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◇ 5年間の刑期を終えて刑務所から釈放されたビリー・ブラウン(ヴィンセント・ギャロ)は、実家に「今から嫁を連れて帰る」と電話をいれる。両親へ対する見栄と虚勢でそう言い放ったものの、嫁どころかガールフレンドの一人もいないビリーはダンス・スクールのレッスンに来ていた見ず知らずの少女レイラ(クリスティーナ・リッチ)を強引に連れ出し、ニューヨーク州バッファローにある実家へ妻と偽らせて帯同させることにする。実家では、短気な父親ジミー(ベン・ギャザラ)とアメフト狂の母親ジャネット(アンジェリカ・ヒューストン)に翻弄されながらも、なんとか両親に“最期の挨拶”を済ます。そう、彼にはこれから果たすべく復讐があった。アメフト賭博で抱えた莫大な負債のために人生を狂わされたと思い込む彼にとって、その大事な試合でわざとフィールド・ゴールをミスったとされる八百長キッカーのスコット(ボブ・ウォール)は何よりも憎むべき対象。『スコットを撃って、自分も死ぬ』そう心に決めたビリーはレイラをモーテルのベッドに残し、ひとり拳銃を手にスコットのいるストリップ小屋へ向かうのだった・・・。
激動の90年代が終わりを告げようとする中、映画界に堕ちてきたこの作品は、痛々しいまでに繊細で悔しい程にスタイリッシュ。白のブリーフで風呂に入り、ボウリング場で一喜一憂しては、過去のトラウマに頭を抱える潔癖性の“ダメ男”。このエゴイスティックの塊のような主人公ビリーこそ、演じるヴィンセント・ギャロそのもの。初監督にして主演、脚本、音楽とこなしたギャロのギャロによるギャロの為の一作!
テレビやビデオで観た方が完璧な映画
草食男子などという安っぽい言葉がそこらを徘徊し、もはや男尊女卑ならぬ女尊男卑な時代もそう遠くなさそうな我がニッポン。とはいえ「男が弱く、女が強い時代になりつつある」なんてのは、なにも今に始まったことでもなかったりもする。よくよく振り返れば、いつの時代でも弱いのは男であり、強いのは女だった。言ってしまえば誰しも男っていうのは根底はダメ男だし、その形が金・女・酒であったりのどれに転ぶかの違いに過ぎないだけで、百年前も現代も男はエゴイスティックで自制心が弱い無様で夢見がちな生き物だ。だからこそ、映画の世界ではその不完全な人間味がスクリーンの中で異彩を放ち、妙に映えるのだろう。
そんなダメ男の恋を描いた作品は数多いが、今回取り上げさせてもらうのはその最たるもの「バッファロー'66」。
この作品は、監督であり主演のヴィンセント・ギャロ本人の実体験が大きく反映されていて、その片鱗は至る所で伺える。自分自身の子供時代のリアルな感情が詰まった愛の寓話に仕上げたかったと語るギャロ。物語の舞台となるバッファローが彼の生まれ故郷なのは有名な話だが、作品の中で実家として使われている家も、なんと本人が実際に両親と暮らしていた家で撮影しているというから驚きだ。
「本当に悲惨な世界だった。バッファローでは一年の半分が雪との戦いなんだ。だから女のパンティを脱がしたり、物を盗んだりするしかないんだ。恐ろしい町だよ。本当に恐ろしい」
とあるインタビューでギャロは自分の育ったバッファローという町をこう振り返っている。町の娯楽施設といえばボウリング場かストリップ小屋、あるいはファミリーレストラン程度の場所しかなく、住人の多くがソファに寝そべってテレビにかじりつくような閉鎖された環境にコンプレックスを抱いていた彼は、映画という形に吐き出すことにより屈折した過去を浄化しているように思えてならない。故に、ギャロのこの作品に対するこだわりっぷりたるや半端ではない。レンタル店の普及などにより映画という存在が我々にとって手軽なモノとなったのと引き換えに、映画館に足を運ぶよりも個人でそれぞれに映画を楽しむ機会が増えた。そこで1時間800ドルもかかるパネル・スキャンという装置を使用し、のべ4週間と4万ドルを費やしてフィルムをテレビにもフィットするように変換したというのだ。テレビで放映される時に変化する色彩や構図までを計算して製作しているため、この映画は『ある意味でテレビやビデオで観た方が完璧とも言える』とギャロは言い切っている。その“超”が付くこだわりによって生まれた独特にザラついて無機質な映像は、作品全体のテーマや雰囲気と見事なまでに融合しているのだから、上記の発言にも納得の一言。
