優しいということ
2011/07/11
優しいということを考える。
私にとってだ。
それも、すごく仲のいい人、家族、友達、恋人…
そういうものに対して。
私は以前、今以上に精神的にしんどかったから、
誰かに助けてほしいと思っていた。
例え誰にも関わりたくない!と思っていたとしても、
それは、
『どうせ関わっても誰もわかってくれないじゃないか!』
ということで、わかってほしい、
自分の気持ちを受け止めてほしい、
という気持ちはもちろんあるし、
やっぱり助けてほしいのだ。
私は以前考えていたことがある。
たとえ話みたいなものだ。
ちょっとイメージしてみてほしい。
私は庭付きの家の中にいる。
そして、外に私を助けようと
してくれている人がいるとする。
その人は叫ぶ。
『大丈夫?』
私は『しんどい。』
そんなとき、もしその人が本当に私にとっての
優さを持っていたらどうしてほしいか?
1.そっとしておく
2.庭に入る
もちろん2だ。
たぶん知り合いくらいの立場なら、
1だ。入ってきてくれても、
その人はきっと最後まで
この気持ちに付き合うことはできないから。
さて、庭に入り叫ぶ。
庭の外から相談もうける。
話はもちろんつかない。
だって、中にいる私がしんどいのは、
何かがあったことということよりも、
もうそう感じてしまっていて、
しんどいに取り憑かれているから。
でも外にいる人は、原因や対処法を探して
解決できると思っているから、
話してもムダだと思って、そこで帰る。
特に自称優しさに自信のある人は。
もちろんすべてではないけれど、
自称優しさに自信のある人は、
相手に対して何があっても怒らない。
いつも笑っていて、相手に気も使う。
そんな人が多いように思う。
話を戻そう。
庭と家の中というこの距離感が縮まらないことが
私は多かった。家族も恋人も…
そして庭から家に入らないことが、
優しさだと思っている人が多いように思う。
家に入ったら傷つけてしまうから…と。
でも、家に入って傷つくのはその人も一緒。
家に入って中にいる私がしんどくて、
その人を拒絶するかもしれない。
その人に当たってしまうかもしれない。
それでも中に入って話を聞き、
抱きしめてくれるような人
が優しいと感じるのだ。
いや、行動としての話ではなくて、
精神的な話なので、私が言っているのは、
実際に抱きしめる…というよりも、その人のココロをだ。
そういう考え方の話…
だからもちろん、恋人同士でなくても、
同性の友達同士でも、家族でも、仕事仲間でも、
そんな人が私にとっての『優しい』だ。
だから私も、自分にとって大切な人であるならば、
そんな優しさを持ちたいと思っている。