川瀬大樹

画家

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京都府城陽市

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川瀬大樹

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川瀬大樹

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  • タッグによる行動

    知らない事を知る事で、
    自身の経験した事の無い体験や知識を
    会得する事が出来る。
    けれど未知なる領域と握手を結ぶのは誰しもが
    勇気や不安を要求され
    始めの一歩踏み込むのに躊躇してしまいがちなんだ。

    1人で踏み出す勇気が無ければ
    最初は誰かと一緒に手を組んで、
    始めの一歩を踏み出してみると、
    案外1人では怖くてできなかった事も
    簡単に乗り越えられる場合がある。

    初めて訪れる場所や初めて赴くお店など、
    1人で行くのに躊躇い、躊躇してしまいがちになると思う。
    新しきスペースへと踏み込むのには
    勇気と不安が付きまとうのだ。
    けれど2人、もしくは3人で手を取り合いながら
    行動すると、1人の時だと抱いていた
    不安や躊躇いなどが払拭され
    スムーズに始めの一歩を踏み込む事が出来る。
    行った事の無いお店や
    初めて赴く場所に誰かと一緒に訪れば、
    次は一人でも躊躇わず、
    その場所へと赴く事が可能となる。

    始めは自転車でも補助輪から始めたり、
    車だと横に教官が乗って指導するなどしてから
    1人で自転車漕いだり、1人で車に乗れる様なる。

    未知なる領域に、なかなか踏み出せず
    地団駄踏んでいるのであれば
    始めの一歩は誰かと共に歩みを一踏み出し
    始めの一歩を痕跡として残してみれば良いと思う。
    さすれば、経験による実感が
    初めの一歩による体験により身に付くので、
    次からは補助輪を外した状態で
    同じ場所へと赴ける様になると思うのだ。

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  • 知恵の果実

    知識は単に自身の頭に蓄えるだけでは
    自身の外側へと宿る世界に、
    変化を巻き起こしてゆけないから、
    アウトプットによる吐き出しが必要となってくる。
    漫画やアニメ、本にテレビ、ネットなど、
    どれも自身の中だけで完結させれば、
    それは自己満足の域へと留まりゆく。
    そこからさらに一歩踏み出した視点で物事を考察してゆくのだ。

    自分や世界を一歩引いた場所から眺めてみて
    その立ち位置から垣間見えてくる源水を見つけ出す。
    そのためには、人に伝える、人に語り継ぐ事を前提として
    捉えながら情報を吸引すると良いと思うのだ。

    自身が吸引したコンテンツから、自身は何を感じ
    何を想い、何を学び、何を得たのかを、言葉や文章に
    書き起こして取り込んだイメージを解放させてみる。
    そうすれば、知恵の実が、
    人から人へと増殖を繰り返してゆき
    元ある地点から少しずつ膨らんでゆくのを実感できるのだ。
    自身の考えをアウトプットによるシェア、
    つまり共有させる事を前提としながら
    自身を取り巻く世界を眺めてみる。
    さすれば、そこから得られる気付きを随時見つけ出す事が可能なのだ。

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  • 信用信頼による

    人と人との関係性は信用.信頼における
    ブランディングにより成り立っている。
    家族であったり友達や恋人、仲間であったり取引先の会社だったり。
    全てはこのブランディングがあればこその
    関係性であり、これが破綻すれば
    関係性は物の見事に崩壊してしまうのだ。
    信頼がおけるから、大事な仕事を信用しながら任せられたり、
    信用出来るからこそ、その人に弱味や本音を打ち明ける事が可能なのだ。

    気の許せない相手は=信用.信頼出来ないから気が許せないのであって。
    その人の素の部分を垣間見るためには
    ブランディングが必要不可欠となってくる。
    友達や恋人との関係が成り立っているのは
    信じられる.頼りになる事が前提としてあり、
    ここの波長ラインが合うからこそ関係性は成立するのだ。
    ここが崩れゆく時は、
    互いの思想や価値観、物事に対しての見え方が
    全般に信じる事が出来ない、ゆえに頼れないので
    関係性は終わりに向かってゆくのである。
    高校時代は大の友人が数年ぶりに合えば、
    まったく価値感や考えが刷り合わなくなり、
    友情が脆くも消滅する事ってありますよね。
    あれって、要はお互いのこれから描き出そうとしている
    ビジョンに大きな相違や隔たりが出来てしまい、
    互いが描きゆくビジョンを
    信じられなくなってしまうのだと思う。
    そこで、それぞれを信用する事が出来なくなり、
    これまで培った関係性が、脆くも切り崩れてしまうわけね^^

