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◇ 時は大恐慌時代のアメリカ中西部。口達者なモーゼ(ライアン・オニール)は、夫を亡くしたばかりの女性をターゲットに聖書を売りつけては小銭を稼ぐちんけな詐欺師。自動車事故で死んだ元恋人の葬儀に参列したモーゼは、ひょんなことから元恋人の忘れ形見であるアディ(テイタム・オニール)を親戚の家まで送り届ける羽目に。嫌々ながらアディを助手席に乗せ、詐欺行為を繰り返しつつ車を走らせるモーゼだったが、いつからか頭の回転が速く気転のきくアディを詐欺の相棒として扱うようになる。旅を続けるうちに二人は奇妙な絆で結ばれていき、アディはモーゼのことを実の父親なのではないかと勘ぐりはじめるが・・・・。原作はジョー・デヴィッド・ブラウン著「アディ・プレイ」、監督には「ラスト・ショー」のピーター・ボグダノヴィッチ。とことんシンプルな脚本にモノクロ映像が見事に融合したロードムービーのお手本とも言える一本。興行的にも成功を収め、その年に開かれた第46回アカデミー賞では、アディ役のテータム・オニールが史上最年少で助演女優賞を獲得。
人生とは終わりなき旅である
“Life is a journey, not a destination.”
しばしば、そんな言葉を耳にする。訳し方は様々であるものの「人生は旅であり、終着地などない」であったり「人生とは終わりなき旅である」等、意味としては概ねそういったところか。この格言の出所は哲学者エマーソンのものなのか、はたまたエアロスミスの楽曲にある一節なのかはさておいて、ありふれたようで奥行きのある名文句という事にはどうやら間違いないらしい。このように人生そのものを旅として喩えることもあれば、一つの旅が人生そのものを変えてしまうことだってある。それだけに旅をテーマに描いたロードムービーは胸に突き刺さる名作の宝庫だ。
ロードムービーの共通点。それは、オープニングとエンディングとでは主人公らの顔つきが一様に違って見えるということ。ある者は旅の中で何かを失い、ある者は何かを見つけ、時には何かを捨てて旅は続く。それが80日間をかけて世界を一周しようと、たった一日だけ知らない街に飛び出すのでも構わない。旅とは移動した距離や費やした時間に関わらず、人間の価値観を丸ごと揺さぶってしまうものだから。
さて、お立ち会い。これから紹介する作品は、ちんけな詐欺師と大人顔負けに機転が利く少女による心温まるペテン旅。9歳の女の子に下着姿でタバコを吸わせたりと、現代なら少し物議を醸しかねない演出もご愛嬌。ライアン・オニールとテイタム・オニールによる実の親子共演だからこそ成せる「隠しきれない愛情」がリアリティと温かみを生んだ名作中の名作は必見。
少し語弊があるかもしれないが、この映画は内容云々よりもタイトルの妙が際立った作品である。「ペーパー・ムーン」というタイトルには言葉としての耳触りの良さに加え、本編を観る前からどこか惹き付けられる正体不明の吸引力がある。1935年の流行歌である“It’s Only a Paper Moon“(イッツ・オンリー・ペーパー・ムーン)から抜き取ったこの表題は、監督の知人であったハリウッドの巨匠オーソン・ウェルズも「タイトルだけで売れる」と手放しで絶賛したほど。当初、タイトルを原題「アディ・プレイ」から変更することに難色を示していた原作者側。もし仮にノーを突きつけていたら、映画そのものの行く末は全く違ったものになっていたかもしれない。魅力的な役者陣、無駄のない演出とストーリー、美しいモノクロ映像・・・それらを後回しにしてまでも賞賛するだけの価値がこのタイトルにはある。
