でピエールエルメのフランス語のレシピの洋書もかいました。
23歳からは中古ブックでヴォーグの購入などたくさんのファッション雑誌を中古でもみにいきました。当時はヴォーグ日本とハーパスバザーは毎月かっていました。その他はエルがマダムフィガロジャポンは頻繁にかっていました。もちろんJJなどもです。ミニもかっていました。英和でミニがすごくはやっていたからかってみました。
このあたりからすみやでクラシック音楽のCDを毎月かっています大学院を修了するときまで毎月です。佐藤さんがわたしのことをしっています。23歳からは学割1000円でAOIのホールでピアノのリサイタルによくいきました。一番前の横の席なら会員でなくてもとることができます。N響のコンサートもききにいきました。グランシップでです。
大学院から洋雑誌をかなりかっています。紀伊国屋書店のネットや地元の本屋や定期購読などです。取り置きではサブ―ルという南プロバンスのグルメ雑誌。ヴォーグパリやミラノやwマガジンやその他紀伊国屋書店のネットからマイナーなモード雑誌です。ヌメロパリは定期購読で一冊千円でかいました。
料理雑誌はエルアド二チェフのこれからエルアターブルなどもよくかいました。かなり高額4600円するな専門雑誌も買った記憶があります。料理雑誌は大衆誌の売り場はいません。いつも料理研究科のコーナーです。オレンジページはかったことがありません。レタスクラブもです。エッセイは高校生のダイエットにいい低カロリーメニューがのっているものをかっただけです。
かなりきにいったいるのが1999年のアンアンの料理雑誌です。みたことのない調味料やスパイだらけでした。その後同じものを谷島屋で注文しました。たしか結婚するためにもっていくためです。当時レシピを姉のコミケ仲間がいえにきたときにつくるとおどろいていました。ほかにもタラゴンのピラフをだしたことがあります。わたしがフレンチのハーブのタラゴンがすごくすきだからです。当時はなかなかかうことができませでした。
2007年の作品;
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動画バージョン
vimeo.com/323997134
2008年の作品;文化庁メディア芸術祭のコンテストの応募
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動画作品
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その他の作品。
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published : 2024/06/07