    真に長く付き合ってゆくには、互いにおける
    信じられるストーリーが存在していて、
    それぞれの歩みに同意出来るか否かで
    ブランディングを継続してゆけるのか、
    またはそうでは無くなるのかが、別れ道となり訪れゆくのだ。

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  • アートなドラえもん

    絵図を描く時に、自身の中に二人の自分が居て。
    それを例えるとするなら、
    ドラえもんと、のびた君による
    二人称なる関係性で成り立っているわけよ^^
    まず始めの段階で描き出したいイメージがふと思い浮かぶ。
    この段階で、「こんな絵があったら良いな..、
    叶えてよ、ドラえもん」って感じで、
    自身の中に居座る、のび太君がドラえもんへと懇願してくるのだ。
    その絵図を叶えてあげるのが、ドラえもんの役割であって。

    この二人称なる関係性で
    自身のイメージを描く過程は成り立っている様に思う。
    のび太君の叶えたい願いは、いつも
    少し無理があり難しく大変なんだけど、
    描き出したら面白いよなぁ..大変だろうけど..っと言う感じの
    素敵イメージを要求してくる。
    その難しく難解なお題を叶えてやるのが、
    ドラえモンとしての役割であって。
    「あんな事いいな、出来たら良いな〜
    あんな事、こんな事一杯あるけど〜♪」、
    ドラえもんの主題歌が頭の中で
    巻き起こった時、真っ白なキャンバスへと
    叶えたきイメージを、ドラえもんは
    愚直に立ち表わしてゆくのだ。

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  • 帰依する場所

    原画作品は原画作品の背丈に見合った、
    帰すべき場所で飾るべしだし、
    小作品は小作品の帰すべき場所へ、
    グッズ作品はグッズ作品の際立つスペースに置くべきだと思う。
    昨年はガチで、原画オンリーにて勝負へと出たが、
    やはり帰すべき所を多々間違えてしまってたよなぁ..と
    一年を振り返り反省したのだ。
    雑貨メインのイベントで原画を前に打ち出しても
    絵は活きないだろうし、
    その場合,絵は看板的な役割を担ってもらうべきだと思う。
    逆に画廊で原画とグッズを
    並行展開している作家さんを見ると
    どうしても絵が安く見えてしまい、
    わざわざ画廊スペースでポストカードなどを
    ずらりと並べて展開しなくても..と思ってしまうのだ。
    原画を前に押し出して魅せれる所で
    グッズ展開するというのは、
    自ら絵が売れない事を赤裸々に
    アピールしている様なものではないか「笑」
    原画は、それが栄える場所へと帰すべしであり、
    グッズや雑貨はそれが帰すべきスペースにて
    飾りつけるべきだろうからね。

    昔、フレンチのお店で日替わりを頼んだ事があって^^
    その時出てきたのは、なんと..焼肉定食..「苦笑」
    フレンチの料理を食べたくて来たのに、
    焼肉定食出てきて、もう..あんときのガックリ感ときたら..。
    フレンチはフレンチ料理に帰すべき場所へ、
    焼肉は焼肉店へと帰すべきなんだよ^^

    例えば、サッカーの話で
    熱く盛り上がっているグループの輪の中に、
    全然違う文脈の野球の話を
    外からいきなり割って入ってきた人が話せば、
    当然、場の空気は一気に冷めてしまいますよね。
    それと同じで、それぞれのルールや文法に
    マッチした場所で発表をしなければ、
    それは単なる場違いであり、畑違いの
    はた迷惑な行為へと終始してしまうのだ^^

    と言う事で..雑貨やグッズメインの堺アートワールドは
    グッズを前に押し出して絵は飾り付ける意味合いで
    控えめにディスプレイする事にいたすかな。

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  • 知識と沸点

    沸点率100パーセント=行動であり、
    思い立ったら即行動をってやつね^^
    あれって、すぐに行動へと移せる人に対しては
    有効打だけど、なかなか行動移せない人にとっては
    上手く行かない事が多々あって。
    要するに奥手で引っ込みじあんで、
    火付き悪い人のパターンを今日は考察しようと思う。