女にだらしない詐欺師の男が、不本意ながらも引き取った少女と一緒に旅を続ける内に、いつのまにか心を通わせて・・・と、そんな良く言えばシンプルな、悪く言えばベタでありきたりな展開も決して退屈にならないのがこの映画の不思議な魅力。それには、全編を通して観客の頭の隅に浮かび続けるクエスチョンマークが一役買っているに違いない。そのクエスチョンマークとは、モーゼはアディの実の父親なのかどうかということ。アディの母親には生前三人の男の影があり、モーゼはその内の一人。「ママとは親しかった」と言うものの、自分は父親ではないと言い張るモーゼに対し、彼こそは本当の父親ではないかと感じているアディ。私生活で実の親子である二人の息はピッタリで、劇中でも本当の親子なのだろうと予想するには十分過ぎる説得力がある。しかし、真相は断定されないまま幕は閉じていて、核心の部分は観客の想像に委ねている点がなんとも潔い。鈍いエンジン音を鳴らしながら、白い道のりを二人の乗ったオンボロ車が走り去ってゆく。そして観客はエンドロールの頃にようやく気づく。あぁ、答えを出さない事こそが答えなのだ、と。
UCLA医療センターに勤務するマイケル・レイノルズ(ウッディ・ハレルソン)はガン科部長への昇進を間近に控えたエリート医師。そんな順風満帆な彼に診察がまわってきたのは、前科6犯の強盗殺人犯ブルー(ジョン・セダ)という16歳の少年だった。幼い頃に最愛の兄を癌で亡くした経緯を持つレイノルズは、末期の肝臓ガンと宣告されたブルーに複雑な感情を抱く。一方、自分の命は限りがあると悟ったブルーは護送中に警察官の目を欺き、レイノルズを人質として脱走してしまう。ハンドルを握るレイノルズに拳銃を突きつけブルーが告げた目的地は、アリゾナにあるナヴァホ族の居留地。そこにはどんな病でも治癒する力が宿る奇跡の湖があるという。「そんなのは馬鹿げた迷信だ」と鼻で笑うレイノルズに対し、あくまでもナヴァホ族の伝説を信じるブルー。考え方も生い立ちもまるっきり正反対の二人が、長き旅の果てに目にしたしたモノとは・・・。「ディア・ハンター」でアカデミー監督賞を獲得したマイケル・チミノが、広大なアリゾナを舞台に繰り広げられる逃亡劇をヒューマンタッチに描いたロードムービーの傑作。人間の善と悪の本質とは一体何なのかを考えさせられる本作は、生きていくうえで手垢にまみれ、いつのまにやら指紋だらけになってしまったアナタの心を拭ってくれるはず。オープニングとエンディングではエスター・フィリップスの「What A Difference A Day Makes」を使用。同じ曲なのに全く違って聴こえるのは、きっと心の指紋が拭き取れたからに違いない。
第26回カンヌ国際映画祭において最高位の賞であるパルム・ドールを受賞したアメリカン・ニューシネマの傑作。 やたら重ね着をした恰幅のいいマックス(ジーン・ハックマン)は、刑期を終えて出所したばかり。片や5年に及ぶ船乗り生活から足を洗ったライオネル(アル・パチーノ)は、生まれてから一度も顔をあわせていない自分の子供に会うためにデトロイトへと向かっていた。喧嘩っ早く長身のマックスとお調子者で小柄なライオネルという凸凹な二人が、ヒッチハイクの最中に意気投合。まずライオネルの子供に会うためにデトロイトに立ち寄り、それからピッツバーグの銀行に預けてある金をマックスが受け取り、それを元手に洗車屋を始めようと二人の流れ者が手を組んだ。こうして始まったドタバタ珍道中をユーモラスに描きながら、ラストに待ち受ける哀しい結末に向けて加速する展開はどこまでも感傷的。マックスがブーツの靴底に隠した現金を絞り出し、ピッツバーグまでの往復乗車券を購入するシーンからは、破れた夢の残骸と男臭い友情が混ざり合って見事な余韻を醸し出している。頬ではなく、心が濡れる一本。