「俺の顔をつぶしたら二度と口をきかないぞ。もし言う通りにまっとうできたら、親友になってやる。一番の親友だ」こんな交換条件を真顔で突き付けるビリーもビリーだが、その条件を飲み込んでしまえるレイラもレイラだ。誘拐まがいの乱暴な出会いに始まり、逃げようと思えば、いつでも逃げれる状況にありながらも最後までビリーの荒唐無稽な行動に同伴し続けたのにはきっと早い段階でビリーのワガママな性格を「純粋さ」として受け入れたからだろう。どちらかといえば、レイラはビリーに振り回されているというよりも見守っているという方がしっくりくるような気がする。まるで子供に対する母親のそれのように、虚栄的で馬鹿げたビリーの行動をレイラは突き放すこともなく見つめている。
それまでの人生で誰かを心から愛したこともなく、はたまた誰かに本当の意味で愛される喜びの知らない哀しい男を同情に近い感情でレイラは接していたのだが、どこかを境にビリーの全てを包み込むような愛情に変化している。このビリー・ブラウンというド級のエゴイスティックな男が最終的に身も心も委ねたのは、どんな理不尽さやワガママすらも寛容に受け止めてくれる“母親のような愛情”であり、モーテルの一室で母体の中にいる胎児のように身をくるめてレイラの胸で眠りこけるシーンはまさにその象徴とも言える。やがて目を覚まして復讐に向かう彼の心境に変化が起きたのには、なんら不思議でもない。自分の人生を悲観し、半ばヤケクソ気味で復讐相手であるスコットと刺し違える覚悟を決めていたビリー。それまでは失うモノなどボウリング場にあるロッカーの中味くらいしか無かったが、今ではレイラがいる。くだらない復讐劇と愛する女を天秤に掛けたとき、拳銃を高架下に捨ててモーテルで自分を待つ女のためにホットチョコレートを買いに行くという選択肢に至るには、さほど時間は掛からなかった。
クライマックスでビリーが拳銃を忍ばせて、八百長キッカーのスコットが経営するストリップ小屋にやってくるシーンは今作品最大の見どころ。Yesの『Heart Of The Sunrise』がガンガンに鳴り響く中で繰り広げられる4分28秒間の復讐劇は、妄想と現実が絶妙に交錯しながら無声で進んでいくのが最高にクールだ。ソファに仰け反りながらストリップ嬢と戯れるスコットを眼前に拳銃を構えるビリー。音楽を遮る銃声とスコットの眉間を貫通する弾丸。その後、拳銃を自分のこめかみにあて引き金をひくビリーの脳裏によぎるのは、自分の墓前で涙一粒流すことのない相変わらずな両親の姿。全てが馬鹿らしくなり現実に立ち返ると音楽がまた鳴り響きはじめ、酒を差し出すスコットに背を向けて店を出る。この90年代の映画史にザックリと刻まれた名場面は、そもそもYesの『Heart Of The Sunrise』を使用した時点で「勝ち」は決まっていたのかもしれない。緊張感を煽るリズムとフェイドアウトなどで効果的に楽曲を使用し、この映画のハイライトとも呼べるシーンを見事に仕上げきっている。
ストリップ小屋をでたビリーに先程までの悲壮感はない。公開時のコピー『最悪の俺に、とびっきりの天使がやってきた』が集約されているような表情が全てを物語っている。ラストシーンにあるレジでの一連のやり取りは、恋をした人間特有の浮かれ加減がこれでもかと溢れていて実に微笑ましい。「ホットチョコレートのラージサイズとこのハート形のクッキーもくれ。いい形だ。ハート形の考案者は?」「さあ。さぞロマンチックな奴だろう」ご機嫌なビリーと落ち着いた年配店員とのイイ意味での温度差に思わずニヤリとしてしまう。店に居合わせた見知らぬ客の恋人にまでハート形のクッキーをプレゼントし、店員にチップをはずんで軽い足取りでレイラの元へ戻るビリー。エンドロールの余韻に浸りながら、誰もが恋する素晴らしさを再認識してしまう一本。甘ったるいド直球なラブ・ストーリーも悪くないが、たまにはこのようなビターな変化球モノもご堪能あれ。究極のハッピーエンドがそこにある。