    思い立ってから時間が経てば経つほど
    熱は徐々に冷めてきて沸点0=行動不可となってゆく。
    アウトプットによる行動へと移せないタイプは
    まずはインプットの数を、こなす事から始めれば良いと思う。
    インプットする事で熱を加熱させゆく。
    興味の在る事、関心の持った事柄に対して
    とにかく、どんなコンテンツでも良いので
    知識を蓄え続けてゆく事を心がけゆく。
    知識が熱を徐々に帯びてきて
    ある時点で沸点へと到達する事がある。
    熱量が10.30.50.80と知識を付け加えてゆく事で
    みるみる上昇して、ある臨界点を突破した時、
    行動へと転化させれる様なってくるのだ。

    絵を描く事に興味あるけど
    なかなか始めの一歩を踏み出せない場合は
    美術雑誌を買ったり
    ネットで作品画像みたり、
    絵の現物が見れる美術館やギャラリーへと足を運んで見てみる。
    そこで生の作品や作者本人から話を直に聞いてみたり、
    質問や疑問を投げかけてみる。
    そうこうする内に熱が
    沸点を帯びるライン上まで到達してゆくだろうからね。

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  • 教育による賜物

    古来から現代まで文明が
    発展をここまで遂げれたのには、
    一重に教育による賜物だと思う。
    人と人とが教育し合う事により
    人類が発展を繰り返してこれたと言っても良いと思う。

    教育とは、そもそも学校教育のみの
    狭い範疇だけを指すわけではなく、
    教育とは誰しもが日常において執り行っている行為である。
    知識や経験を教えられたり、教えたりを連鎖させながら、
    それぞれのライフスタイルを得ているのだ。
    新しく入ってきた社員を教える事が教育であれば、
    子育てをするのも教育に辺るだろうし、
    知らなかった知識や経験などを教えると言う事柄が
    教育全般にあたり、教育とは広い範囲の
    ありとあらゆる場所で日常的に繰り広げられている。
    教育がなければ、
    そもそも人類は、未だに薄暗い洞穴で生活していただろうしね^^
    そして人類はこの世界において、
    自身よりも大きな捕食動物の餌となっていただろうから笑
    つまり武器や道具が教育により伝播されなければ、
    食物連鎖の頂点に立ててないわけで。
    ヒョウや虎などの肉食獣の影に怯えながら
    細々と暮らす生活を営んでいた様に思う。

    知恵の実が与えし教育により
    火を起こして魚を焼いたり、
    石を削り、それを武器に変化させて
    自分よりも大きな獲物をハントしたり出来、
    住居も木を加工させながら
    作り出せれる様にもなったわけだなぁ。

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  • コーラの深みとアートな教訓

    過去や現在においても、
    そしてこれからの未来においても多分、
    コカコーラーほど支持され、飲み続けられている、
    炭酸飲料水は他に出て来ないだろう。
    コカコーラを乗り越えようと星の数ほどの炭酸飲料水が
    開発され続けてきたが、
    どれもコーラを凌駕する事は叶わなかった。

    コカコーラから得た学びは
    選び続けられてゆく事、
    支持され続けてゆく事の大切さ。

    単発的にブレイクスルーするのは簡単な事で、
    長き人生において、誰しもが一度や二度は経験出来るだろうから。
    誰しも一生涯において一度や二度はモテキがあるしね「笑」
    商品はブームを仕掛ける人物が居て、
    それは期間限定だったり、一時的な流行で
    終わる場合が多く、後になって振り返れば
    あの現象はなんだったのか..と思う事がある。
    たまごっちとか、キックボードがそうですよね^^
    あれって、当時は爆発的な社会現象になったんだけど、
    そのブームが過ぎされば、消費者から
    全く見向きも興味もされなくなったじゃない?