小太りで眼鏡の少女オリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)が全米美少女コンテストの地区代表に繰り上げで選出され、当の本人は大はしゃぎ。しかし、そんな彼女の知らないところで家族はバラバラ崩壊寸前。ポルノ雑誌を好むヘロイン中毒のグランパ(アラン・アーキン)、ニーチェの無言の誓いに影響された沈黙の長男ドウェーン(ポール・ダノ)、勝ち組という言葉に執着しすぎる父親リチャード(グレッグ・キニア)。そこに妻シェリル(トニ・コレット)の兄でゲイのプルースト研究家フランク(スティーヴ・カレル)が自殺未遂の末に病院から引き取られ家にやってきたから事態は悪化。口を開けば角が立つ、そんなギクシャクした家族が一致団結して末娘のために「リトル・ミス・サンシャイン」コンテスト決勝ステージが開催されるカリフォルニアを目指し、オンボロのフォルクスワーゲン社製ミニバスに乗り込んだというのがあらすじ。この映画の魅力は、家族が抱える様々な問題であったり、死や現実の厳しさ虚しさといった重いテーマを描きながらも、最後まで湿っぽくならないドライな温もりに溢れているところ。特に胸にズシンッとくるのが、普段は破天荒でスケベで滅茶苦茶なグランパが自信を失くしたオリーヴを優しく励ますシーン。「負け犬の意味を知ってるか?負けるのが怖くて挑戦しない奴らのことだ。お前は違うだろ?」ギャップも相まって、染み入ること必至。口コミでじわじわと人気を博し、最終的にはアカデミー賞での主要2部門をはじめ世界中で数々の賞を手にしたロードムービー屈指の名作。
カーニバルの写真小屋で紙製の月に仏頂面でちょこんと座る9歳の少女に魅了されっぱなしの102分。当時はカラーで撮影することも可能であったにも関わらず、敢えてモノクロで撮ったのには表現力が増すという他にもうひとつ理由がある。それは、主演の二人の青い瞳と金髪が大恐慌という時代背景に合わず、それを隠すためということ。偶然の産物と言うべきか、結果オーライと言うべきか。この作品はモノクロでなければここまで深みは出なかったに違いない。中性的な容姿と眉間の皺、それに特徴的なハスキーボイスがとびっきりチャーミングだったテータム・オニール演じるアディ。あの愛らしい少女が十数年の時を経て、ヘロイン中毒により三人の子供の養育権を失うといった現実から多くの映画ファンが目を背けたくなるのも無理はないか。
73歳を迎え足腰も不自由になった老人アルヴィン・ストレイト(リチャード・ファーンズワース)が、喧嘩別れをしたまま音信不通になっている兄ライル(ハリー・ディーン・スタントン)に会うために、たった一人でアイオワ州からウィスコンシン州まで350マイルを芝刈り機に乗って旅にでるという物語。車なら一日で行ける距離を頑として自分の力で向かうというアルヴィンに哀愁を感じつつ、いつのまにか心を解される本作は1994年にニューヨーク・タイムズに掲載された記事を下敷きに奇才ディッド・リンチが映画化。「ツイン・ピークス」や「マルホランド・ドライブ」など斬新なストーリーや映像で観客を魅了することを得意とするリンチ作品の中でも、最もリンチっぽくないと言われるも、評価は実に高い。公開翌年にショットガン自殺でこの世を去っている主演のファーンズワースが、年輪の刻まれた重みのある台詞を劇中にいくつか残している。その一つが道中で知り合った若者に年をとる事の良さと悪さを問われたアルヴィンの返答。「年をとっていい事は経験を積むことにより、実と殻の区別がついてきて細かい事を気にしなくなること。最悪なのは若い頃を覚えていることだ」・・・・う〜ん、実に深い。
俺はガンディーに勝るとも劣らぬ平和主義者だからさ、
喧嘩ってヤツにはとんと縁がないんだ。
でもさ、こないだ冷蔵庫にあるバナナをこっそり拝借したら
持ち主にこっぴどく殴られちまったんだ。
いつつ・・・未だに頬が腫れてんよ。
やれやれ。
そんとき、劇中でボコボコにされたモーゼ気分でこう言ってやったよ。
“I swallowed my gold tooth.”
【金歯を飲み込んじゃったよ】
実際は銀歯だったけどな。
そんな細かい事はどうでもいい、ダロ?
See you next time,
Bye-bye !!
文・イラスト:ゲンダ ヒロタカ 1980年、東京生まれ横浜育ち。専門学校でデザインを学んだ後、単身ロンドンへ留学。その後、映画好きが昂じて映写技師として映画館に勤務、現在はフリーライターとして活動中。