口うるさい七人姉妹の下で育ったバリー・イーガン(アダム・サンドラー)は、トイレの詰まり等に使う吸引棒のセールスマン。普段は寡黙な性格だが、一度キレると手のつけられない情緒不安定な性格と特殊な家庭環境もあいまって、恋愛にとんと縁のない生活を送っていた。そんなある日、姉の紹介で知り合ったバツイチ女性であるリナ(エミリー・ワトソン)に一目惚れしたバリーは、出張の多い彼女に会う為に『ヘルシー・チョイス食品のマイレージ・キャンペーン』を目的として大量のプリンを買い漁る。紆余曲折しながらも、リナによるリードもあってか順調に距離を縮めてゆく二人。しかし、寂しい夜にふと手をだしてしまったテレフォン・セックス・サービスの悪徳業者に金を強請られたのをキッカケに、次々とトラブルに巻き込まれてしまう。ダメ男だった過去の自分との決別も込めて、恋する力に後押しされたバリーはフィリップ・シーモア・ホフマン扮する悪徳業者とケリをつけようと単身乗り込むのだが・・・。「あなたの肌や頬、かじって噛んでやりたいほど可愛いわ」「君の方も顔をハンマーで叩き潰してやりたいほど綺麗だ」ベッドで戯れる二人からこぼれる言葉は、映画史上でも類を見ないパンチの効いた愛の囁き。ラブ・ロマンスという括りでは収まりきれない異色作は、全編に満ちた乾いた空気と時折流れ込む鮮やかな色彩がズンッと脳に響く。目に痛い程に真っ青なブルーのスーツと道端に捨てられていた古びたオルガン。意味があるようでなかったり、意味が無いようであったりとポール・トーマス・アンダーソン監督の世界に引き込まれっぱなしの95分。
全ては狙いなのか、それとも結果論なのか。真っ赤なレザーシューズ、ハート形のクッキー、13番レーンで投げるボウリングに2ドルのインスタント証明写真。この映画を構成するディティールがことごとくスタイリッシュに感じてしまうのが、ギャロのセンスが為す業なのか。極めつけがレイラ役のクリスティーナ・リッチの配役。細身のスレンダー美人が相場のヒロインにおいて、彼女を抜擢したところにこの映画の世界観が決定付けられたといっても過言ではない。美人と可愛いの中間を浮遊するルックス、肥満という言葉では片付けられないチャーミングな体型。そんな要素が、強い女性と幼い少女の両面を兼ね備えたレイラという役柄と見事にマッチしている。どれもこれも、ギャロの気まぐれに過ぎないのかもしれないが。
偏屈な天気予報士フィル・コナーズ(ビル・マーレイ)は、プロデューサーであるリタ(アンディ・マクダウェル)とカメラマンのラリー(クリス・エリオット)と共に、毎年2月2日の聖燭節に行われる伝統行事のリポートのために田舎町パンクスタウニーにやってきた。春の到来を告げるという大型ジリス“ウッドチャック”の取材を小馬鹿にし、仕事に身の入らないフィルは早々に撮影を済ませて都会に戻ろうとする。しかし予定外の悪天候のせいで、この町にもう一泊する羽目になり事態は急変する。翌朝、目を覚ましたフィルはラジオから流れる昨日と同じニュース、昨日と同じ風景や同じ様な会話に違和感を感じる。そう、そこは昨日と同じ2月2日の朝だった・・・。「何度、朝を迎えても同じ日が来る」という気が狂いそうな無限ループに当初は困惑し、疲弊しきっていたフィルも徐々に曲がった現実を受け入れ、繰り返される2月2日に楽しみを見いだしていく。
そのうちにリタへ想いを寄せ、デートに誘うなど進展を図るものの、朝を迎えれば全ては何事もなかったかのようにリセットされている切ない現実に悶える日々。気づけば角ばっていた性格も丸みを帯びて人間味がでていたフィルに形はどうあれ「恋」と「時間」が人を変えるんだとつくづく実感。
ビリーがドーナツ店のオヤジに言った台詞だ。
And here, this is for you because....... I don’t know why.
Just take it.
【こいつはチップだ・・・とっといてくれ】
なんつーかなぁ。嬉しい事があって気分ウキウキってな時がある、ダロ?
そんなときチップ文化のない日本人だってビシッと「釣りはいらないよ」
的なニュアンスで幸せをお裾分けしたいじゃないか。
「チップだ。受け取れよ。え?理由?
理由は・・・・・んなモンねぇよ!黙って懐にしまっとけって」
雰囲気としては、そんな感じかな。
ここでの最大のポイントはBecauseの後の“溜め”だ。
この沈黙が短すぎても長くてもダメだ。
絶妙な間が何よりも肝心だ!アンタなら出来る!え?根拠はないけどな。
文・イラスト:ゲンダ ヒロタカ 1980年、東京生まれ横浜育ち。専門学校でデザインを学んだ後、単身ロンドンへ留学。その後、映画好きが昂じて映写技師として映画館に勤務、現在はフリーライターとして活動中。