    アートにおいても、一時は雑誌に特集組まれたり、
    銀座なんかで華々しく活躍してた飛ぶ鳥を落とす作家も、
    現在は姿を消してしまってる事が多くて。
    要するに一時的なムーブメントで終わる代物は
    真の意味において、価値を伴わないし、
    時代の潮流に関わらず、一定数の人に
    選ばれ続けながら愛され続けられる存在に
    アーティストは成らなくてはゆけないと考えている。

    武道館で限られた短い期間、
    盛大に打ち上げ花火を打ち上げるよりかは、
    ライブハウスなどの小さき箱で、
    何十年とライブ活動を続けている
    ミュージシャンの方が、僕は共感が持てるし、
    そうありたいし、そういう存在で居たいと思っている。

    僕の描く作品が何十年先も、一定数の支持者を保ちながら
    魅てもらえれる様な、そんな絵図を描き続けてゆきたく思う。

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  • 新大陸

    縮こまったチッポケでミニマムな自身が
    定められし枠の中。
    そこからはみ出てゆく必要性が在る様に思う。
    そうでなければ新しき世界や未知なる可能性は
    切り開かれてゆかない。
    枠の外界の世界に広がりし外側に在る世界。
    新大陸へと上陸させる事を念頭に置きながら
    新しき場所へと赴いたり、
    新しき人と出会い刺激受けたり影響を与えたり..。
    それを切り返してゆく事で
    自身の定められし内枠は徐々に拡張されながら
    外側へと据え広がってゆけるのだ。

    人との出会いは変化の兆しを促してくれて
    新しき視点や価値観、見た事が無い世界を
    垣間見せてくれるから、楽しいんだ。
    新たなる可能性や新たなる世界を探しに
    赴く旅路へと出掛けてゆこう。

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  • 新しき異世界と握手する

    インターネットの普及や物の飽和により
    現代は個人が選択肢の幅を利かせながら
    自由に情報や物を選べる時代となった。
    20世紀の場合、テレビ付ければ
    限られたチャンネルしか存在せず、
    そこでの選択肢しか与えられなかったから、
    なんとなくテレビ付けて見ている感じだったが
    現代はネットが整備され、自身が真に見たい情報を
    多種多様に渡り見れる様なった。

    個人が運営するサイト=個人が運営するテレビ局と
    いっても過言ではないと思う。
    そこにチャンネルを合わして、
    テレビ見ない選択肢が多く生まれてきていて、僕もその内の一人だ。
    お笑い芸人が,立ち代わり入れ替わり出ている
    テレビ番組を見るよりかは、
    魅力的な個人が情報を発信している
    コンテンツを観覧するのに時間作る方が
    有意義であり、そこから学びを得る事は大きい。

    ただし、多様化による硬直化というのも危惧されていて..。
    自身の興味ある分野を掘り下げて
    マニアやオタクになるのは良いと思うし、
    オタクやマニアが世界を突き動かしていると思う。
    けれど自身が興味抱く分野にしか関心を持てないというのは、
    つまり他者との世界を鎖国している状態を示していて。
    それこそが多様化による硬直へと繋がっている様に思うのだ。
    自分の可能性や自身の世界だけを
    深々と掘り下げてるだけでは
    外の世界やそこから派生する第三者の世界を
    広げてゆく事など出来ない。
    新しき世界を開拓するとは、自身が変化すると同時に
    他者をも巻き込み変化を促しながら
    可能性を押し広げてゆく事だと思う。
    そのためには自身の枠の中から
    枠の外へと、はみ出てゆかなくては。
    自身を一歩引いた距離で俯瞰しながら日々行動してゆく事が必要なのだ。

    毎日同じルーティーン、
    定例のループを繰り返してる状態から脱却してみる。
    一日一つで良いから新らしき知識を得るとか、
    立ち寄った事の無いお店に立ち寄るとか、
    通った事の無い道を通ってみるなど小さな変化で良いと思うんだ。
    新しき小さな変化も
    それが1日1日と積み重なる事により
    3か月、半年、一年と継続出来れば、
    それは大きな変化を気付きとして与えられると思う。
    枠の外へと飛び出す事は
    自身が開拓した事のない事柄に触れる事、
    つまり未知との遭遇である。
    新しい事は常に不安と恐怖が
    付きまとうがそれを恐れず、勇気出して踏み込んでみる事で
    未知とのフィールドと握手を結べるのだ。

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